2.儀式
女子達の監視が付くとだらだらとサボることも無くなり、教室の掃除はすぐに終わった。
班長・藤堂遥の終了の挨拶が終わり、帰り支度をする者、部活へと向かおうとする者達を横目に見た修也は、「さて、帰るか」と独り言を言う。
ゲーセンか、本屋にでも寄って帰ろう――そう思ってズボンのポケットに手を突っ込むと、さっき中にねじ込んだ『深山美咲』のルーズリーフが触覚に付いた。
そういえばこれだけ机に戻していなかったな、と思い出して取り出すと、
「なんだ、それ?」
大和と、彼と談笑に耽っていた真澄が、修也に気づいて声をかける。
修也は折り畳まれていたそれを広げると、
「いや、さっきの机から落ちたやつ。返し忘れてたから」
「なら、戻しておけよ。なんで広げる」
もっともな意見だが、やはり女子の者には興味がある。ニヤと笑いながら、修也は渋った。
「見るくらい、いいだろ――イテッ!」
制止する大和を、お堅いヤツ、といなした修也だが、不意に指先に痛みを覚えて跳ね上がる。見ると、中にカッターの刃が挟まれていたらしい、右手、人差し指の先から血が滴っていた。
「ほれ見ろ。妙な気出すから」
「うるせー」
小言を言う大和に悪態をついて、修也は指先の傷口を舐めながらルーズリーフを見た。さっき目に付いた、妙な図形が描かれた物の他に、もう二枚。メモのように殴り書きされた紙だ。カッターの刃とルーズリーフのうち一枚には、修也の物ではない赤黒い染みが残っている。
――――血だ、と修也が理解した直後、
「なにこれ、気持ち悪い」
と、真澄が怪訝そうに呟いた。
紙に書かれた文字はさっき見た教科書の字――深山美咲の字で、こう記している。
――ユムロスの民の元に、それはある。
――始まりの民アダムスは、精霊アルファイの導くオルディネール平原へ。
――地の恵みに貪欲なモーロク達には、マオルブルフの炎の山を。
――神の子であるウィーナスにはクルエフロワの銀の空が、それぞれ与えられている。
――ユムロスの民は、ドリムナノグに集う。
「なんだぁこれ? ……中二病ってヤツかな?」
感想を漏らした修也は、残る二枚の紙を見た。
一枚は図形――西洋の魔術的な儀式に用いられる六芒星だが、それを取り囲むように解読不明の文字が並べられている。そしてもう一枚は、『ドリムナノグ 行き方』と題されたメモだ。
「マスマス~、なにやってんの~?」
真澄に声を掛けた藤堂遥と、一ノ瀬恵璃が寄ってくる。修也の持っているルーズリーフに気づいた恵璃が「何? それ」と彼の手元を覗きこんで眉をひそめた。
「ん、ああ。深山美咲さんて、知ってる? 彼女の机から出てきたんだ」
小奇麗な恵璃の顔が何気なく話かけて来た事に緊張しながら、修也はそう応えて紙を渡す。図形が描いている方を勝手に手に取った遥は、恵璃の方の紙も一瞥すると「なになに、邪気眼~? おもしろーい」と声高に言って、笑った。
「なになに、なにしてんのアイツら」
それに気を取られたのか、帰り支度をしながら駄弁を重ねていた坂本信幸と佐藤卓也も、こちらに視線を向けた。
「止せよ。人のなんだから、あまり詮索する物じゃない」
大和が止めに掛かるが、既に女子達は興味津々の様子で、三枚のルーズリーフを取っ替え引っ替え、廻して眺めている。
「なんなんだろう、これ。血も付いてるし。なんかの儀式に使うのかな」
「あれでしょ、深山美咲さんって、元A組の。なんか地味で暗そうな子だったし、私覚えてるーっ。誰かを呪い殺そうとしてたとか?」
不安げに呟いた真澄の横で、遥はそんな冗談を言ってはフヒヒと息を漏らす。深山美咲を嘲るようなニュアンスを孕んだそれは、見ていて気分のいいものではない。
「異世界に行く方法、とかじゃない? よくネットとかにあるじゃん。この星みたいなの、見たことあるよ」
そんな中、恵璃が一人真剣なトーンで見解を提示してみせた。
なんとなく言葉に興味を持った修也は、彼女の方を見て耳を傾ける。
「これ、『ドリムナノグ 行き方』だって。多分、ドリムナノグ? って所に行くために必要な、儀式みたいなヤツなんじゃないの」
なるほど、そう言われればそんな風にも見える。確かに『エレベーターを使って何階から何階へ~』とか、『紙に図形を描いて特定のキーワードを書き込み枕元に置く』だとか、そんな『異世界』に行く方法がまことしやかに囁かれているが、このメモは何となく後者のオカルトを彷彿させる気がしないでもない。
「なるほど、そうかも」
感心した修也を余所に、「ちょっと見せてくれ」と、恵璃から『行き方』の書かれたルーズリーフを受け取った大和が、内容を音読し始めた。
「真言――別紙参照――を唱えて、転移陣を描きます。中に血判を入れてもう一度真言を唱え、目を瞑り、十と三秒待ちます」
「それで? それで?」
遥が食い入るように問う。
「……それだけだ」
「……それだけ?」
拍子抜けしたかのように飽きれた声で、真澄が反芻した。大和は首を振ると、
「それ以外は書いてない。真言と、転移陣って言うのは?」
「こっちの紙にあるのが転移陣てやつでしょ。ほら、血判も入ってる」
恵璃が答える。
彼女の見せた図形の書かれたルーズリーフには、おそらく血でされたのであろう指印が二つ入っていた。「真言は別紙だから、これか?」と、修也は血痕が残っている方のメモを見る。さっきの、意味不明な文の羅列だ。
「面白そうじゃん、やってみようぜ!」
不意に野太い声が響いた。
ツウンと鼻にクる、制汗剤とワックスの匂いが満ちたかと思うと、眼前に三人組の男子が立っている。一行の話をずっと聞いていたのだろう、坂本信幸が佐藤卓也と早坂海介を伴い、笑っていた。
「異世界に行けるとかなんとか言ってたろ。やってみようぜ。――お前も行ってみたいよなぁ?」
ドカ、と早坂の肩に腕を回したノブがそうのたまうと、早坂はぶるぶる震えながら首を縦に振った。その様子に満足し、ほらな、とノブが一行を見返す。
「お前、……」
と、大和が口を開くのを遮って、信幸は一ノ瀬恵璃の横に来ると、
「俺、元Bの坂本信幸っての。ノブって呼んでよ」
と笑顔を見せた。どうやら彼女のことが気に入っているらしい。本心はそれが目的で近づいてきたのだろう。
やけにフレンドリーな笑みを見せるノブだが、それには答えないで恵璃は、
「血判って、自分の血でハンコすることだよ。わざわざやる?」
と眉を潜めた。
確かに、明らか眉唾モノと分かる儀式に、遊び半分でやるにはためらわれる行為だとは思う。そんな彼女の問いに、ノブは修也を指さすと、
「ちょうどよく血ぃ出してるヤツいんじゃん。まず彼が試して、本物だったらみんな続けばいいっしょ」
面識のない人間から当たり前のように話しかけられた修也は、面食らって反応するタイミングを逃してしまう。勢いづき、いいよな、と修也に念を押したノブに、今度こそ大和が抗議の声を上げた。
「気安い事言うな。もしこれが本物なら、異世界に行っちまうぞ。何が起こるか分からない」
すると、
「大和くん、怖がってるの? マスマスの前でカッコ悪い所見せていいのかな?」
そう言って、遥が茶化す。
彼女を睨んで黙らせた大和は、すぐにノブを見据え直すと「どうしてもやるなら、言い出しっぺから行けよ」と凄んだ。
二人の険悪なムードに一行は怯み、少しの間沈黙が流れる。
その間に修也も考えた。大和の言うとおり、もしこれが本物だったら――。何があるか分からないが、反面怖い物見たさというか、好奇心みたいなものもくすぐられる。ただ、この話の流れでは修也が最初のペンギン、つまりは『先駆者』にされそうな感があって、それは少し抵抗があった。
「やめとけ」
沈黙を破る声は、外野から放たれた。
振り返ると、鞄を片手に持った富谷利府斗がこちらを見ている。
「さっき話したろ。深山美咲、入院してるんだよ。理由は分かんないけれど、意識が戻らないんだってさ。それがアイツの持ち物から出て来たのなら、関係があるかもしれない。変な事にならないうちに、足洗っとけ」
そう言えば、そんな話だった。もしこの紙にある『ドリムナノグ』とかいう所に行って、それが原因で深山美咲が学校に来れなくなったのだとしたら。
(――いや、あり得ないだろ、そんな話)
胸中で否定する修也だが、ルーズリーフに描かれた妙な陣と、その中にある血判――おそらくは深山美咲の――には、不思議とおどろおどろしさを感じてしまう。
「んじゃいいよ、俺はやれとは言わねぇ。修也クン、だっけか。彼がやるかどうか、ここで見てるだけだ」
ノブはそう言って一行から数歩離れたが、ジッと修也の方を眺めて、
「どうせ何も起こらないから、試してみろって。偶然、怪我もしてるんだし」
と、そう促した。
上手い逃げ方だ、と内心で修也は彼を憎たらしく思った。これならば彼は強要したわけでもないし、修也がやらないとゴネれば「怖いのか」とでも言って挑発すればいい。
もちろん、嫌なら嫌と突っぱねればいいのだが、そこまでするほどの事でもないと修也は感じている。こんなオカルト、やって何かが起こることなどまずありえないのだから。万が一の、極小の確率でしか起こり得ない不足の事態に背を向けて、『ビビり』と罵られるのも嫌だった。
――また、少しの沈黙が流れる。
「……転移陣、てヤツは、これを使っていいんだよな」
そう言って図形の描かれたルーズリーフを机に置いた修也に、「マジでやるのかよ」と絶句した大和。対して藤堂遥は興奮を抑えきれないようで、
「最初、陣を描きながら真言を唱えるんだって。なぞればいいんじゃない?」
と鉛筆を差し出した。どうやら彼女も、これを試すのに乗り気らしい。
それを受け取った修也は、ボールペンで書かれた図形と文字達を手早くなぞりながら、唱えた。
「えーと、……ユムロスの民の元に、それはある。始まりの民アダムスは、精霊アルファイの導くオルディネール平原へ。地の恵みに貪欲なモーロク達には、マオルブルフの炎の山を。神の子であるウィーナスにはクルエフロワの銀の空が、それぞれ与えられている。ユムロスの民は、ドリムナノグに集う……だっけか」
真言の書かれたルーズリーフを見て、たどたどしく読み上げながら、修也は図形をなぞっていく。
一同はそれを無言で見つめていた。
大和と真澄、利府斗、そしてノブに従えられている早坂海介は不安げな表情で。遥とノブ、そしてノブの友人である佐藤卓也は、ニヤニヤと笑いながらその光景を眺めてる。
陣の完成を真剣な表情で眺めていた恵璃は、
「次は血判をして、またこれを唱えるんだよね。――菰口君」
そう確認を取る彼女に無言のまま頷いた修也は、先に切った人差し指の傷口に、左手の親指を付けた。結構深く切ったらしく、まだ出血は残っている。
陣の描かれた紙に向き直ると、並んである二つの指印の隣に親指を押し付けながら、再度紙に書かれた真言を唱えた。
――ユムロスの民の元に、それはある。
――始まりの民アダムスは、精霊アルファイの導くオルディネール平原へ。
――地の恵みに貪欲なモーロク達には、マオルブルフの炎の山を。
――神の子であるウィーナスにはクルエフロワの銀の空が、それぞれ与えられている。
――ユムロスの民は、ドリムナノグに集う。
後は目を瞑り、十と三秒を待つ。修也が瞳を閉じるとほぼ同時に、遥が高ぶった声で数え始めた。
「一、二、三、四、五」
六、七、八――。修也も脳内で数えるが、何も起こる気配はない。やはりただの迷信じゃないか、とごちた修也は、こんなお遊びに本気になり話をややこしくしたノブと、大げさに騒ぎ立て不安を煽った大和を疎ましく思った。
自分だけ変な度胸試しをすることになって――――、
――その先が、思いつかない。
一同への文句を考えていた修也は、妙に思考が鈍くなっていることに気づいた。
「九……十…………」
耳が遠い。遥の数字を唱える声が、霞んでいる。それだけではない。意識が肉体から切り離されたかのような、妙な浮遊感を覚えているのだ。瞼を開こうとしても、開かない。
なんだ、これ。急に恐怖が込み上げて来て、修也は必死に肉体の感覚を手繰った。が、やはり体の制動は戻ってこない。
「十一…………十……に………ッ! なに……これェッ!」
それが遠くから聞こえる、遥の声だと分かった。催眠術でもかけられたかのような気だるげなカウントの後に、恐怖に歪んだ叫びが混じる。
何が起きてる、と神経を集中するが、すぐに何も聞こえなくなった。
妙な浮遊感の中、瞼の裏の世界に放り出されて数十秒もすると、肉体の感覚が徐々に戻ってくる。それと同時に恐怖の感情は薄まって来たが、ただ一点、瞼だけは動かせない――開けない。
直後、まるで高所から突き落とされるかのような、腹の底が押し上げられるような感覚に襲われた。不快な感覚だった。
――堪えようと歯を食いしばった修也の意識は、そこで途切れた。