第8話 勧誘
リリエルに先導されて、リナは喫茶店に到着した。中に入ると、柔らかな照明と焙煎された豆の香りがふわりと鼻をくすぐる。そして、控えめな話し声が静かに漂っていた。
(凄く……温かい場所)
と、リナは思った。
「いらっしゃいませ。二名様でしょうか?」
「はい」
「こちらへ」
「ありがとうございます」
案内されたのは窓際の席。
リリエルはメニュー表をリナに渡す。
「お好きなものを頼んで構いませんよ」
「本当……?」
「えぇ」
だが、リリエルはそれを後悔することになる。リナが注文したのは、朝から明らかに多すぎる量の料理だった。サンドイッチ、スープ、卵料理に肉――皿が来るたび、テーブルが狭くなる。
「……これを全部、食べるのですか?」
「うん。朝ごはん」
数分後。テーブルの上から料理が、綺麗さっぱり消えていた。リナは食後のコーヒーとデザートも堪能していた。
「……こほん。そろそろ食事も落ち着いたようですし、本題に入ってもよろしいでしょうか?」
「うん」
「まずはお名前をお伺いしても?」
「リナ」
「リナさんですか。とても綺麗なお名前ですね」
リリエルはニコリと柔和な笑みを浮かべる。
「リナさんはお仕事を探しているのですか?」
「うん。バイト探してる。いろいろな仕事したい」
「ふむ……どうやら生活に困っているようですね。しかし、そんなリナさんに素晴らしい提案があります」
別に生活に困っていないが、リナは特に訂正することなく話を聞くことにした。リナは少しずつ変わって来ている。まるで人間観察をするように、じっと視線を向ける。
「素晴らしい提案?」
「えぇ。それは神を信じることです」
「神を信じる……?」
リリエルは、胸の前でそっと両手を重ねた。
祈るようでいて、しかしその仕草はどこか計算された美しさを帯びている。
「初めは不審に思うのも、無理はありません。しかし――信じる者は、必ず救われます」
穏やかな声でリリエルは話を続ける。
「私たちが信じるのは、唯一なる光の神〈セラフィル〉。人を導き、迷いを浄化し、罪を洗い流す存在です」
リリエルはそう語りながら、自身の胸元の小さな聖印へと指先を滑らせる。
「人は皆、弱い。だからこそ、迷い、傷つき、過ちを犯します。ですが、神を信じ、その光を受け入れた者は心が澄み、力を得て、正しい道を歩めるのです。信仰が深まるほど、神の光はその身に満ちていきます。不安は消え、恐怖は薄れ、そして──本来持つべき美しさと強さが、目覚めていくのです」
リリエルは、柔らかな微笑みを浮かべたまま、静かにそう告げる。
「あなたも――共に光の恩恵を受けるべきです」
「光の恩恵……」
反芻するようにリナは呟く。
「セラフィル教に入信していただければ、まずはこちらを差し上げます。マスター、アレを」
「はい」
なぜかリリエルはパチンと指を鳴らして、この喫茶店の店主に声をかけた。
店主が持って来たのは、壺だった。
リナはそれを見て、首を傾げる。
「壺……?」
「えぇ。これは〈幸福なる壺〉です。持っているだけで、あなたには幸福が訪れます」
同時に急に店内の客たちが声を発する。
「いやぁ、この壺のおかげで彼女が出来たよ!」
「私はネックレス。これのおかげで、素晴らしい日々を送れているわ!」
「やはり浄められたものを持つことは、人生において必要だな!」
「えぇ。間違いありません」
そう。この喫茶店の店主だけではなく、客ですらリナの丸め込むために用意されたサクラ。リナはここに入った時点で、完全にリリエルの包囲網に囚われていたのだ。
「幸福……」
その言葉を確かめるように、リナは再び小さく呟いた。
一方のリリエルは、ここが畳み掛けるべき瞬間だと直感する。間を与えれば疑念が生まれる。だからこそ、彼女は早口で言葉を重ねていった。
「リナさん。もし、ご家族やご友人をご紹介いただけましたら、もっと素晴らしい幸福をご用意できます。なんと! 今なら初回入信キャンペーンで、肩こりの取れる〈ネックレス〉もプレゼントしますよ! さらに! 今だけの特別キャンペーンですが、〈浄化塩の小袋〉と〈お守り札〉もお付けできます!」
微笑みは崩さない。
だが、その瞳の奥にははっきりとした計算が宿っていた。完全に詐欺紛いの手法だが、リリエルの美貌の前では全てが誤魔化せてしまうのだ。
「どうですか? セラフィル教にご興味──湧いてきませんか?」
そう。リリエルの目的は、ただ一つ。
――信者を増やすこと。
セラフィル教を信じる者が増えれば増えるほど、リリエルの聖女としての格は高まり、彼女にはより大きな恩恵が降り注ぐ。
彼女の言葉は、決して嘘ではない。
だが同時に、それは極めて打算的な真実でもあった。
(ふふ……。この清楚な私にここまで言い寄られて断れる人間など、そうはいません。さらに、これだけの特典。嬉しいに決まっています。それに──たとえ同性であっても、既にあなたは私に惹かれているのですから)
しかし、リナは全く予想外のことを口にする。
「──興味無い」
「……え?」
「興味は無いから、入信しない」
「え、えっと……? その。お話は理解できていましたか?」
リリエルは困り顔をしながら、もう一度説得しようとするが──リナは真っ直ぐな瞳で彼女のことを見つめる。
「神様からの祝福は、とても良いものだと思う」
「それなら……!」
リリエルの言葉を遮るように、リナは自分の想いを溢す。
「──でも、私はきっと……自分で見つけないといけない。〈広い世界を〉〈自由を〉……。神様に頼るんじゃなくて──自分の手で」
師の言葉は何度も何度もリナの中で反芻されていた。
確かに神の祝福は素晴らしいものだ。
しかし、リナは感覚的に──誰かに頼るのではなく、自らの手で師の言葉を理解しなければいけないと思っていた。
「……そう、なんですか?」
「うん。でも、お話できて楽しかったよ。リリエルはお話が上手いね」
「……恐縮です」
煽られたと思い。引き攣る笑顔でリリエルはそう言った。
(チッ。よく分からないけど、ダメだったかぁ……。私、見る目はあると思っていたんだけどなぁ。ま、次にいきましょうか)
もうリリエルはリナに興味を失っていて、場の空気は弛緩していたが──ボソリとリナは呟く。
「ねぇ。神様って──斬れるかな?」
まさに青天の霹靂。
あまりにも予想外の言葉にリリエルは一瞬言葉を失い、思わず眉を跳ね上げる。動揺を隠すようにゆっくりとその言葉をなぞった。
「神を、斬る……ですか?」
不敬。
その二文字が、はっきりと胸に浮かぶ。
冗談であれば即座に叱責していた。
仮にも彼女はセラフィル教の聖女であり、周囲の信者たちが激昂してもおかしくはない。
だが――できなかった。
リナの纏う空気が、それを許さなかったからだ。そこにあったのは挑発でも、戯れでもない。
ただ、澄み切ったままの視線。
それを見た瞬間、リリエルのこれまでの作られた薄い笑みは消え失せた。
「どうして、そんなことを……」
「だって、神様は強いでしょ?」
子どもみたいに無邪気な口調なのに、内容だけが刃物みたいに鋭い。リリエルは息を整えてから、言葉を選んだ。
「……そうですね。けれど、神は人智を超えた存在。人間が敵う相手ではありません。リナさんでも、きっと」
「うん」
それはリリエルのささやかな抵抗だったが。
はっきりと勝てないと告げられたのに──リナは嬉しそうに、口元をほどいた。
「ふふ。それは、いいね」
「いい、のですか……?」
「うん。神様なら——私の剣を、受け止められるかもしれないから」
その声音は憧れに近い。
戦う相手を探すというより、届かない高みを見上げるみたいに。
「──楽しみ」
ぞくり。
リリエルは背筋が凍るのを感じた。
この人は、神に刃を向けることを罰当たりだと思っていない。
ただ、剣を振る。
そこに相手がいるなら、それが神であっても、同じなのだと——そう悟ってしまったから。
二人の話はそこで終わった。
「本当にご馳走になっていいの?」
リナは一応、そう確認する。
彼女も少しは常識を知ってきたからだ。といってもそれは、アルが教えてくれたものが多いが。
「えぇ。もちろん。リナさん、またお誘いしますね?」
「うん。バイバイ」
そう言ってリナはその場から去っていき、その場にはリリエルと信者たちが残された。
「リリエル様。どうやら、気難しい少女だったようですね」
店主が声をかけるが、リリエルはすぐに反応しない。
「……リリエル様?」
囁くような声にリリエルはふっと息を吐いた。
「──欲しい」
「え……?」
「私、リナさんがどうしても欲しくなりました」
それは告白のようでいて、祈りのようでもあった。
「あぁ……。手に入らないと分かっているものほど、人は欲しくなってしまうのですね。神よ。どうか――こんな私をお許しください」
本来ならあまりにも不敬なこの少女に、怒りを覚えて然るべきだった。だが、リリエルは怒れなかった。
リナの〈在り方〉が。
神すら斬ろうとする、その魂の純度が。
あまりにも眩しく。あまりにも、遠く。
だからこそ――惹かれてしまったのだ。
それは、信仰にも似た憧憬だった。
「リナさん、絶対にあなたを入信させますからね──!」
†
リナはあれから、街の掲示板に貼られたバイトの求人を何度か眺めていた。どれも興味深かったが――今はもう少しだけアルの店に集中したい。そう思って結局、新しい仕事を始めることはしなかった。
「リナ。明日は休みだが、予定はあるか?」
営業後にリナは、アルに声をかけられる。
「ないよ」
「なら、ちょっと付き合えよ。実は明日は海に出る予定でな」
「海……?」
「海は知ってるか?」
「見たことあるだけ。よく知らない」
「そうか。ま、魚を釣り行く感じだ。ただ、今は時期的に魔物が出ることもあるから、リナは用心棒だな。斬るのは得意だろ?」
「うん。それなら……任せて。あと、釣りもしてみたい」
海。リナは師と共にさまざまな国へ行ったが、その途中で海を見ることもあった。当時は海に対して何も思うことはなかったが、今は少しだけ異なる感情を持っていた。
そして、翌日。リナたちは港へと到着して、そこには恰幅のいい男性がいた。
日に焼けた顔に立派な口ひげ。腹回りは貫禄そのものだが、背筋はしゃんと伸びている。
「ん? アル。コイツは誰だ」
「リナだ。うちの店のバイトだが、腕が立つ。今は魔物が多いだろ? 念の為にと思ってな。それに釣り興味があるみたいだし、一応顔を見せたくてな」
「ほぅ。腕が立つ、か」
リナは自ら、その男性に挨拶をする。
「リナです。よろしく」
「おう。俺は船長のバロックだ。船長と呼べ」
「ん。分かった、船長」
低くよく通る声でそう名乗り、バロックは人の良さそうな笑みを浮かべた。長年海に生きてきた男特有の、頼もしさが滲み出ている。
「──誰? この女」
そこに立っていたのは小柄な女性だった。
赤い髪を左右で結い上げたツインテール。背は低く、体つきも華奢だが、軽装の革鎧に動きやすさを重視した装備をしている。腰の両側には、すぐ抜ける位置に短剣が二本差し込まれていた。
「実は俺の方でも冒険者を呼んでいてな。まぁ、被っちまったが、いいか」
バロックは口髭を撫でながら、どこか気楽そうにそう言った。
そして、その女性は迷いなくリナへと近づいてくる。
「アンタも冒険者? 見ない顔ね」
「違う。私は──」
いつもの癖で〈剣士〉と言いかけて言葉を止める。リナは最近、店の常連たちから〈バイト剣士〉と呼ばれていることを思い出し、少しだけ考えてから言い直した。
「バイト剣士」
「はぁ……? 何よそれ」
訝しげな視線が向けられるが、リナは気にせず彼女に問いかける。
「あなたは誰?」
「ふふ。よく聞いてくれたわね──!」
彼女は小さな胸を張り、得意げに名乗った。
「私は、Aランク冒険者のカレンよ!」
「……カレン。よろしく」
リナは自然な動作でカレンの頭を撫でる。
「ちょ!? 頭を撫でるな!」
小柄な体に、赤いツインテール。
その姿があまりにも愛らしく、リナは本能的にそうしてしまったのだ。
「私は二十歳のお姉さんなのよ! アンタ、見るからに若いでしょ!」
「私は十六歳」
「はんっ! 十六なんてガキじゃない!」
「……よしよし」
「だから撫でるなって言ってるでしょ!」
「でも、私の方が大きい」
「うっ……。アンタが大きすぎんのよ! 私は普通だから、普通!」
「……普通。うん、分かった」
「コイツ……!!」
リナの身長は170センチほど。女性としてはかなり高く、すらりとした体躯をしている。端から見れば、どう見てもリナが大人で、カレンが子どもだった。
そんな騒がしいやりとりをしている間に、バロックはすでに出航の準備を整えていた。
「リナ、カレン! もう出るぞ!」
「ふん。アンタ、覚えてなさい。Aランク冒険者の実力──見せてやるわ」
「……うん。釣り、楽しみだね」
「人の話を聞け──!」
甲高い声が港に響く。
そうしてリナは、初めての海へ出て行くのだった。




