ハローワールド〈その2〉大会予選
前回の流れ。
・親友の葵によって、大会予選一位通過出来なかったら罰ゲーム的な窮地に立たされる。
※一部表現、内容、誤字、スペースを編集しました。
※※構成を大幅に見直しました。
「サキッチ、呼ばれてるよ~」
プールサイドで他の競技を面白そうに見ていた美咲は、葵に指で背中をなぞられてビクッと気付いた。
「ああ、うん」
ようやく順番が来たかと、すっくと立ち上がる。
すると、その引き締まったお尻を、また葵がペチンと叩いた。
「ちょっと!?」
素直に驚く美咲に、葵は「かっこいい所見せてよ!」とエールを送った。
美咲は、親指を立てて満面の笑みで答えた。
プールのスタート地点まで歩いていると、声が聞こえてきた。
「ミサキ! ガンバ!」
「ナキリ! 期待してるぞ!」
応援席に同じ学校の友達数人が応援に来てくれていた。
美咲は、大きく手を振って返した。
友達には、まあまあ色々な呼び方をされるが、初対面の半分には「ヒャッキさん?」と疑問符で呼ばれる。
百鬼と書いて“なきり”と読む。
これが美咲の苗字である。
年齢は、昨日で15歳。
背の高さと成績は、クラスで真ん中ぐらい。
肩に届かないぐらいまで伸びた髪は、今は水泳キャップの中に納まっているが、キャップを外せば黒のストレート。
目鼻立ちも悪く無く、黙っていれば清楚な美少女に見られない事も無い。
だが、自他共に認める「ずぼら」な性格が災いして、清楚なんて誤認は日々の生活の中で既に正されている。
中学に入ってから親友の葵に誘われて始めたので、水泳の経験はまだまだ浅い。
だが、今では葵よりも早く泳げるし、こうして大会の予選に出る事も出来る。
兄がいるせいか、人に頼ったり、教えてもらう事が上手く、そこに負けず嫌いな性格が合わさって、部内では一応の有望株だし、友達も多い方だ。
友達の声援に応えながら美咲がプールに向かって歩いていると、変な音が聞こえた気がした。
「?」
美咲が音の原因を探して、首をキョロキョロとする。
「百鬼どうした、大丈夫か?」
美咲の異変に気付いた顧問兼コーチの木村先生が、心配そうに声をかけてきた。
「何か聞こえなかったですか?」
「あれ以外でか?」
木村先生は、スタートの電子銃声を指した。
美咲は、首を小さく縦に振った。
「いんや、耳鳴りか? 気圧がおかしいとかは無いか? 耳抜きは?」
「えっと、たぶん気のせい、だった……のかな? うん、もう大丈夫です」
美咲は、そう言うと気にしない事にした。
「いいか、練習通りにやれば十分狙えるんだ。集中していけよ、同時にリラックスだ」
「はい!」
木村先生の漠然としたアドバイスを素直に聞き、気を取り直す。
ゴーグルの明度を調整し、最適にして着用しプールに入った。
視界に見えるiDのウィンドウには、利用制限の文字が出ていた。
こういった競技会場では、不正に使おうとする者がいるので、インプラントナノデバイスの類は強制的に利用制限される。
具体的には、競技における最適解のモーションを表示してガイドする事で、本来の実力以上の動きをナビゲーション出来てしまうのだ。
練習時には大変有用だが、本番では一切の使用が認められていない。
なので、美咲のiDも一時的に緊急連絡でしか電話をかけられない様に自動的に制限されていた。
美咲は、もしかしたらノイズは、この利用制限のせいで聞こえたのかもと思った。
「はぁ……ふぅ……」
深呼吸をした。
葵は、一位になれなかったら本当にセクシーな下着を買うし、予選に落ちたら買ってもくれない事は、長い付き合いから分かっていた。
それはどの道、家に帰ってから面倒な事になる。
特に、親からのセクシーな下着に対する興味本位の見当外れな質問を受けるのは、想像するだけで億劫でならない。
だが、それよりも単純に、美咲は負けるのも諦めるのも、人一倍嫌いだった。
そんな事を考えていると、そう言えばと思い出したように美咲は客席を見た。
そこには美咲に手を振っている両親と、兄の姿があった。
兄は美咲にビデオカメラのレンズを向けている。
美咲が小さく手を振ると、兄も撮影の手を維持したまま手を振り返した。
美咲は思った。
みんなの「期待に応えたい」と。
期待を裏切らない為に、努力をしてきた。
そしてこれから、その力を出し切るのだ。
美咲は目を閉じた。
大会の為に日々練習も重ねて来たし、今朝も自宅の水風呂でわざわざイメトレをして来た。
準備に抜かりもなければ、今日は快晴で絶好の試合日和である。
負けたら他人のせいに出来ない状況で泳げると言うのは、勝ち負け関係無く気持ちが良い。
目を開け、会場にある時計を見ると、時間は11時。
丁度分針がカタンと動くのが見えた。
すぐにスタート用意のアナウンスが流れ始める。
スタート位置にあるハンドルを握ると、膝を抱え込み、足の裏を壁につけ、背泳ぎのスタートの姿勢をとる。
全身のバネが、スタートダッシュの瞬間を、今か今かと待っている。
美咲自身も、壁を蹴るタイミングを集中して待つ。
集中、集中、集中……同時に、リラックス、リラックス、リラックス……
自分の心音に意識を向ける。
トクン、トクン、トクン……鼓動はリラックスしている。
その時、また音が聞こえた。
何の音かは分からないが、確かに聞こえた。
聞いた事の無い音だった。
イヤホンからの音楽の音漏れ、とも少し違う。
何かの音楽、いや、もっと複雑な……
ノイズの様な……
こんな事なら、iDは予選が終わってから入れればよかったと、少し後悔した。
まったくついていない。
その時、世界がスローモーションになる様な、歪むような、違和感を感じた。
一番近いのは、何の感覚だろうと思った。
そうだ、これは知っている。
デジャヴュである。
ゾーンとか、そう言うのかな? 泳ぐ前から、興奮でハイなのかな?
そんな事を内心思うが、すぐに気持ちを切り替える。
パンッ!
スタートを知らせる銃声が”ゆっくり”と、会場に鳴り響いた。
美咲の懐いた不安とは裏腹に、その身体は完璧なタイミングでスタートを切った。
スローの中、水飛沫の一つ一つが確認出来る。
その中で視界が広がっていく。
天井のライト、梁の鉄骨、電光掲示板、巨大モニター、観客席。
そして水中に顔が沈む直前に、観客席で応援する家族の姿が見えた。
潜水でイルカの様に身体を動かして全身で水を掻き分け、壁を蹴った勢いで距離を稼ぐスタートは、自己ベストも狙えそうな、良い滑り出しだった。
水の流れを全身に感じるが、水にぶつかるのでは無く、水を掻き分け、水塊の隙間を縫う様に泳ぐ感覚。
調子が本当に良いと全身で感じている。
だが、まだ勝負は始まったばかりだった。
気を抜いては足元をすくわれる。
水面に顔が出ると、肺いっぱいに息を吸い、手を動かす。
ここからが本当に練習の成果が試される見せ場……その筈だった。