ホームランボール
全ての野球ファンに捧ぐ
青空の広がった、5月のある日。
イリノイ州のリグレー・フィールドは、今日も満員の観衆の熱気であふれていた。
ここは、熱狂的なファンで知られるシカゴ・カブスの本拠地である。
勝っても負けても、皆、熱心に応援していた。
今日の試合は劣勢だった。
「くそー、また打たれた!」
「なんの!これから、これから!」
試合は一方的な展開だった。
皆は、半ばやけくそ気味になりながら、それでも一生懸命に声を枯らして応援していた。
カキーン!
相手選手の打ったホームランボールが満員のスタンドに飛び込んで来た。
「投げ返せ!投げ返せ!」
皆が一斉に叫んだ。
ここでは相手選手の打ったホームランボールは、グラウンドに投げ返すのが、暗黙のルールになっていた。
ボールを拾ったファンも、即座にグラウンドに投げ返した。
「よーし!」
「いいぞ!いいぞ!」
敗戦濃厚な中、皆はそんな事でしか盛り上がれなかった。
カキーン!
また、相手選手の打ったホームランボールがスタンドに飛び込んで来た。
コロコロと転がったボールは、一人の女の子の前で止まった。
その女の子は6歳くらいだった。
父親に連れられて、初めて野球場に来ていた。
女の子は、ボールを拾った。
とても嬉しそうに、宝物を拾ったようにそのボールを見つめていた。
「投げ返せ!」
しばらく沈黙していたスタンドに、年配の男の声が響いた。
「…投げ返せ!」
「投げ返せ!」
それに、つられるように、皆はいつものように叫んだ。
大勢の投げ返せコールを浴びた女の子は、立ちすくんでしまった。
初めて来た野球場で初めて拾ったホームランボール。
その宝物のようなボールを、投げ返せと言われているのだ。
辺りを見回しても、皆、興奮したように投げ返せと叫んでいた。
女の子は泣きそうになっていた。
そんな時、一人の若い男性が女の子の所に歩み寄った。
そして、一つの新しいボールを女の子にそっと渡した。
「このボールを投げ返すんだ」
女の子に小声で言った。
「え?」
女の子は涙目で男性を見上げた。
「早く」
そう言われた女の子は、うなづいて、そのボールをグラウンドに投げ入れた。
「よーし!」
「よく、やったぞ!」
皆は立ち上がって、女の子に拍手した。
皆、とびきりの笑顔だった。
皆は判っていた。
それが本物のホームランボールでない事を。
それでも、皆、女の子に拍手した。
拍手された女の子は、嬉しそうに、微笑んだ。
後ろに隠した手で、本物のホームランボールをしっかりと握りしめて。
皆、笑顔だった。
試合は負けてしまったが、笑顔だった。
5月の風が爽やかに、球場を吹き抜けていた。
おわり
この話は実話だそうですが、カブスかどうかはわかりません。