第12話:世界に同じ人間がいる確率
王都アストラルの夜は、明るすぎた。
魔法の街灯が、闇を力ずくで追い出そうとしている。
空には月があるはずだが、街の光に負けて、それはただの白い塗り残しのように見えた。
意味はない。ただ、明るいだけだ。
私は酒場のカウンターで、琥珀色の液体が入ったグラスを回していた。
「アルトさん、さっきからあそこの角の席に座っている男を見てるだろ?」
カイトが、私の隣で串焼きを頬張りながら言った。
「見ていたわけじゃない。視界に入っていただけだ」
「それは哲学的な意味での見ていないか? それとも、ただの強がりか?」
「後者だな。強がりの方が、人生は少しだけ楽になる」
私はグラスを置き、店内を見渡した。
酒場は賑わっている。冒険者、商人、役人、そして正体不明の酔っ払いたち。
どこにでもある、ありふれた異世界の風景だ。
だが、そこには昨日から拭いきれない違和感が、薄い膜のように張り付いていた。
「なあ、カイト。お前、さっきからあそこに座っている男と、三軒前の店で給仕をしていた男、似ていると思わないか?」
「似てる? 兄弟なんじゃないか? この世界、血縁関係なんてそこら中に転がってるだろ」
「兄弟にしては、顔のパーツの配置がミリ単位で一致しすぎている」
私は、昨日公文書館で見た勇者の履歴書を思い出した。
出身地が始まりの村という存在しない場所であること。
そして、歴代勇者の筆跡がすべて同一であること。
世界という物語の設定が、あまりにも強引に書き換えられている事実に、私は気づき始めていた。
「アルトさん、あんた考えすぎだよ。人間なんて、遠目に見ればだいたい同じだ。二つの目があって、一つの鼻があって、口がある。それだけで十分だろ?」
「お前は、盗んだ財布の中身が全部同じ金額だったら、それを偶然だで済ませるのか?」
「……それは嫌な偶然だな。泥棒としてのやりがいがなくなる」
カイトは串を置き、真剣な顔で私を見た。
「いいか、アルトさん。この世界がまともだなんて、俺は一度も思ったことはない霸。だが、あんたが見ようとしているのは、まともじゃない世界の、さらにその下にある剥き出しの回路だ」
「回路?」
「ああ。触れれば感電する。最悪、この世界の住人じゃいられなくなるぞ」
私は答えず、酒を一口飲んだ。
喉を焼く熱さだけが、今の私にとって唯一の本物に思えた。
「確率は嘘をつかない」
「確率?」
「世界に同じ顔の人間が二人いる確率は、本来なら限りなくゼロに近い。なのに、この街では五分歩けば同じ顔に出会う。これは確率の問題じゃない。仕様の問題だ」
翌朝、私たちは王都の中央広場にいた。
私は、ある実験をすることにした。
広場の噴水のそばに座り、通行人の顔を一人ずつ観察する。
配達員としての観察眼を、今は別の目的のために使っている。
「……いたぞ」
「どれだよ」
「あそこのパン屋の前にいる、茶色の帽子を被った男だ。彼の顔をよく覚えておけ。右の頬に、三角形のほくろがある」
カイトは欠伸をしながら男を見た。
「普通の男じゃないか。パンを買って、幸せそうに歩いてる」
「彼を追うぞ」
私たちは、適度な距離を保ちながら男の後をつけた。
男は路地を曲がり、駅の方向へと向かった。
そして、人混みに紛れて一度姿を消した。
五分後。私たちは、駅の反対側にある武器屋の前で、再び彼を見つけた。
いや、正確には彼と同じ顔をした別の男だ。
「おい、アルトさん。見ろよ。あそこの衛兵……」
カイトが声を潜めて指差した。
武器屋の前で立哨している衛兵。
その顔には、先ほどのパン屋の男と全く同じ、三角形のほくろがあった。
「……マジかよ。双子か?」
「双子が、同じ時間に同じ区画で、全く別の役割を演じているのか?」
「演じている、って。あいつは衛兵で、さっきのはパンを買ってた市民だろ」
さらに十分後。私たちは、さらに三人の三角形のほくろの男に遭遇した。
一人は馬車を操り、一人は掃除をし、一人はただ目的もなく道を歩いていた。
彼らの行動は、あまりにも機械的だった。
目的地に着くと、一瞬だけ動きが止まり、それからまた同じルートを引き返していく。
「なあ、アルトさん。この世界、同じ顔の奴が多すぎると思わないか?」
カイトの言葉に、私は背筋が凍るのを感じた。
これは偶然でも血縁でもない。
「コピーだ」
「コピー?」
「あるいは、生成だ。……カイト、お前、プラモデルを作ったことはあるか?」
「ねえよ。そんな暇があったら、鍵開けの練習をする」
「同じ金型から作られた部品は、全部同じ形をしているだろ。この世界の人間も、同じだ。限られた数の型を使い回して、この王都という舞台を埋めているんだ」
私は懐にあるコインを触った。
コインは、先ほどからずっと、不規則な振動を繰り返している。
システムの不具合を知らせるアラートのように。
「エヌピーシー……」
私が呟いた言葉を、カイトは聞き取れなかった。
「何だって?」
「いや。独り言だ。……この世界には、明確な境界線があるらしい」
「境界線?」
「意思を持っている人間と、そうでない背景としての人間のな」
私たちは、広場から離れた路地裏のベンチに座った。
周囲を通る人々が、今はすべて書きかけの小道具に見えてしまう。
「正義って何だと思う、カイト」
「またその話かよ。今日は確率の話をしてたんじゃないのか?」
「確率の話だよ。世界に同じ人間が二人いる確率は、本来なら限りなくゼロに近い。なのに、ここには五分歩けば同じ顔に出会う確率がある」
私は、カイトの方を向き直った。
「もし、正義というものが多数決で決まるのだとしたら。その多数を占めているのが、魂のないコピー人間たちだとしたら……。その正義には、どんな意味がある?」
カイトは少し考え、地面に落ちていた枝で円を描いた。
「俺たち泥棒の世界じゃ、偽物の金貨でも、店主が気づかなければ本物として通用するんだ」
「それは詐欺だ」
「詐欺でも何でも、それで腹が膨れれば、それがその日の正解なんだよ。……アルトさん、あんたは本物にこだわりすぎている。この世界が偽物だったとして、今食べているパンが不味くなるわけじゃないだろ?」
「パンは不味くならない。だが、死の重みは変わる」
「死の重み?」
「ああ。もし、勇者が魔王を殺したとして、その魔王が次の日に再生成されるのだとしたら。……私たちの仕事、つまり暗殺の外注は、一体何を終わらせるためのものなんだ?」
カイトは黙り込んだ。
目の前で繰り返される同じ顔のパレードは、否定しようのない事実としてそこにある。
「なあ、アルトさん。一つ聞いていいか」
「何だ」
「あんた、昔は訓練を受けていたって言ったな」
「ああ」
「その訓練の中で、世界の裏側について教わらなかったのか?」
「教わったのは、魔物の殺し方と、民衆へのアピールの仕方だけだ。……だが、今思えば、あの教官の言葉もどこか機械的だった」
私は、かつての訓練の日々を思い出した。
毎日、決まった時間に、決まったセリフで始まる訓練。
少しでも予定外の行動を取れば、世界から拒絶されるような違和感。
「勇者は偶然勝つのではない。勝つように設計されている。……当時は、それが精神論だと思っていた。だが、今は違う意味に聞こえる」
「設計、ね。あんたも俺も、誰かの筆先一つで、明日の朝には存在が消されているかもしれないってことか?」
「その可能性は高いな。……だが、幸いなことに、私は配達員だ」
「それがどうした?」
「配達員ってのは、預かった荷物を予定通りに届けるのが仕事だ霸。だが、時には道が塞がっていたり、受取人がいなかったりすることもある。その時、現場で判断して、新しい道を探すのが本物のプロだ」
私は立ち上がった。
「私は、この物語の脚本にない最短ルートを探すことにした」
その時だった。広場の方で、小さな騒ぎが起きた。
「……おい、あそこを見てくれ」
カイトが指差す先。一人の旅人が、広場の中心で立ち止まっていた。
彼は、先ほどの三角形のほくろの男の一人だった。
男は、何もない空間に向かって、何度も同じ挨拶を繰り返していた。
「こんにちは。この道は危ないですよ」
「こんにちは。この道は危ないですよ」
「こんにちは。この道は危ないですよ」
周囲の人間は、それを気にする様子もなく通り過ぎていく。
まるで、壊れた蓄音機を放置しているかのように。
「バグだ」
私は直感的に理解した。世界というシステムの処理が、追いつかなくなっている。
「アルトさん、あれ……顔が……!」
カイトの悲鳴に近い声。
挨拶を繰り返していた男の顔が、徐々に溶けるように崩れ始めた。
目や鼻のパーツが位置を失い、のっぺらぼうのような、あるいは未完成の粘土細工のような状態になっていく。
それでも、口だけが動いて、同じセリフを吐き出し続けている。
「……生成が、間に合っていない」
私は男に近づき、懐のコインを彼にかざした。
コインが激しく発光した瞬間。
男の姿が、デジタルノイズのように激しく点滅し、そして完全に消滅した。
そこには、最初から誰もいなかったかのように、ただ石畳が広がっているだけだった。
「消えた……。殺したのか?」
「いや、システムからデリートされたんだ。矛盾を排除するために」
私は、空を見上げた。
アストラルの空に、一瞬だけ、巨大な赤い文字が浮かび上がったように見えた。
それは、この世界を管理している何者かへの、明確な警告だった。
私は、消えた男が立っていた場所を見つめていた。
そこには、小さな紙切れが落ちていた。
拾い上げて見ると、それは勇者一行のポートレートだった。
勇者レオンを中心に、僧侶、剣士、魔法使いが並んで微笑んでいる。
だが、その裏面に書かれた文字を見て、私は息を呑んだ。
『勇者パーティー補充要員:ナンバー十二 アルト 保留中』
「……保留中?」
私の名前。
そして、私がかつて、第何番目かの勇者の仲間として設定されていたことを示す、残酷な証拠。
私は、自分が単なる外注先ではなく、最初からこのシステムの一部として組み込まれていたことを知った。
「アルトさん、どうした? 幽霊でも見たような顔だぞ」
カイトの問いに、私は答えられなかった。
その時、私たちの背後に、一人の女性が音もなく現れた。
「お疲れ様です、アルトさん。世界の仕様変更には、もう慣れましたか?」
ギルドの受付嬢。
彼女は、いつもの事務的な笑顔で、しかしその瞳には一切の光を宿さずに、私たちを見つめていた。




