3.出会い
――微睡、とでも言うべき感覚の中にいると、修也は理解した。
視界は暗転し何も写らず、耳道はまるでそれ自体が無くなってしまったかのように、感覚がない。
完全な虚無の中に、意識が押しとどめられたかのような状態――時間の流れすら分からないのに、そこにあるのは不安ではなく休息感だった。孤立した意識に暗転した視覚、そして神経の行き届かぬ他の四感の全てが、その髄まで弛緩しているのが分かる。ずっとこうしていたい、と思う安心感は、きっと目が覚めたら忘れてしまうのだろう。
忘れぬ様、しっかりと記憶しておきたい――この感覚に立ち入れぬ『目の覚めた自分』が、その幸福に焦がれる事ができるように。
『思考』が利いてない中、そう決意したのは修也の『本能』だろうか――なんでも良かった。感覚を味わう、思考以外の自分。その正体の探究に傾倒して、この感覚を無碍にしたくない。
その決意の矢先だった――無明から全身を浮き上がらせる不快感が、彼を襲ったのは。
ボチャン、と言う鈍い音に聴覚が蘇ったかと思うと、そこを不慣れな存在がくすぐった。聴覚だけではない。体全体を馴染みの無い何かが包み込んでいる。体の持つ熱に反逆する、『凍てつく冷たさ』を宿したそれの正体――さっきまでとは違う、手足の自由を『奪われた』、嫌な感覚。
――起きろ!
蘇った意識の鳴らす警鐘に全身が覚醒すると、思った通り修也は水の中にいた。
高所から落ちたのだろう、水面から随分と離れた所にいる、と、冷水の染み入る両の目で確認した修也は、無我夢中で両の手足をバタつかせた。
水面に煌めく日差しの高さと鼻孔を侵略する水の生臭さが、ここが川や池のような――自然の水所であると伝えてくれる。何が起こった? 一体どうしてこんな所に? 悲観に暮れる意識の叫びを無視し、とにかく水面を目指してもがいたが、水を吸って重くなった学生服がその動きを鈍らせる。
――息が、持たない。
無理だ、死ぬ、と諦めかけた時だった。
力なく痙攣した右手首を誰かの手に掴みとられ、引っ張られる。絡みついたそれの体温はけっして高くはないが、全身を包んだ冷水達と違い、修也の「生」を肯定する熱があった。
助ける手があるなら、これに縋れ、と最後の意識が叫び、修也はその手を力強く握り返す。
グイと引っ張り上げる手は、必死なのだろう、修也の手首に爪を立てながら思い切り力んだ。一気に水面が近づいたかと思うと、修也も必死に体を仰ぎ、――ついには頭から水面を突き破っていた。
「ブァハッ!」
止まりかけた呼吸を取り戻すように嗚咽を上げた修也に、「つかまって! 舟に!」と叫ぶ声があった。
女の声、と理解したが、水を吸って張り付いた前髪と、瞳孔を刺す日差しに遮られて、その姿は見えない。右手首を繋ぎとめた何者かの手だけを便りに修也は小舟を見つけると、最後の力で身を持ち上げその中になだれ込んだ。
新たに人間一人分の体重を受け止めた木製のボートが激しく揺れると、「きゃっ」という女の短い悲鳴が聞こえた。水に侵された全身の制動権をむしり取るかのように激しく咳き込んだ修也は、ひとまず落ち着くと前髪をたくし上げて辺りを見回す。
さっきまでの自分は、眠っていたのか? なぜ川に落ちた? 思い出せ。意識が途切れる以前、彼がいたのは高校の教室だったはずだ。確か、当番の掃除が終わって、それから――何が起きた?
「なんだここ……なんだここッ!」
眼前に広がるのは、さっきまで自分が沈んでいた川。澄んだ水の広がるその先――川岸を探した修也は、目先に鎮座した大自然に息を呑んだ。
『森』――だが、違和感がある。日本でよく見る雑木林とは印象の違う、背の低い木や植物の下ばえが極端に少ない小奇麗な森林が、見果てぬ先まで埋め尽くしていた。肌を裂く湿気の気にならない冷風も、今朝登校した時に浴びた風とは『違う』と思わせる何かがあった。
まるで海外にでも来てしまったかのような景色の剥離に、修也は戸惑い――そして一つの言葉が脳裏に弾けて、彼を硬直させた。
――異世界に行く、儀式を試した。
混乱する頭の中から見つけた記憶の断片に、修也は言葉を失う。
今現在、ギッ、ギッ、と軋む小舟の上に、修也はいる。高校も、クラスメイト達も、みんな無くなっていた。唯一同じなのは身に纏っている学生服だが、水を吸ってずしりと重い――馴染み無い違和感が染みている。
「嘘だろ……嘘だろぉッ!」
自分の声とは思えない、焦燥の滲んだ叫び声が木霊した。
本当に異世界に来てしまったのだ。
訳も分からなくなって、獣の叫びに似た慟哭だけが横隔膜から突きあがった。
「ウっ……ウワァアアアッッ! ア、アッー! ゥゥワァッハッハーンッ!」
自分の中にどこか他人行儀な理性が残っていて、間抜けな様だ、止めろ、と、響き渡る自身の泣き声を制止しようとする。
放っておけ、どうせここには俺以外いないんだ――と自答して、修也は尚も泣き喚いた。
すると、
「……あの、大丈夫ですか? 落ち着いてっ」
汚い雄叫びの中に、澄んだ女性の声が混じった。
水中をもがいた修也を引き上げた腕――その主の声だと、すぐに分かる。途端に恥ずかしくなった修也は無理やりに嗚咽を塞き止めて、
「アッ……ウッ……ズみませんッ……」
と、脊髄反射的に謝る。
涙で霞んだ目を両の手で拭うと、目の前で心配そうに覗きこむ少女の姿を見つけた。
良かった、どうやらこの世界にも人がいるらしい、と安心を得たのは束の間、涙の靄が張れて少女の風貌がはっきり見て取れた修也は、驚いて仰け反った。
衝撃に再度舟が軋み、揺れる。
少女は十四、十五歳くらいだが、その髪は白金色で、瞳は鮮やかな翡翠色。肌は雪のように白かった。何より目を引くのは耳で、修也の知る人間のそれより横にせり出して長く、そして鋭い。
所望、創作物でよく見る『エルフ』――妖精のそれを思わせた。
「アッ、アイアム……ソーリー……サ、サンクス……?」
白人の少女とでも思いたかったのだろうか、急に不慣れな英語を喋ろうとする自分が滑稽だった。当然急に話せるはずもなく、仮に話せたとしても異世界の人間に通じるわけがないのに。
「落ち着いて……落ち着いて。大丈夫だから」
「アイム……オウイェ……えっ?」
思い込みとは恐ろしい物で、その声を聴いても、初めは目の前の異邦人が未知の言語を話していると思った。しかしそれが、『オ・チ・ツ・イ・テ』と、『ダ・イ・ジ・ョ・ウ・ブ』――つまり自分にもなじみのある言語を発していると気づいて、修也は僅かばかりの余裕を取り戻すと、
「言葉……通じてる?」
恐る恐る、問いかける。
真っ直ぐに見据え返した少女の翡翠色の瞳が、ゆっくりと頷いた。
舟を川岸に付けた少女に連れられて、陸地に足を付けた修也。冷えた空風に濡れ雑巾みたくなった学生服を晒されて、ブルと震える。風に呼応するかのようにざわつく木々の音は、修也の不安を煽るには充分な情緒を醸していた。
「川で、お魚を釣りに出たら、急に水しぶきが上がって、貴方がいたから……。貴方、メッテルニヒー?」
白金色の髪を靡かせて振り返った少女が、恐る恐る問うた。
メッテルニヒー、と言うのが何を意味するのか分からない修也は、答えられずにまごつく。
その様を、少女は否定と取ったらしい。
「ごめんなさい、違いまよね。旅の人ですか? あまり見かけない感じだけど……」
その目はまるで日頃馴染みない生き物を眺めるかのようで、好奇心と警戒心、それぞれの一端が見て取れた。
修也には何と答えればいいのか分からない。彼自身まだこの状況を理解できていないから。
少しの沈黙の後、少女はフッと笑みを見せて、
「……そのままじゃ体、壊しちゃう。私の村に案内するから、付いてきて」
全身水浸しの修也にそう言って彼の手首を取ると、速足気味に歩き出す。
「あっ、ちょっと」
と、躊躇した修也の声とほぼ同時に、「あ、そうだった」と少女が立ち止まり、クルとこちらを向いて、
「私、ケララ・グリーンっていいます。あなたの名前は?」
「え……いや……。修也。菰口修也。……ん、待った、シュウヤ・コモグチかもしれない」
「名前、分からないの?」
少女が心配そうに言ったので、慌てて「いや、そうじゃなくて」とクビを振る。
「名字と名前、どっちが先に来ればいいのか……」
そう言ってまごついた修也だが、ケララは彼が何を懸念しているのか分からないようで、不思議そうに、ジッと彼の目を見つめている。
少し考えた後、
「俺の名前は、修也で、名字――俺の家は、菰口」
「そう言うこと? それなら、シューヤ・コモグチ。――よろしく、シューヤ」
ケララ、と名乗った少女は何度か修也の名前を反芻すると、無垢な笑顔を見せた。それは修也がこれまで見た誰の笑顔よりも純真な物に思えて――赤面し、目を逸らす。
相手は異世界人なのに、何動揺してるんだ、と自分を叱咤しつつ「よろしく……」と返した修也は、気を取り直してケララの後に続くことにした。
辺りを木々に囲まれた正真正銘の森の中を歩くのは――それも全身生臭い水に濡れた状態で――、おそらくこれまでの人生で初めての経験だろう。踏み出すたびに足がめり込むような、草と土の感触。木々の葉から湧いた緑の匂い……すべてが未知で、初めての物だ。
いずれも、あの時妙な儀式を遊び半分でやらなければ、体験することの無かった物。
後悔の念が滲んだが、今はこの状況を整理するのが先決だろう。この世界がなんなのか、少しでも多くの事を知りたい。
「あの……ケララ、さん」
修也の呼びかけに、ん、と反応して振り変える少女は、やはり修也の知る世界からかけ離れた――現実離れした美貌だ。緊張に用意した言葉が飛びそうになるが、そうも言っていられない。
修也は脳裏の脚本と照合しながら、自分の状況を説明しようと試みる。
「変な事を言うかもしれないけれど、聞いてほしい。俺は……こことは、違う世界から来た……かもしれない」
「……違う世界?」
「そう。違う世界。俺は、『日本』って所から来たんだ。聞いたことない?」
その言葉に、ケララは首を傾げた.。やはり覚えがないのだろう、せめて修也の他にこの異世界に旅立ったものの情報があれば――たとえば、この世界に赴いたのだろう、深山美咲の事、とか――。
――そうだった! 深山美咲!
元を辿れば彼女の机から出てきた珍妙な儀式が、この事態を招いたのだ。彼女も修也と同じようにあの川に飛ばされて溺れていたのなら――。
「じゃあ、深山美咲って名前とか知らない? 俺と同じように、川から女の子が出て来たなんて事とかなかったかな?」
「ミヤマ、ミサ、キ?」
馴染みの無い響きにたどたどしくなるケララの呂律。あきらめず修也は喰いつく。
「ミヤマ・ミサキ。もしかしたら、ミサキ・ミヤマかもしれない。名前がミサキで、家の名前がミヤマ。俺と同じ世界から、ここに来たかもしれない……ううん、来たはずなんだ、その人。何か知ってること、ない?」
必死になって喋っているせいか、修也の語気は妙に強くなっていた。その様にケララの表情が強張っているのに気づき、修也は我を取り戻して押し黙る。
唯でさえ、川で溺れていた言葉のおぼつかない不審者――それも彼女からすれば馴染みの無い異邦人が、急にガツガツと狂言を吐き出したら、当然驚くだろう。ここで彼女と険悪になって手がかりを失ってしまえば、彼はこの世界の、それも人の気配のない森の中で放り出されてしまう。
慌てて体裁を取り繕い、「……ごめん。少し混乱してるみたいで……今の話、忘れてくれ」と口を噤む修也。
ケララは暫し無言のまま修也を警戒したが、やがて、
「……大丈夫、です。ごめんなさい。何も分からなくて」
そう応じた。
応えたケララの笑顔はやはり引きつっていて、物言いもさっきまでより他人行儀な感じがする。
修也は後悔した。唯一の手がかりの少女に警戒心を与えてしまった事――それだけじゃない。異世界に来て初めて出会い、そして親切にふるまってくれた妖精みたいな少女に嫌われたのかもしれない、という事実は、別の意味でも修也を消沈させた。
無言のケララに連れられて、暫く――。
日が沈みかけ、草木のざわめきの不気味さも一層に増し、そして修也の心的プレッシャーも限界に達しようという時――眼前に灯が見えた。久方ぶりに振り返ったケララがそれを指さし、
「あそこです。ついてきて」
街灯にしては赤みの強い光――炎の灯であるとすぐに分かった。その光に照らされているのは、黒ずんだ木々を組んで作られた、歪な門。奥に見える家屋達のささくれ立った茅葺きの屋根も合わせて、『文明的』な物とは程遠い。
頭の片隅で予想していたことだが、修也の想像する『人の住む場所』とは著しく異なる場所らしい。電気やガス、水道なんて無い――それくらいの覚悟はしていたが、ここまでくたびれた場所だとは思わなかった。ケララの、創作における『妖精』を踏襲した見た目から、もう少し小奇麗な村を想像していたのに。目の前に見えた集落は『蛮人のねぐら』でしかななく、あそこに彼女みたいなとんがり耳が暮らしている様を想像すると、何とも滑稽である。
ケララに連れられて門の前まで行くと、そこには――見張り番なのだろうか、二人の男が立っていた。門の数メートル手前まで来て、ここで待っていて、と促した少女は、トコトコと速足で駆け寄っていくと、
「あの、今戻りました。ケララです」
と、二人の番に呼びかける。
少女が二人の門番と話し込んでいるのを遠目から眺めた修也は、門番二人の屈強な見た目に目を魅かれた。
薄明りに目を凝らして見たその風貌――手槍と、細長い三角形の盾を持った彼らは、修也の想像した『とんがり耳のもやし』ではない。鎖を編んで作られた頭巾から飛び出した縮れ毛は濃いブロンドで、体格も華奢な少女の倍くらいの肩幅がある。頭巾と同じ鎖帷子に重ねた焦げ茶色の皮製ベスト、そしてその上に撒きついたベルトが伴っているのは、両刃の長剣であった。子汚い風貌はこの集落の守り手に相応しい『蛮族』だが、一方でファンタジーや西洋中世史における『戦士』・『傭兵』という言葉も想起させられる。
(まるで、タイムスリップでもしたみたいだな)
ぼんやりとそんな事を考えていた修也の気は完全に油断していて、不意に響いた甲高い少女の声にギョッとした。
「ちょっと待って! その人は――ッ」
ケララの叫びに気づいて警戒した時にはもう遅く、ずかずかと近寄って来た二人の門番に両手を押さえつけられ、頭髪を引っ張られた。
「いででっ、な、何を――ッ!」
不意の苦痛に甲高い声を上げた修也を無視して、門番の一人がグイと顔を近づける。彼の、汗と土の匂いが混じった体臭と、ブドウの発酵したような口臭が鼻孔を満たして、吐きそうになった。
ウゲッと喘いだ修也を無視した門番の男は、憎々しげに言う。
「もう一匹居やがったか。カラスめッ!」
門番の男の不衛生さに違わず、村の中の臭気も混沌に満ちていた。馬か何かの動物の糞と、酸化した吐しゃ物、土と藁、そして炎。いろいろな匂いがブレンドされて、形容しがたい異臭を形成している。
――が、それに愚痴を飛ばす余裕は修也には無い。
二人の屈強な男に引きずられるように集落に入った修也は、背後に追い縋りながら「乱暴にしないでッ! 彼はメッテルニヒーじゃないんです!」と、ケララが喚くのを聞いて、振り返った。
「それはニルギリーが決めることだ。下がって!」
門番をしていた男の野太い声がそれを制止すると、少女は何も言い返せない。彼女と目が合った修也は、その翡翠色の瞳に後悔と謝罪の念が宿っているのを感じた。
彼女がここに連れてこなければ、と非難の想いが芽生えていた修也は、それに少し救われた気がしたが、彼女の良心で状況は好転しないのだから、やるせない。
一方で、理不尽に取り押さえられていながら不自然に毒気の抜けた修也の目を、ケララは『諦めた』と感じたのだろう、瞳を見開いて、何か口を動かそうとしたのが見えたが、その言葉は聞こえなかった。
石を組んだ外壁に茅葺きの屋根を乗せた住居がしばらく続いて、村の一番奥に来ると、一際大きな石造りの建物が現れる。『城』と呼ぶのは遥かに大袈裟だが、小さな『館』と呼ぶには遜色ない、歪な灰色の石の『塊』。集落の門同様、入口には二人の戦士が立ち尽くしており、門番達が通ろうとするのに合わせて木製の扉の閂を外し、開ける。
中は異臭が少し薄れ、敷き詰められた藁の匂いだけが変わらず漂っていた。外装同様の石を組んだ暖炉の前には木製の椅子が置かれ、そこには髪の毛と同じブロンドの髭を蓄えた、いかめしい顔つきの中年男性が掛けている。
そして彼の前には、今の修也同様の両の手を縛られて膝間づいた三つの人影が見えた。暖炉の炎に照らされた三人の顔には見覚えが有った。
「お前、大和ッ! 班長、それに……」
大和に、藤堂遥。そしてその隣にうなだれているのは、ノブ――坂本信幸。
「修也ッ!」
その声に振り返った三人のうち、大和が彼の名を呼んで立ち上がろうとするが、「大人しくしてろ!」と一喝した門番達の叫びにへたり込む。修也を引き摺って無理やりに三人の隣に膝間づかせると、門番の一人が暖炉に腰掛けた男に耳打ちした。
「ケララが連れてきました。この者達の仲間かと」
修也に侮蔑の目を向ける門番の男に対して、椅子に座った男の瞳に宿る意図は汲み取れなかった。「下がれ」と手で合図を出した男は、門番達と入れ替わりに「ニルギリー……」と声を掛けたケララの、翡翠色の瞳に顔を向ける。
「シューヤは、川で溺れていたんです。それを助けて、私がこの村に来るように、と……」
男に遠慮した、おずおずとした物言いをするケララ。修也の脇に並んだ三人の男女を見て、「あの、この人達は?」と緊張した声を上げた。
「森にいた。メッテルニヒーの差し金かもしれない。こやつ共々な」
ケララが『ニルギリー』と呼んだ髭面の男は椅子を立つと、修也達四人の顔を順に見つめた。落ち窪んだ眼孔の中にある細くて切れ長の瞳は、暖炉の火を受けてぎらぎらと輝く。ブロンドのぼさぼさ髪にマッシブな体躯の組み合わせは門番の男達に似ているが、ただ大声で騒ぎ立てるだけの彼らとは違い、この男には修也達を怖じ気させる威厳があった。
「誤解だッ。俺たちは異世界から、飛ばされたんですッ! メ、テルニヒなんて知らない!」
大和が即座に声を張らせて、そう吠えた。
ほう、と短い感嘆府を付けて、ギロリと動いたニルギリーの目が大和の顔に留まる。片膝を着いてズイと顔を近づけたニルギリーに、大和が生唾を呑んだのが分かった。
「では、お前達は何者だ。異邦人か?」
呆気にとられた数秒の間の後、大和は言葉無く頷く。ニルギリーは大和から視線をノブ、遥、そして修也へと移した後、ハッ、と乾いた笑いを吐き捨てた。
「確かに、我ら起源人とも、岩堀りの司、地底人共とも異なる風貌だな。お前達は皆一様に――北の大鴉を思わせる黒い髪に、茶色の瞳だ。そして北の地はメッテルニヒーが支配している。カラス達は、奴らの使いであろう」
初めて会ったケララもそうだった。
ニルギリーとこの村に住まう者達は皆、メッテルニヒーと呼ばれる何かを敵視している。それがなんなのか分からない以上は、何を伝えれば誤解が晴れるのかも分からない。
「俺たちは関係ないんだ。信じて!」
夢中になって叫んだ大和の横で、修也は必死になって考える。この世界について、知っている事があれば――。
あるはずがないと断じかけたその時、脳裏に全ての発端になった言葉が弾けた。
「ユムロスの民の元にそれはある。始まりの民アダムス、えと、精霊アルファイの、オルディネール平原へ――ッ」
あの時、深山美咲の机から発見した、謎の文言。
記憶の糸を手繰って、そのうちの一説を導き出した修也がそれを口にすると、ニルギリーの目は僅かに見開かれ、「貴様、それは……」と言葉に詰まった。
直後、少女の澄んだ声でその全容が唱えられる。
「ユムロスの民の元に、それはある。始まりの民アダムスは、精霊アルファイの導くオルディネール平原へ。地の恵みに貪欲なモーロク達には、マオルブルフの炎の山を神の子であるウィーナスにはクルエフロワの銀の空が、それぞれ与えられている。ユムロスの民は、ドリムナノグに集う……」
あの時、修也が唱えた文言。それと一字一句違わぬ物を唱えたケララが、「私の故郷に伝わる、天地開闢にまつわる伝承です。私達の一族以外、知る者は……」と静かに言った。二人の修也達を見る厳しい目に綻びが生まれたと分かり、修也はここぞとばかりにまくし立てる。
「その言葉が、俺をこの世界に導いたんです。メッテルニヒーとかいうやつらとは、関係ない。偶然なんだ!」
ニルギリーは何も答えないで修也達を見つめる。彼にケララが寄っていき、声を潜めて進言するのが聞こえた。
「ウィーナスの詩です。メッテルニヒーの者は知るはずもない。もしかしたら、私たちの元に遣わされたのかもしれない。クルエフロワの、空の山から」
尚も、ニルギリーは無言であった。彼は何も言わずに立ち上がると、ケララの肩に手を振れて、「まだわからん」と短く応えると、
「周辺をメッテルニヒーの騎士どもがうろついている。今は奴らの手先の可能性を否定できない。掃除が済むまでは自由にするな」
そう言って彼はクルと背を向けると、大股で館を出て行った。
ケララはニルギリーの背中が扉を潜るのを黙って見送った後、修也に振り返ると、
「あの、ごめんなさい。私が村に来いって言ったのに、こんなことになっちゃって」
と、深々と頭を下げる。
その言葉に返す答えは、すぐには出てこなかった。
理不尽な暴力と拘束――納得できないことも多々ある。が、それでケララを責めるのは的外れな気がして、
「いや……いいんだ」
まったくの本心とは言えないながらも頷いた修也は、大和達に振り返る。
「それより、なんでみんなもこの世界に? 俺があの儀式をやった後、みんなも儀式をやったのか」
「いや、やってない。お前が陣の描かれた紙に血判を押し、瞳を瞑ってから、俺たちも何故か瞼が重くなって…………多分、意識を失ったんだと思う。それで気が付いたら、この森の中でこいつらに囲まれていた」
大和が答えて遥の方を見ると、
「俺とノブは、そこで発見された。藤堂は少し離れた所にいて、捕まったらしい。だろ、藤堂」
その呼びかけに彼女は俯いたまま唇を噛み、何も応えない。
「ノブもここに来てるっていうことは、あの時教室にいた奴らは全員、この世界に飛ばされた可能性があるだろう。一ノ瀬と富谷、佐藤卓也、早坂海介、それに……真澄も」
大和の表情が曇るのが見て取れた。増岡真澄――大和と交際している、おっとりした性格の女生徒。あの時修也を囲んでこの儀式を見守っていた者の一人だから、彼女もこの世界に来ていると考えるのが妥当ではある。
「真澄は、近くにいなかったのか?」
修也の言葉に、大和はいらいらと頭を振った。
「見れば分かるだろう……こんな世界なんだ、どんな危険があるか分からない。連中を見たろ、物々しい武器や鎧で身を固めている。あれで人を殺してる連中だ。普通じゃないんだよ、ここは」
その言葉が途切れた瞬間、恐怖の決壊か、理不尽な事実への怒りか――何かが弾けたのだろう。俯いていた藤堂遥がノブの方を向くと、有らん限りの力で怒声を浴びせた。
「あんたのせいよッ! 訳の分からない儀式を、やろうなんて言うからっ! 私達これからどうなるの? 何とかしてよ!」
「……ッ!」
その言葉に顔を向けたノブに、学校にいた時のふてぶてしさは見られなかった。遥の罵声で飛んだ唾に頬を濡らした彼の目は、野良犬みたいに無気力で、やつれている。
ノブの様子を確認した大和が、遥かを咎めて言った。
「やめろ。藤堂だってノリ気だったじゃないか。修也を煽ってさ。今更言い合ってどうする。まずはここから抜け出さなきゃ。それで、他の皆を探す」
大和の正論に遥は暴言を持って返す。
「どうせ、みんな別の場所でこいつらの仲間に捕まってるわよ。マスマスだって、もう殺されてるかもよ?」
「――ッ藤堂!」
その物言いに怒った大和が声を荒げると、気迫に怖じけた遥は口を噤んで、また俯いた。後から鼻をすする音が聞こえて来て、泣いているのだ、と分かった修也は、この事態に責任を感じて掛ける言葉を失う。
あの時、自尊心を守るためにノブの挑発に乗り、この儀式に臨んだのは修也だ。そのせいで、儀式をやった自分だけでなく、周りのみんなを巻き込んでしまった。
遥とノブはもちろんの事、大和だってこらえてはいるが、不安に苛まれているのが見て取れた。自分の状況はもちろんの事、逸れてしまった増岡真澄の事を思えば当然の話だ。何か、事態を打開する方法――、
思いつくはずもなかった。
沈黙に耐え兼ねた修也は、せめてこの世界の事を知っておかなければならないと結論を見出す。今ここにいる少女からそれを聞き出せるのは、多分自分だけだ。
複雑な面持ちで四人の会話を聞いていたケララに視線を向けた修也は、彼女に向けて頭を垂れた。
「ケララ、さん。お願いです。この世界の事を、俺たちは何も知らない。教えてください。今、何が起きているんです? ここにいる人達は、何をあんなに――」
恐れているのか――警戒しているのか――。どういえばいいか分からないが、この村の人たちの言い知れぬ緊張感は感じ取れる。言葉を慎重に選び、できる限りの誠意をこめて問うたが、拙い質問にしかならなかった。
暫し、暖炉の火の弾ける音だけがあった。その間ケララは表情無く、ジッと修也の目を眺めていたが、やがて遠慮がちに、「本当に、何も知らないんですね。この世界の事」と呟くと、修也の前に座り込んで目の高さを合わせる。
「私達の伝承で、この世界はドリムナノグと呼ばれています。開闢の光ユムロスが作ったドリムナノグには、三つの種族が共存していました。その拮抗が、少し前に破られた」
少女の翡翠色の瞳に、暖炉の炎が映り込む。エメラルドのようなその瞳の中で揺らめいたそれは、まるで一つの世界を焼き尽くしそうな――禍々しい物に思えた。