第3話:変な注意書き
列車は「アストラル中央駅」に滑り込んだ。
ドアが開くと、冷房の効いた車内から、湿った熱気が入り込んでくる。
私は、手の中の羊皮紙をもう一度見た。
そこには、昨夜から私を悩ませている一文が、依然として居座っていた。
『追伸:魔王には絶対に話しかけるな。彼に、あなたの名前を教えてはならない』
私はホームに降り、隣を歩く受付嬢に問いかけた。
「なあ、この注意書きだが」
「はい、何でしょう。フォントのサイズが不満ですか?」
「フォントの話じゃない。内容の話だ」
彼女は歩きながら、駅の案内板に目を向けた。
「『魔王には話しかけるな』。これ、暗殺の依頼としては致命的な欠陥じゃないか?」
「どういう意味でしょう」
「暗殺ってのは、だいたいの場合、相手の懐に潜り込んで実行するものだろ。その過程で一言も喋らないなんて、パントマイムの修行か何かか?」
「アルトさん、あなたは暗殺をドラマチックに考えすぎています」
彼女は足を止め、私の方を向き直った。
「喋らなくても、暗殺は成立します。むしろ、喋るから失敗するんです」
「喋るから失敗する? 舌がもつれて呪文を噛むとでも?」
「いいえ。心が盗まれるんです」
駅ビルのコンコースにあるオープンカフェ。
私たちは、その隅の席に座った。
彼女はカバンから小型のタブレット端末のような魔法道具を取り出し、何かを操作し始めた。
「昨日の続きですが、魔王の読心術……つまり『思考ハッキング』について説明します」
「ハッキングね。魔王はエンジニアか何かなのか」
「ある意味では、そうです。この世界の『物語』を構築しているソースコードに干渉できる唯一の存在ですから」
彼女が操作する画面には、複雑な数式と魔法陣が混ざり合ったような図形が表示されていた。
「人は、会話という儀式を通じて、無意識に自分という存在を定義します。挨拶をし、名前を名乗り、意見を述べる。その瞬間に、あなたの思考のプロトコルが外部に開放されるんです」
「……難しくて、コーヒーが苦くなりそうだ」
「簡単に言えば、口を開いた瞬間、魔王はあなたの脳内にウイルスを送り込みます。そして、あなたの記憶、感情、そして『自分は魔王を殺しに来た』という目的そのものを書き換えてしまう」
私は、運ばれてきたアイスコーヒーのストローを弄った。
「つまり、名前を教えるってのは、パスワードを渡すようなものか?」
「パスワード、あるいは『管理者権限』の譲渡ですね。名前を教えた瞬間、あなたはアルトという個人ではなく、魔王の物語の中の『一登場人物』に格下げされる」
彼女の話は、相変わらず浮世離れしていた。
だが、その冷徹な論理には、無視できない説得力がある。
「だから『話しかけるな』か」
「ええ。話しかけられたら、無視してください。天気の話をされても、昨日の晩御飯を聞かれても、決して答えてはいけません」
「魔王は、そんなに世間話が好きなのか?」
「魔王は孤独なんです。誰も話しかけてくれないから」
彼女は、少しだけ悲しそうな目をした。
それは演技のようでもあり、あるいは彼女自身の本音のようでもあった。
「孤独ね。世界を滅ぼそうとしている奴が、世間話を欲しがっているなんて、滑稽な話だ」
「世界を滅ぼそうとしている……と、誰が言ったんですか?」
「……依頼書に書いてあっただろう。魔王討伐、と」
「『討伐』は『滅亡を防ぐ』ことと同義ではありません。この世界の秩序を維持するために、魔王という『役割』を終了させる。それが今回の外注の本質です」
私は、昨日見た依頼書の末尾にある「赤い印」を思い出した。
作者の承認印。
この世界が、誰かが書いている小説であるという、狂った前提。
「なあ、一つ変なことを聞いていいか」
「変なこと以外を聞いたことがありませんが、どうぞ」
「もし私が、魔王と仲良くなったらどうなる?」
「仲良く?」
「ああ。暗殺するのをやめて、一緒にコーヒーでも飲みながら、世界の行く末について語り合うんだ」
受付嬢は、私の顔をじっと見つめた。
数秒の沈黙。
駅の喧騒が、遠くの波音のように聞こえる。
「それは、最も避けるべき『バッドエンド』です」
「バッドエンド?」
「物語が止まってしまいます。勇者と魔王が握手をしてしまったら、その小説を誰が読みますか? 読者がいなくなれば、この世界を維持するための『視線』が消え、世界そのものが消失します」
彼女の言葉は、氷のように冷たかった。
私たちが生きているこの世界は、誰かの楽しみのために存在し、その「楽しみ」が損なわれた瞬間にゴミ箱へ捨てられる。
「私が魔王を殺すのは、世界を守るためじゃない。物語を継続させるためなのか」
「そうです。残酷に聞こえるかもしれませんが、それがこの世界の『正義』の正体です」
彼女は立ち上がり、伝票を手に取った。
「出発の準備をしましょう。魔王城へのルートは、あなたがかつて配達員として使っていた『旧・北街道』を使います」
「あの道は、もう地図から消えているはずだが」
「だからこそ、魔王のハッキングが及びにくいんです」
私は椅子を引き、彼女の背中を追った。
駅のコンコースを歩きながら、私は自分の名前を口の中で呟いてみた。
アルト。
何の変哲もない、ただの三文字。
だが、それがこの世界を左右する「名前」になるのだとしたら。
「……それって、会話したら負けってことか」
私の呟きに、彼女は振り返らずに答えた。
「会話は、最も贅沢で、最も危険な武器ですから」




