6.決断
ニルギリーの制止を受けた後も、大和は村を離れて他の友人達を探すよう何度も提案したが、無闇やたらに動いて――メッテルニヒーの騎士達のような――危険に遭遇することを恐れた遥が、それを拒んだ。
ならず者と騎士の時の殺し合いを間近に見て萎縮したのだろうが、ノブも修也も彼女の意見が妥当だと思って同調した。少なくともニルギリー達は一行に危害を加える気はないようだし、彼らといるのが安全だと考える遥の打算は、間違いではないと思う。
森の中に飛ばされた仲間がまだいて、この村に流れ着くかもしれない、という可能性を期待したりもした。が、ケララやストライダーの人達が(多分食糧や、見回りのために)定期的に森や、修也が溺れたあの川に出かけて行っても、他の仲間たちを見つけてくることはなかった。
ノブ――坂本信幸の取り巻きだった、早坂海介と佐藤卓也。大和の大事な人である増岡真澄、遥の友人の一ノ瀬恵璃に、富谷利府斗。
あの時修也が深山美咲の机から見つけた、『ドリムナノグ 行き方』と記された儀式を試した時に教室にいて、未だ合流できていない者達。彼らはこのドリムナノグにいるのか、もしくは運よく向こうの世界に残ることが出来たのか――それさえも、修也達には知る由が無い。
正直な話、後者であってほしいと願う。もし同じようにこのドリムナノグに飛ばされていたなら、きっと修也達が体験したような事態に、遅かれ早かれ直面する――命を落としかねない、混沌とした事態に。
――あの戦いに巻き込まれた時、修也は死にかけたのだ。
強運によってその事態を乗り越えた彼には今、罪の意識だけが残った。人の命を手に掛けたという、罪の意識が。
様々な思惑が重なって、一向の行動力を削いでいる。結局、異世界――『ドリムナノグ』に来てから十日が過ぎても、修也達はニルギリーの村に残っていた。
あの戦い以来、ニルギリーとその配下の戦士達によって、修也とノブは剣の手ほどきをされていた。彼らがどうしてそんなことをするのかは分からないが、生きるために必要な力だと考えたのだろう、食事と睡眠以外の時間全てを割かれた訓練に、ノブは真剣な態度で臨んだ。
大和は最初の一日だけは一緒に剣を取ったが、次の日からはストライダーが狩猟につかっていた弓の訓練に打ち込み始め、あまり顔を合わせていない。遥はケララの手伝いでニルギリーや戦士の世話をすることもあったが、大抵はこの現実から逃避するかのように、あの夜拘束されたボロ小屋に篭もって一日を過ごしていた。
十日目の夜が明けて、その日も朝から修也はノブと一緒に剣を取り、訓練に赴く。未だに戦いの後の死臭が抜け切らない広場で、既にストライダーが剣を用意して待っていた。
指導は手の空いているストライダーが交代で行っている。今日はオーエン・コースターともう一人、初老のストライダーが二人の前にたち、試合――というよりは模擬戦とでもいうべきか――とにかく手ほどきをするのだ。
オーエンと試合う準備していた修也は、先に訓練を始めているノブの剣撃音に気を取られて、顔を上げた。
初老男性の振るう剣を受けるノブは、随分とたくましくなったように見える。 まだ初めて十日程度だが、寝食を惜しんで訓練したおかげか、「右ィ! 左ィ!」と気迫を叫ぶ初老の戦士の攻撃に、良く食らいついていた。
「よそ見をするな。自分の戦いに集中しなければ、すぐに命を落とす」
ノブの戦いに見惚れる修也を咎めたオーエンが、足元に長剣を投げる。金属らしい乾いた音を立てて転がったそれを、修也は気乗りしない足取りで拾った。
慣れないことで力が入り過ぎているのだろう、手は既に豆だらけだ。鉄の塊である剣を握りこむと、その重さもあってかひりひりと軋む。十日も振り回していれば少しは扱いに慣れそうなものだが、ノブの精進に反して修也の剣技は冴えないままだった。
「セェア!」
修也が刀を手に取った瞬間にオーエンが踏み込んできた。横なぎを見舞う彼の剣を慌てて受け止めると、接触した刃が甲高い音と共に火花を散らす。斬撃の重さに身体を持っていかれてよろめき、たまらずに数歩後ずさった修也は、オーエンの無表情な双眼を見て気圧されながらも、剣を構え直した。
修也が臨戦態勢を整えたのを意にも返さず、オーエンは果敢に斬り込んできた。必死に剣閃を受け止める修也は、一撃を受け止める度に両の手のしびれが増し、奥歯を噛み締める。
「足を使え」
そう言った声に振り替える。ふと見ると、いつの間にか広場に来ていたニルギリーが、修也達の鍛練の様子を見つめていた。
それに気づいた修也は、気を抜けば剣が手元から離れてしまうだろう衝撃を柄越しに感じながらも、ただ一方的にやられるのは嫌だと思い直していた。ニルギリーに、同時期に訓練を初めて頭角を現し始めているノブとの比較をされるのが、嫌だったのかもしれない。必死に反撃の糸口を探した修也は、上段から振り下ろされたオーエンの斬撃を受け止めると、全身の力を込めてそれを捌いた。
シィィ……ッ、と刀身が組み合ったまま擦れると、修也はそのままオーエンに肉薄しようと体を寄せる。「ぬ、ううん!」と気合を入れたストライダーは修也のそれを力任せに押し返すと、体重の差からか修也は容易く突き飛ばされて尻もちをついた。
思わず手元を離れた剣を慌ててとると、修也は数度地面を張ってから立ち上がり、構え直す。そんな彼を一瞥したオーエンは、
「筋は悪くないが、気概で損をしている」
と講釈を垂れた。
「剣を低く構えるな。相手に勝つという闘志を、切っ先に乗せて向けろ」
その言葉にすかさず構えを直しながらも、内心では戦うのが当たり前のこの世界で生き延びてきた熟練の戦士に、たかだか十日程度剣を振り回した自分の付け焼刃では敵うはずがない、と愚痴を噛み締める。
「それでいい。もう一度、かかってこい」
オーエンがそう言うと、もう一度剣を構え、斬りかかってきた。先の衝撃が残った手元にねじ込まれる剣撃の嵐は両の手に響いたが、修也は必死にそれを堪えた。
そんな訓練を昼時まで続けて汗くたになった修也は、食事も忘れて大の字に寝ころんでいた。四肢が完全に脱力して、目を瞑れば果てる様に眠れそうだなと感想が浮かんだ矢先、額に冷えた滴が落ちる。
「お水です。どうぞ」
ケララが木彫りの杯を二つ持って立っていた。
「あ、ありがとう」
呟いて、ゆっくりと上体を起こしそれを受け取る修也。
少女はそんな修也にフッと微笑して見せると、同じく訓練を中断して伸びているノブの方に小走り気味に向かって言った。少女の華奢な背中を見送りながら修也は水に口を付けると、土の匂いが染みた味が少し気になるものの、動かし続けて熱を溜めこんだ体に冷気が染みわたり、心地いい。
流れる死臭さえなければ、文明から切り離された牧歌的な場所ってだけなのに――。
そう思って溜息を吐く。
休憩のおかげで疲れた体に活力が満ちたのか、さっきまで気にならなかった周囲の声に神経が渡る。
「お体は?」
不安げな声に目を向けると、ニルギリーとオーエンが神妙な面持ちで話し込んでいるのを見つけた。中年のいかつい風貌に似合わない、優しげな――そして懸念の色を醸すオーエンの視線に、ニルギリーの体を気にかけているのだと分かる。
十日前のあの戦いでニルギリーが負傷していたことは、ここで過ごす日々のうちに修也も気づいていた。最近のニルギリーは目に見えて顔色が悪くなっており、館に篭もっていることも多い。この村のリーダー的立ち位置にいるニルギリーの不調は修也を不安にさせた。
そんな修也の視線に気づいたのだろう、ニルギリーはオーエンとの話を唐突に切り上げるとゆっくりと歩み寄ってきて彼の隣に立つ。
「お前の剣を見ていた」
「俺の?」
思わず聞き返すと、
「そう。迷いのある剣だ」
修也の顔を横目で見たニルギリーは少しだけ笑って、剣を振るうのは嫌か? と問いかける。立ち上がって肩を並べた修也は言葉を選び、
「覚えても、上手く使えるか分からない」
と今の胸中をぼやいた。
「俺たちの世界では、こんなことしなくても生きていけたんです。剣を振り回して戦う時代なんて、俺が生まれるずっとずっと前に終わっていたし。人を殺さなきゃ生き残れないような事態なんて、遭遇するはずなかったんだ」
「だから、あの黒騎士を刺したことを悔いている。そうだろう?」
ニルギリーの言葉に、ビクリと震える。
修也が殺した黒騎士――ニールス・ケプナーと言ったか。
一度しか聞いてないのに、頭を離れない名。彼の姿が脳裏にフラッシュバックして、胃の腑を押し上げた。そのプレッシャーに堪えるのに必死で、返す言葉が霧散する。
「ここでは、守りたいモノがあるのならば、人を殺めなければならない。メッテルニヒーが支配する前からそうだった。やつらの台頭もこの摂理にあやかり、行き過ぎた結果なのだろう。戦いはすれど、我らはそれを責めようとは思わない。このドリムナノグに生きる以上、ケプナー卿もそう思っているはずだ」
彼の物言いは淡々としていて硬質な物だが、何となく自分に気を使っている気がした。他者を思いやる気などなさそうなニルギリーからの気遣いをありがたいと思う一方、彼の理屈は戦いに生きる者の偏見でできていて、修也を安心させるには至らない。
相変わらず黙りこけた修也にニルギリーは続けた。
「あの時のお前はケララを助けようとした、と聞いている。事実か?」
ケララ・グリーン――ニルギリーがその名を出したからか、ノブに水を渡して談笑している、薄金色の髪に翡翠色の目をした少女を目で追ってしまう。そのまま修也は拗ねたような声で言った。
「助けたなんて大層な事じゃないんです。彼女を見捨てて逃げようとしてた。なのに、なんでか体が動いて」
「守るべき者を思えば、自ずと人はそう動く。罪の意識が拭えないなら、それも仕方あるまい。だが、その罪を恥だとは思うな。お前の行動で救われた者達がいる限り、その行いは決して間違いではないのだから。」
「間違いでは、ない……」
人を殺したことが間違いではない、ということも、修也には納得しがたい。彼の言葉にはやはり救われなかったが、修也の過ちがなければケララは今ここにいなかったもしれない。そう思うと、修也の心は揺れた。
最期に、ニルギリーが一言加える。
「ケララを救ってくれた事、感謝している」
それは率直に表現された、彼の本心に聞こえた。普段はそんな様見せないが、あの妖精みたいななりの少女を、彼は心の底から思っているのだろう。似ても似つかぬ二人に親子の絆みたいな物を感じて、修也は何の気なく聞いてみる。
「あの、ニルギリーとケララさんは、どういう……」
ギロとこちらに向けられたニルギリーの視線は鋭く、聞いては不味いことだったかと後悔した修也。よく考えれば、彼を『ニルギリー』なんて気安く呼べるほど親しくなかったのに。
怒られると思ったが、ストライダーの長は変わらぬトーンで「私は彼女に仕える者だ」と答えた。
「仕える?」
その表現に違和感を覚えた修也は思わず、聞き返す。
尊大な態度で構えるニルギリーに対して、ケララは物腰柔らかく、そしていつも忙しそうに動き回っている。その様子だけ見れば、むしろニルギリーに仕える小間使いがケララ、という方が合っていた。
「彼女は我らアダムスとは違う、高貴な者だ。異世界の客人には分からないだろうがな」
「高貴って……」
「やはり、分からぬか。彼女は『ウィーナス』だ」
少し考えて、その言葉を思い出す。この世界に住まう三つの種族で、確か権威と魔力を与えられた天空人、それが『ウィーナス』。起源人・アダムスに属するニルギリー達と身体的特徴に差異が見られるのは、彼女がウィーナスだったからなのか、と納得する。色白で華奢だが貧相な感じは無く、むしろ厳かな雰囲気さえ醸す彼女の『妖精』らしさは、彼女がドリムナノグに住まう者の中で、まさしく妖精に相当する亜人種だから――。
「メッテルニヒーによってアダムスの住まう地を追われたばかりの頃の話だ。天空人の領土へと落ち延びて、助力を求めた。すぐに彼らもメッテルニヒーに平伏したがな。その直前に、あるお方からケララを預けられた。いつかメッテルニヒーを退けた時、彼女が再興するドリムナノグの君主となるように」
「ある人?」
聞き返した修也に頷くだけで、ニルギリーは言及しなかったが、それがどういった地位にある者なのか察するのは容易かった。ケララは天空人の中でもやんごとなき身分の出、ということなのだろう。
「彼女はメッテルニヒーに対抗する我らにとって、希望のようなものだ。武力にものを言わせて支配権を主張する奴らに対し、天空人ウィーナスは神より――天の光ユムロスより権威を約束された者。ストライダーはならず者だが、彼女に有るべき玉座を取り戻すために戦うのなら、その意思に正当性を見いだせる」
「正当性?」
「ウィーナスの支配のために戦う。ストライダーの意義づけだ」
今現在、メッテルニヒーは三つの種族を統べ、従えているという話は修也も知っていた。そしてそれは、この世界に節理として存在した天空人の優位を揺るがしている。それはメッテルニヒーの支配を快く思わない者たちが彼らを糾弾する理由になりうるのだろう。
ジャンヌ・ダルク、というほど勇ましい物ではないが、要するにケララにはストライダー達の象徴として祭り上げる価値があるということだ。ニルギリーが先に見せた温情もそうした事情に寄るのだとすれば、修也は少し彼に失望した。
「彼女は、それを望んでいるんですか? メッテルニヒーを倒して、この世界を治める事を、望んでいる?」
ニルギリーの物言いに感じた違和感に後押しされて、修也はそれを口に出してしまう。われながら軽率だったとは思うが、彼にこの問いが応えられるのか気になった。
修也はこの世界の事をほとんど知らない。この森の中――と言っても大袈裟なくらい――せいぜい今いる村の周囲の事ぐらいしか知らないのだ。だからこのドリムナノグがどれぐらいの広さで、その全域支配しているメッテルニヒーがどれほどの脅威なのか、ドリムナノグを取り戻すことにどれほどの意味があるのか分からなかった。
ただ、修也がこの世界で初めて出会った少女は、あの戦いから隠れている時ずっと不安そうで、目を伏せたかったのだと思う。戦いを知らない世界から来た修也達と同じぐらい、ケララは戦闘を畏怖していた。そんな少女を戦いの象徴に駆り立ててのか、修也は確認したかった。
「彼女は、その役目を与えられて、ここにいる」
「彼女の気持ちを、考えないと。そんな役目を押し付けて――っ」
「違う。我々ではない。もっと大きな者が、彼女の運命を縛っている。この世界のあるべき秩序を取り戻すために」
答えたニルギリーは修也の方は見ず、ただケララの横顔だけを見つめていた。彼が言っている意味が分からない修也は、ただ彼が話を濁しているだけだと思った。さらに言及しようとしてニルギリーを見た修也の言葉は、
――突如飛び込んできた馬の嘶きに、かき消された。
「――――ニ、ニルギリー!」
足元の土を巻き上げて急停止した馬から、転げ落ちるように降り叫んだ男。その顔は、ぼんやりとだが見覚えがあった。先の戦いで生き残ったストライダーの一人で、ニルギリーの命令を受けて斥候に出て行った男だ。
ニルギリーを見て一目散に駆けだしたその男は、呼気の整わぬまま言葉を続ける。
「『止まり木』から、騎士達が出た。この集落を目指して真っ直ぐ向かっている!」
男の言葉の意味は、修也にもすぐに分かった。メッテルニヒーの騎士達が、再度ここに攻め込もうとしているのだ。ここにいるストライダーの数はあの時の半数以下で、とてもじゃないが持ちこたえられない。
そう直感した修也は同時に、ニルギリーが修也達に武芸の手ほどきをした理由についても想像が出来て、戦慄した。ドッと沸きだした嫌な汗に蒸れながら、修也は報告を聞いたニルギリーを見る。
「皆を館に集めろ。急げ」
相変わらず感情の読めない声で彼はオーエンに指図をすると、一足先に館に戻っていった。彼の背から感じる負のオーラから、これから起こる事態は他人事ではないと固唾を呑み、修也はこの場にいない仲間――大和と遥を呼び集めなければならない、と直感した。
前に入った時と同様に、小さな窓から入る陽光と暖炉の炎以外まともな明かりの無いニルギリーの館は、昼時でも薄暗かった。不自然な赤い光に照らされながら修也達異世界から来た一行と、オーエンたち僅かなストライダーの生き残りがニルギリーを囲む。その総員は、十五人にも満たない。
「『止まり木』まで行ってきた。あの黒騎士が五十人の騎兵を引きつれて出発するのを見たよ。足の遅い『大足』や歩兵は連れていなかったから、早ければ今晩中には、この村にたどり着く」
焦燥の混じった声で、斥候に出たストライダーが説明した。
今夜再びあの惨劇が起こる、と思い出して、修也は汗ばむ手に力が篭もる。しかも今度は、自分たちも戦わなければならないのかもしれない。今にも泣きそうな声で「また、殺し合いが始まるの?」と呻いた遥の言葉に、応える者はいなかった。
暫しの沈黙が続き――、やがて「潮時だな」と口にしたニルギリーはゆっくりと立ち上がり、部屋の一角――おそらくは長らく使っていないのだろう埃にまみれた木製の机に向かうと、黄ばんだ一枚の紙を引っ張り出して持ってくる。
修也達の知っている製紙とは違う、おそらくは羊皮紙のようなものであろうそれには、見慣れない形の陸地に、解読不能の言語が書かれている。おそらくは、地図――――このドリムナノグの地理を細かに記したものだ。
修也達の方をギロリと見たニルギリーは、地図を広げながら問うた。
「お前達は異邦人だ。このドリムナノグから、自分達の故郷に帰るのが目的。そうだな?」
ノブや大和、遥に認識の相違がないことを確かめてから、修也は頷く。
「お前達はウィーナスの詩に導かれてこの世界に来た。間違いないな?」
「あの、ドリムナノグを謳っている文言がそうならば、間違いない、と思う」
修也が応えると、ニルギリーは「よし」と短く応えて修也達に地図を見る様に促すと、地図の下反面、うっそうと茂る木々を描いた場所を指して言った。
「我々が今いるのは、ここだ。『ストラドの森』と、メッテルニヒーどもは呼んでいる。お前達は天空人の、ウィーナスの地を目指せ―――ここに」
スッ、と、森を指した指を上方に滑らせていく。地図の上の方、描かれている陸地の中の、端の端。山と、雲ばかり描かれた地を指して彼は続ける。
「遥か北の地だ。アダムスの住まうオルディネール平原、モーロクの根城マオルブルフ山脈を越えた所に、ウィーナスの天宮はある。クルエフロワの霊峰に作られた天空都市だ」
「そこに行けば、何がある? 俺たちは元の世界に帰れるのか?」
大和が進み出てニルギリーを見た。彼は「分からん」と即答するが、続けてこうも言った。
「だが、お前たちを導いたものがウィーナスの詩ならば、ここに留まるより遥かに希望がある。それとも、残って我々と共に戦うか?」
彼はそう言って皮肉っぽい笑みを浮かべた。大和が何も言わないで引き下がるのを確認した彼は、次にケララの方を見た。
「お前も、彼らと共に行け」
その言葉に修也達と――そして何より、ケララ本人が驚愕して言った。
「どうして? ニルギリー。あなたは、私と一緒に……」
彼女が言い切る前に、ストライダーの一人がニルギリーに意を唱える。
「素性の知れない者に、ケララを預けるなんて。乱心したのですか? ニルギリー」
「もう俺たちはおしまいだ。だが、彼女は生き残らなければならない。こいつらはウィーナスの地に行く理由がある。そしてケララも、ここを失えば、行くあては一つしかあるまい。利害の一致ではないか。我らがここで果てる以上、誰かが彼女を連れ出さなければなるまい」
「しかし――ッ」
「無論この者達にだけ任せるわけではない。オーエン、お前もケララに付いていき、彼女を護って欲しい。彼らと最後まであって、故郷に戻るのもいい。別のストライダー達と合流し、戦い続けるのもいいだろう。彼女の好きにさせろ」
オーエンは無言のままだった。彼も含めてストライダー達の中で納得できた者は、ほとんどいないだろう。そして、ケララもまた叫ぶ。
「いや、いやっ! 一緒に、村を捨てて皆一緒に逃げれば……」
縋るような、少女の言葉。それに応える代わりに、ニルギリーは腹部を片手で抑えて見せると「あの時、『大足』に突かれた。深手だ」と静かに言った。
「村がもぬけの殻なら、奴らはすぐに周辺を探し、追ってくるだろう。誰かが残り、戦わなければならない。共に行ったとしても、俺のこの怪我では足手まといにしかならん。ここで奴らを迎え撃った方が『ストライダー』の性分に合ってる」
ニルギリーは少女の返事を待たずにオーエンに地図を丸めて渡すと、「時間は無い。すぐに支度させろ」そして残りのストライダーに「お前達には最後まで付き合ってもらう。いいな?」と、それぞれ支持を出す。
気合いの入った雄叫びで応じた、十人にも満たない戦士達。その喧噪の中、オーエン暖炉の明かりに照らされたニルギリーの瞳をジッと見つめ、呟いた。
「隊長……御武運を。」
聞こえなかったのか、敢えて答えなかったのかは分からない。ニルギリーはすくと立ち上がって「支度を始めろ」と号令を掛けて、その場にいる者達を解散させた。
修也たちに選択の余地はなかった。
日が落ちるまでまだ時間はあるが、旅支度は手早く済まさなければならない。村に残っていた資材の中から最低限の食料と寝具、そして護身用の武具を持ち出すことが許された。
大和は、散々練習していたから自信もあるのだろう、単一の木材でできた大弓と矢筒、そして小さな短剣を手に取った。昔何かの本で、『長弓を引くにはかなりの腕力が必要』と読んだ気がした。大和がこの十日でその域に達しているのか甚だ疑問であったが、彼が弦を目いっぱい引っ張って見せたのに納得する。大和といいノブと言い、十日程度の修業で最低限の戦力を習得している。もとより才能が有ったのか、それともサバイバル環境において火事場の馬鹿力がそうさせたのか――。
そんな二人に比べて自分の技量が習熟していないと感じてしまった修也は、訳も無く武器を選ぶのに手間取ってしまう。
ノブは訓練で用いていた者とよく似た幅広の両刃剣に、木製の丸い小盾を取った。武器を選んだ彼は広場で戦いに備えているストライダー達の元に駆け足で向かうと、自分に武芸の指南をした戦士達に律儀に挨拶をしている。本当に、学校ではノリの軽さばかり目立っていた彼の、意外な一面である。
「修也くん、早くしてよッ。またあいつらが来るっていうんだから。巻き込まれる前にここを出ないと」
掃除の時に皆を鼓舞したあのイントネーションで、遥が修也を呼びつけた。喜ぶべきか悲しむべきか、彼女はあれから全く変わっていないらしい。
ごめん、すぐに決めるから、と外面で謝りつつも、彼女の自己中心的な物言いに内心やさぐれた。彼女は武器も持たないんだから、寝具だのなんだのを多めに持ってくれてもいいだろうに。修也達とケララを合わせて、きっかり五等分で分担させている。それで自分は地図を広げてリーダーを名乗るのだから、強かなものだ。
胸中で悪態を突きながらも武器を選んだ修也だが、どうにもしっくり来る物が思いつかない。教わったのは剣の基本的な扱いだけなのだから、ノブみたくいつも振るっているようなモノを選べばいいのに、どうしてかそれでは気乗りしないのだ。
「シュウヤ、といったか」
武器蔵の中で一人唸っていた彼は、突然に名を呼ばれて振り返る。入口からニルギリーが緩い足取りで入ってきて、神妙な面持ちを向ける。
「ケララを、守ってくれるか? 俺の希望を」
その言葉の意図が分からず、修也は無言のまま見返した。
『ストライダー』達の希望を護れ、というのなら、それに応えられる自信はなかった。彼女を祭り上げて戦争をするのは、違和感があるから。
そして何より修也が優先するのは、この世界から、皆で帰還することだから――生き残ることだから。
しかし彼の真摯な眼差しに、打算は感じられないように見える。ただ純粋にケララの無事を託しているように思えた。無碍にしてはならない思いが圧し掛かって、修也の体は、勝手に頷いていた。
「感謝する」
修也の反応に満足したように、歯を見せて笑ったニルギリーは、腰に巻きついていたベルトを外して、それに伴う長剣を差し出した。
ケララの素肌を思わせる、白銀色の長剣。それを無言のまま受け取った修也は、(お前の物だ、抜いてみろ)と頷くニルギリーに従い、その鞘を払った。
「ケララを預かった時に、天空人から受け取った剣だ。ユムロスの光で鍛えられた『精霊火の剣』。彼女を守ると誓ったお前が持つべきだ」
柄や鍔に余計な装飾の無いその剣は他の剣より若干細長く、光を受けて全身を煌めかせる様は純白の十字架にも見える。刀身には深山美咲のルーズリーフ――『ドリムナノグの転移陣』の周りに掛かれていた物と似た象形文字が彫られていた。
「天空人の地・クルエフロワへの道のりは遠く、長い。地底人や起源人の領土を横断することになる。メッテルニヒーの騎士達はもちろん、ほかにも多くの危険があるだろう。唯でさえお前達異邦人は目立つが、それに加えてケララ――天空人は珍しい。極力無駄な争いはするな。影のように歩いて、人目から身を隠せ。無事に天空都市にたどり着けば、きっとお前達にも吉報がある。逸れた仲間たちも見つかるはずだ。」
ニルギリーは、修也の背に手を回すと、行け、とそれを押した。言われるがままに蔵を出ると、表には大和にノブ、遥と言った面々と、共に旅路を行く戦士オーエン・コースター、そして、ケララ・グリーンが待っていた。
「ニルギリー……ありがとう」
修也が振り返ってそう言うと、大和とノブ、遥も申し訳程度に頭を下げた。
そして、ケララ。
ウィーナスの少女はニルギリーの元に駆け寄ったが、そのまま彼に掛ける言葉を探すように俯いてしまう。
ニルギリーは少しの間少女の言葉を待っていたが、やがて瞳を閉じると、彼女に促した。
「行け」
呼気に合わせて吹いただけの、小さな声。ニルギリーのその声に突き放されてしまったかのように、少女はとぼとぼと戻ってくる。
「行きましょう。メッテルニヒーの騎士は、もうそばに来てるかもしれない」
そう慰めてケララの肩を抱いたオーエンは「お前達も。さあ」と修也達に号令を掛けた。合わせたわけではなかったが、結果的にその言葉が号令となって修也達は歩き出す。
ドリムナノグに来て十日が過ぎ、ようやく修也達はこの森から一歩を踏み出す事になった。それが果たしてどんな結果を招きだすのか、想像もつかない。この世界に行くきっかけとなった、そして自身もこの異世界に赴いたのだろう少女、深山美咲――修也は顔すらも知らないその少女だが、ちゃんと向こうの世界で入院しているのだから、戻る方法が無いわけではないのだろう。
意識不明で入院していると言うから、仮に元の世界に戻れたとしても、修也達がそうなってしまう可能性はある。それでも今は、歩き出すこと以外に方法はなかった。
修也と大和、ノブ、遥。四人の放流者は、オーエン・コースターとケララ・グリーン。二人の付き添いの下、死臭が漂うストライダーの村を後にした。
既に日は、傾き始めていた。