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真っ白な天井。
瞼を開くと、その光景が目に飛び込んだ。
こびり付いた汚れが犬の形に見えるのは、間違いなく我が家の天井だ。背中に感じる、よく知る感触は、自分がベッドに横たわっていることを自覚させる。
上半身を起こし、額に手を当てる。
なんだか、長く、恐ろしい夢でも見ていたようだ。非現実的で、非日常的な、そんな夢を。
未だにぼんやりとする頭を掻きながら、顔を洗おうとベッドから足を降ろした。その時。
寝起きでほとんど閉じている視界の中を、何かが横切ったのが見えた。目を擦りながらそれを確認する。
一口だけかじられたキャベツ。
またぽーんと何かが飛んできた。次はジャガイモ。
俺の家は借家で、玄関から今いるリビングルームまでが一直線になっている。その間の空間に調理器具が設置されているため、そこに食事用のテーブルやら冷蔵庫などを置いているのだが――
今度は玉ねぎが飛んできた、いい加減にしてくれ。それと同時に、リビングからは、壁に遮られて見えない位置にある冷蔵庫のあたりから「おええ」という声が漏れてきた。
何かがいる。
「だ、誰だ!」
姿の見えぬ何者かに叫びかける。 しかし、返事の代わりに飛んできたのはトマトだった。反対側の壁にぶつかり、果汁が飛び散る。
泥棒か? 意を決した俺は、周りに何か武器になりえそうなものがないかを確認する。
……枕しかない。
枕をむんずと掴み、ゆっくりと冷蔵庫に近づく。
しかし、既にそれはこちらに振り返っていた。
二つの赤い目。それが俺をしっかりと見ている。
今まで曖昧な記憶だったものが、現実となって濁流のように俺の中に流れ込んできた。
あれは夢じゃない。
口の周りを血のようなもので染めていた少女は、動揺する俺をみてにやりと口角を上げた。
『殺される』
その単語のみが俺の中を駆け巡る。そして、恐怖のあまり、ぺたんと情けなくその場に座り込んでしまった。
それを見た少女は、ゆっくりと立ち上がり、、動けない俺の傍に近づいて囁いた。
「おはよう」
それだけを言うと、少女はまた冷蔵庫の前に座り込み、がさごそと漁り始めた。
「……お前何やってんだ」
「ごはん」
そう言いながら、足元にあったマヨネーズを拾い上げて、匂いを嗅ぎ始めた。そして、食べられるとでも判断したのか、キャップを外して咥えた。
「は……?」
少女のあまりにも間延びした物言いに、死を覚悟した自分が恥ずかしくなるとともに腹立たしくなり、思わず手元にあった枕を投げつけてしまった。
「あ」
びたーんと小気味のいい音を鳴らして、少女の後頭部に直撃する。その衝撃で、少女の口からマヨネーズが少し漏れた。
枕がゆっくりと落ちる。
少女が首を少し回して、片目で見据えてきた。見ようによっては睨んでいるようにも見える。いや、睨んでいる。
やってしまった。助かっていたかもしれない自分の命を自ら捨てるようなことをしてしまった。俺は深いため息をつきながら、頭を抱える。
「洋太」
不意に名前を呼ばれる。どうして名前を知っているかなんて疑問は、恐怖によって消え失せた。
「この黄色い飲み物はおいしいね。なんて言うの?」
既にほとんど飲み干されているマヨネーズの容器をこちらに近づけて言った。
「え、ああ、それはマヨネーズだよ」
予期せぬ質問に意表を突かれ、思わず吃ってしまった。
少女は、「へえぇ」と言いながら空の容器をじっと観察し始めた。その姿はまるで、珍しい物を見つけて喜ぶ無邪気な子供のようにも思えた。
「これはもう無いの? 探したけど、見つからない」
「普通はそんなに一度に使わないから、一つしかないや」
「じゃあ後で買いに行こう」
さも当然のようにそう言い放った少女は、冷蔵庫の扉をばたんと閉めた。
「水はどこ?」
「あ、ああ、後ろの台所の水を使ってくれ」
指を指して台所の位置を示す。少女はゆっくりと台所に向かったが、使い方が分からないとでもいうように、首をかしげている。蛇口を観察して、ハンドルを捻れば水が出る事を理解したのか、ようやく水をを出し、顔に付いたマヨネーズやらおそらくケチャップだろうと思われるものを洗い始めた。
少女を後ろから見ていて思ったことがある。生では口にしないような野菜ですらかじったり、マヨネーズを知らない、更には蛇口の扱い方がたどたどしいのは、普通に考えて変だ。まるでこの世界のものを初めて見た。そのようにさえも感じられた。
顔を洗い終わったようで、自分のローブでごしごしと顔を拭く。
そして、足元に散らかった野菜やら調味料など視界にすら入っていないかのように、その上を横切り、ベッドに腰掛ける。
「さあ洋太、魂を共有しよう」
当然に脈絡もないようなことを言い出す少女。
「は、はあ!? 何言ってんだよお前!」
「私はお前じゃない。アリア」
そういえば、そう名乗っていたな。思い出した。その前後の思い出したくもない恐ろしい記憶まで蘇ってくるが。
「そうか。アリア、魂とやらは俺だけのものだ。昨日も言ったけど他を当たってほしい。」
自分の本音を素直に話した。以前ならば、命惜しさにその場限りの嘘の一つや二つを吐いていたかもしれない。けれど、この短い時間にアリアという人柄に触れて、どうもそこまで恐れる必要は無いのかもしれないと思えるようになった。俺が感じているアリアと、実際のアリアは違うかもしれない。ただ、自分の中にあるまだ知らない何かが、こいつは大丈夫だと教えてくれているような気がするのだ。
アリアは、「そう……」とだけ呟いて、あとはまだ上がりきっていない太陽をじっと見つめていた。
窓に射し込む暖かな陽光が、アリアの横顔を照らす。そこにかかる銀の糸が光を反射して、一層その美しさを際立たせている。あまりにも現実離れなその姿に、俺はしばらく見とれていた。
「綺麗だね……」
アリアが少し悲しげに呟いた。返事をしようと思ったが、その言葉を慌てて飲み込む。俺ではなく、俺の知らない誰かに話しかけているように思えたからだ。
「洋太」
外を見ていたアリアが、いつの間にかこちらに視線を戻していた。その表情からは幼さは一切消えていた。
アリアは俺の返事を待つわけでもなく言葉をつなげた。
「洋太。私、いや私達はあなた方人間に危害を加えるつもりは一切ありません」
急に大人びた口調で話すアリアに面を食らってしまった。アリアはそれを感じたのか、少しくすっと笑みを浮かべた。
「ですが、私達の力だけではあなた方を守りきる事は難しいでしょう。帝国の力はそれほど圧倒的なのです」
次第に険しい表情になる。
「あなたを危険に巻き飲んでしまうのはわかっています。ですがそれを承知で、私達に協力をしていただけませんか……」
最後はほとんど消え入るようなか細い声だった。