紅葉(こうよう) ~ しあわせの いちきせつ ~
これは、今年の秋の想い出……。
今のところは雪のなかに保存中だけど、春になったらどうかな……。
東京へ出て、新しい生活に身体ごと溶かされそうになったとしても、忘れえぬ想い出として残ってくれるのかな……。
一、駅のホーム、跨線橋
風が吹き、紅葉を巻き上げた。
孝はその様子を、いつかラジオで聴いたロマンチックバレエの音楽のようだと心の内に喩えた。
重たい音がして、通過する列車がその影を掻き消した。列車が去ってしまってから、それはふたたび孝の視界に帰ってくる。
向かい側のホームに人がいた。
紅葉色のコートを羽織った若い女性で、ベンチの背にもたれて煙草の煙を吐きだしていた。
唇から吐きだされた淡い煙は、渦を巻いて空気へと溶けていく。―― 自分たちを包みこむ「秋」という季節は、すべてあの煙から広がっているのではないかと孝には思えた。
***
夏のうちに進路の決まってしまった孝は、高校の友達が受験勉強に勤しむなか、ひとり故郷の季節を楽しんでいた。東京へ移ってしまえば、この列車に乗ることもない。この駅に来ることもない。この列車は街に続いているけれど、東京にはもっと大きな街がたくさんある。自分の知らない、数多くの街。―― 期待と同時に、自分の記憶がすべて塗りつぶされてしまうのではないかという不安を孝は感じていた。
孝は今日も、ホームで列車を待っていた。
***
線路の向こうには、今日もあの人がいた。
その人はいつも、どこを眺めるともなくぼうっとしていて、銀色に染めた短い髪の毛を揺らしていた。
吐きだす煙に、輪郭が溶ける。そして、孝の視界が戻りきる前に、今度は通過列車がその影を掻き消した。
孝のいる側のホームにも列車が到着し、停車したが、孝は乗らずに見送った。あの人の影をふたたび見ずにはいられないという気持ちになっていた。
現れたベンチに、その人の影はなかった。風が吹き、紅葉が舞う。
空から声が聴こえた。
声をたどって顔を上げると、ホームを連絡する橋の上にその人がいて、欄干に身をもたせ、煙を吐き出していた。
その人が自分を呼んでいるような気がして、孝は吸い込まれるように、足を踏み出していた。
***
橋のうえの孝は、その人の隣で同じ景色を眺めていた。
淡く優しい空の下、一面に広がる紅い色彩のなかに生じた小さな茶色い線。近づくにつれてそれは大きくなり、それぞれに枕木を備えた二つの線路の姿となり、孝の足許へと潜っていく。
今一度視線を上げると、毛布のような紅葉の筆致が孝の遠近感を狂わせ、ぼうっとした気分にさせた。
「きれいな黒髪」
声がするまで、孝はその人の手に気がつかなかった。柔らかなその感触に気づいたにしても、ただ頭の端っこで、「秋が触れた」としか認めていなかった。
「あ……」
孝が慌てて身を退くと、その人は目を細めて笑った。
二人の足許に、列車が停まった。
二、並木道、アトリエ
孝は、並木の坂道を登っていた。隣にはあの人が、わずかな距離を保って歩いていた。
近い。―― 孝はそう感じるようになっていた。
跨線橋のうえで初めてその人のそばに立ったときは、何かこう、ぼうっとした心持ちになっていたため、余計な感情を覚えなかったのかもしれない。
あの日の夜、風呂あがりの洗面所で鏡に映る自分の火照った像を見たときに、孝は自分の心を知った。
「来週、また会える?」
「はい。どこへ行きましょう」
あのとき、よくもそんな受け答えが自然にできたものだと、孝は我ながら感心していた。
その人は、名前を「小萩」と告げた。
本名かもしれないし、そうでないかもしれない。もしかすると、時季限定の名前かもしれないし、そもそもこの人は、この季節にしかいないのかもしれない。―― 孝はそんなことを思いながら、隣で揺れる銀色のショートカットに目をやった。
「小萩さん」
「どうかした?」
「……いや、呼びやすい名前だなと思って」
「バカにしてる?」
彼女はそう言って軽く笑うと、視線をふたたび前へと戻した。
焼けつくように鮮やかな紅葉の葉を、涼しげな風が優しく舞いあげている。その先に建っているのが、彼女のアトリエ。そこまでの坂道は、決して長くはないのだが、隣の彼女がゆっくりと歩くので、孝も歩調を合わせて、ゆっくりと歩く。
「『葉桜』って、知ってる?」
「葉桜?」
「岸田國士」
彼女の横顔は少しうえを向いていて、心地よさそうに目を細めていた。
「葉桜の並木は、こうやって歩くの」
彼女は横目で孝を見ると、彼の手を握った。
「あ」
「このまま」
「……」
掌の温度と、弧を描いて舞う葉の色が重なり、孝はふと、この人の作った炒めものは美味しいのだろうなと想像した。
***
それから何度か、孝は彼女のアトリエへ通った。色づいた紅葉の並木道を通って。
彼女が何をする人なのか、孝は知らない。絵を描くから、画家かもしれないし、歌を歌うから、歌手かもしれない。
彼女のアトリエにはクラリネットが置いてあったが、演奏しているところは見たことがなかった。それは、埃を被っているようにも見えた。
「小萩さん」
孝は彼女をそう呼んだが、彼女は孝の名前を呼ばない。
「ねえ」
ただそう言って、孝の意識が向いたのを認めると、
「どう思う?」
そんな具合に、言葉を続ける。
「きれい……。小萩さんの描く絵は、どれもきれいです」
彼女の描く絵は、風景画が主だった。明るい色彩に、おおらかな筆致。輪郭がぼんやりとしていて、自然と見惚れてしまうような幸福な絵。
「気休め」
「え?」
「こういう絵画の副作用」
「じゃあ、主作用は?」
「……考えたこともない」
彼女は穏やかに笑った。
彼女が笑うとき、孝はいつも不思議な感覚にとらわれる。彼女の笑みにはどこか淋しげな、諦めのような色が混ざっているように感じられたからだ。それでいて、芯から嬉しそうな、これ以上ないほどに幸福そうな表情をしているのだ。
「肖像画は?」
「人を描くと疲れるから」
「根気がいるんだ」
「いろんな意味でね」
彼女は窓に目を向けた。窓の向こうにはテラス、その向こうに紅葉の並木。さらに遠く、町の灯があった。
「人を描くってことは、人間を描くってこと。……わかる?」
彼女はふたたび、孝に笑いかけた。穏やかな微笑み。
そして、言った。
「描いたげようか」
三、肖像画
この秋の間、孝は何度も彼女のもとへ足を運んだ。もう何回も、紅い葉のうえを歩いた。
落葉は茶色い土と混ざってなお紅く、まるで現実と幻の橋渡しをしているかのように存在していた。
孝は彼女に、二枚の肖像画を描いてもらうことになった。彼女のほうから、二枚描くと言ってきたのだ。
「アクリルでいいよね、油彩は時間かかるから」
一枚目の絵画は、ほんの三十分で出来上がった。
彼女はほんの数秒、孝の顔を見つめると、筆を手に取り、素早い筆致で色を重ねていった。二、三回顔を上げ、孝の顔へと目を向けたが、一言も言葉を交わさずに、その時間は過ぎていった。
二枚目の絵は、孝の前では描かれなかった。
***
「今日は描かないよ」
「え?」
「こないだ描いたのは、印象の絵。今度のは、象徴の絵だから」
孝は椅子に座らされ、紅茶を振る舞われた。
「なんか、飲みにくいな」
「気にしないで。見てるだけ」
「だから飲みにくいんだって」
「……なら、代わろっか」
彼女はそう言うと、孝の飲みかけのカップに口をつけ、残りをすすった。
そして、
「なんか話して」
「え?」
「なんでもいい。自分のこと。心に残った想い出でも、今の感情でも」
今の感情……。
孝は少し迷ったが、幼い頃の想い出話をすることにした。
彼女は初め、孝の内面を見透かすような、どこか冷たい感じのする表情をしていたが、やがて、いつもの穏やかな笑みが目立つようになり、一時間も話していると、以前には見せなかったような笑い方をするようにさえなった。
また少し時が経ち、ふたたび引き締まった表情になったかと思うと、徐々に、あるいは唐突に、幸せそうな笑みが溢れだす。―― そうしているうちに、外はすっかり暗くなり、空には黄色い月が出ていた。
「遅くなっちゃったね」
「そんな、他人事みたいに。……いつ描いてくれるんです?」
「え」
「少しは見つかりました? その、僕の象徴的な……」
「あ、描くんだっけ」
「描くんですよ。って、ちょっとちょっと、忘れてたの、小萩さん?」
その夜の孝は、いつになく夢見心地だった。鏡に映った自分のふやけたような顔を見ると、余計にふわふわと、楽しい気持ちになるのだった。
四、屋根のうえ
アトリエの屋根のうえで、彼女は孝を待っていた。
どこを眺めるともなくぼうっとした様子で、例の煙草を嗜んでいた。孝の影を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。
「上ってきなよ」
「どこから?」
「そこ」
立てかけてある梯子を指差して笑いかけると、彼女は歌を歌い始めた。
Nel cor più non mi sento
brillar la gioventù;
cagion del mio tormento,
amor, sei colpa tu,
Mi pizzichi, mi stuzzichi,
mi pungichi, mi mastichi,
che cosa è qesto ahimè?
pietà, pietà, pietà!
amore è un certo che,
che disperar mi fa!
「なんですか、その歌」
「もうどっかに去っちゃった……、そういう歌」
孝は彼女の横に腰を下ろし、視線の先を追った。―― 淡い水色をした空。シルクのような薄い雲が、途切れとぎれにかかっていた。
「それにしては、楽しそうですね」
「そういう歌だから」
「私さ……」
彼女の横顔は、いつになく健康そうで、幸福そうに見えた。銀色の髪が光って、風に揺れる。
「私、今までの人生が全部無駄に思えてきた。なんでかわかる? ……私、想い出に浸るのは嫌いじゃなくて……、いい想い出でも、悪い想い出でも。……みんな儚いものだけど、それでも実際にあった、かけがえのない大切なものだと思ってた……。でも、今はもう、過去に起こったことはぜんぶ、どうでもよかったんだって思える。楽しかった出来事さえも……。だって、今、私……」
彼女は、孝の肩を引き寄せた。
大きく柔らかい彼女の掌が、孝の肩に張りついた。
「私、このためだけに生まれてきた気さえする……」
風が吹き、紅葉を鳴らした。遠く、列車の通過する音が響く。
すべての輪郭が、優しさのなかへ溶けていく。
孝は彼女に身を寄せて、両目を閉じた。両目の代わりに口を開いて言った。
「都合がよすぎますよ、そんなの」
***
今、孝の心の内では、ちょうどこのときの映像が回っている。
鮮やかな色彩、優しいタッチの想い出が……。
夢のような時を過ごした。
いつの間にか、孝の若い唇は、あの人と同じ色の微笑みを湛えるようになっていた。――
五、季節の終わり
風が吹き、落葉を巻き上げた。
コートを纏った少年が、枯葉の積もった並木道を歩いていた。孝だ。
季節の終わり。
少し前はあんなに色鮮やかだったのに、今はまるで、青白い処女の住む墓場みたいだ。―― 孝はそんなふうに、その景色を喩えた。
遠くで列車の音がした。風の音が消え、なんともいえない静寂が、空を包んだ。
***
アトリエに、彼女の姿はなかった。
壁には梯子が立てかけられたままだったが、屋根のうえにも彼女はいない。
そういえば、ここは単なるアトリエなんだよな。―― 今更ながら、孝は思った。彼女は旅の人だったのかもしれない。
もしかしたら、自分が寝ぼけているときに、あの人はそのことを告げたのかもしれない。ここに滞在するのは秋のうちだけで、冬にはどこかへ行ってしまうのだと。
もしかしたら、あの人はやはり、「秋」そのもので、冬になったら存在しなくなるのかもしれない。
いや、世界のどこかで、紅い木の葉を溢れさせているのかもしれない。
でも、ここにいないのなら同じだ。僕と一緒にいないのならば。
そうか、あの人は……
あの人は、僕と一緒じゃなきゃ存在しないのかもしれない。だとしたら、そもそもあの人 ―― 小萩さん ――、そんな人はいなかったわけで……。
孝は呆然と、アトリエの前、寒空の下に立っていた。
枯葉が一枚、アトリエの中へと舞い込んだ。
我に返った孝は、そこで初めて、窓が開いていることを気に留めた。
そうか、鍵がかかっていないんだ。
孝は一人、アトリエのなかへと入っていく。一人で入るのは初めてだった。
最後に来たのは二週前。日が空いたのは、高校生活最後の文化祭のため。
東京へ移ってしまえばもう、同級生とも会えなくなる。
それほど時が経ったわけでもないのに、孝はなぜか、懐かしさを覚えた。
アトリエのなかにはまだ、あの人の微笑みが残っているように感じられた。
ふと、壁際のくずかごに目がいった。
そこには、一本のクラリネットが入れられていた。その楽器はくずかごのなかで、以前よりむしろきれいな状態であるように見えた。―― もしかしたらこの楽器は、あの人の大切な想い出を含んでいたものなのかもしれない。そしてそれは、夢のように消えていった過去の出来事……。
孝はふと思い立って、そのクラリネットの以前置いてあった場所へと目を向けた。
そこには、小さなサイズのキャンバスが立てかけてあった。
「小萩さん……」
それは、穏やかな笑顔を見せた孝の肖像画だった。
ほんの三十分で出来上がった一枚目の肖像画と同じ構図で、同じような色彩の絵だった。しかし孝には、その表情の明るさと鮮やかさが、以前の絵よりもはっきりと現れているように思えた。
メモが落ちていることに気がついた。
拾いあげてみると、表にはラテン文字が並んでいた。そして裏には、孝へのメッセージが書き込まれていた。
象徴の絵、描けなかった。
楽しすぎて。
楽しすぎて、苦しすぎて。
だけど、楽しくて。
ありがとう。
いつか、歌ったよね。
小萩
孝はメモをしまうと、アトリエを出た。
二枚目の肖像画は、置いていくことにした。
その絵は、東京へ持っていく気にもなれなかったし、実家へ置いておく気にもなれなかった。
どうせ埃を被るのなら、ここにあってほしいと思った。ぼんやりと、そう思った。
坂の下から振り返ると、茶色く濁った景色の向こうに小さなアトリエが見えた。そして、かすかに ――
―― あの人の歌声が聴こえてきたように、孝には思えた。
もうどっかに去っちゃった
若い心の光
この苦しみの源は
恋、ねえ、あんたのせい
つねって突いて、刺して噛み砕いて
もう一体なんなのよ
ねえ、私を哀れんで
ああ、もうくたくた
恋、ねえ、あんたのせい
登場する歌曲について。
イタリア語のオペラのアリアで、『もはや私の心には感じない』という曲です。
Wikipedia の該当ページをはじめとして、いくつかのウェブサイトを参照しました。
動画投稿サイトでも聴くことができるので、検索してみてください。
原題は”Nel cor più non mi sento”
なぜ私が知っているかというと……、
大学でクラシックの歌唱をかじっていたことがありまして(本当にかじっていただけなのですが^^;)、そのときに習ったのです。今でも時々口ずさみます。
外国語がわからず、対訳を見つつほとんど耳で覚えたということもあって、歌詞が頭から抜けないのです(笑)
そうそう、本文のラストに入れた日本語詞は、音符に合わせて歌えるように私が勝手に考えたものです。正確な訳詞にはなっていません。
また、ロマンチックバレエに関しては、『ジゼル』を意識しています。
はじめだけでなく、「五、季節の終わり」にも少しその要素を入れています。わかるかなあ……?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。どなたさまも、よい季節をお過ごしください^_^
檸檬 絵郎