ハローエレノア(その5)ノイズ
前回の流れ。
・美咲、エレノアの毒のせいで見えた過去の光景を見て、エレノアの過去を垣間見る。
※一部表現、内容、誤字、スペースを編集しました。
一際大きなノイズが聞こえた。
そのノイズは最後の瞬間にだけ、ノイズでは無く知らない言葉の歌声に収束して聞こえた気がした。
更に、その歌はプールの時とは違い、その場の全員に聞こえていた。
ノイズが消えた瞬間、美咲を中心に周囲の空間が、シームレスに切り替わった。
突然、部屋の中に一人増えていた。
水槽を割った少年のビジョンの形をした影が一人そこに現れ、他のビジョンは全て消えていた。
今の状況に、過去の少年の形をした影だけがレイヤーを重ねた様に突然現れたのだ。
ノイズがその場の全員に聞こえた様に、少年の影が、その場の全員に見えていた。
少年の影が、エレノアに振り向いた。
美咲は、それが全然違うのに、一瞬自分の兄に見えた。
『ジャック!?』
エレノアは、少年の影の暗い瞳に見つめられて息を飲んだ。
少年の影は、少し驚いた表情を浮かべたが、エレノアに気付くと優しく笑いかけた。
美咲には、少年がエレノアを迎えに来たように感じた。
エレノアが美咲を見ると、美咲はエレノアを見返した。
二人共、混乱していた。
少年の影は、猫猿達に向き直ると、ビジョンで見たのと同じ様にゆっくりと手をかざした。
猫猿達は、突然現れた少年に驚くが、ただの子供と判断すると、次には食べ物としか見れなくなっていた。
そんな猫猿達を少年の影は、過去のビジョンで大人達に見せた顔をして見つめた。
獲物を見る目である。
猫猿達は、どちらが狩る側なのか気付きはしなかった。
すると少年の影の、手の平の中に小さな炎が宿り、それは中心に収束し始め、光を放った。
それがヤバい何かだと分かっていても、猫猿達は何も出来なかった。
『××』
少年の影が呟いた。
美咲でも、何と言っているのか今のは分かった。
間違いなく「死ね」の一言である。
少年の手の中で圧縮された炎は、一気に爆炎となって砦の中にある空間という空間を、その炎で埋め始めた。
目の前から炎が迫り、咄嗟にエレノアは美咲を炎から庇った。
すぐに爆炎が晴れると、少年の影は跡形も無く消えていた。
まるで、全てを焼き尽くす為だけに現れた様に。
エレノアの腕の中で、美咲は目を開けた。
絶対に焼け死んだと思ったのに、火傷一つ無かった。
まるで、エレノアの周囲に透明なドームがあったかのように、床には丸く無傷の床が残っている。
爆炎はエレノアと、エレノアに抱きかかえられた美咲を避けていた。
しかし猫猿達は、そうはいかなかった。
突然の出火に、高濃度のアルコールを浴びていた毛むくじゃらの猫猿達は、事態を飲みこむ間もなく火だるまになり、床を転げまわる。
爆炎がぶつかった身体の前面は、一瞬にして炭化している所まであった。
炎に巻かれると、呼吸によって肺が焼け付き、猫猿達は次々と炎で溺れてやがて動かなくなっていく。
火は床で水たまりを作っていたアルコールにもしっかり燃え移っており、爆炎が晴れても火の手が更に増していった。
床に落ちていた日誌は、もう消し炭になっていたし、部屋にある薬品の瓶は、軒並み割れて色のついた煙やら有毒ガスを発生させて部屋を満たし始めていた。
全身が現在進行形で焼け焦げていくリーダー格の猫猿は、他の猫猿よりも大分しぶとかった。
仲間を咄嗟に盾にしてダメージを軽減させた上に、爆炎が晴れるまでは息を止めていたらしく、全身が燃えながらも、まだ窒息せずに立っていた。
ただ一匹燃え残った猫猿は、美咲とエレノアが火傷一つせずに目の前にいても構わずに、身体の火を消そうと、まだ割れていない水槽にクロスボウを打ち込もうとした。
しかし、矢が水槽に届く事は無かった。
エレノアが、その矢を蜘蛛の脚で綺麗に叩き落としたのだ。
炎でこれだけ明るければ、何度も撃ち込まれてタイミングに慣れたエレノアには簡単な事だった。
猫猿は、残った片目をいっそう大きく見開き、エレノアの思わぬ邪魔に、憎しみの表情を浮かべた。
エレノアは、猫猿に対して「いーっ」と歯を出した。
猫猿は、燃えながらもクロスボウに矢を再装填しようとするが、弦が発射体制にまで引く力に耐えられず、猫猿の手の中で焼けて弾けた。
歯を噛み割る程に怒り噛み締めるが、落ちていた斧を拾いあげると、水槽に駆け寄って必死に叩き始めた。
その目は、もはや美咲では無く、今度はエレノアに対する復讐に燃えていた。
だが、物理的に燃える身体でエレノアに掴みかかれば火傷は負わせられても、殺せないと判断してか、生き残る為の道を選んだのだった。
しかし選択も空しく、水槽の丈夫なガラスにはヒビが入るだけで中々割れず、培養液はチョロチョロとしか漏れ出してこない。
猫猿の行動を嘲笑うかのように、炎の熱に部屋に置いてあった、まだ辛うじて無事だったアルコールの瓶も割れていき、火の手が更に強まっていく。
美咲がエレノアの腕に抱かれながら部屋の光景を見ていると、エレノアが美咲の目をまっすぐに見つめた。
その目は、美咲を心配している目だった。
「エレノア……ごめん」
『ミサキ、×××××』
美咲の呼びかけにエレノアは答えるが、お互い言葉の意味は分からなかった。
だが、エレノアは、この惨事を起こしたのが美咲だとちゃんとわかっている様だった。
当の美咲は、何が何だか分からないままこうなってしまっただけで、どうやら自分がやった事というのは分かるが、実感が伴っていなかった。
恐らく、美咲がどうやってか呼び出した少年の影が、エレノアを助けたのだろう。
エレノアは、美咲を肩に担ぎ直すと、猫猿の焼ける臭いを通り抜け、猫猿が水槽を叩き続けている音を後に、部屋を出た。
死に損ないの猫猿に構っている余裕はないし、あの状態で猫猿が助かるとは美咲にも思えなかった。
地下牢に出ると、天井には煙が充満し、床の藁が燃えて足の踏み場も無い状態だった。
エレノアは、火傷も構わずに炎の上を走り抜け、砦のエントランスに向かった。
そこは正門で、美咲が外から試した時には開かなかった扉があった。
内側から見ても鍵の様な物は見えず、エレノアが押してみるが扉はやはり開かなかった。
美咲は煙に軽くせき込みながら、煙を吸わない様に手で口を押さえ、エレノアに上へ行く様に指で上を指した。
意味が分かったのか、エレノアは頷くと壁や吹き抜けを蜘蛛の脚を生かしてショートカットし、一気に砦の上まで登りきった。
炎と煙から逃げる様に塔の屋根の上にまで登ると、エレノアは屋根瓦を一枚剥がし、森の方へと投げた。
かなり距離があるが、森の中に瓦がフリスビーの様に消えていく。
エレノアは、空中をグイグイと引っ張って何かを確認した。
すると、次には、その何かの上に脚をのせてぶら下がってみせた。
エレノアに抱えられているだけの美咲は、宙にぶら下がる感覚に驚き、あまりの高さに目がくらんだ。
高所恐怖症では無いが、予告が欲しいと思った。
だが、言葉が分からないので仕方が無い。
光が当たると、エレノアが塔と森に張った糸の道が揺れてチラチラと反射して見えた。
美咲は、蜘蛛の脚でぶら下がりながら糸をゆっくりと歩いて行くエレノアの腕の中で、思わず小さな拍手をした。
初めて、エレノアの下半身が蜘蛛で良かったと心の底から思えた。
視界がさかさまのまま塔の方を見ると、エレノアの血で糸が染まり道が浮き上がっていた。
でも、これでようやく助かった。
エレノアの腕の中で美咲は、煙からも無事逃れ、ようやく深呼吸した。
徐々に頭に血が上りつつあるピンチなど無視して、砦の中で孤独に死ぬ心配から解放されたのだった。
ギャギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!
今出てきた砦の方から聞こえてきた叫び声に、エレノアと美咲は振り返った。
全身を炎に包まれながら、片目の猫猿が塔の上まで追いかけてきていた。
『「しつこい!』」
美咲とエレノアは、違う言葉だが、意味でハモったのが二人ともわかった。
エレノアは内心、とどめを刺すべきだったと後悔した。
猫猿は、火のついた斧で糸を切ろうと振りかぶった。
美咲は思わず目を閉じた。
だが、エレノアの糸は丈夫で切れる気配も見せず、斧をあっさりとはねのけた。
猫猿は悔しそうに雄叫びをあげながら、斧を口にくわえて、燃えたまま糸を渡り始めた。
その速度は、木から木に飛び移る手長猿の様に、素早かった。
エレノアは咄嗟に猫猿に糸を何発も吹き付けたが、猫猿は糸にぶら下がりながら身体を左右に揺らして糸を器用に避けながらすぐに追いついてくる。
猫猿が糸から手を放してジャンプすると、エレノアに直接掴みかかって来た。
燃える猫猿に抱きつかれ、エレノアは熱に耐えながら脚で強烈な蹴りを入れた。
しかし、相手が近過ぎて足先が使えず、変な体制での膝蹴りになり、猫猿の肋骨を折り、内臓を破壊こそするが、捨て身の猫猿は全く怯まない。
猫猿は血を吐きながら、口にくわえていた斧を手に持つと、エレノアを殺そうと斬りかかって来た。
エレノアは対応する為、後ろ脚二本だけで糸にぶら下がりながら、六本の脚で斧を防ぎ、なんとか猫猿を引き剥がそうと蹴りを入れ続けた。
どうにか猫猿の手から斧を払い落とすが、猫猿は素手になっても執念で掴みかかり、エレノアの前脚に噛みついてきた。
エレノアは、猫猿の頭が動きを止めた好機と捉え、頭を潰そうと別の前脚で狙いを定めた。
「熱っ!?」
猫猿の焼ける脚の指が、美咲の足首を掴んでいた。
エレノアを狙っていると思い込んで、裏をかかれてしまった。
猫猿がエレノアの前脚に噛みついたまま嬉しそうに笑ったのが、二人にも分かった。
『××××!?』
エレノアが驚きに声をあげた。
足首を掴まれた美咲は、猫猿に無理やりエレノアから引き剥がされると、そのまま深い堀へと向かって投げ落とされてしまった。
驚きのあまり声も出ない美咲を、エレノアは掴もうと精一杯手を伸ばした。