第20話 剣の果てに──
桜が舞う。風はない。
だというのに、花弁だけが雪のように静かに降り続けていた。
妖刀──仇櫻。
その真価を、リナは完全に解き放つ。
「いいだろう。貴様の本気──この私が見定めてやろうッ!」
騎士団長たる自負。
己こそ最強であるという絶対の確信をもって、レオニスは相対する。
「……うん。行くよ──」
小さな呟き。
次の瞬間──リナの両手には、いつの間にか二振りの刀が握られていた。
抜刀の動作は無い。
ただ、そこに在った
転瞬。
踏み込みと同時に、空気が爆ぜた。
地面が砕け、桜が弾け飛び、世界が遅れてリナを追いかけるよう。一瞬でレオニスとの間合いをリナは殺した。
「防げ、氷壁ッ──!」
咄嗟に展開される氷の多重障壁。幾重にも重なった絶対防御がレオニスによって展開される。
リナは二刀を振るう。
その刃は氷壁に触れた瞬間──砕け散った。
甲高い破砕音。粉雪のように消える刀身。
それを見たレオニスが、歪な笑みを浮かべる。
「ふ……所詮は見せかけか。喰らうがいい──我が無限の氷剣を」
頭上に浮かぶ、数百の氷剣。
冷気が空間を凍らせる。
そして、一斉射出。豪雨のごとき氷の暴力が大地を穿つ。地面が抉られ、土煙が上がり、すべてを串刺しにした。
勝利を確信し、レオニスは視線を向けるが──
「……無傷、だと?」
リナは立っていた。
無傷で、静謐に、何事もなかったかのように。
氷剣が降り注いだはずの死地の中心で、彼女だけが傷一つ負っていない。
両手には──二振りの刀。
いつの間に現れたのかも分からない。
ただ当然のように、そこに在る。
はらり、と桜が舞う。花弁は彼女に寄り添うように巡り、凍てついた戦場の中でそこだけが淡く色づいていた。
まるでこの世界で、春を体現しているかのように。
「どこから刀が……。いや──まさか」
レオニスは気がつく。
桜の花弁が集まるたびに、刀が生まれていることに。花弁が収束し、形を成し、鋼へと変わる。
「それこそが──貴様の祝福ということか」
「……私に出来ることは──〈斬る〉ことだけ」
異能の名は──布都之御霊剣。
聖剣、魔剣、妖刀──由来も格も異なるあらゆる刀剣の性能を極限まで引き出す力。それは単純な強化ではない。その本質は〈再定義〉にある。
「斬ることだけが──私の全てだから」
仇櫻は、〈櫻の呪い〉を宿す妖刀。握るたびに命を削り、振るうたびに魂を侵す。持ち主を破滅へ導く、忌まわしき刃。彼女の師もまた、その〈櫻の呪い〉に蝕まれ、病に伏した。
だがリナは、あらゆる刀剣に宿る怨念、契約、代償、呪詛──すべての異物を打ち消し、呪いの束縛から解き放つ。残るのは、純粋な切れ味と耐久、刀剣本来の特性のみ。刀剣の〈再定義〉こそがリナの真価。
この妖刀はリナにこそ相応しいと、師は分かっていたのだ。
万剣を統べ、万呪を鎮める異能。
それこそがリナに許された唯一の能力。
「貴様の身体能力も、その異能の副産物か」
「たぶん……そう」
「多分だと? 理解していないのか。自身の異能を」
「うん。でも、それで良い。だって私は……斬るだけだから」
魔力を持たぬはずのリナが常軌を逸した身体能力を示す理由もまた、この異能の副産物に過ぎない。彼女の肉体は、自動的に刀剣に適応する。刃の負荷も、反動も、致命の速度域さえも受け止める。
まさにリナは、剣の化身と呼ぶべき存在。
「ねぇ。もう……魔法で氷を作るのはやめた方がいいよ」
「なんだと?」
「だって──それだと」
リナは告げる。
それは余裕でも、驕りでもない。
「──私の刀に追いつけないから」
ただ、事実を述べただけだった。
刹那。地面が爆ぜる。
リナは一気に間合いを詰め、刀を振るう。
「氷壁ッ──!」
レオニスの前に幾重もの氷壁が展開される。
リナの斬撃が触れた瞬間、刀身は砕け散った。
否。砕けた刃は桜の花弁へと変わり──即座に収束し、再び刀となる。
振るう。
砕ける。
散る。
再生する。
振るう。
その循環が、呼吸のように繰り返される。
止まらない。終わらない。
レオニスが魔力を練り、魔法式を走らせ、発動に至るまでのわずかな時間。そのすべての時間が、リナの斬撃で埋め尽くされていく。
仇櫻の本領は──桜の花弁を刀剣へと変換する力。砕けた刃は花弁となって散り、即座に再び刀として再生する。折れても尽きず、散るほど増える。
それは一本の妖刀ではない。
花弁すべてが刃となる、無尽蔵の再生する刀だ。
「ぐッ……なんという……ッ!!」
常識外れの手数。
常識外れの速度。
もはや詠唱も、構築も、間に合わない。
気づけば──レオニスは、防ぐことしか出来なくなっていた。魔法でリナを抑え込むことは、すでに不可能だった。
そしてついに──リナの刃がレオニスの頬を斬り裂く。咄嗟に後方へ引いたレオニスだが、その呼吸は荒い。滴る血を拭いながら、彼はリナを見つめるしかない。
「私の……言った通りでしょ?」
「あぁ、そうだな。貴様の言う通りだったな……認めよう。お前は強い。間違いなく、世界でも最強の剣士の一人だ。だがな──それでもアルトレイン家当主であり、騎士団長である私に敗北が許されることは無いッ!」
パッと氷の世界が砕け散った。
乱立していた氷壁も、宙を埋めていた氷剣も、すべてが粒子となって霧散する。レオニスは魔法を完全に解除した。残った魔力のすべてを──身体強化へ。
筋肉が軋み、血流が加速し、感覚が研ぎ澄まされていく。
魔法剣は通用しない。
魔法式も間に合わない。
ならば頼るべきは、ただ一つ。
己が積み上げてきた、この剣のみ。
騎士としてでも、貴族としてでもない。
一人の剣士として、全ての気力と矜持を賭け、リナと相対する。
傲慢。尊大。不遜。貴族の権化のような男。
だが、その裏にある研鑽だけは本物だった。それはまさに、血と鍛錬で磨き上げられた剣。
その気配にリナは静かに悟る。
この男もまた、自分と同じ場所にいる──〈神の剣域〉に至る者だと。
「なんでだろう……今までは、独りでよかったのに……」
リナはボソリと呟く。
剣は孤独だ。
常に己と向き合い、己と戦い続けるものだからだ。誰かに代わってもらうことも、逃げ道を用意することも許されない。
己の未熟さ、弱さ、迷い──そのすべてを直視し、身と心を削り、なお握り続ける覚悟を求められる。
剣の極地とは──まさに虚無だ。
そこには、剣に不要なものは一切存在しない。
感情も、恐れも、願いも、祈りすらも削ぎ落とされる。最後に残るのは研ぎ澄まされた意志と、ただ一振りの剣だけ。
その虚無は透明だ。余分なものをすべて失ったからこそ、限りなく純粋だ。
人として必要とされる、心や情を捨て去った先でしか──至れない剣域。剣を握り続けられる者だけが、辿り着く剣域。
そして、その虚無に至ったからこそ──
初めて踏み入ることを許される剣域がある。
リナは──剣という虚無の先で何を見出したのか。感情を持たぬ剣として生きてきた少女は、何を捨て、何を残し、何を手にしたのか。
それはきっと──
「そっか……。そういうことだったんだね、師匠」
地が弾ける。
互いに踏み込み、加速。さらに加速。
空気が裂け、衝撃だけが遅れて大地を揺らす。
音すら置き去りにして、二つの影が交錯する。
甲高い金属音が、遅れて荒野に響いた。
剣と剣が噛み合う。火花が散る。
一合。
二合。
三合。
常人なら一太刀すら視認できない速度で、斬撃が幾重にも重なっていく。踏み込みのたびに地面が砕け、砂塵が舞い、衝撃波が円状に広がる。
だが──不思議なほど、静かだった。
魔法もない。
氷もない。
桜もない。
ただ純粋な剣技だけが、そこにある。
技と技。
経験と経験。
命と命。
すべてを削り合う、原始的な殺し合い。
だが、まるで子どものように二人は純粋に剣を振るう。
静かな荒野で、ただ二人の剣士だけが──世界から切り離されたように剣を交えていた。そこは虚無。しかし、確かに何か別のものが在ると二人は感じる。
『……ねぇ。剣は好き?』
『そうだな。剣は──唯一の取り柄であり、好きなものだ』
『うん……分かるよ。こうやって斬り合えば、よく分かる』
『そうだな。あぁ、そうだとも……』
刃と刃がぶつかり合う。
火花が散り、衝撃が骨を、その魂を震わせる。
一歩踏み込めば斬られ、半歩退けば死ぬ。
そんな極限の間合いの中で──不思議と、二人は理解していた。
言葉などない。
だが、斬撃が語る。
踏み込みが語る。
その剣の軌跡すべてが、互いの生き様を雄弁に物語っていた。
(あぁ……)
レオニスは、刃を交わしながら思う。
(そうだったな──俺は……剣が好きだったじゃないか)
幼い日の記憶が、不意に蘇る。
まだ何者でもなかった頃。
ただの少年だった頃。
木剣を握り、日が暮れるまで振り続けていた。
勝ちたいとか、家のためとか、そんな理由はなかった。ただ剣を振るうのが、楽しかった。
だが、貴族という地位。家名という重圧。背負わされた期待と責務。守るため、勝つため、証明するため。
いつしか剣は義務になり、誇示になり、力の象徴へと変わっていた。純粋な〈好き〉は、どこかへ置き去りにして忘れてしまっていた。
──だが、今。
リナと斬り合う、この瞬間だけは違う。
打算も、体面も、家名もない。
ただ、剣と剣を交えるだけ。
この剣戟は、レオニスの凍てついた心を氷解させていく。
(ねぇ。師匠も……こんな気持ちだったのかな?)
リナもまた、思い出していた。
刃を打ち合わせながら、ふと胸の奥が熱を帯びる。
遠い日の記憶。まだ幼かった頃。
ただひたすらに、師の背中を追いかけていた日々。朝も、昼も、夜も、転んでは立ち、手の皮を裂きながら、それでも剣を振り続けた。
理由は一つだけ。
綺麗だったから。師の剣が。
風を裂き、迷いなく振るわれるその剣が、ただ眩しかった。
ああなりたい、と。
ただそれだけで、リナは剣を振っていた。
けれど──師はいなくなった。
残されたのは、虚無だけ。
どれだけ強くなっても、どれだけ斬れても、剣の先には虚無しかなかった。
斬って、斬って、斬り伏せて。
その先には誰もいない。
それでいい──そう思っていた。
剣とは孤独なものだから。
一人で立ち、一人で振るい、一人で強くなるものだと。ずっとリナはそう信じていた。
──だが、今。
レオニスと斬り結びながら、はっきりと理解する。
それは違う、と。
人は決して独りでは強くなれない。
独りでは前へ進めない。
リナの隣にはいつも師匠がいた。
隣で見守るように、立っていてくれた。
側にいてくれた。
だから、ここまで来られた。
だから、剣を握り続けられた。
だから、たどり着くことが出来た。
「……そう、だったんだね」
小さく、想いが零れる。
孤独だと思っていた道は……本当はずっと──独りじゃなかった。
王都に出て来てたくさんの人と触れ合い、レオニスと剣を交えることで。
リナはついに──師が遺した言葉を理解した。
「ずっと斬り合っていたいけど……もう終わらせないとね」
互いに一度距離を取り、理解する。
次の攻防で決着すると。
優勢なのはリナだった。
彼女の呼吸は乱れていない上に、まだ余力を十分に残している。一方のレオニスは肩で呼吸をし、疲労が顔に滲んでいる。
「──仇櫻」
リナは、地面に突き刺すように刀を顕現させた。それはこれまでのように、使い捨てるための刃ではない。破壊されることを前提としない――完全顕現の一振り。
「……来るがいい、剣士よ。全身全霊をもって、俺はお前を斬り伏せよう」
「うん。私も……全力でいく」
リナはカンと軽く刀を蹴り払う。地面に倒れていく刀の柄を、リナは足で捉え……そして踏み抜くように――真っ直ぐ蹴った。
衝撃音すら遅れて届く。
刀は回転もせず、軌道のブレもなく、ただ一直線に射出された。
それはもはや投擲ではなく、まるで弾丸。
レオニスは即座に判断する。
真正面から受ければ──待っているのは死。
避けるしかない。
「――ッ!」
身を翻し、紙一重で回避。
空を裂いた刀はそのまま地面を抉り、爆ぜるような衝撃を残した。
「これこそが、奥の手かッ!! だがしかしッ! この勝負、俺の勝ち──」
彼が言葉を続けることは出来なかった。
なぜならば……視界に――リナがいないからだ。
「──スゥ」
背後で、静かな呼吸音。
レオニスが振り向くよりも早く、そこには──腰を深く落とし、完全な抜刀態勢に入ったリナがいた。
そして、彼は理解する。
先ほど射出されたはずの刀が、いつの間にか――彼女の鞘に完全に収まっていることを。
あり得ない。
理解が追いつかない。
自らが射出した刀よりも先に動き、追いつき、追い越し──そして、あろうことか納刀したというのか。
「それでも──俺が勝つッ!!」
咆哮に近い叫びを上げ、剣を振り下ろす。
それは理屈ではない。策でもない。
最後に残った、剥き出しの執念。
貴族という立場も、騎士団長という地位も、もはや意味を持たない。命令も、義務も、誇示すべき威光も捨て去り、ただ一つだけを選び取る。
──勝つ。
それだけだ。
純粋に、剣士として勝つ。
肩書きに裏打ちされた誇りではなく、剣を握り続けてきた者だけが持つ孤独な矜持が、彼を突き動かしていた。
一方、リナは驚くほど静かだった。
感情を乗せる必要はない。
音も色も今は要らない。
必要なのは、ただ──振るうこと。
リナは仇櫻を抜く。
そこに残ったのは、灼きつくような残像のみ。まるで、幻影が先に斬り、現実がそれをなぞるかのように。
リナが持つ〈七つの秘剣〉の一つが、静かに告げられる。蝉が抜け殻を残して消えるように。そこに在ったはずの存在が、気づけば別の場所にある。その理を体現する神域の抜刀術。
それはもはや剣閃というより──世界に零れ落ちた、光だった。
「──空蝉」




