第15話:世界のバグ
森は静かだった。
静かすぎて、自分の耳が壊れたのではないかと疑いたくなるほどだった。
風が木々を揺らす音も、虫が羽を震わせる音も、ここでは何らかの「音響設定」から漏れたエラーのようにしか聞こえない。
私は、隣を歩くカイトの足音に意識を集中させることで、辛うじて自分が現実のような場所に立っていることを確認していた。
「なあ、アルトさん。さっきから一言も喋らないけど、何か嫌な予感でもしてるのか?」
カイトが、不安を紛らわせるように口を開いた。彼の指先は、相変わらず短剣の柄をピアノでも弾くようなリズムで叩いている。
「嫌な予感なら、王都に来た瞬間に賞味期限が切れてるよ。今は、ただの確信だ」
「確信? 泥棒が一番嫌う言葉だな。確信がある場所には、だいたい罠がある」
「罠があるならまだいい。道そのものが消えているよりはマシだ」
私の後ろには、ユリが音もなくついてきていた。
彼女の歩き方は、驚くほど正確だった。一定の歩幅、一定のリズム。
まるで、見えない定規の上を歩かされているような、そんな不気味な正確さだ。
「アルト、私の移動速度が気になりますか?」
ユリが、表情を動かさずに言った。
「気になるというか、感心しているだけだ。プロのモデルでも、そこまで等間隔には歩けない」
「当然です。私の移動速度パラメータは、アルトの歩行速度の一.二倍に固定されていますから。あなたが走れば私も走り、あなたが止まれば私も止まります。それが、このパーティーの最適解です」
「……最適解ね霸。カイト、お前はどう思う?」
「俺か? 俺はさ、幽霊とデートしてる気分だよ。それも、数学が得意な幽霊だ。最悪だね」
私たちは、王都の北側に広がる「静止の森」を進んでいた。
魔王城への近道だという。
だが、地図上では存在しないはずのこの森は、どこか描きかけのデッサンのように色合いが薄かった。
その時、前方から一人の旅人が歩いてくるのが見えた。
茶色のマントを羽織り、杖を突いた、どこにでもいそうな老人だ。
老人は私たちの前で足を止めると、ゆっくりと顔を上げた。
「こんにちは。この道は危ないですよ」
老人は、それだけを言うと、再び杖を突いて去っていった。
「親切なじいさんだな。この先、魔物でも出るのか?」
カイトが呑気に首を傾げる。
「さあな。危ないと言いながら、自分はそこから来たわけだ。矛盾してると思わないか?」
「じいさんは強キャラなんだよ。ロールプレイングゲームじゃよくあるだろ、隠居した最強の老兵みたいな」
「もし彼が最強なら、ギルドは彼に魔王討伐を外注すべきだったな」
私たちはさらに十分ほど歩いた。
森の景色は、驚くほど変わらなかった。
同じような形のブナの木、同じような配置の岩。
すると、前方から再び、一人の旅人が歩いてくるのが見えた。
茶色のマント、杖、そして独特の足取り。
「……おい、アルトさん。見ろよ。さっきのじいさんだぜ。追い抜いた覚えはないんだが」
「双子かもしれないな。あるいは、この森には高齢者の集団トレッキングコースでもあるのかもしれない」
老人は私たちの前で、全く同じ位置に足を止めた。
そして、先ほどと全く同じ角度で顔を上げた。
「こんにちは。この道は危ないですよ」
老人は、それだけを言うと、再び杖を突いて去っていった。
「……なあ。一言一句、同じだったよな?」
カイトの声が、わずかに震えていた。
「イントネーションも、瞬きのタイミングも、口角の上がり方も同じだった。……カイト、お前は双子が同じ服を着て、同じ台詞を言いながら、同じ道をループしている確率を計算できるか?」
「俺に計算なんてさせるな。だが、泥棒の勘が言ってる。あれは双子じゃない。……同じ奴だ」
私は、懐のコインを握りしめた。
コインは、まるで警告を鳴らす心臓のように、ドクドクと脈打っている。
「ユリ。今の老人は、誰だ?」
「個体識別番号:エヌピーシー・ゼロハチ。役割は警告者。彼の出現トリガーは、プレイヤーの移動距離が一定に達することです」
「プレイヤー……。私のことか?」
「いいえ。この物語における視点のことです。現在、作者の筆が滞っているため、同じ描写が繰り返されるループ・バグが発生しています」
私は立ち止まった。
「つまり、私たちは今、同じページを何度も読まされているってことか?」
「そうです。ページをめくろうとしても、インクが乾いていないので、指が滑っている状態だと思ってください」
「笑えないな。……カイト、走るぞ」
「どこへだよ!」
「正面だ。ループしているなら、戻るより突き抜ける方が早い」
私たちは走り出した。
ユリは、宣言通り私の斜め後ろ一.二メートルの位置を、寸分違わずキープして走っている。
視界が流れる。だが、景色は変わらない。
右側にある苔むした岩、左側にある折れた枝。
それらが、映像の継ぎ目のように何度も何度も現れる。
そして三度目。
前方から、あの茶色のマントの老人が現れた。
「こんにちは。この道は危ないですよ」
老人が口を開いた瞬間、私は彼の胸ぐらを掴み、力任せに近くの木に押しつけた。
「おい、じいさん! 悪いがその挨拶には飽きたんだ。違う話をしよう」
老人の瞳が、一瞬だけ激しく明滅した。
「こんにちは。この道は危ないですよ」
「聞こえてるよ。どこが危ないんだ? 魔王か? 勇者か? それとも、この壊れた世界そのものか?」
「こんにちは。この道は……。……コ……こんにちは……危な……」
老人の声が、急に歪み始めた。
再生速度を間違えたレコードのように、声が低くなり、やがて金属を削るようなノイズへと変わっていく。
「アルトさん、やめろ! じいさんの顔が……!」
カイトが悲鳴を上げた。
私の腕の中で、老人の顔が溶けるように崩れ始めていた。
目、鼻、口。
それらのパーツが位置を失い、未完成の粘土細工のようなのっぺらぼうへと変貌していく。
それでも、崩れた口元から同じセリフが漏れ続ける。
『こ……ん……に……ち……は……』
「……レンダリングが追いついていないわ」
ユリが、冷徹に分析する。
「アルト、彼を離してください。彼は実体ではなく、ただの文字列に過ぎません。過剰な干渉は、世界のシステムそのものをクラッシュさせます」
私は手を離した。
老人の体は、そのままデジタルノイズのような激しい点滅を繰り返し、やがて空気中に溶けるように消滅した。
静寂が戻った。
いや、先ほどよりもさらに深い、不気味な静寂だ。
空を見上げると、青空の一部が欠け、そこから黒い文字の断片が覗いていた。
「……なあ、アルトさん。正義って何だと思う?」
カイトが、震える声で聞いた。
「またその話か」
「いや。もし、あのじいさんみたいに、俺たちの存在もただの文字列だとしたら。俺たちが必死に生きようとしたり、魔王を殺そうとしたりすることに、何の意味があるんだ?」
「…………」
私は答えなかった。
答えようとした瞬間、私の脳内に、聞き覚えのある音が響いたからだ。
カチッ、カチッ、カチッ。
それは、誰かがキーボードを叩く音だった。
空の向こう側、この世界の外側から聞こえてくる、神の作業音。
『……第十五話、執筆中。……登場人物エー、予期せぬ行動。……バグの修正を検討。……エラーログ、出力……』
その声は、かつて私を外注した受付嬢の声によく似ていた。
「アルト、逃げて」
突然、ユリが私の手を掴んだ。
彼女の無機質だった瞳に、初めて微かな光が宿っていた。
「修正プログラムが来る。……あなたは、まだ完結してはいけない」
その瞬間、私たちの足元の地面が、巨大な消しゴムで消されたように、真っ白な虚無へと変わった。
「うわああああ!」
カイトが真っ逆さまに落ちていく。
私も、重力を失った体で、その白い闇の中へと投げ出された。
落ちながら、私は空を見た。
そこには、巨大な赤い文字が浮かび上がっていた。
『警告:物語の整合性が失われました。……セーブデータから復元を開始します』
「……ふざけるな」
私は、意識を失う直前、懐のコインを強く握りしめた。
「私は荷物じゃない。……納品されるのは、お前たちの嘘の方だ」
世界が激しく暗転した。
目を開けると、そこは最初に出発した「境界の街」のカフェだった。
窓の外には、雨が降っている。
向かいの席には、受付嬢が座っていた。
「お待たせしました、アルトさん。仕事です」
彼女が差し出したのは、あの日と同じ、魔王暗殺の依頼書だった。
だが、その日付を見た瞬間、私は自分の心臓が止まるのを感じた。
日付は――一年前になっていた。




