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第9話 大海原へ


 リナたちは船に乗り込み、そのまま大海原へと出港した。空はどこまでも澄み渡り、雲は高くゆったりと流れている。


「……綺麗」


 リナはその景色を見てそう呟く。


 太陽の光を受けた海は深い青に輝き、さざ波がきらめきながら船体を優しく叩いていた。潮風は塩の香りを含み、頬を撫でるたびに心地よい冷たさを残していく。


「アンタ、海は初めてなの?」

「アンタじゃない。リナ」


 そう言われてカレンは『はぁ……』とため息をつくが、すぐに言い直す。


「リナは──海は初めてなの?」

「うん。カレンは経験あるの?」

「少しはね。こうやって、冒険者が護衛として連れて来られることは、よくあるのよ」

「そうなんだ」


 リナは淡々と会話を続けていく。


「リナは剣士なのに冒険者じゃないのね。もちろん騎士でもないだろうし、珍しいわ」

「……でも、冒険者はちょっと興味ある」


 リナは求人情報を眺めるうちに、冒険者でなければ受けられない仕事があることに気づいた。冒険者というものはまだよく分からないが、冒険者ギルドに行けば誰でもなれる――そうアルから聞いている。


 いつかは自分も冒険者として働いてみたい。

 リナはそんなことを、ぼんやりと思っていた。


「ふん! それならこの偉大な先輩が教えて上げるわよ! 冒険者のイロハをね! なんたって私は──Aランク冒険者だからね!」

「うん。その時は……よろしく」


 リナは冒険者のランクなど、もちろん知るわけがない。リナの態度に対して、カレンは不服そうにじっと視線を向ける。


「リナって、もしかしてかなりの世間知らず?」

「たぶん……そう」


 王都に出て来てリナは感じていた。自分は本当に、斬ることしか知らなかったのだと。


「はぁ。全く、アンタは不思議ちゃんね」

「不思議ちゃん?」

「えぇ。でも、嫌いじゃないけど。アンタ、良くも悪くも素直だし」

「なるほど……」


 不思議ちゃん。

 その言葉は初めて聞くが、自分は人によってはそのように見られるのか。と、リナはまた新しいことを一つ覚えた。


「おーし。そろそろいいな」


 バロックは頃合いを見て舵を切り、船を静かに停めた。大海原の真ん中。波は穏やかで、船はゆっくりと上下している。


「よし、この辺でやるぞ」


 そうして四人で釣りをすることになった。

 アル、バロック、カレンの三人はそれぞれ少し距離を取って陣取り、慣れた手つきで準備を始めていく。


 一方、リナは完全に釣りは初めてだった。釣竿を手に取り、糸を引き、仕掛けを整えようとするが。


「……うっ。難しい」


 初めてなので、リナは三人のように手早く準備を終えることができなかった。糸は絡まり、針の向きも合っているのか分からず、首を傾げたまま動きが止まってしまう。


 それを見かねたアルとバッロクが、声をかけようと一歩踏み出す。しかし、その前に隣にいたカレンが自然とリナの横に立った。


「まずは、ここからよ」


 そう言って、カレンはリナの手元を覗き込み、釣竿を指さす。


「この糸をガイドに通して、先に仕掛けを付けるの。焦らなくていいわ」

「……分かった」


 カレンは手本を見せるように、ゆっくりと動かす。糸を通し、針を持ち、結び目を整える。そのひとつひとつを、言葉を添えながら丁寧に。


「引っ張って……そう。ちゃんと締まってる」

「うん」


 リナは頷きながら、その動きを忠実になぞっていく。剣の扱いとはまるで違うが、手順を覚えること自体は嫌いではない。飲み込みは早かった。


「次は餌をつけて……うん。こんな感じね」

「……ありがとう。助かった、カレン」

「ふんっ。これくらい、当然よ!」


 リナは、教わった通りに釣りを始めた。

 船縁に立ち、釣竿を構える。背筋は自然と伸び、足の位置も安定している。剣を握る時と同じように、無意識のうちに体の軸を整えていた。


「……魚、釣りたい」


 仕掛けを海へ落とすと、糸は音もなく水面を割り、青の中へと沈んでいく。

 

 リナはじっと動かない。風の流れ、船の揺れ、糸を伝ってくるわずかな重み――そのすべてに意識を向けていた。


 ぴくり。

 竿先が、ほんのわずかに震える。


「……来た」


 小さく呟いた直後、リナは迷いなく竿を引いた。力任せではない。腕ではなく、体全体で重みを受け止めるような動きだ。


 水面が弾け、銀色の魚が跳ね上がる。

 糸は絡まず、魚は暴れながらも一定の軌道で引き寄せられていく。


「……釣れた。やった」


 船上に落ちた魚を見て、リナは静かに頷く。


「おぉ。やるな、リナ!」

「もしかして、センスあるんじゃないか?」

「ぐ、ぐぬぬ……私が先輩なのに……」


 バロックとアルは素直に褒めるが、カレンは悔しそうにしていた。


「もっといっぱい釣る」


 リナはそのまま手早く針を外し、次の仕掛けを海へ。間もなく、また竿先が揺れた。

 

 今度は少し強い引き。だがリナは慌てない。波の動きに合わせて糸を張りすぎず、緩めすぎず、魚の動きを受け流して釣り上げた。


「……次」


 二匹目、三匹目、四匹目。淡々とリナは魚を釣り上げていく。魚が次々と船上に並んでいく。

 

 リナの表情は終始穏やかで、どこか楽しそうですらある。


 斬ることとは違うが。

 待ち。感じ。引き寄せる――その行為は、彼女にとって不思議と馴染むものだった。


「ぐぬぬ……なんで私は釣れないのよ!」

「センス……?」

「ぐあー! リナに言われるのが一番ムカつく! 初心者のクセに!」


 リナはカレンと話す時間を心地良く感じていた。また、苛立ちを見せつつも、カレンにとってもそれは悪くない時間だった。



「おいおい。すげぇ量だな」

「かなり釣ったな。リナ、釣りの才能もあるのか」

「……そうかも」

「ぐぬぬ……。この私がボウズなんて……」


 船の甲板には、釣り上げられた魚がこれでもかと並んでいた。中でも一番多いのはリナの釣果で、次いでバロック、アルと続く。


 そして、カレンといえば──彼女の釣果は、ゼロ。俗に言う、ボウズというやつだ。


「ある程度はリリースして、質の良いやつだけ残すか」

「そうだな。船長、俺も選んでいいか?」

「もちろんだ。アルは好きな魚を選べ」

「おうよ」


 二人が魚を選んでいく様子をリナは淡々と見つめていたが──リナはある気配を感じる。


「あれ……。なんか来てるかも」

「来てるって、何が?」

「大きい何か」

「はぁ……? そんなわけないでしょ。今は晴天だし、海も穏やかじゃない。だいたい、魔物が来る時はもっと波が荒れる……あれ……。この感じ」


 リナが何かの存在を感じた直後、急に波が荒れて天候が崩れていく。


「この感じはかなりヤバいぞ! 急いで戻るぞ!」


 バロックは顔色を変え、慌てて舵を切ったが。


「まずいな……。全員、掴まれ!」


 だが、時すでに遅い。船は逃げ場を失い、海面に生まれた巨大な渦へと完全に囚われていた。穏やかだった青は黒く濁り、空は一瞬で雲に覆われる。突風と豪雨が叩きつけ、雷鳴が腹の底まで響くよう。


 気がつけば、大嵐。もはや自力でこの海域を抜け出すことは困難だった。


「くそ……!」


 バロックの呻き声をかき消すように、渦の中心から低く重い音が響く。


『──オオオオオォォォオオ』


 それは声というより、海そのものが鳴いているかのようだった。渦がさらに広がり、水柱が天へと伸びる。そして──そこから、ゆっくりと姿を現す。


「おいおい」

「マジかよ……」

「あれって……」

「……大きいイカ?」


 黒光りする巨体。海面を割って現れたのは、絡み合うようにうねる無数の触手。その中心には、闇のように深い眼孔が二つ、船を見下ろしていた。


 そこにいたのは、深海より現れし災厄。

 伝承で語られる魔物──〈クラーケン〉だった。


「な、なんでクラーケンがこんなところに……!? ヤバいわよ! アレはSランクの魔物よ! 私じゃあ……!」


 カレンの声は風と波音にかき消されそうになる。一方、バロックも舵を握りしめたまま、低く唸った。


「あぁ。こりゃあ、ヤベェな……」


 船上に緊張が走る。

 だが、その空気の中で――アルだけが、どこか楽しげに口角を上げていた。


「やっぱり、リナを連れて来て正解だったな」


 その声を聞いて、リナはその意図を察する。


「──斬っていいの?」

「あぁ。そうだな。戻ったら、大量のイカ焼きにでもするか。リナは店で食ったやつ、好きだったろ? クラーケンとなればもっと美味いだろうな」

「……もっと美味いイカ焼き!?」


 その一言で、リナの瞳の色が変わった。


「あれ、好き。たくさん食べたい。だから……」


 直後、彼女の意識は切り替わった。

 そこに迷いはなく、感情の揺らぎも存在しない。

 

 人としての輪郭が薄れ、代わりに浮かび上がるのはただ一つ──〈斬る〉という概念。リナは静かに刀へと手を伸ばし、ゆっくりと鞘から引き抜く。嵐の只中でありながら、その動きは驚くほど静謐せいひつ。波も風も、彼女の周囲だけが切り取られたかのように澄み渡っていた。

 

 そこに立つのは、ただの少女ではない。

 斬るために在る剣士――リナだった。



「イカは──斬る」


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