第19話 舞い散る桜
リナは数歩進んだところで、ふと立ち止まる。
「あれ……そういえば──どこに行けば、いいんだろう」
リナが向かおうとしているのは、騎士団長のもと。それだけは、はっきりしている。
だが、この夜に騎士団長がどこにいるのか。
おそらくは屋敷にいるのだろうが、アルトレイン家の屋敷の場所を、リナは知らなかった。
(……仕方ない。戻って、アルに訊こう)
そう思い、踵を返しかけた――その時だった。
「ハハハ! リナ、困っているようだな!」
「……アレク?」
夜の静寂を破るような、いつものような朗らかな声。そこに立っていたのは、アレクだった。
「何で、ここに?」
「騎士団長のもとに向かうのだろう。その案内をしてやろう! リナには借りがあるからな!」
「……何で喋ってないのに、分かるの?」
リナは純粋に疑問だった。
どうして、自分の目的が分かるのか。
どうして、このタイミングで現れたのか。
自分の心の内は、何ひとつ口にしていないはずなのに。
「──短い付き合いだが、分かるさ。リナは態度に出やすいからな」
「……そうなの?」
「あぁ」
即答だった。
そこには迷いも、含みもなかった。
それから二人は並んで歩き出す。
夜の王都を進みながら、リナにもう一つの疑問が浮かんだ。
「私がこれからすること、分かってるなら……アレクは、止めるべきじゃないの?」
「ん? まぁ、僕の立場的にはそうすべきだろうな」
一拍置いて、アレクは続ける。
「だがな。僕も、騎士の在り方について考えるようになったんだ。それは――リナと出会ったからだ」
「……私と?」
心当たりはない。
リナはただ稽古をしていただけだ。そこに他者を変える要素なんてないと思っていたが。
「正直に言おう。僕は、自分の才能に胡座をかいていた。貴族であり、騎士であるという立場を、誇示するためのものだと勘違いしていた」
歩きながら、アレクは夜空を仰ぐ。
「力とは何のためにあるのか。貴族とは、騎士とは、何を背負う存在なのか。それを考え始めたのは、リナに敗北したからだ」
「……」
「リナもきっと懸命に考えて、その選択をしたのだろう?」
「……うん。そう」
すべてを理解できたわけではない。
けれど――アレクが、真正面から自分を見ていることだけは、はっきりと伝わってきた。
王都に来て、たくさんの人と出会った。
そこで生まれた縁が少しずつ――確かに、自分を導いている。その事実をリナは今、実感していた。
「ここだ」
「……大きいね」
アルトレイン家の巨大な屋敷は、王都の夜の中で異質さを放っている。城壁のように連なる外壁は重厚で、長い歴史と権威をそのまま形にしたかのようだ。
「あぁ。アルトレイン家は、王国最大の公爵家だからな。じゃあ、僕の役目はここまでだ」
「うん……ありがとう」
アレクは背を向け、言葉を溢す。
「──リナ。生きて戻れよ。僕らの決着は、まだついていない。約束だ」
「……うん。約束」
どうして、みんなこんなにも優しい言葉をくれるのか。あと少し。もう少しで――何かを掴める気がする。
そしてリナは深く息を吸い、アルトレイン家の呼び鈴にそっと手を伸ばした。澄んだ音が夜気に溶け、しばしの静寂が訪れる。
やがて扉が開き、年若いメイドが姿を現す。
「何かご用件でしょうか?」
「……レオニスはいる?」
「はい。ご在宅ですが」
「呼んでほしい」
流石にメイドも不審に思う。
「失礼ですが、お名前とご用件を伺っても?」
「……リナ。用件は、本人に直接話す」
「少々、お待ちください」
扉が静かに閉まる。
その向こうで、屋敷の気配が――わずかに動いた。
やがて再び扉が開き、姿を現したのは──アルトレイン家当主にして騎士団長、レオニスだった。夜にもかかわらず装備は整えられ、その腰には青白い輝きを放つ剣が差されている。抜かずとも分かる。それが尋常ならざる業物であることを。
「貴様か……こんな夜に、何の用だ」
声音は冷え切っていた。
威圧でも怒気でもない。
ただ、拒絶に近い静けさ。
「どうして、一度はフィアのことを見捨てたのに……また呼び戻すの?」
「フィアリスは使えるからだ。鍛錬から逃げた愚か者だが、顔立ちは悪くない。血統も申し分ない。社交にも政治にも利用できる。十分に我がアルトレイン家の駒として役立つだろう」
それは、まるで道具の性能を語る口ぶりだった。
ただ使えるか、役立つか──それだけで人の価値を測る声音に、リナの胸の奥がひどく冷える。
言葉を交わせば、分かり合えると思っていた。
話せば、少しは歩み寄れると信じていた。
今まではそうだった。
けれど──人は言葉で理解を深めることはできても、本当の意味で分かり合うことなど、最初から出来ないのかもしれない。
そう突きつけられた気がしたが、それでもリナは言葉を紡ぐ。
「フィアは……物じゃないよ」
「それは貴様の感情論だ、平民。人は等しく価値が違う。強い者は上に立ち、弱い者は使われる。それだけの話だ。家に利益をもたらせない人間に、価値などない」
レオニスは、見下すような視線をリナに向ける。
「アルトレイン家の名を持ちながら、居酒屋で働いている時点で恥さらしだ。だが、使えるなら再利用する。壊れた剣でも、砥げばまだ斬れることもあるからな。フィアリスには力が無い。無力な者に、逆らう権利はない。弱者とは、与えられた役目を果たすだけの存在だ」
「……力があればいいの?」
「当然だ」
レオニスは力強く肯定する。
「力こそが正義だ。勝者が法であり、敗者は従う。それがこの世界の真理だ。貴様の言う綺麗事など、弱者の慰めでしかない」
その言葉に、誇張も悪意もない。
レオニスは本気でそう信じている。
「それなら──これを拾って」
純白の手袋を軽く放る。
ひらりと、それはレオニスの足元に落ちた。
――決闘の申し込み。
それを一目で理解し、レオニスはそれを拾う。
その手袋は瞬く間に凍りつき、砕けた。
「平民。この意味が、分かっているのか?」
「うん……私と決闘して。私が勝ったら――フィアを連れていかないで。力が正義なんでしょ? 貴族の世界は」
「ほう……」
レオニスの口元が、わずかに歪む。
「この私と刃を交える意味が、本当に分かっているのか?」
「うん。とても強い人だって聞いた」
リナは真っ直ぐに言葉を続ける。
「でも、それでも……私は――引かない」
夜の空気が、張り詰めた。
剣はまだ抜かれていないが、僅かな殺気を互いに漏らす。
「いいだろう。場所を変えるぞ、小娘」
「小娘じゃない……リナ」
短いやり取りののち、二人は屋敷を離れた。
向かった先は、王都から少し離れた荒野。人の気配はなく、夜風に晒された大地が静かに広がっている。
月明かりの下、二人は向かい合う。
「仮に貴様が勝てば、フィアリスの自由は約束しよう。そして、私は騎士団長の座を退く」
「ん? 別にそこまでしなくても……いいよ」
「いいや、これは決闘だ。自らの立場もそれに含まれる。それで、貴様自身は何を賭ける?」
問われる。
自分は何を賭けることができるのだろう。
相手は騎士団長の座を差し出した。
それに釣り合うものは──リナにはない。
そして彼女は、自分の心臓をトントンと指で叩いた。
「賭けるのは──私の心臓。私は……あなたのような立場はないから。命じゃダメ?」
「命を賭けると?」
「うん」
「なぜ、フィアリスのためにそこまでする?」
「友だち……だから」
「友人のために、貴様はその命を賭けるのか?」
「うん」
迷いのない返答に、レオニスは辟易したように小さく息を吐いた。
「その覚悟は買うが、貴様の命まで欲しているわけではない。条件を変えろ。貴様が負ければ、二度と王国に立ち入るな。それでいいな」
「別にそれでもいいけど……なんで変えるの?」
「貴様の命など興味はない。死体の処理も面倒だ。敗北したその足で、王国から消え失せろ」
レオニスの瞳が鋭く細まる。
「さて、この私に決闘を挑んだのだ。それ相応の覚悟はしてもらうぞ、平民」
刹那。彼の身から、魔力が溢れ出した。
空気が軋み、大地が軋む。夜の荒野そのものが、圧に耐えきれず悲鳴を上げているかのようだった。
(……強い)
リナは理解する。
これまで、世界でも屈指の担い手たちと刃を交えてきた。その経験をもってしても、なお断言できる。この男は――世界でも最強格の一人だ。この戦いは命を賭さずとも、命を削る死闘になるとリナは悟った。
「〈氷俄絶雹〉──解放」
レオニスは冷え切った声を発する。
瞬間。世界が白に塗り潰された。
空気中の水分が一斉に凍結し、雪でも霧でもない氷が顕現する。地面は瞬く間に白銀へと変わり、無数の氷晶が立ち上がる。
これはまさに、世界の凍結だった。
(冷たい……氷の世界……)
リナが息を吸うと、胸の奥が焼けるような冷たさを感じる。視界は白に染まり、音すらも吸い込まれていく。月明かりすら、氷に反射して歪んでいた。
ここは、もはや荒野ではない。
騎士団長〈レオニス=アルトレイン〉が支配する、完全なる氷層の世界だった。
才能、努力、環境。
そのすべてを余すことなく手に入れた傑物――それが、レオニス=アルトレインという騎士だった。
「私の魔法剣は──氷だ。それ以上でも、それ以下でもない。だが貴様は、この氷領域に耐えられるのか」
その言葉を合図に、空気が裂ける。
氷は剣の形をとって顕現し、一斉に射出された。無数の、数える意味を失うほどの氷の剣が、空を覆う。
リナは即座に抜刀する。
思考よりも先に身体が動き、地を蹴った。
――来る。
次の瞬間、絨毯爆撃のような氷剣の群れが、彼女のいた地点を叩き潰した。大地が砕け、氷と土砂が爆ぜる。
(……まだ相手は、本気じゃない)
リナは本能で理解する。
レオニスは、まだ剣を振るってすらいない。
彼女は氷剣を避け、斬って弾きながら走り続ける。一閃ごとに氷は砕けるが、次の瞬間にはその数を増して押し寄せてくる。
「──終わりだ。平民」
レオニスの声が冷たく響く。
いつの間にか、リナは完全に囲まれていた。
前後左右上下。視界のすべてを、氷の剣が占める。逃げ場はない。
「──斬る」
そう言ってリナは白い世界に呑み込まれていった。
合図もなく、全方位から一斉射。音すら置き去りにされ、世界が白く弾け飛んだ。衝撃の後に残ったのは、雪のように舞い散る無数の氷の破片だけ。
静寂。
レオニスはその光景を見下ろし、淡々と告げる。
「殺してはいない。だが――もはや戦うことはできまい」
彼は一歩も動いていない。
剣すら抜いていない。
だというのに、圧倒的な強さを誇る。
「理解したか、平民。これこそが、貴族であり、騎士団長である私の魔法剣だ。平民である貴様では、決して届くことのない──高みだ。一目しただけでも、光栄に思え」
それは宣告。
世界に刻まれた、圧倒的な差だった。
やがて、純白の世界がゆっくりと晴れていく。
レオニスが想定していたのは、血の海に沈み伏す少女の姿だった。氷剣の雨に打ち砕かれ、もはや戦うことすら叶わない――そんな光景。
「……少し、冷たいね」
だが、そこにいたのは──刀を下げたまま佇むリナだった。
出血はない。傷もない。
その身体には、一切の傷が見当たらない。
ただ、舞い落ちる氷片だけが、静かに彼女の周囲に降り注いでいる。
「なっ……貴様どうやって──」
「避けられないから……全部斬っただけ」
「魔力は無い。魔法剣を使う兆候もない。只者ではないと思っていたが、貴様──〈異能者〉か」
リナはそう言われて、ほんのわずかに首を傾げた。そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「どうして人は……そんなに言葉にしたがるんだろう。貴族、騎士団長、魔法剣、祝福、異能者。別に――剣を振るうのに、言葉は必要ないのに……」
その声音は、驚くほど静かだった。
感情の昂りも、挑発もない。ただ、思ったことをそのまま口にしただけのような声音。
その刹那。レオニスの背筋を、冷たいものが走った。
「奔れッ──! 氷剣ッ!」
レオニスは得体の知れない感覚を覚え、氷剣を一斉射出するが、リナはそれを全て斬り刻んでいく。
沈む。深く沈んでいく。
リナの意識は〈神の剣域〉の根幹へと至ろうとしていた。
魔力の兆しも、魔法式の流れも、気配として一切感じ取れない。そもそもリナの身体には魔力が存在しない。
それにもかかわらず――空気が、歪んでいる。
氷の世界は何一つ変化していないはずなのに、リナの周囲だけが微妙にズレて見えた。
まるで彼女だけが、この氷原とは別の位相に立っているかのよう。
「なんだ……。一体これは……なんだ……」
レオニスは生まれて初めて、自分の理解の外側にあるものを前にしていた。
魔法ではない。剣技でもない。
ただそこに在るだけで、あらゆる理屈を歪ませる《《何か》》。
リナは刀を下げたまま、変わらぬ表情で立っている。だがその姿は、先ほどまでとは決定的に違っていた。
「──布都之御霊剣」
リナに許された──唯一の異能が解放されていく。
どうして、彼女には魔力が存在しないのか。
どうして、彼女は常識外れの身体能力を持っているのか。転生した彼女に与えられた異能は、最初から一つしかない。
――リナという存在は、刀剣のために在る。
魔力を持たぬ代わりに、
魔法を持たぬ代わりに、
彼女の全ては、斬るという一点に捧げられている。
リナの持つその刀が薄く、緋色に染まっていく。そして――桜の花弁が、どこからともなく舞い始める。
「……桜、だと?」
レオニスほどの傑物であっても、この不可解な現象を理解できない。
風は吹いていない。季節も異なる。
淡い緋色の花弁は、氷の世界を侵食するようにリナの周囲を巡っていく。
緋色と白銀。
相容れぬ色彩が重なり合い、世界の輪郭が曖昧になっていく。
「師匠がどうやって、妖刀を使っていたのか。よく……覚えてるよ」
今は亡き師へ、言葉を送る。
これはかつて――〈剣鬼〉と呼ばれた師が振るった妖刀。数多の命と因果を斬り裂いてきた〈呪われた刃〉は、弟子であるリナへと引き継がれていた。
リナはその緋色の刀を横に構える。
構えは自然で、力みはない。
そして、パッと音もなく刀身が砕け散った。
自壊ではない。
刃はその形を解き、すべてが桜の花弁へと変じていく。緋色の花弁が白銀を満たすが、それでも刀剣はそこに在る。
〈神の剣域〉に至る少女はついに──その妖刀の真銘を告げる。
「仇櫻──解」




