第10話:魔王城
巨大な門の前に立つと、自分がいかにちっぽけな存在であるかを思い知らされる。
もっとも、それは物理的なサイズの話だ。
精神的なサイズで言えば、私は今、道端に落ちているガムの包み紙くらいには謙虚な気持ちになっていた。
目の前にそびえ立つ魔王城は、黒い石材で組まれている。
太陽の光を反射することなく、ただそこに重さとして存在しているようだった。
「なあ、アルトさん。一つ聞いていいか」
カイトが、城門の装飾、のたうつ蛇のような彫刻を眺めながら言った。
「何だ」
「ここ、本当に魔王城なんだよな?」
「看板にそう書いてあっただろ。ご丁寧に『関係者以外立ち入り禁止』という注意書きまで添えて」
「いや、そうじゃなくてさ。静かすぎないか?」
カイトの言う通りだった。
城は、死に絶えた惑星のように静まり返っていた。
魔物の咆哮も、衛兵の足音も、煮えたぎる溶岩の音すら聞こえない。
聞こえるのは、風が城壁の隙間を通り抜ける、乾いた口笛のような音だけだ。
「勇者一行が中に入ってから、もう十分は経っているはずだぞ」
「普通なら、今ごろ派手な爆発音の一つや二つ、聞こえてきてもおかしくないな。聖剣が光ったり、魔法が炸裂したり、勇者が決め台詞を叫んだりしてさ」
「それが物語のお約束だからな」
私は、門に手を触れてみた。
冷たい。だが、かすかに震えている。
それは心臓の鼓動というよりは、稼働し続けている精密機械の排熱に伴う振動に似ていた。
「警備がいない。門番も、ケルベロスも、自動追尾式の魔法陣もだ」
「人気のないデパートみたいだな。閉店後の」
「閉店後のデパートなら、まだ警備員がいる分だけマシだ。ここは、最初から誰もいないように見える」
私たちは門の隙間から、城の内部を窺った。
「悪役の城っていうのは、もっとこう、不潔で、禍々しくて、至る所にドクロが転がっているもんじゃないのか?」
「ドクロをインテリアにするのは、センスが疑われるだろ。魔王だって、落ち着いた空間で過ごしたいはずだ」
「落ち着きすぎだろ。これじゃあ、ただの巨大な図書館だ」
カイトは、手持ち無沙汰そうに短剣を弄んでいる。
「なあ、アルトさん。正義の味方が悪の拠点を攻める時、一番盛り上がるのはいつだと思う?」
「トドメを刺す瞬間か?」
「違う。城に入ってから、中ボスを次々と倒していくプロセスだよ。それがなきゃ、読者は満足しない霸。なのに、ここはプロセスを完全に拒否している」
「物語のルールを無視している、と言いたいのか」
「そうだよ。魔王は敵としての義務を果たしていない。これじゃあ、勇者のレベル上げはどうなるんだ? 経験値の入らないロールプレイングゲームなんて、誰もプレイしないぜ」
私は、第一話で受付嬢が言った言葉を思い出した。
勇者は忙しい。だから外注した。
だが、もし外注先が辿り着いた場所に、倒すべき敵がいなかったら。
「……カイト、お前は魔王城が装置だと言っていたな」
「ああ。スイッチを切った後のスタジオみたいだって言ったはずだ」
「もし、勇者レオンたちが今、そのスタジオの中で演技をさせられているとしたらどう思う?」
「演技?」
「カメラの前で見せるための、実体のない戦いだ」
その時、私の懐にあるコインが、先ほどよりも強く脈打った。
熱い。まるで、これ以上先へ進むなと警告しているようだ。
「アルトさん、見てくれ。あそこに……」
カイトが、地面を指差した。
そこには、勇者一行が通ったであろう足跡が残っていた。
だが、その足跡は門をくぐった直後、まるで霧に溶けるように消えていた。
「消えてる?」
「引き返した様子はないな。……カイト、お前、泥棒の勘で何か感じるか?」
「……嫌な予感しかしないね。この城、生きてるぜ。それも、生物としてじゃなく、システムとしてだ」
私たちは、一歩、城の内側へと踏み込んだ。
その瞬間、背後でズシンという重低音が響いた。
「閉まったのか?」
「……いや、門そのものが消えた」
カイトが振り返り、絶叫に近い声を上げた。
後ろを振り返ると、そこには門も、先ほどまで歩いてきた旧街道もなかった。
ただ、白い、何もない虚無の空間が広がっているだけだった。
「なんだこれ。バグか? 世界の端っこにでも落ちたのか?」
「落ち着け。まだ内側は残っている」
私たちは、前を向いた。
城の内部は、外観とは打って変わって、驚くほど現代的だった。
整然と並ぶ黒い柱。等間隔に配置された魔法の照明。
そして、床には規則正しく流れる光のライン。
「……アルトさん。これ、どこかで見たことないか?」
「ああ。アストラル中央駅のコンコースだ」
「駅? 魔王城の中が駅なのか?」
「正確には、駅に似せて作られた何かだろうな。作者の引き出しが少なかったのか、あるいは、これがこの世界の雛形なのか」
私たちは、静まり返った廊下を進んだ。
壁には、絵画の代わりに歴代勇者の肖像画が飾られていた。
ナンバーワン、ナンバーツー、ナンバースリー……。
そして、最後の一枚は空欄になっていた。
その下には、プレートが設置されている。
『ナンバー四十二 レオン 稼働中』
「稼働中……。勇者は機械じゃないぞ」
「だが、この世界の管理者にとっては、勇者も魔王も、同じ機能に過ぎないんだろう」
廊下の突き当たりに、大きな扉があった。
そこからは、微かに、本当に微かに、音が漏れていた。
戦いの音ではない。
キーボードを叩くような、規則的なタイピング音だ。
「……なあ、アルトさん。正義って何だと思う?」
カイトが、扉を前にして、唐突に哲学的な問いを投げた。
「またその話か」
「いや、真面目な話だ。もし、この城の奥にいるのが、世界を滅ぼそうとする怪物じゃなくて……ただの疲れた脚本家だったら、俺たちはどうすればいい?」
「……暗殺するだけだ。それが依頼だからな」
私は短剣を抜き、刃の輝きを確認した。
だが、その刃に映っている自分の顔は、ひどく頼りなく見えた。
「お前は昔、訓練を受けていたんだろう?」
「……何の話だ」
「隠したって無駄だよ。さっきの身のこなし、普通の配達員じゃない。お前は、この世界のルールを知っている側の人間に見えた」
「…………」
「お前が魔王を殺しに来たのは、お金のためだけじゃないはずだ。……この歪んだ物語を、終わらせに来たんじゃないのか?」
私は答えなかった。
ただ、扉の取っ手に手をかけた。
「カイト。一つだけ覚えておけ」
「何だよ」
「物語が終わる時は、ハッピーエンドか、バッドエンドかじゃない」
「じゃあ、何なんだ?」
「完結か、そうじゃないかだ」
その瞬間、扉が内側から、生き物のようにゆっくりと開き始めた。
中に広がっていたのは、王座の間ではなかった。
無数のモニターが浮かび、光の糸が複雑に絡み合う、巨大な制御室のような空間。
その中心に、一人の男が座っていた。
豪華なローブを着ているわけでも、角が生えているわけでもない。
どこにでもいるような、疲れ切った顔をした、中年の男だ。
彼は、浮かび上がるモニターの一つを指先で操作しながら、私たちに気づく様子もなく呟いた。
「……第十話。登場人物が予定より早く到着。フラグ管理にミスあり。……修正が必要か?」
男がゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞳は、深淵のような虚無に満ちていた。
「お前たちが、今回の外注か」
男の言葉と共に、城全体が激しく揺れた。
空中に、赤い文字が次々と浮かび上がっていく。
『致命的な例外が発生しました』
『物語の再起動を開始します』
「待て! お前が魔王なのか!」
カイトが叫ぶが、男は悲しげに首を振った。
「私は、ただの管理職だよ。魔王は……もう、君たちのすぐ後ろに立っている」
私は、ゾクリとするような冷気を感じて振り返った。
そこには、いつの間にか、ギルドの受付嬢が立っていた。
彼女は、いつもの事務的な笑顔を消し、冷徹な視線で私たちを見下ろしていた。
「……お疲れ様です、アルトさん。配達完了ですね」




