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ドリムナノグの詩  作者: 西住 聖
第一章:ドリムナノグ
9/108

7.出立

 初めてドリムナノグに来た時も、この森を歩いた。

 川に落ちた後で、全身水浸し。しかも段々に日の落ちていく中を、あのストライダー達が住まう村まで歩いたのだから、今思えば最悪の出発だった、と修也は回想する。

 

 メッテルニヒーの騎士達が通るであろう広い道を避けるため、三人は木々の生い茂る中を掻き分けて進むことになった。あの時歩いた道より足場は悪いが、対して今回は大和を初めとする学校の仲間たちに、ケララ、そしてオーエンと一緒だ。特にこの世界で長年生きているストライダーの戦士が道中を共にするのは、心強く思える。

「途中、村に向かうメッテルニヒーと接近する可能性はある。やつらの目に付かぬよう、今宵は野営せずに歩き続ける事になるだろう。覚悟はしておけ」

 振り返らず、歩速を維持したままオーエンが言った。

「夜になっても? 休まず歩き続けるわけ?」と大袈裟に聞き返した遥は、ワザとらしくしょっぱい顔を作ってケララを見る。

「あなたは大丈夫? 休憩しないで行けると思う?」

「辛いですけど、一日くらいなら、なんとか……」

 ケララは応えると、「今晩だけ、頑張りましょう」と微笑んだが、その反応は遥の期待したものではなかったらしい。少女に怪訝そうな顔を向けると、絶対キツイって……、と小声で吐き捨てた。

 それを無視して、オーエンは続ける。

「森はメッテルニヒーの監視の目が多い。五日以内に抜けて、起源人(アダムス)の住まうオルディネール平原に入る。起源人(アダムス)の領土では、少なくとも森の中ほど目立つようなことはない」

「なんで? 森の方が隠れる場所多いジャン。目立たなくね?」

 ノブが不思議そうに言った。

「大半の起源人(アダムス)は、森に入らない。木こりか狩人か、そうでなければ、メッテルニヒーの目を嫌う『ストライダー』だ」

 森の中をうろついているだけで、既にメッテルニヒーに対する反乱分子の候補、というわけか――物々しく武装して野山をうろつく修也達は、傍から見れば立派なストライダーというわけだ。隠れず堂々としていれば、旅人とでも弁解することが出来るのだろう。

 多少の手ほどきを受けたとはいえ、黒騎士に絡まれたら修也達にはどうしようもない。ニルギリーに言われた『争いごと』を避けるなら、オーエンの言うとおり一刻も早くこの森を抜けるべきだ。

 修也が納得しかけた時、「待って」と割り込む大和の声が聞こえた。

「森の中を、俺たちの仲間が彷徨っているかもしれない。それを確かめる前に森を離れることはできない」

「大和お前、まだ言ってんのかよ」

 オーエンの反応を待たずに、そう声を上げたのはノブだった。

「十日も居て、誰も見つからなかった。もういねぇって!」

「この森の中を、くまなく探したって言えるのか? ニルギリー達が行った範囲で見つからなかったってだけかもしれない。全員揃わないまま帰る方法が分かったって、どうにもならないだろ」

 そう言って大和は譲らない。この二人の折り合いも、とことん悪いらしい。

 いつもなら「大和は堅物だ」とごちて済むのだが、今回はそうは行かない話だ。修也としては一刻も早く危険を抜けたい気持ちがあるが、大和の言うとおりこの世界に来ているかも知れない五人の同級生の安否を確かめないまま、天空人の都とやらにたどり着き帰還の糸口を掴んでも、それからどうするのだろう?  出会えなかった仲間を置いて元の世界に帰ると言い切れる度胸は、修也にはない。

「森は、メッテルニヒーの騎士が目を光らせている。もし彼らに捕まっているのなら、お前達の仲間とやらは『止まり木』にいるだろうな」

 険悪な二人の会話に、オーエンの冷静な声が差し込まれる。

 『止まり木』という言葉はニルギリーの集落にいた時から何度か耳に挟んでいた。「そこは?」と問うた大和に、今度はケララが答えた。

「この森を監視するために、メッテルニヒーが狩人の村を奪い作った拠点です。そこに、ストライダーを捕えた監獄があるから、もしかしたら――」

「『止まり木』に立ち寄る予定はない。わざわざメッテルニヒーに捕まりに行くようなものだ」

 少女の説明が済む前に、オーエンがピシャリと言った。「でも……!」と食って掛かる大和の言葉を無視して、話は終わりだ、とでも言いたげに背を向けたオーエンは、そのまま少し歩みを速める。その様を見て渋々大和は口を噤んだ。


 しばらくの間、一行は無言で歩き続ける。

 大和とノブはお互いが視界に入らないよう絶妙な距離を置いていて、丁度その間を歩く修也は、気まずい空気を全身に感じて視線を泳がせた。

 オーエンは無言のまま一同の先頭を歩いている。遥は既にへこたれてきたのだろうか、ワザとらしくひいひいと息を荒げ、時々立ち止まっては脛の辺りを拳で叩いた。あとは……ケララだ、と修也は少女を探した。

 天空人(ウィーナス)の少女は一行の最後尾にいた。その歩幅は小さく、足取りは緩やかだった。既に修也達から二、三メートルほど距離が開いてしまっているが、疲れているという風ではない。時々立ち止まっては、物憂げな顔で来た道を振り返るそのしぐさから、おそらく村の事を気にしているのだろう。

 そう分かった修也は、少し歩速を緩めて少女と並ぶのを待った。

「ニルギリー達が、気になってる?」

 会話が成り立つような距離が出来て修也がそう問うと、物憂げな少女は我に返ったかのように顔を向ける。力なく笑みを作ると、

「そうですね……ずっと、一緒にいたから」

 二人の事は出る前にニルギリーから少しだけ聞いていた。

「えと……天空人(ウィーナス)、なんだよね」

 遠慮がちに問いかけると、少女は頷いて自身のとんがった耳を触って見せる。

「私の家は天空人(ウィーナス)の――王族なんて立派なものではないけど、皆さんの意思を代表する立場にありました。メッテルニヒーが私たちの住まう霊峰を囲んだ時に、ニルギリーも一緒にいて。彼は私の身内に頼まれて、私を連れて山を脱出したんです」

「うん……ニルギリーから、少しだけ聞いた」

 修也が相槌を打つと、少女も愛想笑いを見せた。

「そうなんですか……それからは彼が志を同じくする人達を集めて、いろんなところで抵抗の戦いをしてきたんです。この前みたいに騎士に襲われる事もたくさんあって、その都度多くの仲間たちが亡くなりました。でも、ニルギリーは強くて。『ホラー』や、『大足』が来ても、絶対に負けなかった。それなのに……」

 今、ニルギリーは浅くない手傷を負い、少ない手勢と共に騎士との戦いを待っている。誰の目から見ても――この世界に来て日の浅い修也の目から見ても敗色濃厚で、だから彼はケララを逃がした。彼女もそのことを知っているから、後ろ髪引かれるのだろう。

「私、いつも誰かに言われて、逃げてばかりで。でも、どうしようもない。天空人(ウィーナス)なんて言って偉そうにしてるけれど、戦いになれば何の役にも立てない、賢しいだけの種族です」

「賢しいだなんて……」

「本当に、そうなんです。天空人(ウィーナス)の都が今も健在なのは、私の家がメッテルニヒーとの和平に応じ、戦わなかったからです。三種族が一丸となって取り組むべき問題なのに、私達は逃げた。」

 自嘲的に言う少女の翡翠色の瞳は、少し潤んでいた。ネガティブな物言いをする彼女に慰めの言葉でも駆けられればいいのだが、この世界を何も知らない修也には無責任に「そんなことない」とすら言えない。

 会話の間が、気まずかった。ケララもそう感じたのだろう、彼女は話題を変えた。 

「あの、この間は助けてくれて、本当にありがとう。シューヤの言うことは何もわからなくて、いきなり拘束したり、失礼ばかりしていたのに。」

「そんなこと……」

「うれしかった……でも、もしこの旅路でみなさんの足を引っ張るようなことがあれば、私のことは構わず、みなさんの目的を優先してください……あの時みっともなく、『助けて』なんて喚いてた私が言うのも変ですけど。」

 言うだけ言うと、また俯いてしまう。

 人形みたいに小奇麗な少女の、悲しみに沈んだ横顔。それを元気づけたいと思いながら、何も言えない自分を修也は嫌悪した。それ以上の言葉は続かず、少女はまた一人で歩くことを選んだ。

 修也はだらしなく、自分本位の人間だ。

 面倒なことは極力避けたい性分で、生真面目なヤツを疎ましく思う。変化に対して臆病で、この世界に初めて来た時は情けなく泣き喚いた。

 あの戦いの中においても、それは変わらないはずだった。当たり前のように死んでいく人に戦慄し、そうはなりたくない一心でケララに縄を解くよう促した。彼女が騎士の男に捕まった時も、直前まで逃げることを考えていたのだ。

 もしももう一度、彼女が危険にさらされた時、もう一度同じことが出来るだろうか。彼女を守るために修也は戦えるのか、分からなかった。

 ニルギリーが託した『精霊火(フランクリスト)』の長剣に手を添える。彼が託したこの純白の剣は、少女を守るという意思の象徴に思えた。その思いに応える確かな決意のないまま継承してしまった剣と、そのかつての持ち主に申し訳なく思い、修也は瞳を閉じて侘びの念を噛み締めた。



 もう何時間歩いただろう。ケララとの会話からまた無言の道が続き、時間の感覚はなくなっていた。両の足はパンパンに張っていて、骨の芯まで疲労が染みている。

 相変わらずひぃひぃと音を上げる遥だが、日頃から愚痴っぽい彼女でなくとも、いい加減足を止めたくなる疲労の量だった。思えば修也も朝からノブと剣の稽古をみっちりして、続けざまに村を出ているのだから、ほぼ一日中体を動かして過ごしていることになる。できる事なら休憩を提案したいが、オーエンは黒騎士との邂逅を警戒して了承しないだろう。

 そう思って修也が我慢を決めた直後――、

「もう無理っ。もぉー歩けない!」

 日もほとんど沈み、藍色の強い夕暮れの空に向かってそう叫んだ遥が、一行の足を止めた。そのままへたり込んだ彼女に吊られて、大和とノブも歩みを止め、膝を着いてしまう。

「何してる。騎士をやり過ごすまでは歩き続けなければ」

 振り返ったオーエンがいらいらと言った。彼とケララは歩き慣れているのだろうか、まだいけるとでも言いたげに立ち尽くして、三人を見ている。

「ちょっ、待て、待て」

 タイム、と平手を翳したノブが言った。

「ほんの少し、少しでいいから休ませろ。こんな様じゃ、騎士様に遭遇した時に逃げる事すらできないぜ」

「無理して歩いて、本当に肝心な時ヘロヘロじゃ、やってられない!」

 遥の肯定を受けたノブはウンウン、とワザとらしく頷き、地べたに胡坐をかくと背負った荷物を放り出す。既に休憩する気満々、という様子だった。呆れ顔を見せたオーエンはそのまま背を向けると、ケララに、

「我々は行きましょう。彼らに付き合う必要はない」

そう促したが、少女は「待って」と彼を制止すると、修也の元にトコトコと寄ってきて、

「もう少しだけ、頑張りませんか。もう日も落ちますし、騎士達も近づいていると思います。休むにしても、もう少し奥に移動して、目に付かないようにしないと」

 と、説得した。その言葉に遥がヒステリックな反応を示す。

「あなた達と違って、歩き慣れてないの! 先に行きたきゃ行けばいいじゃない!」

 耳を劈くような大声にケララがビクと震え、森がざわめいた。さすがにその物言いは感化できないと思ったのか、「やめろ、彼女たちがいないと道に迷ってしまう」と大和が咎めたが、遥はフンと鼻を鳴らすと「地図があるんだから、平気よ」と誇らしげに言う。

 遥のふてぶてしい態度に大和が抗議し、ノブがそれを「ギャンギャン騒ぐなよ」と茶化すと、三人の発言が入り混じる論争が始まってしまった。

 まいったな、と頭を掻いた修也は、盛り上がる三人と距離を置いてその様子を眺めた。

 修也としても全身の疲労はピークに達しているが、ここはオーエンやケララ達、この世界の人々に従った方が安全な気がする。大和に加勢してノブと遥を説得するべきなのだが、二人の押しの強そうな性格を納得させるのは骨が折れそうだった。


 結局何もできないで惑っていた修也は、不意に遠くを眺めるオーエンが目に付いた。木々の立ち並ぶ先――一点を見据えて双眼を細めた、彼の不穏な態度に嫌な予感を覚えて、「どうしたの? 何か見える?」と声を掛ける。近寄る修也に手を翳して制止したオーエンは、一言つぶやいた。

「まずいな……」

 森がざわめいていた。風が強くなってきているせいか、木々の鳴る音がさっきより耳につく。オーエンの真似をして修也も彼の見据える先に目を凝らしたが、何も見えない。

 しばらくして、修也も違和感に気づいた。相変わらず視界の先には変化もないが、木々のざわめきの中に小さな地響きを感じる。この感覚は忘れもしない、巨大な何かがうごめくような振動――。


 ――メッテルニヒーの騎士がくる!


「伏せろ! 早く!」

 オーエンが叫んだ。その声に議論を注視させられた三人がオーエンを見て呆けると、修也は大和の肩を引っ掴んで焦燥を口にした。

「早く言うとおりに! 騎士が、近い!」

 その言葉は三人を従わせるのに十分な威力を持っていた。慌てて地べたに這いつくばり頭を抱えるノブと遥を確認した修也は、自身も思い切り地面に倒れ込んだ。

「なぜあいつらの傍を通るような真似したんです?」

 地面に伏せた大和がオーエンに喚いた。

「わざわざ選ぶと思うか? 村へ続く道からは外れたはずだ!」

 彼が言いかえす間に、全身に感じる振動はどんどん大きくなる、そして視界の向こうに黒い線のような者が映り込むと、来る、と修也は生唾を呑んだ。

 立ち並ぶ木々の向こう、土埃を上げる黒騎士の一団が、森の中を進軍していた。

 彼らの進路は、カーブになっているらしい。修也達の正面でから迫る騎士の一団はだんだんと大きくなっていき、そして一行との距離が二百メートルほどまで縮まるころ、右手に進路を取った。

 土埃を上げながら進む騎馬の列をちらと見た修也はその数を概算する。斥候に出たストライダーの話では、五十の騎士が村に向かっているはずだ。確認できる騎士達と前情報に差異を感じた修也は、「二手に分かれて、挟み込むつもりか」と呟いたオーエンの声を聴いた。

 なるほど、ならばおそらくもう半分は村の正面から攻め込み、今彼らの目に写っているのは奇襲をかける別働隊、ということになる。そう考えれば極力騎士達に遭遇しないように進路を取った一行が、今騎士達と接触しそうになっているのも頷ける。

 とにかく今は彼らに気づかれないよう祈るしかない。

 幸い時間は夕暮れ時で、これから戦いに赴く緊張感もある騎士達が往く手の無い森に目を凝らし、さらに地面に突っ伏した修也達を見つける可能性は低いのではないか。

 修也の期待した通り、メッテルニヒーの騎士達は森の奥で身を潜めた人影に気づくことなく、その場を通過した――ただ一騎を除いて。


 その騎士は騎士団が曲がるカーブで編隊から外れ、真っ直ぐ先を見据えて立ち止まった。

 気づかれた、と緊張が頂点に達した修也は視線だけ動かしオーエンを見たが、彼は声を潜めて「動くな」と念を押す。

 仲間に知らせるようなこともせず、騎士を乗せた馬は緩い足取りで修也達に向かってきた。全身黒づくめだが兜を被っていない騎士は、あの時指揮を取っていたカイゼル・フリードや、ニールス・ケプナーみたいな高貴な騎士なのだろうか。黒いコートを羽織った様からそう予測した時――。


 シュル、という何かが擦れる細い音が聞こえて、修也は大和の方を見た。


 矢筒から一本の矢を引き抜いた大和の視線が鋭くなり、そして緊張の色を宿す。彼が何をする気なのか一目で分かって、修也はアイコンタクトで必死に訴えた。

(――よせ、下手な事はするな!)

 気づかなかったのか、それとも単に無視したのかは分からない。大和の喉仏がゆっくりと上下したかと思うと、彼はガバと起き上がり、弓を構えると一息に弦を絞った。

 ギギ、と軋んだ音が耳朶に響いた刹那、鋭い音と一緒に矢が撃ち放たれて大気を裂く。

 

 そして――――、

 

 放たれた矢は騎士の肩から三十センチほど離れた位置を飛び去って、そして密集する木々の一本に突き刺さった。


 外した、と修也が判断した直後、オーエンは立ち上がって剣を抜き「逃げろ!」と吠える。

「走れ! ケララを連れて、川に行け。小舟がある」

 小舟――修也がこの世界に来た時ケララと初めて出会った、あの川だ。

 その言葉に尻を叩かれたかのように修也達は立ち上がると、二本目の矢をつがえようとする大和を制止した。

「オーエンの言うとおりに! 逃げよう!」

 叫んだ修也の声に大和も弓を降ろすと、一行はそれまでの疲労も忘れて駆けだした。

 オーエンはそれを見送ると剣を構え、迫る黒騎士の猛りながら突進していく。

 黒騎士の馬が嘶くのを聞いた修也は振り返ると、剣を抜き馬上から斬りかかる騎士にオーエンが必死に応戦する様を見た。

 彼は――オーエンは殺される、と何故か直感した修也は、腹の中が空っぽになったかのような不快感を覚えて、それまで以上の力を両足に込めて走り続ける。

 息苦しさは感じない。先頭を走るノブ、それに続く遥の背中にも必死さが滲んでいた。歩きつかれたと駄々を捏ねていたさっきまでの体たらくが嘘のようだった。おそらくは皆火事場の馬鹿力的なそれが利いているのだろう、と修也の脳裏に緊張感のない考察が生まれる。

 全力疾走をして五分弱、森の切れ間にキラキラと煌めく水の流れを見つけて、ケララが「川に! 私達の小舟があります!」と叫んだのを背中で聞いた修也は、必死に小舟を探す。川岸に打たれた杭にロープで結ばれたそれは、あの時修也を助けたボートだ。

 川に出れば、馬上の騎士と言えど追って来られないはずだ。一瞬の安堵が修也を包んだが、すぐにそれをかき消す物があった。――遠くから響く、蹄の音。

 振り返ると、既に黒騎士が迫っている。右手に掲げた抜き身の剣にはべっとりと赤黒い血がこびりついていて、修也の予想が現実になったのだと分かる。

 一行が岸に着けてある小舟の前に達したという時に、黒騎士も最後尾を走るケララをその間合いに捕えてしまっていた。

「ケララっ!」

 振り返って立ち止まる修也が警鐘の叫びを上げた瞬間、騎士が少女の首を薙ぎ払おうとして凶刃を振るう。風を切る音に鉄鳴りが重なって、思わず目を伏せたが、偶然に足をもつれさせて転んだケララを逃し、斬撃は空を裂いていた。


「修也君、早く!」


 既に小舟に乗り込んだ遥とノブ、そして大和が必死の相で修也を見つめる。だが修也は地を這いつくばって動けないケララと、彼女の前で馬の歩みを止めた黒騎士から目を離せないでいた。 

 立ち尽くした修也を睥睨した騎士の顔には見覚えが有った。兜を用いず明るめの金髪を晒し、端正な顔立ちの口元を冷酷に歪める若い騎士は、先の襲撃で指揮を取っていたカイゼル・フリード卿だった。


「ストライダーの斥候か? にしては数が多いな。それに、女子供も一緒とは」

 

 愉悦の滲んだ冷やかな物言いをするカイゼルは馬を降りると、倒れ込んだケララの首筋に切っ先を当てる。その意味が分かった修也は焦燥のままに、「待って! ――やめてくれッ!」と懇願した。

「何故止める? どの道、お前達はみな殺す。今止めても順番が上下するだけだぞ」

 そう応えたメッテルニヒーの騎士はケララの首をその刃で突こうとしたが、「やめろ!」と唸った修也の声と、後に続いた鞘走りの甲高い音に手を止める。

 腰に佩びた『精霊火(フランクリスト)』の長剣を引き抜いた修也は、カイゼルに向けてその切っ先を突きだしていた。その様に「ほう」と喘いだカイゼルは少女に向けた剣を解き、それを肩に担ぐとゆっくりと修也に向かってくる。

「確かに、それが道理だ。口先だけで女は救えない。助けたければその剣で救わねばな。私を、殺して」

 血まみれの切っ先を修也に突き付けたカイゼル。そのおどろおどろしさに、修也はオーエンの最期を想像してしまい、思わず後ずさる。剣を握る手が震えて、構えが萎える様に低くなっていく。

「どうした? 来い。あの女を殺すぞ」

 カイゼルがそう言って煽るが、修也の戦意は著しく低かった。この男は熟練の騎士で、自分はこの異世界に塗れた異邦――ただの子供だ。勝ち目などない。

 もし運命のいたずらで修也が彼を下したとして、それが意味することはこの男を殺す、ということだ。ニールスを刺し貫いたあの感覚を、もう一度味わうのか。人を殺すという重さを、さらに背負うのか――。

 彼の戦う理由は、ほぼ失われていた。

「シューヤ、逃げて! 私は、いいから!」

 絶望で呆けた頭に入って来た声。眼球でその発生源を追うと、土埃に汚れたケララが上体を起こして叫んでいた。少女の声を聴いた修也の構えはさらに弛緩して、既に臨戦態勢にあるとは言えない状態になった。その様を見た騎士が、怪訝そうに眉を潜める。

「臆病者め」

 フン、と息を吐いた剣を降ろしたカイゼルは修也をそう嘲ると、クルと背を向ける。

「逃げたいならば、逃げろ。私がこの女を斬り捨てる間に、な」

 彼は吐き捨ててケララの眼前に立つと、手にした剣をブンと振り被る。その時、修也の頭で何かが弾けた。


「や、めろぉーッ!」


 ニルギリーから受け取った、白銀の剣、それを再び構え直した修也は、カイゼルの背中に向けてがむしゃらに突っ込んでいく。殺気に振り返ったカイゼルに、気迫の全てを叩きつけた、決死の斬撃を見舞った。

 衝突と同時に握りを強めた修也の手元に、硬い感触が返る。

 大振り気味な修也の一撃を受け止めたカイゼルの剣は、金属質の強い甲高い嘶きを上げた。ガチャガチャと音を立てて鍔競り合う二本の剣越しにカイゼルは破顔すると、

「覚悟を決めたか。それでいい。少しは楽しませろ」

 その言葉を合図に修也を弾き後方に飛び退くと、カイゼルは切っ先を突き出して修也の左胸を狙う。

 突き、と理解した修也が紙一重で避けると、カイゼルはそのまま全身を捻って回転し、遠心力の乗った追撃を見舞う。斬撃の来る方へ咄嗟に剣を薙いだ修也は何とか受け剣閃を相殺したが、衝撃に両の手が痺れ、続く二撃、三撃の刃になすすべなく打ちのめされた。


 衝撃に流されて、体が大地に投げ出される。


 やはり、実戦となれば全然違う。斬撃の嵐になすすべなく倒れ込み、剣が手元を離れた。早く立ちあがらなければと自分を鼓舞するのに、体は言うことを聞いてくれない。

「その黒い髪。お前、ニールスを殺った男か。それならば都合がいい。メッテルニヒーの騎士を殺した者として首を切り取り、『止まり木』で晒し者にしてやる。――ニルギリーのそれと一緒に」

 カイゼル・フリードはそう言って笑った。


 やはり、自分にはできなかった。ケララを守れと言ったニルギリーの言葉に気安く頷いた結果がこれだ。ケララどころか、自分の命すら守れない。

 舟で待っている大和達をちらと見たカイゼルは「あと三・・・いや、後ろの女も合わせて、四人か。手早く行こう」と呟き、剣を振りかざす。

「シューヤッ! ダメ、逃げて!」

 ちくしょう、と内心で吐き捨てた修也は観念して目を伏せた。最期に目にする光景が、自分の命を絶ち切ろうとする騎士の剣閃というのは嫌だ、と思った彼の『最後の抵抗』だった。暗転した視界の向こうから、騎士の短い言葉が鳴る。


「死ね」


 ド、と土を跳ねる音が聞こえた。

 切り捨てられて、情けなく倒れ込んだ自分の体が鳴ったのか――と思ったが、どうやらそうではないらしい。しばらく待って、まだ生きていると分かった修也は、恐る恐る目を開けて、そして息を呑んだ。

 カイゼルの体が血まみれのストライダーに押しのけられ、揺れていた。

 チッ、と短い舌打ちをしたカイゼルが柄頭でその脳天を打つと、鮮血が小さな花のように飛び散る。剣も持たず必死にカイゼルに組みつくその男が、あのオーエン・コースターだと理解した直後、「何してる、逃げろッ!」と猛る声に全身が震えた。 

「ケララを連れて、森を出ろ! はやくっ!」

 まだ、終わっていない――。

 背後から自分の名を呼ぶ大和達の声が聞こえて、修也は剣を取って立ち上がりケララに駆け寄ると、彼女の手を引っ張って起き上がらせる。騎士と取っ組み合ったオーエンを見て「オーエン、一緒に!」とケララが請うたが、ストライダーの男は「早く行け!」とその言葉を跳ね退けた。

 少女の手を引きながら、修也は仲間の待つ小舟に走った。その背後でオーエンの拘束を解いたカイゼルが煩わしそうに叫ぶ。

「死にぞこないが、邪魔をして!」

 カイゼルが剣を薙いで、絡まる二本の腕を切り落とすと、オーエンは痛みと急に軽くなった体に惑ってグラと揺れ、後ずさる。それに追い打ちを掛ける様に間合いを詰めたカイゼルが剣を突き出すと、白刃がストライダーの鳩尾を貫いた。剣身はオーエンの背中を突き破って露出し、切っ先から根本までをどす黒い赤に濡らす。

「ヴァハッ」

 断末魔も無く――口から血反吐をぶち撒く音だけ鳴らしたオーエン。ビクンと痙攣し、やがて動かなくなった。

 今度こそ、オーエンはやられた。それを背中で感じた修也は、何とも言えない感情に奥歯を噛み締めながら小舟に取りつく。まずはウィーナスの少女をそれに乗せ、その後握りしめた剣を鞘に戻すと、自身も小舟に身を入れようと片足を掛ける。

「ヤベェ、まだ来る!」

 櫂を手に取り準備していたノブが、焦燥の声を上げた。振り変えると、オーエンの亡骸を乱暴に蹴り捨てたカイゼルが馬に取りつき、疾走を掛けていた。

 遥が「早く、早く乗って!」とヒステリックに喚く中、「どうする――ッ?」と惑った修也は、矢筒から引き抜いた矢を弓につがえ、カイゼルに向ける大和を見た。

 弓の弦が限界まで引き絞られたかと思うと、次の瞬間にはビッ、と風鳴りを起こしながら撃ち出されていた。その一射はカイゼルを乗せた黒馬の胸に直撃し、苦痛にのたうつ馬から騎士が放り出されるのが見えた。

「乗れ! 今のうちに!」

 大和の声に従って、修也はその身を小舟に預ける。五人もの重さを抱えてズイと沈んだ小舟は、ノブと、遥の動かす櫂によってゆっくりと岸から離れていった。



 安堵に一息ついた修也は、水面の向こうによろよろと立ち上がるカイゼルの人影を見た。真っ直ぐにこちらを見据えていると分かったその姿に、この男とはまた会いまみえる日が来るのではないかと固唾を呑む。

 次にあの騎士と戦うことになるとき、修也は自分を――そしてこの仲間たちを守れるだろうか。死を予見したあの時の緊張を思い出し右手が震えると、無理かもしれない、と弱音が滲んだ。そんな折、


「シューヤ、どうして……」


 その言葉に振り変えると、ケララが困惑した表情で修也の顔を見つめていた。

「どうして私のために戦ったの? 殺されるかもしれなかった。 もしもの時は、放っておいても良いって言ったのに」

「……分からない」

 彼女の疑問に、修也はありのままの気持ちを返した。

 自分でも分からないまま、彼は飛び出していたのだ。それは危険な決断で、今やれと言われれば絶対にできない。修也にとっては大きな決断だったと思う。

 ニルギリーやオーエンも、ケララのために戦って死んだのだろう。それは彼らにとってどんな決断だったのかと、修也は思いを馳せた。この世界に慣れた彼らにとって、死は身近なもので、メッテルニヒーへの義憤のために命を投げ出す覚悟はついていたのかもしれない。もしかしたら、修也みたいに、損得勘定に反してがむしゃらに動いてしまっただけなのかもしれない。

 なんにせよ修也が、ケララを助けるという選択をしたのは、事実だった。

 黙り込んでしまう修也にケララは頭を振って「ごめんなさい。私……」と唇を噛む。俯いた少女はしばらく嗚咽を噛み殺そうと堪えていたが、やがて顔を上げると一言、「ありがとう」とだけ呟いた。その言葉に修也の緊張は少しだけほぐれ、自然と微笑んでいた。

 何でか分からない、『命がけで戦う』なんて突飛な行動に出た理由に、思い当たる物が一つだけ見つかった気がした。修也は少女に言う。

「助けなくていいなんて、言わないで。俺はビビりで弱いけど、君に呼ばれた時だけ……多分、少しだけ強くなれる」

 修也の言葉にケララは驚いて、無言のまま顔を背けた。うっすらと朱色に染まった彼女の頬に、臭いことを言っているという自覚した、修也も押し黙る。


 修也達を乗せた船は、大河の流れに揺られて彷徨う。一先ずの安心を噛み締めながら、一行はこれからの旅路を思い、その気を休めた。



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