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カエリミチ

作者: 人平 芥

 『タイムスリップ』というものがある。

 いわゆる、時間旅行。過去への回帰、未来への進行……誰もが胸を躍らす、夢のような話。

 しかし、それは所詮、夢でしかない。過去の失敗を憂い、未来の栄光を渇望する者が生み出した、妄想の産物に過ぎない。

 第一、俺はそういう非科学的なことは全く信じない性分だ。想像は、あくまで想像だ。死を恐怖するから、永遠の世界である『天国』を生み出し、魂の存在を肯定するから、幽霊なんてものが生み出される――まあ、幽霊は一度見てみたい気もするが……。

 とにかく、俺は自分で見て、体感したものじゃないと信じない。天国があるというなら、実際にそこに住んでいる奴を連れてこい。幽霊がいるというなら、呪われてでもそいつを連れてこい。そうでなければ、俺は絶対に納得なんてしないだろう。




 では―――




 「俺は今、一体何を信じればいい……?」

 寂れた無人駅の一角。目の前の雪の積もった掲示板に貼ってある地方新聞が示す、四年前の十二月二十五日。

 近くの電気屋の入り口付近に置かれたテレビでは、四年前に一時期ブレイクしていた芸人が、四年前の年を叫びながらクリスマスを祝っていた。

 『タイムスリップ』――時間旅行、過去への回帰……。

 どうやら俺は――タイムスリップしてしまったようだった。


 何故こうなってしまったのか、そもそもこれは現実なのか。脳内で様々な推測が渦巻き、俺の思考回路はパンク寸前だった。

 ぐるんぐるんと首を左右に振って辺りを見回してみたものの、めぼしい情報が目に入ってくるはずもない。歩道を歩く人々から向けられる、奇異なものを見る視線とヒソヒソ声を感じ取り、俺は慌てて俯いた。

 深呼吸だ深呼吸……落ち着いて、記憶を遡るんだ。きっとその先に、こうなってしまった原因があるはずだ。

 まず今日の朝……俺はクリスマスだというのにバイトをいれてたから、自転車に乗ってバイト先まで走って行った。そこからは夜までずっとバイト漬けだ。

 バイトが終わった後、店長にちょっとしたプレゼントを貰って、そこから自転車で家に向かう帰り道の途中で――

 「――――電柱に……ぶつかった?」

 ハッとして、顔を上げた。目を向けた先にあるのは、四年後も変わらずに直立不動で立ち続けている一本の電柱だ。俺は元の時間で、降り始めた雪に気を取られた隙に、その電柱に正面衝突したのだ。

 まさか……そんなことで?

 電柱にぶつかっただけで時間を越えるなんて……そんなの、おかしいぞ!?

 時間っていうのは一方通行で、不可逆で、どんなに強力なエネルギーを用いてもその理を乱すことはできないはずだ。それもたかだか人体とコンクリートの衝突程度の力でなんて……。

 ……いや、俺がどれだけ「あり得ない」と喚いたところで、それは詮なきことだ。

 俺が時間の流れに逆らって過去に戻ってきたということは、俺がここにいるということだけで簡単に証明されてしまう。理由や説明は不要で、ただ事実だけが確固たるものとして存在しているのだ。だったら、ここで立ち止まっている意味はない。

 かといって、帰る方法を探そうにも、手がかりなんて皆無だ。もう一度電柱に向かって行くという手もあるが、それで元の時間に帰れる保証がない以上は、俺は痛い目にはあいたくない。


 では、どうするか……俺には、ある考えがあった。

 そもそも、なぜ俺は四年前というなんとも中途半端なところに飛ばされてしまったのだろうか? 五年前や十年前なんかの方が、個人的にはキリが良いように思える。

 しかしその答えは、少し頭を捻ればすぐに浮かんできた。

 今日が十二月二十五日のクリスマスだということ。

 ここが、還文かんもん駅の構内だということ。

 そして、タイムスリップしたのが、この俺だということ……。

 「……行かなきゃいけない」

 俺は気づいた――この不可思議な時間旅行の意味に。俺がこれからするべき、使命に。

 自然と足が動く。まるで足が意思を持ったように、力強く前へ踏み出していく。


 俺はそのまま一直線に、駅の反対側――道路を越えた先にある、還文公園へと向かった。




          ■          ■          ■




 還文公園は還文駅と同様、大した設備もない寂れた公園だ。あるのは公衆トイレと小さなベンチくらいで、遊具のない公園を訪れるのは散歩途中の老人くらいだった。

 それは四年前も同じであり、灯りの乏しい暗がりとなっている公園内は、まるで心霊スポットのような静寂さと不気味さを醸し出していた。


 そんな公園の、中央部。

 唯一の街灯が照らし出すベンチに、俺は座っていた。

 少しの間を取ってちょこんと腰かける、一人の少女と共に――。


 「それで……あなたは本当に、四年後の世界から来た渡名わたりなくんってことでいいのよね?」

 「あぁ、信じられない話だけどな……」

 俺のため息交じりの言葉を聞き、彼女は「そう……」とだけ呟いた。意外にも、大して驚いてはいない様子だった。


 ――――彼女だ。

 間違いなくここにいるのは――――四年前の与継愛歌よつぎあいかだった。

 さらさらと風に流れる長い黒髪は辺りの闇に溶け込み、彼女の整った顔立ちが余計に強調されている。学校帰りなのかこんな寒い中、黒いセーラー服を身に纏っており、陸上部で鍛えたという引き締まった脚をすらりと伸ばしていた。

 四年前のクリスマスに見たものと全く同じ彼女の姿が、そこにはあった。


 「それにしても、タイムスリップだなんて……またかぶいたことをしたものね。さすがは『還文一の傾奇者』と呼ばれる――いえ、呼ばれただけのことはあるわね」

 「えっ!? 俺ってそんな風に呼ばれてたのか!? 一切の覚えがないんだが……」

 そもそも、自分で言うのもなんだが、俺はこれでもマジメな学生生活を送る優等生だったと思う。成績もそこそこ良かったし、サッカー部でもキャプテンでがんばってたし……。

 「えぇ。それはもう、スゴいウワサになってたわよ。学内で跳梁跋扈する不良どもをバッサバッサと薙ぎ倒していく正義の味方だ……って。なんでも、一日に学食のメニューを全部食べ切って、裏庭の校長の銅像を片手で持ち上げて、屋上に刺さってた勇者にしか抜けない伝説の剣を引き抜いたって……。私の想像の中でね」

 「だよなあッ!!」

 なんだよその傾奇者というかただの化け物は。スタートからなんだか見切り発車気味だったが、後半は明らかにファンタジーな世界だったぞ。

 激しくツッコミをいれる俺だったが、彼女はそんな様子を見て、なぜか嬉しそうに微笑んだ。

 「ふふ……渡名くんは四年経っても何も変わらないわね。少し安心したわ」

 「なっ……そ、そうか……?」

 そんな風に言われてしまうと、強く憤りをぶつけるわけにもいかなくなってしまう。やり場のなくなった気持ちが徐々に徐々に萎んで、俺もそれに比例するように縮こまって俯いてしまった。

 「な、なぁ。けど、ほんとに信じるのか? 俺が未来から来たってことを……」

 思わず、逃げるように話題を変える。彼女の発言から察するに、既に彼女は俺を渡名維直いちかと認識しているようだが、そんなに簡単にタイムスリップなんていう非現実的なものを信じることができるものだろうか?

 彼女はしかし、不思議そうな顔で俺の方を見ると、さも当たり前のように言った。

 「さっきも言ったでしょう? 渡名くんは四年経っても何も変わってない――素直すぎるところも、すぐに俯いちゃう癖も、今の……この時代の渡名くんと同じものよ。それだけでも、渡名くんの言葉を信じるに充分足りると思うのだけれど?」

 「だけれど……って、お前なぁ……」

 普通に考えれば、それだけでは充分でないことは明らかだ。俺は呆れたように息を吐いたが、しかし同時に、そう言った彼女の言葉を聞いて、俺は顔がにやけるのを抑えることができなかった。


 やっぱり、紛れもなく、彼女は俺の知っている与継だ。

 真顔で冗談ばかり言うが、しかしいつも真っ直ぐな彼女の性格は、当たり前だが四年前の彼女のもの――俺が好きになった彼女のものだった。


 中学一年のときに知り合った彼女は、おかしなことに四年前の――高校二年までの五年間ずっと同じクラスだった。そしてその五年で、俺は彼女に惹かれていった。

 なんで好きになったのかとか、そんなことはもう覚えていない。それは自然であり、当然だったのかもしれない。部活中に、トラックを駆ける彼女の姿を目で追うようになっていることに気づいたとき、俺は自分の彼女に対する気持ちを知った。

 それからはなんとか近づこうと、クラスで彼女に話しかけることが多くなった。大抵の場合は今のように、俺が彼女にあしらわれて終わるものだったが、俺はその時間を過ごせることがとても幸せだった。彼女と話せていることが、彼女のそばにいられることが、素直に嬉しかった。

 そうして時を経て、俺はこの――四年前のクリスマスに、彼女をここ、還文公園に呼び出したのだった。

 そう――呼び出してしまったのは、俺だ。


 「……なあ、与継」

 「ん……改まって、どうかしたの?」

 「たぶん、今日は俺に呼び出されてここに来たと思うんだけどさ――」

 俺はそこで、一度口を噤んだ。

 本当に言ってしまっていいのか? これはこの時代にとって異物である俺が、とってしまってもいい行動なのだろうか?

 ……いや、そうではない。世界とか理とか、そんなことは今はどうでもいい。

 俺は、責任を取らなければならないのだ。この祝うべき日に犯した罪に対して、贖罪しなければならないのだ。

 そのために、俺はここに来たのだから……。

 意を決して、俺はなるべく軽い感じを装いながら、続きを口にした。

 「悪いんだけど、俺のことは無視して帰ってくれないか? その……実はさ、俺この日用事があって、めちゃくちゃ遅れて来ることになるんだよ。だから、もう今日は帰って、話は明日聞いてくれ」

 本当にすまないと、俺は彼女に頭を下げた。こう言えば、彼女はここから去ってくれると思っていた。俺の話を聞き入れてくれると、そう……楽観視していた。

 しかし――――


 「そう……。仕方がないわね、じゃあ全力でお断りさせてもらうわ」

 「――――え?」

 思わず耳を疑った。

 な……何? 今彼女は、断った? なぜ? どうして?

 「いやいやいや! ほら……待っていても意味がないんだって。その……ほとんど深夜くらいになるからさ! こっちとしても申し訳ないし――」

 「それなら、その申し訳なさの分だけ、こっちの渡名くんに土下座でもしてもらうわ。ふふふ……まだ雪は積もってないけれど、きっと地面は凍えるくらいに冷たいんでしょうねぇ」

 「おまっ――」

 必死に説得してみるものの、彼女は姿勢を頑なに変えようとしない。俺をどのように辱めるかの計画を、とても楽しそうに立てている。

 いけない……このままでは、何も変わらない!

 なんとしてでも彼女には今ここで帰ってもらわなければ、俺がわざわざ時を遡ってまでここに来た意味がなくなってしまう。

 「いいから帰れって!! 土下座なら俺が好きなだけやってやるから!」

 焦りが荒い声となって発せられる。なりふり構ってなどいられない。早く帰らせないと、彼女が――っ!

 「んー、それじゃあ意味がないのよねぇ。やっぱり私のよく知る方の渡名くんがやった方がおもしろみがあるというか……」

 「そんなこと言ってる場合じゃないんだよ!! 早くしないと……与継が――」

 「私が――何?」

 気づけば、彼女の顔が目の前にあった。感情のままに叫んでいたせいで、俺は彼女の接近に全く気づかなかった。

 「まったく……やっぱり渡名くんね。素直すぎて、嘘を吐くのが下手」

 「なん……っ!? お前、気づいて……」

 はぁー……と、彼女は額に手をやり呆れたように首を振った。彼女は俺の嘘に最初から気づいていたようだ。気づいた上でそれを利用してからかってくるのはさすが与継といったところだが、彼女の意図が全く読めないでいる俺に、そのことについて言及できるほどの思考は残っていなかった。

 「話してくれないかしら? 渡名くんがそこまで私をここから遠ざけたがる、その理由を」

 「…………」

 こうなってしまった以上、このまま騙し続けるのは不可能だ。……もっとも、最初から意味のない作戦だったのかもしれないが。

 それに、本当のことを話せば、彼女も事態を把握して帰ってくれるかもしれない。俺は覚悟を決め、彼女に真実を告げるために口を開いた。


 「……あと少し経てば、俺がこの公園に来る。そして、俺はそこで……与継に告白するんだ」

 「……………………ふーん」

 やけに長い沈黙の後、彼女はただその一言だけを口にした。表情にも、変化は見られない。あまり長く反応を窺うわけにもいかず、俺はそのまま続きを話すことにした。

 「そこで与継の返事を聞いて、俺はふざけて公園の外まで走って行くんだ。そこから与継に呼びかけようとしたら――いつのまにか、すぐそこまで大型のトラックが近づいてた」

 「…………」

 聡明な彼女は、すぐにその先を察したのだろう。無言のまま俺の話に耳を傾ける彼女は、苦々しげに唇を噛んだ。

 「俺は与継に突き飛ばされた。そして――俺の代わりに……与継が…………轢かれた」

 口にすればするほど、あのときの情景が鮮明に思い出されてしまう。急速に変化する視界、何かがぶつかる衝突音が二回、辺りに漂い始める臭い、ボロボロになって地面に転がった……。

 この四年間で何度も夢に見た、頭にこびり付いて離れないあの日の記憶。自分の犯したことに苛まれ、涙を流して悲しむことさえ罪深く感じられたあのクリスマスからの日々は、ひどく空っぽなものだった。

 何かが抜け落ちてできた穴を埋めるものは見つからず、彼女が救った命を投げ捨てるなんてこともできず、漂うように生きる四年間はまるで死霊にでもなったかのような気分だった。

 ――いや、俺は確かに、死んだのだ。彼女を失い、全てを失った俺は、未だにあの日にしがみ付いたまま止まってしまっている。そんなことだから、タイムスリップなんてものに巻き込まれてしまうのだ。


 しかし――これは俺の罪を償うための、最後のチャンスだ。あの日の悲劇が、再びもうすぐ起ころうとしている。俺はそれを回避し、彼女を救うことで、ようやく前に進むことができる。ようやく――死ぬことができる。


 「わかるだろ? このままここに残れば、与継は死んでしまう。たぶん、注意しててもムダだ。与継が俺に何かを言ったとしても、俺がそれを聞き入れる自信は正直ない。かと言って、俺が自分で言いに行けば、時代の異なる一人が出会ってしまえば、この世界がどうなるかわからない。だから、今は与継がここから去っていくことが、最善の方法なんだ!」

 そう……それが最善だ。ここで彼女が返ってくれれば、俺の使命は果たされる。彼女は無事に生き延びることができ、四年後の世界でも元気に過ごしていることだろう。

 俺は精一杯力強く彼女に語りかけた。彼女が俺を信用してくれるように、俺の望みを叶えてくれるように、喉がイカれそうになるほど声を絞り出してぶつけた。

 彼女は無表情のままで、相変わらずその胸中を察することはできない。しばらく無言のまま睨み合いが続いたが、やがて彼女は「ふぅ……」っと息を吐くと、力強い――意思の籠った眼差しを俺に向けた。

 「それでも……私は帰らないよ」

 「なっ!? ……なんでだよ……お願いだから帰ってくれよ!! 頼むから……なぁ……」

 思わず涙が零れ落ちる。どうして、自らの命の危険を知りながらも、彼女は意固地を通し続けるのか。俺の嘆きを理解してくれないのか。わけがわからなくなって、感情がゴチャゴチャになっていた。

 そんな俺を見つめていた彼女が、ふと言葉を漏らした。

 「――渡名くんは、等価交換というものを知ってる?」

 「え……」

 「一つのものを得れば、一つのものが失われる。得と損というのはいつだって表裏一体で、幸福と不幸は等しく存在しているの」

 そう言って、彼女は右手と左手それぞれの人差し指を立て、自分自身と俺を指さした。

 「なんとなくわかってるんじゃないの? 私を助ければ――今度は自分が死ぬってことが」

 その口調は平坦だったが、しかし中には鋭いものが含まれていた。俺を非難するために放たれた言葉であるということは、明白だった。

 彼女の言ったことは、まさしくその通りだった。この時代の俺がこの公園に来て、彼女がいないのを見て何をするかといえば、おそらくしばらく待つのだろう。待った後、彼女は来ないのだと落ち込んで帰るはずだ。そのタイミングが、俺が四年前に道路に飛び出したタイミングと一致する――そんな予感が、不思議と心の中にあるのだ。そしてこの予感は、きっと現実になるのだろう。

 「私が生き残って、代わりに渡名くんが死んで、今度はその咎を私に背負わせるつもり? 私に一生苦しめと言うのかしら」

 「違うッ!! これは俺が望んでることなんだ! 与継が罪の意識を感じることなんて……」

 「罪の意識を感じないなんて、そんなの無理に決まってるでしょ? 私に助けられた渡名くんなら、それくらいわかるはずよ」

 「……っ!」

 何も言えなかった。

 彼女は俺を助けるために、自らが犠牲になる道を選んだ。そのことに気づいていてなお俺はここまで苦しんできたのだ。それを彼女にまで味わわせることになるのは、俺だって本望じゃない。

 でも、それでも……。

 「それでも……俺は与継に生きていてほしいんだよ! だって……俺は…………ッ!!」




 ――――体が暖かくなるのを感じた。

 それが、彼女が俺の体を抱きしめてくれているからだということを理解するまでには、かなりの時間がかかってしまった。

 「えっ! ちょっ……与継!?」

 「いいから、少し黙ってて」

 ギュッと彼女の腕の力が強まるのを感じ、仕方なく黙り込む。この状況で、涙やらでぐしゃぐしゃになった顔のまま好きな人に抱き付かれていることを、俺は嬉しいんだか悲しいんだかよくわからないまま、しばらくの間その温もりを受け止めていた。

 「…………よし」

 五分ほど経っただろうか。俺としてはそれ以上に長く長く感じる時間が流れた後、彼女はゆっくりと俺の体を包んでいた腕を離した。

 「あの……与継?」

 俺はどうしていいかわからずに、とりあえず彼女に声をかけてみた。彼女はわずかに俯き気味で、その表情を窺い知ることはできない。

 気まずい沈黙の後、しばらくして彼女が上げた顔に浮かんでいたのは、まるで予想だにしていなかった――とても優しい微笑みだった。

 「私ね……嬉しかったの」

 「え……」

 彼女にしては珍しくとつとつと、時々恥ずかしそうに視線を逸らしながら、言葉を紡いでいく。

 「渡名くんとずっと同じクラスでいられていることも、渡名くんが私にたくさん話しかけてくれたことも、渡名くんが私に話があるって呼び出してくれたことも、渡名くんが私を助けるためにわざわざ未来からやって来てくれたことも……。何もかもが、私にとっては嬉しいことばかりだった。四年経っても想い続けてくれた渡名くんのことが……私……」

 気づけば、彼女も瞳に涙を湛えていた。それはいつも強気で折れることのない彼女が、初めて見せた弱さだったのかもしれない。

 「だからね、渡名くん。……生きて。私をずっと……何年でも何十年でも、忘れないで。私はそれだけで、とっても幸せだから……」

 それは、彼女の祈り――そして強さだった。

 自身の死を告げられ、絶望し、その先になお希望を求めることができる。抗うのではなく、導く――彼女は今、何よりも俺を悲しませないことを考えているのだ。

 涙が溢れ出て止まらなかった。彼女の信念が、意気込みが強く伝わるからこそ、俺はそれを無下にすることはできない。たとえそれが、彼女を殺すことになっても……。

 「ずるいよなぁ、与継は……」

 完敗だった。俺は彼女に、与えられてばかりだ。命も、想いも、意志の強さも……。他人のために全てを捧げられる優しさを持つ彼女だからこそ、俺は好きになったのかもしれない。


 「さぁ……あなたはもうここを去りなさい。もうすぐ、『渡名くん』が来るんでしょう?」

 「……その強調の仕方はひどいなぁ」

 苦笑する俺に、彼女はクスッと微笑んでみせた。

 「あなたは渡名くんであっても、やっぱり渡名くんじゃないもの。全く同じってわけにはいかないわ」

 少しだけ、この時代の俺が羨ましくもあるが、既に俺は四年前に一度美味しい思いをしているのだ。今回はこっちの自分に譲ってやるのもいいだろう。

 ――そう言えば、さっき言いかけて結局言えなかったことがあった。今さら言うのも憚られるが、これが最後の機会なのだし、バチが当たるということもないと思う。俺は一呼吸した後、伝え損ねていた言葉を口にしようとした。

 「……なあ、与継。俺、お前のこと……」

 「しっ!!」

 しかしそこで、唇の前に突き出された与継の指によって、その言葉は遮られてしまった。

 「それは後で渡名くんから直接聞くから、今は遠慮しておくわ」

 にっ、と笑う与継の顔は、これまでで一番かわいい笑顔だった。


 「じゃあ、俺は行くよ。……『渡名くん』によろしく」

 意趣返しとばかりにわざと強調させていったのだが、与継は「そうね」と言うだけで、大して堪えてもいないようだった。悔しさは残るが、このままだと本当にこの時代の自分と鉢合わせしてしまう可能性がある。俺は急いで公園の出入口まで向かうことにした。

 さて、問題はどうやって元の世界に帰るかだが……。おそらく、案外すぐに帰れるのではないだろうか。俺は目的を果たした。当初の予定とは異なるものの、俺はこの世界でするべきことをし、得るべきものを得た。もうこの世界に留まり続ける必要はないのだ。タイムスリップの原因があの事故だったとすれば、きっと俺は……元いた場所に帰ることができる。 

 「――渡名くん!!」

 不意に、後ろから呼びかけられた。振り返ると、当然だが、そこには与継の姿があった。

 「大好き!!」

 突然、告白された。

 「私は渡名くんが好きよ! これからも……ずっと!」

 「……ははは」

 まったく……それは、卑怯ってもんだよ……。

 俺は再び向かうべき方向に向き直ると、そのまま何も言わずに歩き始めた。

 この先は、これから来るやつに任せればいい。俺はもう十分だ。むしろ、二回もこんな幸福を味わえるなんて、俺は本当に幸せな男だよ。

 公園を出て信号を渡り、駅の構内へと入っていく途中に、俺は道路の向こう側に公園目がけて疾走する一人の少年の姿を目にした。

 ――耐えるんだ。たとえ今日からの日々がどんなに苦しいものでも、お前は四年後に必ず救われるんだ。だから、今はとにかく自分の命を大切にしろよ。


 それが、彼女の願いなのだから……。




          ■          ■          ■




 目の前には、そびえ立つ灰色の棒状のもの。

 傍らには、無造作に倒されている自転車。

 ひどくあっさりと、俺の時間旅行は終わりを告げた。


 「…………帰るか」

 誰かが聞いているわけでもないのに、俺は自然とそう呟いた。自転車を立たせ、どこも壊れている箇所がないのを確認すると、サドルに座り込みペダルに足をかける。

 辺りは一面に雪が積もっていた。俺が過去に戻ってからどれほどの時間が経っているのかはわからないが、直前に振り始めた雪がここまで積もったのだろう。

 とにかく早く家に帰って、とりあえず風呂に入りたい気分だった。ここは……なんだかとても、寒さを強く感じるのだ。


 「……生きるよ、俺は」

 クリスマスに相応しい、白く美しい帰り道。

 俺はスリップしないよう、いつも以上に慎重に、ペダルを漕ぎ始めた。


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