第6話 バイト始めます
「で、うちで食い逃げとは良くもやってくれたな」
「……ご、ごめんなさい」
流石のリナも、良くないことをした雰囲気は理解していて、素直に謝罪する。
「金を払わずに普通に出て行ったな。あまりにもスムーズ過ぎて、驚いたぞ。あそこまで堂々としていると、逆にこっちがビビるわ」
「……うっ」
リナは椅子に座った状態で麻縄で手首と足を縛られ、完全に拘束されていた。幸い、ちょうど今日の営業は終わったところだった。
「もしかして、何か事情があるのでは?」
「フィア。あんまり甘やかすな」
「けれど、アルさん。悪気はなさそうに思うんです」
「……」
じっと、リナは二人のことを見つめる。
アルと呼ばれた店主は、茶色の髪を短く刈り上げ、体躯はかなり大きい。その筋肉質さは、服の上からでもはっきりと分かるほどだ。背筋は常に伸び、視線は低く鋭い。
フィアと呼ばれた同世代の少女は、まるでその場の空気を和らげる存在だった。白銀の髪は柔らかく光を反射し、肩口で揺れるたびに淡く輝く。
「まぁいい。で、なんで食い逃げをしたんだ?」
「……いつもは師匠が払っていたから」
「はぁ? その師匠はどうした」
「もういない。死んだから」
「あー……。ワケありかよ」
アルは苛立ちを紛らわすように髪をかきむしった。リナに決して悪意があったわけではないと、分かってしまったからだ。
「要するに、払い忘れたってことだな?」
「そう」
「なら、ここで払って帰れば見逃してやる。今回だけだぞ」
「……お金、ない」
「は?」
「お金は持ってない」
「……」
その場に気の抜けた沈黙が落ちる。
アルとフィアは、顔を見合わせるしかなかった。世間知らずのお嬢様でも、もう少し良識があるだろう。
だが、リナは違う。彼女は――斬ることしか知らないのだから。
「なぁ、どうすればいいと思う。フィア」
「バイトの私に訊かれても困りますが、そうですね。お金がないのなら、働いて貰えばいいのでは? ちょうど人手は足りなかったですし」
「こんな世間知らずのガキが使えると思うか?」
「それは知りませんが」
もしかして、働けるかもしれない。
そう思ってリナは言葉を発する。
「ここで働いていいの?」
「まぁ、人手は足りてねぇしな。だが、仕事が出来るのか? 得意なことは? っと……その前に拘束を解くか」
「いい。自分で出来る」
「んなわけねぇだろ。麻縄で強めに拘束してるんだぞ。変な強がりは止め──」
アルが言いかけた、その途中。
リナはあっさりと麻縄を引き千切った。
ぶつり、と短い音。それだけで、彼女の拘束は消えていた。
「は?」
「え?」
二人は同時に固まる。
目の前の光景がまるで理解できないという顔で、ただリナを見つめていた。
「それで、働いていいの?」
悪びれる様子もなく、リナは首をかしげる。
「お前もしかして、高位の冒険者か?」
「違う。ただの剣士」
「剣士か……。もしかして、斬ることは得意か?」
「……っ! うん。得意、とても得意!」
リナはぱっと目を輝かせて、そう声を上げた。
普段は淡々としているが、斬ることに関してだけは、異様なほどの興味と関心を示す。
「それなら、ちょっと厨房に来い」
「うん」
三人はそのまま厨房へと移動していく。
そこには、整然と並べられた調理道具と、木箱に詰められた新鮮な食材が所狭しと置かれていた。
「明日の仕込みの野菜だ。大量に《《切る》》必要があってな」
「《《斬る》》? それなら任せて」
アルとリナの〈きる〉の認識には、決定的な隔たりがあったが、そのことをリナが知るはずもない。
「包丁はこれを使え。お前が役に立つなら、採用してやってもいい」
「ちゃんと斬れたら、ここで働いていいの?」
「あぁ。出来れば、の話だが」
「……任せて」
リナは、包丁を手に取った。
その瞬間──空気が変わる。
ただの調理器具に過ぎないはずの包丁が、まるで抜き身の刀であるかのように在り方を変えた。刃先から、目には見えないはずの緊張が滲み出し、厨房の空気が、ひりつくように張り詰める。
リナの立ち姿は、あまりにも自然で、あまりにも無駄がない。肩の力は抜けているのに、全身が一つの刃として完成している。
――斬る。
その意志だけが静かに、けれど圧倒的な密度で満ちていた。
「……」
「……これは」
アルは思わず息を呑む。
フィアもまた、無意識のうちに一歩だけ距離を取っていた。
「──よし。斬る」
トトトトトト、と小気味のいい音が厨房に弾けた。刃は迷いなく走り、キャベツは瞬く間に、均一な細さの千切りへと変わっていく。
力任せではない。速さだけでもない。
ただ、正確さと無駄のない軌道だけが、そこにあった。
「終わったよ」
「……」
「ダメだった?」
「ハハハ! 合格だ、合格! よし。今後の仕込みはお前に任せよう」
バンっと強めにリナは背中を叩かれた。
「……お前じゃない。リナ」
「よーし。リナだな! うちで働くことを許可する!」
「でも、他の仕事も興味ある」
「そうか? なら、週に三日でどうだ? バイトでもいいぞ」
「うん。そうする」
リナはとりあえず、この店──〈鋼の料亭〉で働くことになった。しかし、まだ問題は残っている。
「リナ。金はないんだよな?」
「うん」
「宿はどうするんだ? お前、たぶん王都に来たばかりだろ」
「……野宿?」
「はぁ……。そんなこと、年頃の女にさせるわけにいかねぇだろ」
アルはため息をつくが、それは決して悪態をついているわけではなかった。
「住み込みで働け。うちは二階に物置があるからな」
「え。いいの?」
「あぁ。ただ、部屋を壊したりするなよ」
「うん。寝るだけだから、何もしない」
「じゃ、今日は解散だ。フィア、いつもありがとな」
フィアはそう言われると、すぐに帰る支度を始めた。
「いえいえ。リナさん、これからよろしくお願いしますね」
「ん」
こくりと小さく頷き、リナは差し出された手を握り返す。リナはある違和感を覚えるが、それを言葉にも、表情にも出さなかった。
「ここだ。ベッドは後で用意する。ただ、必要なものは給料から引くからな? いいな」
「うん」
よく分かってはいなかったが、リナは頷いた。
寝る場所があって、仕事ができる。
それだけで、彼女には十分だった。
夜。月明かりだけが差し込む部屋で、リナは刀を立てかけて静かに腰を下ろしていた。
(仕事だ。ついに──仕事ができる)
胸の奥が、わずかに高鳴る。
斬ることだけが人生のすべてだった。
けれど今は斬ること以外にも、少しずつ興味が芽生え始めている。
「……師匠。おやすみ」
故人を偲ぶ感情は、まだよく分からない。それでもリナはそう呟いて、静かに瞼を閉じた。
早朝。リナの部屋にやって来たアルは、彼女の姿を見て驚く。刀を立てかけたまま、床に座り、微動だにせず眠っていたからだ。
「おい。もう準備に入る──って……それで寝ていたのか?」
「うん。これが普通」
「……まあいい。今日は週末で客も多い。早めに仕込みをするぞ」
「了解」
命令を受け取ったリナは、すぐに立ち上がった。
「刀は邪魔だろ。置いていけ」
「差してたら、ダメ?」
あの時、盗賊に一時的に刀を奪われた瞬間。
彼女は直感した。この刀は──決して手放してはいけない、と。
「……邪魔にならないなら、いい。好きにしろ。ただ店で抜くなよ?」
「うん。ありがとう」
やがてフィアも出勤してきて、怒涛の一日が始まる。この〈鋼の料亭〉は常連の多い店だ。休日ともなれば、なおさら人が押し寄せる。
厨房では、仕込みを続けるリナと、手際よく鍋を振るうアル。ただホールを担当するフィア一人では、流石に回らなくなっていた。
「今日は多いな。いつもは俺が出ていたが──リナ。いけるか?」
「何の話?」
「客の注文を聞いて、こっちに通せ。フィアがしていることを真似すればいい」
「了解」
リナはそのままホールに入る。
「ん? キミは新人かな?」
「そう」
リナが向かった先にいた人物は──〈騎士〉だった。
その鎧は傷一つなく磨き上げられている。陽光を受けて澄んだ光を返す鋼の装甲は、徹底した手入れと規律の象徴だった。また、その黄金の髪は短く綺麗に整えられている。
「この店で一番美味いものを出せ。以上だ」
「ん。分かった」
リナはこくりと頷き、厨房へと向かう。
その時だった。騎士の足がわずかに前へ出た。
リナの足を引っ掛けるような、意図のある動き。リナはそれを見るよりも早く、身体が反応していた。
何事もなかったかのように、一歩だけスッと位置をずらす。
「……ん? まあ、偶然か」
騎士はそう呟く。
それはなぜ避けられたのか、理解できていない声音だった。
しかし、リナの中では──それは明確な《《敵対行動》》だった。
リナはゆっくりと刀の柄に手をかけた。
それだけで、周囲の空気が変質した。
温度が一段下がる。
まるでこの空間だけが、別の世界へと切り離されたかのようだった。
「ねぇ。もしかしてあなたは……」
ぞくり──と。
騎士の背筋に冷たいものが走る。
リナの瞳は暗い。
感情の色を一切映さない、ただ〈斬る〉という概念だけを宿した深淵が映る。
リナは静かに問いかける。
「──敵なの?」
彼はリナのその態度を見て、思わず声を荒らげた。その激昂は、胸の奥に湧き上がる恐怖を覆い隠すためのものだった。
「な、何だお前は! この僕――アレクライト=オルフェリオに向かって、殺意を向けるとは!」
「リナです。よろしく」
自己紹介をされたと思ったリナは、ぺこりと小さく頭を下げる。
「貴様……何だ、その態度は! まさか、オルフェリオ家を知らないとは言わせないぞ!」
「知らない。何それ」
「く、ククク……。アハハハハ! まさに平民ここに極まれりか!」
「ん……?」
一応、リナは懸命に接客をしているつもりだった。だが、それはアレクの神経を逆撫でするだけだった。
「リナと言ったな。この僕をここまで虚仮にするとは──」
彼は苛立ちに任せ、純白の手袋をリナへと叩きつける。彼女はそれを反射的に――パシッと受け止めた。
「決闘だ。おい、平民。身の程というものを教えてやる。その刀が飾りではないことを、この僕に示してみせろ」
「平民じゃない。リナ」
「こいつは、どこまでも……!」
さすがに店内の客たちも、この騒ぎに視線を向けていた。その様子を見て、アルがニヤリと笑う。
「じゃあ、外でやろうか。おい、フィア。料理も外に出すぞ。お前らも、それでいいな!」
来店していた客たちも理解を示す。
「お。そりゃあ、いいねぇ」
「貴族との決闘か。いい酒のつまみになりそうだ」
「あのお嬢さん、大丈夫かいな……」
「で、お前はどっちに賭ける?」
「まぁ、流石に騎士だろ」
思わぬ展開に、フィアは小声でアルにささやく。
「いいんですか? だいぶ大事になっていますけど」
「構わねえさ。俺も貴族連中には思うところがあってな。それに――リナがどれほどの実力か、見てみたい。お前もそうだろ?」
「……そうですね。では、私は外の準備をします」
そんなやり取りが交わされているとも知らず、リナは相変わらず淡々としていた。相手が貴族であろうと、彼女にとっては仕事の延長でしかない。
「平民。外で決闘ぞ」
「ん。分かった。けど、平民じゃない。私はリナ」
「……その態度、必ず改めさせてやる」




