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綾乃

綾乃

作者: N
掲載日:2026/05/07


 真昼間の公園は、妙に静かだった。


 都心から少し外れた場所にある小さな公園。平日の昼間だから、子供はいない。ベンチに座っているのは、コンビニの袋を持ったサラリーマンや、暇そうな老人ぐらいだ。


 俺は、その隅のベンチに一人で座っていた。


 結婚はしていない。


 一人暮らしだ。


 恋人がいたこともない。


 若い頃から縁がなかった。


 いや、縁がなかったというより、女の見る目がなかったのだと思う。


 俺は真面目だった。


 浮気もしない。酒も賭け事もやらない。暴力も振るわない。


 なのに、女は俺を選ばなかった。


 選ぶのは、顔がいい男や、軽いことを言える男や、仕事ができるふりをしている男ばかりだ。


 馬鹿馬鹿しい。


 俺みたいな男の良さがわからないのなら、こっちから願い下げだ。


 そう思っているうちに、四十二になっていた。


 営業職として入社した会社では二十年近く働いているが、役職はついていない。後輩にも抜かれている。


 理由は簡単だった。


 仕事ができないからだ。


 俺自身も、それはわかっていた。


 覚えが悪い。気が利かない。ミスが多い。愛想も悪い。


 だが、だからといって全部俺が悪いとも思っていなかった。


 そもそも教え方が悪い。


 上司の言い方がきつい。


 会社の空気が陰湿だ。


 向いていない仕事をやらされている。


 もっと俺を評価してくれる環境なら違ったはずだ。


 そういう考えが、頭の中にずっとあった。


 昨日、会社を辞めさせられた。


 正確には自主退職という形だったが、実質的には解雇みたいなものだ。


 窓際の会議室で、課長と人事に囲まれながら言われた。


「田辺さん、このままだと厳しいです」


「会社としても、もうサポートが難しくてですね」


 サポート。


 笑わせる。


 会社のために二十年働いた人間に向かって。


 俺はコンビニのおにぎりを噛みながら、苛立ちを思い出していた。


 退職届を書く時、人事の若い女が露骨に安心した顔をしていた。


 あれは腹立たしかった。


 邪魔者が消えてよかった、と顔に書いてあった。


「…クソが」


 思わず漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。


「そんな顔するくらい嫌だったんだ」


 声がした。


 俺は顔を上げた。


 ベンチの反対側に、いつの間にか女の子が座っていた。


 小学生ぐらいだろうか。


 白いブラウスに紺色のスカート。


 長い黒髪。


 顔立ちは整っているが、不思議と印象に残りにくい。


 俺は眉をひそめた。


「…いつからいた?」


「そんなのどうでもいいでしょ?」


 女の子は足をぶらぶらさせながら言った。


「おじさん、すごく嫌そうな顔してたよ?」


 俺は舌打ちした。


「見世物じゃねえんだよ」


 女の子は穏やかに笑った。


「でも、そういう顔になるくらい辛かったんだなって思っただけ」


 自分よりもずっと年下の相手に言われて、少しだけ気まずくなる。


「…別に」


「無理して平気なふりしなくていいのに」


 女の子は空を見上げた。


「"仕事一筋"で頑張ってきたのに、急に全部なくなると苦しいよね」


 俺はおにぎりを持つ手を止めた。


「…なんで、頑張ってたってわかるんだよ」


「頑張ってない人は、そんな顔にならないよ」


 その瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 そんなことを言われたのは久しぶりだった。


「…君、学校は?」


「行ってない」


「不登校?」


 女の子は笑う。


「別に、必要とされてないから」


 俺は顔をしかめた。


「そんなこと言うなよ。親は?」


「お家は帰りたくなーい」


 さらりと返された。


 だが、悲壮感はなかった。


 むしろ、どうでもよさそうだった。


 俺は居心地の悪さを覚えながらも、なぜか立ち去れなかった。


「…名前は?」


「綾乃」


「俺は恒一」


「恒一さん?」


「まあ」


 綾乃は小さく頷いて、笑みを浮かべた。


「恒一さんって、優しそうだね」


 俺は苦笑した。


「優しい奴は嫌われねえよ」


「嫌われたの?」


 誰かにそう言われると、声が出なくなった。


 綾乃は急かさなかった。


 ただ、静かに待っている。


 それが逆に話しやすかった。


「…会社でさ」


 気づけば喋っていた。


 上司のこと。


 後輩のこと。


 ミスを笑われたこと。


 会議で無視されたこと。


 退職を勧められたこと。


 綾乃は途中で一度も否定しなかった。


「ちゃんとやろうとしてたのにね」


 俺の胸の中で何かが溶けていく。


 理解してくれる人がいる。


 それだけで、こんなに楽になるのかと思った。


「…でもさ、結局、俺が悪いんだろうな」


 綾乃はすぐに否定した。


「そんなことないよ」


「でも仕事できなかったし」


「できない人を追い詰めていい理由にはならないよ」


 優しい声だった。


「苦手なら助ければいいのに。大人って、できない人を嫌うよね」


 思わず笑った。


「君、小学生のくせに変なこと言うな」


「だって本当だもん」


 綾乃は少しだけ頬を膨らませた。


「恒一さんだって、最初からダメだったわけじゃないでしょ」


 その言葉が妙に刺さった。


 最初からダメだったわけじゃない。


 そう思いたかった。


「…なあ」


「なに?」


「君、一人なのか」


「うん」


 綾乃は笑った。


「誰も私なんか気にしないし」


 俺は眉をひそめた。


 こんな小さい子が、昼間の公園で一人。


 普通じゃない。


 だが、警察に連れていこうとは思えなかった。


 今時、俺みたいなのは話しかけただけで事案になる。

 

 それに綾乃が嫌がりそうだったし、何より。


 この時間が終わるのが嫌だった。


 俺を否定しない相手。


 馬鹿にしない相手。


 それが、あまりにも心地よかった。


 綾乃が俺の顔を覗き込んだ。


「帰りたくないの?」


「…まあ」


「お家、嫌い?」


「嫌いっていうか」


 俺は苦笑した。


「帰っても一人だしな」


 綾乃は少し考えるように首を傾げた。


「じゃあ、寂しいんだ」


 反射的に否定しようとした。


 だが、できなかった。


 寂しい。


 その通りだった。


 四十二になって、一人でコンビニ飯を食って、昼間の公園で時間を潰している。


 未来なんてなかった。


「…そうかもな」


 綾乃は柔らかく笑った。


「恒一さん、ちゃんと寂しいって言えるんだね。えらいえらい。」


 胸の奥が熱くなるのを感じた。


 こんな小さな子に。


 こんなに救われている。


 夕方が近づく頃には、俺は綾乃と並んで歩いていた。


 公園を出て、川沿いの道を歩く。


 綾乃は時々、俺の袖を軽く掴んだ。


 そのたびに、胸が妙にざわついた。


「綾乃」


「なに?」


「今日、どうするんだ」


「どうって?」


「いつ帰るとか」


 綾乃は少し黙ったあと、小さく笑った。


「帰らないよ」


 俺は立ち止まった。


「…は?」


「だって、どこ行っても邪魔になるし」


 綾乃は少し笑みを含んで言った。


 俺は苛立った。


 こんな子供を放っておく大人たちに。


 そして、そんな状況なのに、平然としている綾乃自身にも。


「邪魔なわけあるか」


 思わず強い声が出た。


 綾乃は少し目を丸くしたあと、ふっと笑った。


「恒一さん、怒ってくれるんだ」


「当たり前だろ」


「嬉しい」


 胸が苦しくなる。


 この子には、俺しかいない。


 そう思った。


 気づけば、口に出していた。


「……うち来るか」


 綾乃が瞬きをした。


「いいの?」


「一人でいるよりマシだろ」


「でも迷惑じゃない?」


「迷惑なわけない」


 綾乃は少し俯いて、それから笑った。


「恒一さんって、やっぱり優しいね」


 その言葉が、たまらなく心地よかった。


 俺の部屋は狭かった。


 古いアパートの一室。


 コンビニ弁当の空き容器と、脱ぎっぱなしの服が散らかっている。


天井の隅には、古い雨漏りの染みが広がっていた。

何年も放置されたような茶色い輪が、照明の周りまで滲んでいる。


俺はそれを見ないふりをしていた。

今さら修理を頼む金も、気力もなかった。そもそも、そんなの大家の仕事だ。俺が気にすることじゃない。


「ごめんな、汚くて」


「生活感があって安心するよ」


 綾乃は部屋を見回した後、天井の雨漏りの染みを見て静かに笑う。


 俺は妙に緊張していた。


 誰かを部屋に入れたことなんて、ほとんどない。


 まして相手は、こんな小さな女の子だ。


 普通じゃない。


 わかっていた。


 なのに、綾乃が隣にいるだけで、部屋が温かく感じた。


「腹、減ってないか。なんか作るよ」


「ほんと?楽しみ」


 冷蔵庫を開けた。


 中にはビールと卵しかなかった。


「…悪い」


 綾乃が後ろから覗き込む。


「ふふ」


「笑うなよ」


「だって、ちょっとかわいかったから」


 耳が熱くなる。


 かわいい。


 そんなことを言われたことなんてない。


 綾乃は自然に俺の隣へ座った。


 距離が近い。


「恒一さん」


「ん?」


 綾乃の声が、一段やわらかくなった気がした。


「私ね、恒一さんといると安心する」


 喉が鳴った。


「…そうか」


 綾乃は俺を見上げる。


「他の大人と違ってちゃんと見てくれるから」


 その目は真っ直ぐだった。


 胸の奥が痺れるようだった。


 この子を幸せにできるのは、俺だけだ。


 そんな考えが浮かぶ。


 綾乃を傷つける奴らから守って。


 温かい場所を作って。


 俺だけを頼るようにして。


 この子がもう、どこにも行かなくていいようにして。


 俺ならできる。


 誰にも選ばれなかった俺でも、この子だけは幸せにできる。


 そう思った。


「…綾乃」


「なに?」


 俺は迷った。


 だが、言葉は止まらなかった。


「ずっとここにいろよ」


 綾乃は口元が緩むのを堪えて小さく首を傾げる。


「一緒に暮らすってこと?」


「…ああ」


「恒一さんと?」


「嫌か?」


 綾乃は少しだけ目を細める。


「嫌じゃないよ」


 顔を伏せて震えた声で言った。

 

 胸が跳ねる。


「ほんとか」


「うん。だって恒一さん、私のこと必要としてくれてるもん」


 その言葉に、頭がくらくらした。


 必要としている。


 必要とされている。


 四十二年間、欲しかったものが、今ここにある気がした。


「俺が幸せにしてやる」


 口から、自然に言葉が出た。


「綾乃が帰りたくないなら、帰らなくていい。誰もお前を必要としてないなら、俺が必要としてやる。俺が守る。俺が、ちゃんと幸せにしてやる」


 言っているうちに、自分でも胸が熱くなった。


 俺は正しいことをしている。


 この子を救おうとしている。


 そんな気がした。


 綾乃は伏せていた顔を上げた。うっすら頬が紅潮している。


 潤んだ瞳に、自分が映っている。


 俺は息を呑んだ。


 この子は俺を見ている。


 俺だけを見ている。


 その瞬間だった。


 ぴし、と音がした。


 顔を上げた。


 天井に大きなひびが入っている。


「…え?」


 次の瞬間、天井の照明が落ちた。


 激しい音。


 視界が白く弾ける。


 何が起きたのかわからなかった。


 頭に衝撃が走った。


 床に倒れる。


 遅れて、猛烈な痛みが全身を突き抜けた。


「が、ぁ……!」


 崩れた天井材と照明器具が、俺の体に直撃していた。


 頭から血が流れる。


 右足の感覚がない。


 呼吸をするたび、胸が痛む。


「綾、乃…」


 震える手を伸ばした。


 綾乃は少し離れた場所に立っていた。


 怪我どころか、汚れた様子もない。


「た、すけ…」


 声が掠れる。


 綾乃は黙って俺を見下ろしていた。


 表情が違った。


 今までの優しい笑顔じゃない。


 嘲笑うような顔だった。


「あー、笑うの堪えるのってこんなに大変なんだ。」


「…あ」


 何かがおかしい。


 ずっと、おかしかった。


「綾乃…?」


 綾乃はゆっくりしゃがみ込んだ。


 俺の顔を覗き込む。


 口元が、少しずつ吊り上がる。


「恒一さんって」


 声が変わっていた。


 人を見下すような、楽しそうな声。


「ほんとに、自分のことばっかりなんだね」


 背筋が凍る。


「ち、が…」


「かわいそうな女の子を助けたいんじゃなくて、自分を必要としてほしかっただけ」


 綾乃はくすくす笑った。


「優しくしたら、自分のものにできると思ったんだ」


「違…俺は…」


「私を幸せにしてやる、だっけ?」


 綾乃は口元に手を当てて笑った。


「すごいね。自分の生活もまともにできないのに。」


 涙が滲む。


「やめ…」


「でも、頑張ったんだもんね」


 綾乃はわざとらしく高い声を出す。


「辛かったよね。苦しかったよね。寂しかったよね」


 次の瞬間、また笑う。


「ほんと面白い、おかげでしばらく退屈せずに済みそうだよ。」


 呼吸が苦しくなる。


 頭が痛い。


 怖い。


「た、すけ…」


 綾乃は首を傾げた。


「どうして?」


 その声と表情は、本当に不思議そうだった。


「ダメな人って、何やらせてもダメなんだね」


 視界が滲む。


「かわいそう」


 全然そんなこと思っていない声だった。


 むしろ、面白くて仕方ないみたいな声。


 綾乃はさらに続けた。


「会社でもいらなくなって、女の子にも気持ち悪がられて、最後は天井に潰されるんだ」


 くすくす笑う。


「ふふ。才能あるかも」


 俺は涙を流しながら、綾乃を見た。


 助けてくれると思っていた。


 俺だけは違うと思っていた。


「ねえ、恒一さん」


 綾乃は顔を近づける。


「自分だけは特別だと思ってた?そんなわけないじゃん」


 何も言えなかった。


 綾乃は立ち上がった。


 鼻歌を歌いながら玄関へ向かう。


「あ、でも、ある意味特別かも」


 楽しそうに笑う。


「ここまで何もない人、あんまり見たことない」


 扉が閉まる。


 部屋に静寂が戻る。

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