綾乃
真昼間の公園は、妙に静かだった。
都心から少し外れた場所にある小さな公園。平日の昼間だから、子供はいない。ベンチに座っているのは、コンビニの袋を持ったサラリーマンや、暇そうな老人ぐらいだ。
俺は、その隅のベンチに一人で座っていた。
結婚はしていない。
一人暮らしだ。
恋人がいたこともない。
若い頃から縁がなかった。
いや、縁がなかったというより、女の見る目がなかったのだと思う。
俺は真面目だった。
浮気もしない。酒も賭け事もやらない。暴力も振るわない。
なのに、女は俺を選ばなかった。
選ぶのは、顔がいい男や、軽いことを言える男や、仕事ができるふりをしている男ばかりだ。
馬鹿馬鹿しい。
俺みたいな男の良さがわからないのなら、こっちから願い下げだ。
そう思っているうちに、四十二になっていた。
営業職として入社した会社では二十年近く働いているが、役職はついていない。後輩にも抜かれている。
理由は簡単だった。
仕事ができないからだ。
俺自身も、それはわかっていた。
覚えが悪い。気が利かない。ミスが多い。愛想も悪い。
だが、だからといって全部俺が悪いとも思っていなかった。
そもそも教え方が悪い。
上司の言い方がきつい。
会社の空気が陰湿だ。
向いていない仕事をやらされている。
もっと俺を評価してくれる環境なら違ったはずだ。
そういう考えが、頭の中にずっとあった。
昨日、会社を辞めさせられた。
正確には自主退職という形だったが、実質的には解雇みたいなものだ。
窓際の会議室で、課長と人事に囲まれながら言われた。
「田辺さん、このままだと厳しいです」
「会社としても、もうサポートが難しくてですね」
サポート。
笑わせる。
会社のために二十年働いた人間に向かって。
俺はコンビニのおにぎりを噛みながら、苛立ちを思い出していた。
退職届を書く時、人事の若い女が露骨に安心した顔をしていた。
あれは腹立たしかった。
邪魔者が消えてよかった、と顔に書いてあった。
「…クソが」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。
「そんな顔するくらい嫌だったんだ」
声がした。
俺は顔を上げた。
ベンチの反対側に、いつの間にか女の子が座っていた。
小学生ぐらいだろうか。
白いブラウスに紺色のスカート。
長い黒髪。
顔立ちは整っているが、不思議と印象に残りにくい。
俺は眉をひそめた。
「…いつからいた?」
「そんなのどうでもいいでしょ?」
女の子は足をぶらぶらさせながら言った。
「おじさん、すごく嫌そうな顔してたよ?」
俺は舌打ちした。
「見世物じゃねえんだよ」
女の子は穏やかに笑った。
「でも、そういう顔になるくらい辛かったんだなって思っただけ」
自分よりもずっと年下の相手に言われて、少しだけ気まずくなる。
「…別に」
「無理して平気なふりしなくていいのに」
女の子は空を見上げた。
「"仕事一筋"で頑張ってきたのに、急に全部なくなると苦しいよね」
俺はおにぎりを持つ手を止めた。
「…なんで、頑張ってたってわかるんだよ」
「頑張ってない人は、そんな顔にならないよ」
その瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
そんなことを言われたのは久しぶりだった。
「…君、学校は?」
「行ってない」
「不登校?」
女の子は笑う。
「別に、必要とされてないから」
俺は顔をしかめた。
「そんなこと言うなよ。親は?」
「お家は帰りたくなーい」
さらりと返された。
だが、悲壮感はなかった。
むしろ、どうでもよさそうだった。
俺は居心地の悪さを覚えながらも、なぜか立ち去れなかった。
「…名前は?」
「綾乃」
「俺は恒一」
「恒一さん?」
「まあ」
綾乃は小さく頷いて、笑みを浮かべた。
「恒一さんって、優しそうだね」
俺は苦笑した。
「優しい奴は嫌われねえよ」
「嫌われたの?」
誰かにそう言われると、声が出なくなった。
綾乃は急かさなかった。
ただ、静かに待っている。
それが逆に話しやすかった。
「…会社でさ」
気づけば喋っていた。
上司のこと。
後輩のこと。
ミスを笑われたこと。
会議で無視されたこと。
退職を勧められたこと。
綾乃は途中で一度も否定しなかった。
「ちゃんとやろうとしてたのにね」
俺の胸の中で何かが溶けていく。
理解してくれる人がいる。
それだけで、こんなに楽になるのかと思った。
「…でもさ、結局、俺が悪いんだろうな」
綾乃はすぐに否定した。
「そんなことないよ」
「でも仕事できなかったし」
「できない人を追い詰めていい理由にはならないよ」
優しい声だった。
「苦手なら助ければいいのに。大人って、できない人を嫌うよね」
思わず笑った。
「君、小学生のくせに変なこと言うな」
「だって本当だもん」
綾乃は少しだけ頬を膨らませた。
「恒一さんだって、最初からダメだったわけじゃないでしょ」
その言葉が妙に刺さった。
最初からダメだったわけじゃない。
そう思いたかった。
「…なあ」
「なに?」
「君、一人なのか」
「うん」
綾乃は笑った。
「誰も私なんか気にしないし」
俺は眉をひそめた。
こんな小さい子が、昼間の公園で一人。
普通じゃない。
だが、警察に連れていこうとは思えなかった。
今時、俺みたいなのは話しかけただけで事案になる。
それに綾乃が嫌がりそうだったし、何より。
この時間が終わるのが嫌だった。
俺を否定しない相手。
馬鹿にしない相手。
それが、あまりにも心地よかった。
綾乃が俺の顔を覗き込んだ。
「帰りたくないの?」
「…まあ」
「お家、嫌い?」
「嫌いっていうか」
俺は苦笑した。
「帰っても一人だしな」
綾乃は少し考えるように首を傾げた。
「じゃあ、寂しいんだ」
反射的に否定しようとした。
だが、できなかった。
寂しい。
その通りだった。
四十二になって、一人でコンビニ飯を食って、昼間の公園で時間を潰している。
未来なんてなかった。
「…そうかもな」
綾乃は柔らかく笑った。
「恒一さん、ちゃんと寂しいって言えるんだね。えらいえらい。」
胸の奥が熱くなるのを感じた。
こんな小さな子に。
こんなに救われている。
夕方が近づく頃には、俺は綾乃と並んで歩いていた。
公園を出て、川沿いの道を歩く。
綾乃は時々、俺の袖を軽く掴んだ。
そのたびに、胸が妙にざわついた。
「綾乃」
「なに?」
「今日、どうするんだ」
「どうって?」
「いつ帰るとか」
綾乃は少し黙ったあと、小さく笑った。
「帰らないよ」
俺は立ち止まった。
「…は?」
「だって、どこ行っても邪魔になるし」
綾乃は少し笑みを含んで言った。
俺は苛立った。
こんな子供を放っておく大人たちに。
そして、そんな状況なのに、平然としている綾乃自身にも。
「邪魔なわけあるか」
思わず強い声が出た。
綾乃は少し目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「恒一さん、怒ってくれるんだ」
「当たり前だろ」
「嬉しい」
胸が苦しくなる。
この子には、俺しかいない。
そう思った。
気づけば、口に出していた。
「……うち来るか」
綾乃が瞬きをした。
「いいの?」
「一人でいるよりマシだろ」
「でも迷惑じゃない?」
「迷惑なわけない」
綾乃は少し俯いて、それから笑った。
「恒一さんって、やっぱり優しいね」
その言葉が、たまらなく心地よかった。
俺の部屋は狭かった。
古いアパートの一室。
コンビニ弁当の空き容器と、脱ぎっぱなしの服が散らかっている。
天井の隅には、古い雨漏りの染みが広がっていた。
何年も放置されたような茶色い輪が、照明の周りまで滲んでいる。
俺はそれを見ないふりをしていた。
今さら修理を頼む金も、気力もなかった。そもそも、そんなの大家の仕事だ。俺が気にすることじゃない。
「ごめんな、汚くて」
「生活感があって安心するよ」
綾乃は部屋を見回した後、天井の雨漏りの染みを見て静かに笑う。
俺は妙に緊張していた。
誰かを部屋に入れたことなんて、ほとんどない。
まして相手は、こんな小さな女の子だ。
普通じゃない。
わかっていた。
なのに、綾乃が隣にいるだけで、部屋が温かく感じた。
「腹、減ってないか。なんか作るよ」
「ほんと?楽しみ」
冷蔵庫を開けた。
中にはビールと卵しかなかった。
「…悪い」
綾乃が後ろから覗き込む。
「ふふ」
「笑うなよ」
「だって、ちょっとかわいかったから」
耳が熱くなる。
かわいい。
そんなことを言われたことなんてない。
綾乃は自然に俺の隣へ座った。
距離が近い。
「恒一さん」
「ん?」
綾乃の声が、一段やわらかくなった気がした。
「私ね、恒一さんといると安心する」
喉が鳴った。
「…そうか」
綾乃は俺を見上げる。
「他の大人と違ってちゃんと見てくれるから」
その目は真っ直ぐだった。
胸の奥が痺れるようだった。
この子を幸せにできるのは、俺だけだ。
そんな考えが浮かぶ。
綾乃を傷つける奴らから守って。
温かい場所を作って。
俺だけを頼るようにして。
この子がもう、どこにも行かなくていいようにして。
俺ならできる。
誰にも選ばれなかった俺でも、この子だけは幸せにできる。
そう思った。
「…綾乃」
「なに?」
俺は迷った。
だが、言葉は止まらなかった。
「ずっとここにいろよ」
綾乃は口元が緩むのを堪えて小さく首を傾げる。
「一緒に暮らすってこと?」
「…ああ」
「恒一さんと?」
「嫌か?」
綾乃は少しだけ目を細める。
「嫌じゃないよ」
顔を伏せて震えた声で言った。
胸が跳ねる。
「ほんとか」
「うん。だって恒一さん、私のこと必要としてくれてるもん」
その言葉に、頭がくらくらした。
必要としている。
必要とされている。
四十二年間、欲しかったものが、今ここにある気がした。
「俺が幸せにしてやる」
口から、自然に言葉が出た。
「綾乃が帰りたくないなら、帰らなくていい。誰もお前を必要としてないなら、俺が必要としてやる。俺が守る。俺が、ちゃんと幸せにしてやる」
言っているうちに、自分でも胸が熱くなった。
俺は正しいことをしている。
この子を救おうとしている。
そんな気がした。
綾乃は伏せていた顔を上げた。うっすら頬が紅潮している。
潤んだ瞳に、自分が映っている。
俺は息を呑んだ。
この子は俺を見ている。
俺だけを見ている。
その瞬間だった。
ぴし、と音がした。
顔を上げた。
天井に大きなひびが入っている。
「…え?」
次の瞬間、天井の照明が落ちた。
激しい音。
視界が白く弾ける。
何が起きたのかわからなかった。
頭に衝撃が走った。
床に倒れる。
遅れて、猛烈な痛みが全身を突き抜けた。
「が、ぁ……!」
崩れた天井材と照明器具が、俺の体に直撃していた。
頭から血が流れる。
右足の感覚がない。
呼吸をするたび、胸が痛む。
「綾、乃…」
震える手を伸ばした。
綾乃は少し離れた場所に立っていた。
怪我どころか、汚れた様子もない。
「た、すけ…」
声が掠れる。
綾乃は黙って俺を見下ろしていた。
表情が違った。
今までの優しい笑顔じゃない。
嘲笑うような顔だった。
「あー、笑うの堪えるのってこんなに大変なんだ。」
「…あ」
何かがおかしい。
ずっと、おかしかった。
「綾乃…?」
綾乃はゆっくりしゃがみ込んだ。
俺の顔を覗き込む。
口元が、少しずつ吊り上がる。
「恒一さんって」
声が変わっていた。
人を見下すような、楽しそうな声。
「ほんとに、自分のことばっかりなんだね」
背筋が凍る。
「ち、が…」
「かわいそうな女の子を助けたいんじゃなくて、自分を必要としてほしかっただけ」
綾乃はくすくす笑った。
「優しくしたら、自分のものにできると思ったんだ」
「違…俺は…」
「私を幸せにしてやる、だっけ?」
綾乃は口元に手を当てて笑った。
「すごいね。自分の生活もまともにできないのに。」
涙が滲む。
「やめ…」
「でも、頑張ったんだもんね」
綾乃はわざとらしく高い声を出す。
「辛かったよね。苦しかったよね。寂しかったよね」
次の瞬間、また笑う。
「ほんと面白い、おかげでしばらく退屈せずに済みそうだよ。」
呼吸が苦しくなる。
頭が痛い。
怖い。
「た、すけ…」
綾乃は首を傾げた。
「どうして?」
その声と表情は、本当に不思議そうだった。
「ダメな人って、何やらせてもダメなんだね」
視界が滲む。
「かわいそう」
全然そんなこと思っていない声だった。
むしろ、面白くて仕方ないみたいな声。
綾乃はさらに続けた。
「会社でもいらなくなって、女の子にも気持ち悪がられて、最後は天井に潰されるんだ」
くすくす笑う。
「ふふ。才能あるかも」
俺は涙を流しながら、綾乃を見た。
助けてくれると思っていた。
俺だけは違うと思っていた。
「ねえ、恒一さん」
綾乃は顔を近づける。
「自分だけは特別だと思ってた?そんなわけないじゃん」
何も言えなかった。
綾乃は立ち上がった。
鼻歌を歌いながら玄関へ向かう。
「あ、でも、ある意味特別かも」
楽しそうに笑う。
「ここまで何もない人、あんまり見たことない」
扉が閉まる。
部屋に静寂が戻る。




