4.異世界
少女の澄んだ声で、この世界のあらましは語られた。
一つの光・ユムロスが生み出したこの世界――彼女たちはそれを『ドリムナノグ』と呼んだ。
そこには、三つの人型種族が生きているのだという。
一つはドリムナノグに住まう人種の祖となった、この世界で最も人口の多い人型種族、そして修也達を今現在捕えているニルギリー達が属する種族でもある、『起源人』――アダムス。
もう一つは炎と鋼を愛し、光の届かぬ洞穴にねぐらを持つ『地底人』――モーロク。
そして三つ目がユムロスの光より権威と、光の魔法を操る叡智を与えられた、高等種族『天空人』――ウィーナスである。
これら三つの種族はドリムナノグの中でそれぞれの領土を持ち、他種族に干渉するのも、されるのも避けながら、数千年にわたり生きてきた。
(……ユムロスの民の元に、それはある。始まりの民アダムスは、精霊アルファイの導くオルディネール平原へ。地の恵みに貪欲なモーロク達には、マオルブルフの炎の山を。神の子であるウィーナスにはクルエフロワの銀の空が、それぞれ与えられている。ユムロスの民は、ドリムナノグに集う、か……)
今度はすらすらと思い出すことができた儀式の文言を、修也は脳内で唱えた。
ケララの話を聞いて分かった。この文言は異世界・ドリムナノグに生きる三つの種族と、それぞれが治める領土を謳っているのだ。
「でも、もう幾年か前になります。このドリムナノグで恒久的に保たれてきた、相互不干渉の『暗黙の了解』が、突然に破壊された。『メッテルニヒー帝国』の台頭で」
この世界に来てから、既に幾度か聞いた名――修也がドリムナノグに来るために唱えた文言にないその名を口にして、ケララの表情が少し曇るのが分かった。現在自分達の置かれた状況にも密接に関係しているだろうその名に、大和とノブ、遥までケララの方に目を向ける。
「なんなんだ、その、メッテルニヒーってのは」
大和が神妙な面持ちでケララに促す。
「メッテルニヒー家は、起源人の貴族なんです。数年前、彼らの当主となった男――名前も分かりませんが、『皇帝』と呼ばれています。その人が、起源人の住まう『オルディネール平原』の全域を掌握してしまった。それがきっかけになって、今度は天空人、地底人の住まう地を手に入れるため戦争を始めたんです」
ケララの説明に修也は違和感を覚える。たった一つの種族が統一されただけで、残りの種族へと侵略が始まるようなら、彼女の語るような三種族間の恒久的拮抗など為し得るはずがないと、そう思えた。
その疑問に答えるかのように、少女は言葉を続けた。
「彼らは本来起源人が持ちえない、妖術の力を用いました。屍肉を紡いで作った不死の『ホラー』達――その軍隊で、残り二つの種族を攻撃したんです。そして今は、このドリムナノグ全域を支配している。全てを手に入れたメッテルニヒーの皇帝は、三つの民族の持つ叡智や資産の全てを用いて、暴虐の限りを尽くしていて……今は彼らに滅ぼされたアダムス貴族のわずかな生き残りが、各地で抵抗を続けているだけです。ニルギリー、――ううん、私達もそう。メッテルニヒーの支配から解放されて、かつての秩序が取り戻される事を望む『ストライダー』です」
ケララの話は、そこで一区切りされた。
全てを理解した、とまでは行かないが、少なくとも彼らが修也達不詳の訪問者に、過度な警戒を持つ理由は分かった。彼らは『レジスタンス』や『ゲリラ』と呼称するべき者であり、アダムスの住まうべき平原ではない場所――森の奥深く存在するこの集落は、村ではなく彼らの『隠れ家』ということになる。修也が初めてここに住まう者たちを見た時に感じた野蛮さも、そう考えれば納得のできる話であった。
「私は、シューヤ達が本当にドリムナノグの外から来たのかどうかは分からないです。でもメッテルニヒーの騎士や、ホラーには見えないから……。今この周囲には、メッテルニヒーの騎士の一団がうろついています。それがいなくなれば、きっとニルギリーも皆さんの話に耳を傾けると思う。だから――」
「それまでは大人しくしていろ、と?」
少女の言葉を大和が遮った。「悪いが、そんな悠長にはしてられない」と宣言した彼の硬質な物言いに、少女は口を噤む。
「俺たちの友達が、他にもこの世界に来ているんだ。近くにいるかもしれないし、遠くに――起源人とは違う、残りの種族の元にいるのかも分からない。みんなこの世界については何も知らない。もし君の言うメッテルニヒーの騎士達のような、情けの無い者達に捕まったら、きっと殺されてしまう。そうなる前に、早く見つけ出さなきゃならないんだ」
真澄の事が脳裏を過ぎったのか、後半の言葉には必要以上の熱が宿っていた。背に回され縛られた両の手をピクと動かすと、「コイツを解いてくれ。行かなきゃ」とケララに促す。
「でも……」
戸惑ったケララの代わりに、ギギッ、と軋んだ館の扉の解放音が大和に応えた。
ニルギリーとも、修也をここに連れてきた門番達とも違う戦士が、四人。修也達の前に立つと、その襟元を掴んでは「立て」と命令し無理やりに引っ張る。
「ここはニルギリーの館だ。貴様らの寝床は別にある」
うち一人が発した言葉を合図に、四人は引っ張られて、異臭を孕んだ外の夜風に晒された。
何もできずにそれを見守ったケララに「助けてくれ!」と叫んだのはノブだった。彼を皮切りに、遥、大和も少女に向かって悲痛な叫びをあげる。
「そうよ! 私達を助けてッ!」
「行かせてくれ、真澄を、真澄を助けるんだ――ッ!」
その言葉に少女が応えられないだろうということは、修也にも容易く想像が付いた。
「ガァガァ鳴くな、カラス共が!」
戦士達の一喝に三人の要請はかき消されて、集落の一角にある、使われていないのだろう小さな小屋の中に突き飛ばされる。
無造作に撒かれた藁のクッションの上に次々と投げ出された一行は、
「大人しくしていればやがて解放される……貴様らがメッテルニヒーの手先でないと分かれば、な」
と、発せられた聞き覚えのある声に顔を上げると――、
戦士達をかき分けて現れたニルギリーが、四人を見下ろしていた。
館にいた時には身に着けていなかった白銀色の長剣が、ベルトに引っかかって揺れている。他の男達の備える土と手垢に汚れた剣たちとは違い、夜の暗がりに有ってなお眩しいその剣の柄は、蛮人たるニルギリーの佩剣にしてはアンマッチな物に思えた。その違和感は、ここに住まう戦士達と少女ケララを対比した時に感じたものに似ている。
「行かせてくださいッ! 俺たちも守らなければならないんです! そのメッテルニヒーから、ここにいない逸れた仲間をッ!」
修也の感慨を余所に、無理やりに上体を起こした大和がそう叫ぶが、ニルギリーは顔色一つ変えず、言葉も返さない。
暖簾に腕押し――という表現でも生ぬるい、触れることさえ適わぬような、突き放された態度。焦燥に狩られるままに大和が続けざまの言葉を発そうとした、その直後だった。
「――ッ!」
異変の予兆は、藁のクッション越しに感じる微振動だった。
遠くから徐々に近づいてくる地鳴りに気づいた修也は、同じく変化に気づいて振り返るニルギリーを見た。
一人の戦士がニルギリーに駆け寄ったのが見えた。彼は鼻の上に汗を滲ませて、早口にこう伝える。
「メッテルニヒーの騎士どもです。こちらに来ます」
その言葉に、初めてニルギリーが動揺するのを見た。
落ち窪んだ眼孔に光る切れ長の目が、一瞬死んだように固まる。「……そうか」と短く応え、少しの間どこを見るのでもない呆けた視線を見せたニルギリーは、おもむろに腰の長剣に手を掛ける。
甲高い金属音の後、柄と同じ白銀の刀身が煌めいた。スラリと伸びた銀色の刃を肩に乗せ、
「皆を集めろ。いつでもやれるようにしておけ。……それと、ケララをここに」
そう言った後、ニルギリーは戦士を引きつれて小屋に背を向けると、その戸口を乱暴に閉めた。
外の明かりが遮断されて、視界は完全に暗転した。徐々に近づいてくる、メッテルニヒーの騎士達――その馬が地を蹴る音だけが響く小屋の中。沈黙に耐え兼ねるように、
「アイツら、メッテルニヒーが来るって言ったよな」
ノブが震える声で言った。
「こいつら、戦いを始める気なのか。騎士達と」
そう言葉を返したのは大和である。遥は――小屋の奥に丸まっているのだろう、ガチガチと歯を鳴らす音だけがその存在を伝えていた。
ケララの話だと、ここにいる者達はメッテルニヒー達に反逆する『ストライダー』だ。それが『メッテルニヒーの騎士』と遭遇しようというのなら、これから戦いが起こるであろう可能性は高い。修也も緊張と恐怖に早まった鼓動がドクドクと脈打つのを感じ、生唾を呑んだ。
何が起ころうとしている、と胸中で湧いた疑問は、やがて好奇心に変わる。自分でもどうしてそうしたのか分からないが、修也は身を捩って小屋の入口に頭を向けた。立てつけの悪い戸口の小さな隙間から外の明かりが漏れているのを見つけて、そこに片方の目を押し当てる。
広場に終結する戦士達の姿と、彼らの戦闘に立ったニルギリーが見えた。皆一様に剣や槍を引き抜き構えたその絵面に、まるで横隔膜が底から突きあげられるような緊張を味わった修也は、直後その隙間の前に立った薄黄色の布に視界を阻まれる。
それが衣服の一部だと察し、誰か来た、と理解した直後、勢いよく戸口が開けられと――、
ケララが、そこに立っていた。
「メッテルニヒーが来ます。絶対に、ここから出ないで」
少女はそう言うと、小屋の中に入り戸を閉める。
なるほど彼女はどう見ても戦いで役に立てるような戦士ではないから、一緒にここで隠れるというわけか、と納得した修也は、
「この状態で、出られるわけない」
という、不貞腐れたような大和の声を聞いた。
少女は気まずそうに大和から視線を外すと、彼から少し距離のある、小屋の入口付近で座り込む。
修也の隣に座りこんだ少女の体臭が鼻孔をくすぐる。この村や、そこに住まう戦士のそれとは違い、植物や、花の匂いに似ている清潔な匂いだ。五人もの人間が詰め込まれた小屋は暑苦しかったが、隣に座った少女の香りと体温が心地よく、修也の緊張は少し和らいだ。
――直後、ドゴッ! という轟音が響いて、木製のぼろ小屋を軋ませる。
再び戸口の隙間に視線をやると、集落の入口、閉ざされた門が蹴破られ、幾頭もの馬たちと――それに跨った騎士達が、ニルギリー達戦士の前に現れるのを見た。
――メッテルニヒーの一団が、やって来たのだ。
事の次第を理解した修也の心臓は、胸板を突き破ってしまうのではないかと思えるほど激しく鳴った。
馬たちの荒い呼吸が、小屋の中にいても聞こえてきそうだった。
ニルギリー達の眼前に制止して足踏みをする真っ黒の馬達の上には、鎖帷子の上に、彼らの馬の体色と同じ漆黒のシクラスを纏った騎士が跨っている。
それが、十と数騎。
正直「思ったほどの数ではない」と感想を漏らした修也は、それに相対するニルギリー達を見た。
正面に集まった戦士達は三十人を超える。馬上にいるかの違いはあるが、数だけならストライダー側の方が多く、また既に臨戦態勢にある戦士達は、獣の群れの如き獰猛さを滲ませていた。
その獣の先頭に立つニルギリーが、騎士達の前に進み出る。
馬上に立ち並んだ黒騎士達を一瞥した蛮族の長は、硬質な口調で言った。
「ここは俺たちの村だ。見ての通り、荒くれ者しかいなくてな。高潔なメッテルニヒーの騎士に貢げるような物は何もないが、歓迎の宴をご所望なら、できる限りのもてなしをしよう」
その言葉に、彼の後ろに控えた戦士達が剣を構え直し、臨戦態勢を取る。慌てて黒騎士達が剣を抜き放ち、鞘走りの硬質な音が何重にも重なった。
始まるのか、と修也の緊張が一層高まるのに反して、戦士達は未だ構えたまま動かない。
騎士達の中から二騎が進み出てニルギリーの前に立った。
他のメッテルニヒーの騎士達と違い、彼らが身に纏っているのは修也達現代人の目から見ても違和感の少ない、黒いコートだった。それだけではなく、馬具や腰に佩びた剣、盾も他の騎士より小奇麗な物に見える。
「ネルー大公、カイゼル・フリード」
うち一人が、そう名乗った。細かな風貌はよく見てとれないが、若い男だ。他の騎士達と違い、鎖帷子の頭巾も兜もしていなく、月明かりに照らされた長めの髪の毛はニルギリーと比べて明るく、金色に近い。
「ネルーの、フリード卿。そんな大仰な大貴族様がなぜ、このような辺境の地に?」
剣を担いだままワザとらしく頭を下げたニルギリーに、「友人と狩りに興じていた所だ」と答えたメッテルニヒーのフリード卿は、共に進み出たもう一人の騎士を見て笑った。
棘のある物言いで、馬上のフリード卿はニルギリーを見下す。
「陛下に仇なす、不遜な獣を狩りに。それにしても、森に住む起源人の村とは珍しい。荒くれの長。我々は普通、平地に生きる者だろう? 例えば、『ストライダー』などというような逸れ者でもない限り」
「我々が、ストライダーだと? ネルーのフリード卿は夜目が利かないらしい。ストライダーは貴族の落ちぶれ者だ。ここに集った者どもに、そんなやんごとなきお方がいるように思うか?」
ニルギリーの芝居がかった言い方に、後ろの戦士達が豪快な笑い声を上げる。フリード卿もそれに合わせて、小さく笑ったが、彼の横に立ったもう一人は癇癪を起こして声を荒げた。
「随分と小奇麗な剣を持っているな、蛮族め!」
ニルギリーは手にした白銀色の長剣を眺めると、「ああ、これか」と喘ぎ、
「拾ったものだ」
そう言ってもう一人の騎士を睨み返した。
「血蝿の集る、死者の山から。ストライダーの持ち物と見紛う物ならば、金目の物だろうな。我ら蛮人の手には、どうにも馴染まないと思ってはいたが」
そうぼやいて、手にした剣を幾度か振るって見せる。一閃、二閃――重ねる度に剣速が上がって、風を切る鋭い音が舞った。殺気が霧散するのが分かったのか、騎士の馬は嘶きの声を上げて数歩後ずさり、馬上の男を揺さぶる。
「馴染まなさすぎて、過ちが起こるかもしれない。たとえば、そうだな……口うるさい騎士殿の頭を跳ね落とすかもしれんぞ」
ギラりと、ニルギリーの眼光が煌めいた。「貴様っ!」と剣を引き抜こうとした騎士の男に、フリード卿が手をかざしてそれを制し、
「いいさ、ニールス。夜分の無礼をしたのは我々なんだから、彼の気が立つのは分かる。これで失礼しよう」
彼はニルギリーに無礼を詫びると、騎士たちに後退するよう合図を送る。
カイゼルの馬が尻を向けるのに合わせて、後ろに控えていたメッテルニヒーの騎士達も回れ右をすると、村を後にするべく走り出した。
「また会おう、『ストライダー』」
声を掛けたフリードの馬が走り去るのを、ニルギリーは無言のまま睨み続けた。
馬の嘶きと共に、騎士達が地を駆けはじめて地鳴りが上がる。
その音がだんだんと小さくなっていくと、修也の緊張の糸も徐々に和らいでいった。事態の収束を察したノブが、「行ったのか? 戦いは、なかったのか?」と不安げに問う。
構えた武器を降ろしながら、戦士達が解散しようとするのを見て、その問いに頷けると思った修也は、隙間から目を離して皆に振り返ろうとした。
その時だった。
――――シュ、という甲高い音が、戦士達の、そして修也の安堵を裂いて――、直後、人を穿つ鈍い音が鳴った。
慌てて修也が戸口の隙間に視線を戻すと、表に出ている者達はまるで時が止まったかのように固まって、一人の戦士を見つめていた。
ストライダー達の視線を一身に集めたその一人に違和感を覚えて、修也が目を凝らす。呆然と屹立したその戦士の後頭部からは木製の細い棒が突き刺さり、顔面の中央部――鼻先から鉄製の、鋭い矢じりが飛び出していた。
数秒、まるで何が起こったのか分からないかのように呆けていたその戦士は、やがて一歩足を踏み出したかと思うと、ドシャと土に肉体を放り出して――死んだ。
そう、死んだのだ。
目の前で起こった現象に、修也は一瞬呼吸することさえ忘れた。響き渡ったニルギリーの叫び声、「来るぞォーッ!」という警鐘の雄叫びに、戦士達が臨戦態勢を取るのが分かって、ようやく修也は事態を理解する。
ボン、と何かが爆発するかのような轟音が響き渡って、小屋を軋ませた。
遥が甲高い悲鳴を上げると同時に、戸口の隙間から修也が見たのは、巨大な何かが村の囲いを突き破ってなだれ込む様だった。
四、五メートルほどの背丈を持つそれは、四足で歩くが馬ではない。灰色の皮膚は凹凸の浅い象皮で、毛は生えていなかった。鼻先に大岩の如き硬質な角を持つ顔はサイに似ていて、既にその角先に一人のストライダーを突き刺して血化粧をしている。
「『大足』だッ!」
戦士の中の誰かが、そう叫んだ。
獣は背に櫓を積んでおり、そこから弓を弾く兵士がストライダーの戦士達を狙い、射抜いていく。蜂の巣をつついたような混乱に襲われる戦士達の絶叫――それに呼応したかの如く、サイが突き破った門からが突っ込んでくる者たちがあった。
メッテルニヒーの黒騎士達。撤退のそぶりを見せて油断を誘った彼らの策略は見事に功を成し、ストライダーは不意の事態に惑い、断末魔の悲鳴を重ねた。