第14話:死なない勇者
空は青かった。
あまりにも青すぎて、ペンキを塗りたてたばかりの看板のような、不自然な光沢があった。
アストラル連邦の王都を見下ろす高台で、私はその書きかけの空を眺めていた。
私の目の前には、一人の少女が立っている。
かつて、私が配達員としてこの世界を歩き回っていた頃、目の前で死んだはずの幼馴染。
名前は、確かそう。ユリだ。
「ねえ、アルト。……私のこと、ちゃんと納品してくれる?」
彼女は、表情を一切変えずにそう言った。
瞳には光が宿っておらず、ガラス玉を埋め込んだような無機質さがある。
そして、彼女の白い首筋には、魔王領の魔物たちがつけていたものと同じ、銀色のタグが埋め込まれていた。
『管理番号:一〇四三。勇者パーティー予備アセット』
「……納品、か」
私は、内ポケットにあるコインの熱を感じながら答えた。
「私はもう配達員じゃないんだ。今は、ただの外注先だよ」
「外注先も配達員も、同じでしょう? 役割が違うだけで、システムの一部であることに変わりはないもの」
後ろで、カイトが腰を抜かしたまま震えていた。
「おい、アルトさん……。死んだ幼馴染が、管理番号をぶら下げて現れるなんて、どんな悪趣味なミステリーだよ。これ、本当に現実か?」
「カイト、お前は現実という言葉を過信しすぎている」
「過信? 俺は泥棒だぞ。触れるものしか信じない主義だ」
「なら、彼女の首にあるタグを触ってみろ。おそらく、この世界のどんな宝石よりも冷たくて、硬いはずだ」
ユリは、私の方を一歩も動かずに、じっと見つめ続けている。
「アルト、あそこを見て」
彼女が指差したのは、高台の下にある王立訓練場だった。
そこでは、勇者レオンが巨大な訓練用ゴーレムと対峙していた。
周囲には魔法のカメラが何台も浮遊し、彼の勇姿を全国に中継している。
「レオンの仕事だ。見学していくといいわ。……彼が、なぜ勇者でいられるのかを」
私たちは、高台の縁からその光景を見下ろした。
勇者レオンは、聖剣を構えてゴーレムに突進した。
だが、次の瞬間、ゴーレムの巨大な拳がレオンの胴体を正面から捉えた。
鈍い音が響き、レオンの体は紙屑のように吹き飛んで、訓練場の壁に激突した。
普通の人間なら、即死どころか肉片も残らないような衝撃。
「うわあああ! レオン様!」
中継を見守る群衆から悲鳴が上がる。
だが、私は見た。
レオンの体が壁にめり込んだ瞬間、その輪郭がデジタルノイズのように激しく点滅したのを。
「……一、二、三」
ユリが、小声でカウントを始めた。
「四、五」
五秒後。
壁からズルリと這い出してきたレオンは、何事もなかったかのように立ち上がった。
甲冑の凹みは一瞬で復元され、吐き出したはずの鮮血は霧のように空中に溶けて消えた。
彼は、軽く首を鳴らすと、再び聖剣を握り直した。
「嘘だろ……。今の、完全に死んでただろ」
カイトが目を丸くしている。
「死んだよ。だが、取り消されたんだ」
私は、自分の指先が冷たくなっているのを感じた。
「取り消された? どうやって?」
「ゲームのリスポーンと同じだ。彼は死ぬというイベントをなかったことにされた。あるいは、死ぬ直前のセーブデータからロードされたんだ」
訓練場では、レオンが再びゴーレムに挑んでいた。
今度は、ゴーレムの攻撃を紙一重でかわし、流れるような動作で核を破壊する。
まるで、さっきの失敗を既に知っていたかのような、完璧な予知。
「彼は死ぬたびに、少しずつ正解の動きをトレースしていく。……カイト、あれを勇猛果敢と呼ぶか?」
「……いや。ただの作業だ。壊れるまで繰り返すだけの、機械的な作業だよ」
ユリが、私の袖を引いた。
「勇者レオンは、死ねないの。作者が、彼を完結させることを許さないから。物語が続く限り、彼は無限にリセットされ、最強の結末を強要される。……それが、勇者の機能」
「なら、お前はどうなんだ」
私は彼女のタグを指差した。
「予備アセット。それは、マリアやゲイルが壊れた時に、代わりとして補充されるための在庫か?」
「そう。私は、欠員の穴を埋めるためのポリゴンに過ぎない。アルト、あなたが昨日カフェに置いた肖像画……あれは、私のインストール命令だったのよ」
私は、昨日カフェのテーブルに肖像画を置いた自分の手を呪った。
受付嬢が、これを納品しろと言った理由。
それは、物語の整合性を保つために、不足したキャラクターを無理やり過去から引きずり出して、システムに組み込むことだった。
「お前は、ユリなのか? 私の知っている、あのユリなのか?」
「記憶データは持っているわ。あなたが配達員時代に、私に渡してくれた古い万年筆の感触も、誕生日にくれた安物のリボンの色も。……でも、今の私は、それを自分の感情として処理できない」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「ここは、ただの空き容量よ。レオン様の仲間になるための設定を書き込むための、空のフォルダ」
「……ふざけるな」
私は、自分の声が震えているのが分かった。
「死んだ人間を、そんな風に使い回していいはずがない。物語だろうが、システムだろうが、命を舐めるのも大概にしろ」
ユリは、感情のない瞳で私を見つめ返した。
「怒るのも、設定のうちかしら?」
「設定じゃない。私の意思だ」
「意思。……この世界で、その言葉は一番重いエラーを引き起こすわよ」
その時、私たちの背後でパチパチと拍手をする音がした。
振り返ると、そこにはギルドの受付嬢が立っていた。
彼女は、いつもの事務的な笑みを浮かべ、手に持ったクリップボードを叩いていた。
「素晴らしいですね。感情の起伏、哲学的葛藤、および死んだはずの幼馴染との再会。……第十四話の盛り上がりとしては、満点に近いですよ、アルトさん」
「受付嬢さん。あんた、ずっと見てたのか」
カイトが食ってかかる。
「ええ。読者の反応も良好です。主人公が過去と向き合う展開、胸アツ。そんなコメントが、管理パネルに溢れています」
彼女は、空中に半透明のウィンドウを呼び出した。
そこには、私たちには読めないはずの、無数の文字が滝のように流れていた。
「アルトさん、これがあなたの仕事の成果です。ユリさんを勇者パーティーへ合流させる。それが、今回の納品の完了条件。……拒否しますか?」
「拒否したら、どうなる」
「彼女は不要なデータとしてゴミ箱へ送られます。つまり、この世界から完全に消去されます。死ぬことすら許されず、存在しなかったことにされるのです」
私はユリを見た。
彼女は、ただ立っていた。
消えることを恐れているようにも、生きることを望んでいるようにも見えない。
ただ、そこに配置されているだけ。
「……なあ、受付嬢さん」
私は、懐からコインを取り出し、彼女に見せた。
「正義って何だと思う?」
「またその話ですか。人数が多い方、あるいは物語を面白くした方。それが今のところの暫定的な答えです」
「じゃあ、この少女を道具として使うのが面白いなら、それが正義なのか」
「残念ながら。……そして、あなたがその正義を執行するんです、アルトさん。あなたは、彼女をレオンのもとへ届ける配達員なんですから」
私はコインを握りしめた。
コインの熱が、手のひらを焼く。
脳内に、不気味なノイズが走る。
「……カイト」
「あ、ああ、何だ? アルトさん。逃げるなら今だぜ」
「お前、泥棒だったな」
「そうだ。それも一流のな」
「この世界が誰かの書いている物語なら、その原稿を盗むことはできるか?」
カイトは一瞬絶句したが、すぐにニヤリと笑った。
「……面白そうじゃねえか。神様が持ってるネタ帳をスるってことだろ? それこそ、泥棒冥利に尽きるってもんだ」
私は受付嬢に向き直った。
「この依頼、引き受けるよ。ただし、納品先は私の独断で決めさせてもらう」
「納品先の変更は、規約違反ですよ、アルトさん」
「規約を決めているのは、作者だろ。……作者が一番嫌がるのは、予定外の展開だ」
私はユリの腕を掴んだ。
「行くぞ。……ユリ、お前を勇者の仲間にはさせない」
「……どこへ行くの?」
「設定の外だ」
私たちは、高台を駆け下りた。
背後で、受付嬢の笑い声が聞こえたような気がした。
「……第十四話、完。次回のサブタイトルは、脚本家を殺す方法。……楽しみですね」
空に、巨大な赤い文字が浮かび上がった。
『警告:重大な物語乖離を検出』
『修正プログラムを起動します』
王都の地面が、地鳴りのような音を立てて震え始めた。
建物が、液体のようによじれ、再構成されていく。
私たちは、崩れゆく物語の中を、新しい出口を探して走り続けた。




