第6話:出発
朝が来た。
特別な朝ではない。昨日の夜の続きとして、当然のようにやってきた朝だ。
太陽は地平線の向こうから、誰に許可を得ることもなく顔を出している。
私はホテルの硬いベッドから身を起こし、窓の外を眺めた。
境界の街は、まだ眠りの中にある。
「……さて、仕事に行くか」
私は独り言をこぼし、枕元に置いた古い配達用バッグを手にとった。
中身は、ギルドの受付嬢から渡された依頼書と、数日分の食料。
そして、昨夜酒場で見知らぬ泥棒から「授業料」として手渡された、奇妙な『ERROR』のコイン。
ロビーに降りると、そこには既にカイトがいた。
彼はソファーに深く腰掛け、ナイフを器用に指先で回している。
「早いな。泥棒は朝に弱いと思っていた」
「偏見だよ、アルトさん。プロの泥棒は、太陽が昇る前に仕事を終えるか、あるいは次の仕事の準備を始める。規則正しい生活なんだ」
「規則正しい犯罪者か。世の中、何が正しいのか分からなくなるな」
「正しさなんて、後付けの理由だよ」
彼はナイフを鞘に収め、軽快な動作で立ち上がった。
私たちは宿を出て、街の北へと続く道へと歩き出した。
街の門を抜けると、そこからは未舗装の荒野が広がっている。
かつては主要な貿易路だったらしいが、今では魔王領に続く不吉な道として、誰も通らなくなった「旧・北街道」だ。
「なあ、アルトさん。あんた、本当に魔王を殺す気か?」
「仕事だからな」
「仕事か。冷たい響きだ。もっとこう、『正義のために!』とか『世界を救う!』みたいな熱い情熱はないのか?」
「情熱で腹は膨れない。依頼があって、報酬がある。それだけで十分だ」
カイトは私の横を歩きながら、肩をすくめた。
「あんた、配達員だったんだろ? 荷物を運ぶのと、命を奪うの。あんたの中では、どう違うんだ?」
「重さが違うだけだ」
「重さ?」
「荷物は重ければ重いほど価値がある場合が多いが、仕事としては軽い方が楽だ。命も似たようなものだ。誰かにとって重い命でも、暗殺者にとってはただの『納品物』に過ぎない」
私の言葉に、カイトは少しだけ沈黙した。
「……あんた、意外と怖いこと言うな」
「そうか? 現実的な話をしているだけだ」
「その現実ってやつが、一番怖いんだよ」
私たちは、旧・北街道をさらに進んだ。
道端には、壊れた馬車の車輪や、古びた道標が転がっている。
どれもが、この世界という構造から忘れ去られた小道具のように見えた。
ふと、私の懐にあるコインが熱を帯びた。
「おい、カイト。この道、少し変じゃないか?」
「変? 何がだ」
「さっきから、同じ道標を三回は通り過ぎている気がする」
「……冗談だろ。俺たちは真っ直ぐ歩いているはずだ」
私は立ち止め、足元を見た。
そこには、一分前に私が踏みつけたはずの、特徴的な形の石が転がっている。
「ループしているのか?」
「あるいは、この場所だけ『構成』が書きかけなのかもしれないな」
カイトが冗談めかして言ったが、その目は笑っていなかった。
「構成ね。受付嬢もそんなことを言っていたな。この世界が何者かの意思によって構築されているなら、この旧街道は没になったページか何かか」
「もしそうなら、俺たちはゴミ箱の中を歩いているってわけだ。愉快な話じゃないか」
私は目を閉じ、集中した。
配達員時代、地図に載っていない道を見つけるために培った感覚。
それは、空間の歪みを感じ取る直感に近い。
ふと、かつて受けた過酷な訓練の記憶が脳裏をかすめた。
『世界が君を拒絶しているのではない。君が世界のルールを無視しているのだ』
「……あっちだ」
私は、道なき道である茂みの方を指差した。
「おいおい、そっちはただの森だぞ。魔物が出るって噂だ」
「道標に従っているうちは、永遠に同じ場所を歩かされる。正解は、間違いの中にある」
私は茂みをかき分け、中へと踏み入った。
カイトはぶつぶつと文句を言いながらも、私の後についてきた。
枝が服に引っかかり、湿った土が靴を汚す。
しかし、数十メートルも進むと、視界が突然開けた。
そこには、地図には載っていないはずの、整然とした石畳の道が続いていた。
「……マジかよ。こんな道、聞いたこともない」
「世界の隙間、あるいは裏道だ。配達員っていうのは、最短ルートを知っている奴のことじゃない。誰も知らない道を知っている奴のことなんだ」
「あんた、ただの配達員じゃなさそうだな」
カイトの視線が、私の腰にある短剣に向けられた。
私は無意識に、その柄に手を置いていた。
その手の動きは、素人のそれではない。
長年の訓練によって染み付いた、敵を最小限の動作で無力化するための予備動作だ。
「殺しの仕事について、もう一度聞かせてくれ」
カイトは歩く速度を緩め、私に並んだ。
「もし、魔王が本当に良い奴だったら? クッキーを焼いて、村人を助けるような、そんな奴だったら……それでも殺すのか?」
「殺すよ。それが依頼だからな」
「あんたに恨みはなくてもか?」
「恨みで人を殺すのは、素人のやることだ。プロは感情を切り離す。というより、感情を乗せるコストがもったいない」
私は、空中に浮かぶ埃のような光の粒子を眺めた。
それは魔法の残滓のようでもあり、あるいは劣化した映像のノイズのようでもあった。
「正義ってのは、数で決まるとお前は言ったな」
「ああ、言ったな。百対一なら、一の方が悪だ」
「じゃあ、もし世界全体が『魔王を殺せ』と望んでいるなら、魔王がどんなに善人であっても、そいつを殺すのが『正義』ってことになる」
「……理屈の上ではな」
「俺はその『理屈』に従っているだけだ。世界がそれを望んでいる。報酬がそれを証明している。なら、私は私の仕事を全うする」
カイトは大きなため息をついた。
「あんた、理屈っぽすぎて、たまに機械と喋っている気分になるよ」
「機械の方が、世界とはうまくやっていけるかもしれない」
私たちはさらに数時間歩き続けた。
日は高く昇り、周囲の森は深く、静かになっていく。
鳥の声も、風の音も聞こえない。
ただ、私たちの足音だけが、不自然なほど明瞭に響いている。
やがて、前方の霧が晴れ、その巨大な影が姿を現した。
黒い石造りの、威圧的な城。
魔王城だ。
しかし、それは想像していた「魔界の拠点」とは程遠かった。
城の壁には、規則的な光のラインが走り、奇妙なノイズを発している。
城というよりは、巨大な演算装置のように見えた。
「……あれが、今回の納品先か」
私は短剣を抜き、刃の曇りを確認した。
カイトは足を止め、私を真剣な目で見つめた。
その遊び人のような雰囲気は消え、鋭い「盗賊」の顔になっていた。
「アルトさん、最後に一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「さっきの茂みを抜ける時、あんたの身のこなし……ただの配達員にしては、無駄がなさすぎた。それに、魔王城を見た瞬間に心拍数が上がっていない」
カイトは私の前に回り込み、道を塞ぐように立った。
「お前、本当は……いや、昔は、戦える側の人間だったんだろ?」
「…………」
「暗殺の『外注』なんて、素人に頼むはずがない。ギルドがあんたを選んだ本当の理由。……お前、戦えるのか?」
私は答えなかった。
ただ、静かに短剣を構え直し、城の門を見据えた。
門の向こう側から、誰かがキーボードを叩くような、規則的な音が聞こえ始めていた。




