ハローワールド〈その3〉ここはどこ?
ここから、いよいよ異世界です。
前回の流れ
・予選本番で泳ぎ始めた美咲だったが、プールで泳いでいた筈が違和感に気付き……
※一部表現、内容、誤字、スペースを編集しました。
※構成を大幅に見直しました。
「?」
最初の違和感は、視界の異常だった。
だが、意識がその前に気付いたのは、においの変化だった。
プールの、消毒された水独特の臭いは無く、それよりも遥かに複雑な臭いがする。
水に濡れた岩、土、砂埃、草、樹。
そして微かに、美咲の通う女子中学校の裏にあった人工の池から臭ってくる、水棲生物独特の臭いに近い”生臭さ”を感じた。
整備された都会で生きている美咲が感じた事の無いレベルの、濃厚な自然の香り。
鼻の奥で感じた変化は、美咲に原因を見つける様に促し、こうしてようやく視界の変化に気付いた。
ゴーグルの色のついたレンズ越しに見ていた視界は、規則正しく配置されたプールを照らす天井のライトでは気が付けば無く、美咲の遥か上空には鍾乳石で出来た無数のつららが天井一面から直下に狙いを定めていた。
その天井には、不規則に幾つも岩盤が崩落した様な大穴が開いていて、大穴の外には雲が流れる空が見えた。
穴だらけの天井からは、厚い雲越しに日光が真上から差し込んでいるので、地下だと言うのにかなり明るい。
美咲は、突然の事態に背泳ぎの手と足を止め、立ち泳ぎをして周囲を見た。
訳が分からなかった。
こんな事がありえるだろうか?
いつ連れて来られたのか、美咲は気付かなかった。
美咲が泳いでいる場所は、見たまま表現すれば、どこかの地底湖らしい。
水温がプールよりもかなり冷たく、水の色は旅行で一度行った沖縄の海よりも青く、透き通っていた。
しかし、湖底は海と違って 珊瑚など無く、凹凸の激しい岩場が広がっているだけだ。
水質は真水で、口に入ってもせいぜいミネラルの味しかしない。
漠然と、夢の様な光景だなと思った。
「あの、え?」
勝手に動揺の言葉が口を出た。
「あ、あの! おーい!」
喋ってみるが、声が洞窟内の空気をかすかに反響するだけで返事は聞こえない。
狐に化かされた様な気分とは、こういう事か?
そんな気持ちのまま、ゆっくりと平泳ぎで岸に向かう。
それしか、するべき事が思い浮かばない。
その時、自分の下に、何か大きなモノがいるのが見えた。
恐怖を感じつつも、見ずにはいられない不安が勝り、ゴーグル越しに水中を見てみた。
太陽光で湖底には水が影を作っていた。
そこには、地底湖を悠々と泳ぐ巨大な魚が見えた。
それが本当に魚なのか、実は蛇なのか、そんな事は、初見の人間に分かる筈がない。
胴回りを見るに、美咲を丸呑みに十分に出来そうな太さと、20メートルを超える長さがある。
見た目には、確かに鎧の様な鱗に覆われたウナギかウツボの様な魚だった。
ただ、その口から行儀悪くはみ出した無数の長い牙から、何を食べるのかは初見でも予想はできた。
現実離れした事態に魚を見ていると、iDが自動で魚を検索した。
だが、未登録生物と表示された。
その魚の頭に、美咲の影が被ると、ゆっくりと口を美咲の方に向けた。
「え、う、うそでしょ!?」
そんな美咲の独り言は届かず、そのまま水面に向かって泳いでくるのが見えた。
そして、魚の口がゆっくりと、大きく開いた。
魚の口の中に広がる吸い込まれそうな暗闇が美咲に迫る。
本能的な、捕食者と対峙した時に感じる恐怖に、美咲はパニックになりながらも、一番近い岸まで大慌てで向かった。
どうにか、無事泳ぎきった。
今の泳ぎなら、種目こそ違うが間違いなく大会の本選でも表彰台に立てる……なんて事は、頭によぎる余裕も無く、岸に這い上がる。
水面を見ると、大きな影は、美咲を見失った様で再び湖底へと戻って行った。
美咲は、キャップとゴーグルを外して、辿り着いた岸の大岩の上で大の字に倒れ込んだ。
一度、目を閉じてみた。
もしかしたら、予選で溺れて、悪い夢を見ているのかもしれない。
目を開けたら医務室で、みんなが心配している。
そんな夢オチと言う事を、全力で期待した。
だが、目を開けても、やはりそこは見知らぬ、巨大な鍾乳洞だった。
iDの表示では、2040年8月17日午前11時03分。
気が付けばiDの利用制限は解除されているが、状態はオフラインで、GPSの使用も不可になっている。
ダメ元で頬をつねるが、普通に痛い。
美咲は、自分の身に何が起きたのか、自分はどうすればいいのか、まるで見当がつかなかった。
これが、精神的には無人島に運よく流れつく以上にきつかった。
自分がもとの生活に戻る為のパターンが、美咲の脳内には無いのである。
無人島なら、砂浜にSOSや、狼煙、食べ物の確保と、体験が無くともフィクションでの知識がある。
そんな知識を生かさずとも、iDが体内にある今なら無数の衛星基地局を利用すれば、地上どこからでもGPSと電話で助けも呼べるのだ。
美咲は、キャップとゴーグルを拾うと、目に入った地底湖に隣接する小高い岩場に登り始めた。
小高いと言っても、登りやすい階段がある訳ではないので、登るのは大変だった。
高さは四階建ての建物ぐらいある。
岩肌に掴まり、足を踏ん張り、普段使わない筋肉の疲労を全身に感じ、ぜぇぜぇと息を乱しながらなんとか登り切る。
周囲を一望出来るそこから見えた景色は、生まれて初めて見る物だった。
顔をあげ、視界が開けた時の第一声は、「きれい……」だった。
景色だけで、こんなに心が震える事があるとは思わなかった。
湖の中からも見えていた鍾乳石のつららが地面にまでのびて出来た巨大な柱に、支えられた広大な洞窟。
柱は、アイスピックの様に先端が細い物もあれば、エアーズロックの様な超巨大な塊まで、様々な大きさがあった。
所々天井が崩れて日光が真上から差し込んでいる光景は、高所から見れば大地を照らす模様に見えた。
地下洞窟にもかかわらず、地面や壁面には苔や草花が生え、日が当たる所には、広大な草原や森まであった。
日が一切当たらない部分は、植物の生育が極めて悪く、場所によっては何も生えていないので、日照環境は一目了然だった。
博物館で見る恐竜の化石の様な、巨大な生物の骨らしきものが遠くの地面から生えているのが見える。
更に遠くの森の中で、巨大な木々を揺らして何かが動いているのも見えた。
後ろを振り向くと、美咲がつい先ほどまで泳いでいた地底湖が広がっていた。
地底湖を照らす天井の大穴からの光が反射して、地底湖の天井は幻想的な雰囲気に包まれている。
改めて見上げてみるが天井までの高さは、iDで測ると、低くても200メートル、高い所だと500メートルを超えていた。
その地底湖の水中では、巨大な複数の影が変わらず悠々と泳いでいた。
地底湖は、対岸まで推定数キロの大きさがあり、地底湖の向こうには、反対側と同じように鍾乳石の柱や、森や草原が延々と広がっていた。
地下にも関わらず、高い天井の下を飛ぶ鳥の群も見えた。
この広大な地底空間では、美咲の位置からでは、どの方向にも果てが見えなかった。
美咲は、iDの撮影機能を使って、全天球パノラマ写真を撮影した。
かなりテンションが上がっているのを感じる。
くしゅんっ!
くしゃみが出て、途端に現実に引き戻された。
この程度の高さだが、遮るものがない分、吹けば風は強くて寒かった。
現実に戻ると、ここは一人でいるには広すぎる。
そんな事に気付くと、途端に心細くなってきた。
「おーーーーーーーい、誰かいませんかーーー!?」
森の中から、美咲に答える様に獣の呻き声や鳴き声が聞こえてきた。
美咲は、自分の口をつぐんだ。
背を低くして周囲を見回すが、何も変化したようには見えない。
ホッとしつつ大きな溜息をつくと、美咲はその場にへたり込んでしまった。
黄昏る。
そんな表現がピッタリだった。
事態を受け入れる勇気が湧くまでに、その場で景色を眺め、体感で1時間の時を必要とした。
実際は、時計を見ると10分程度だが、とにかくえらく長くに感じたという事だ。
どうやら、一向に夢から目も覚めないし、誰かが目の前を通りがかる事も、お迎えに来る事も無いらしい。
メッセージは、相変わらずのオフラインで誰にも送れない。
視界の端で、ロッテがメールを持ち帰ってくる演出も見飽きてしまった。
マップに至っては表示をしても日本を指したまま、現在位置が分からないと衛星を探し続けている。
利用制限時でも使える緊急連絡も、まったく繋がらずに、試すたびに視界の端でロッテが困っていた。
これは、異世界だろうか?
どうやって、いつ移動したのか?
どうして私が、なんでこんな所に?
考えれば、似たような疑問がループするが、答えは一つも出ない。
身体は、すっかり乾いていたが、美咲の身体はとても冷えていた。
寒さに耐えられなくなった美咲は、重い腰をあげて移動を決意した。
とにかく人を探そうと思ったのだ。
ここにいても、きっと何も起きない。
起きるとしても、獣の呻き声を聞く限り、良い想像が出来なかった。
間違っても、ここで夜を迎えたくはない。
本音を言えば、とにかく、誰でもいいから、誰かに助けて欲しかった。
そもそも部活の大会と高校受験を控えた日本の女子中学生に、サバイバルなど無茶ブリも良い所である。
なのに、現実はチラチラと無茶ブリを強要して美咲の様子を見ている。
こうなると、助けを求めて移動するにしても行く当てがないと動きようがない。
森の中で遭難したら、人を探す以前の問題である。
周囲を注意深く見ると、さっきは気付かなかったが森の向こう側に人工物が見えた。
iDのカメラ機能を起動すると、視界を十倍にズームできた。
それは、建物の屋根に見えた。
人の痕跡を見つけただけで、こんなに救われるとは、美咲は想像したことも無かった。
他にも何か無いか周囲を観察し、何も見つけられない事を確認した。
腹を決めると、岩場をトントンとジャンプして降りていき、獣と遭遇しない事を祈りながら屋根が見えた方向へと歩き出した。