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第17話 ささやかな日


「くくく……。リナ、こいつを口にすれば──飛ぶぜ?」

「ふふふ……。楽しみ」


 営業前、仕込みを終えたアルとリナは不敵に笑っていた。


 ひそひそと声を潜めながら、アルは小さな包みを卓の上に置いた。布を解いた瞬間、つんと鼻を刺す刺激的な香りが広がる。

 

 リナは思わず瞬きをする。


「……これ、本当に食べられるの?」

「クク……なぁに。最初は慣れないが、コイツの本領を知れば病みつきになるさ」

「おぉ……病みつき」


 アルは小さな板の上に、鮮やかな色の塊を置き、手にした道具をゆっくりと動かし始める。擦れるたび、さらに鋭い刺激が空気に混じった。


「……たくさん食べたら危なそうな感じ」

「量を間違えなきゃ大丈夫だ。ほんの少しでいいのさ……ククク」


 そんな二人のやり取りを、少し離れた場所から警戒するように見つめていたのがフィアだった。ちょうど出勤していたのだが、怪しい雰囲気を感じて様子見していたのだ。



「お、お二人とも──何をしているんですか! 違法なものはダメですよっ!」



 バンッ! と勢いよく扉を開けて飛び込んできたフィアだが、机の上を見て首を傾げた。


「あれ? 違法なもの……では、ない?」

「当たり前だろ。これは――東の国から取り寄せた〈わさび〉ってやつだ」

「わさび、ですか。初めて聞きました」


 その隙に、リナは何の迷いもなくつまみ食いをしていた。


「……っ!? か、辛い……っ! 鼻が……っ! 美味しくない……。涙も出てきた。うぅ……」

「バカ! わさびはそのまま食うもんじゃねぇ。薬味だ、薬味!」


 呆れたように叫びながら、アルはおろしたての魚を薄く切って皿に並べる。さらに、その横には黒い液体が入った小瓶まで置かれた。


「それは……黒い液体、ですか? 少し甘い香りがしますね」

「……美味しそう」

「〈醤油〉っていう調味料だ。知り合いの商人から、わさびと一緒に仕入れてな。安くはねぇが――こいつはヤバい。食えば分かる」


 そう言って彼は、刺身にわさびをほんの少しだけ乗せ、醤油を軽くつけてから口に運んだ。


「美味めぇ……! 美味すぎる……! やっぱり、かの東の国は食の最先端だな」

「……ごくり」

「確かに、美味しそうですね」

「リナとフィアも食え。俺と同じような感じでな」


 そして二人は、アルと同じ手順で刺身を口に運ぶ。


 リナは先ほど、わさびだけを食べてしまったせいで、これが本当に美味しいものなのかと、正直なところ半信半疑だった。

 

 だが――その疑念は、噛み締めた瞬間に跡形もなく消え去る。


「む……?」

 

 ひやりとした魚の身が、舌の上でほどける。

 生であるはずなのに生臭さは一切なく、むしろ澄んだ甘みだけが静かに広がっていく。そこへ、醤油のコクが重なる。塩味は強すぎず、刺身の味を一段はっきりと立ち上がらせた。


「んっ……!」


 そして――遅れてやってくる、わさび。

 先ほどのような暴力的な辛さではない。

 鼻に抜ける清涼な刺激が、口の中の脂と旨味を一度洗い流し、次の一口を自然と求めさせる。


「これは……」


 リナは思わず、言葉を失った。

 辛いのに、痛くない。

 強いのに、邪魔をしない。

 むしろ、すべての味を繋いで引き立てるためだけに存在しているような感覚。


「さっきのと、全然違う……」


 小さく呟いたその声には驚きと困惑、そして感動が混じっていた。


「んっ! 美味しいですね!」

「だろう。だが、問題なのは──客に出すには単価が高過ぎる。まだ試作段階だな。わさびはともかく、醤油は真似できそうだからな。試作も重ねる予定だ」

「それは……とても良いこと。試作はたくさんしたい」


 リナは目をキラキラと輝かせていた。


「ま、またやるさ。よーし、じゃあ今日の営業の準備をするぞ!」

「うん」

「はい!」

「ただ──フィアは、アレをやるんだろう?」

「は、はい……やります!」

「……アレ?」


 フィアの声には微かな緊張が宿っていて、リナはそれが何のことかまだ分からなかった。二人は営業用の制服に着替えようとするが──そこでリナはフィアに声をかけられる。


「リナさん」

「……何?」


 フィアの残された時間は多くはない。

 数日後には、彼女はアルトレイン家に戻らなければならない。だからこそ、フィアはやりたいことがあったのだ。


「その。実は──新しい制服を用意したんです。私とリナさん用の」

「……新しい制服?」


 リナは服飾に興味など全くない。

 衣服とは、着て動ければそれでいいものだ。

 だが、フィアが持ってきた新しい制服は流石に目が惹かれる。


「今日はこれを着て、営業してくださいませんか……?」


 メイド服を基調にしたデザインで、装飾は控えめ。白と濃紺の配色は落ち着いていながら、襟元やエプロンの縁に入った細いフリルが、ささやかな可愛らしさを添えている。


 布地は上質で体の線を強調しすぎない仕立てだが、動きやすさを損なわない範囲できれいに整えられていた。


「……いいよ」  


 リナは深く考えずに了承。

 早速着替えてみるが、それをみたフィアは喜びで手を叩く。


「──素晴らしいです! やっぱり、リナさんには似合うと思っていたんです!」

「……そうかな?」

「はい! スラッとしたクールな感じに、可愛らしさも合わさっている。完璧な着こなしです!」

「……おぉ。完璧なんだ」


 その制服は、リナの無駄のない体格によく馴染んでいる。背筋を伸ばして立つだけで、布地がすっと落ち、凛とした輪郭を形作っていた。

 

 スカート丈は長くはないが、決して軽薄ではない。向きを変えたりするたびに、布の下から覗く脚のラインが、長く真っ直ぐに伸びているのが分かる。強調しすぎないのに、目に留まる――そんな絶妙なバランスだった。


「……これ、あのお店で買ったの?」

「いいえ。自分で作りました」

「えっ……フィアが作ったの?」

「はい。そうですが、何か問題でもありましたか?」

「ううん。そんなことはない。凄くて……驚いた」


 リナは目を大きく見開く。

 店で買ったものと全く遜色のない服。これをフィアが作ったことは、リナにとって驚くべきことだった。


「では、いきましょうか! きっと皆さん喜んでくれると思いますよ!」

「……フィアも似合ってるよ」

「あ、ありがとうございます」


 そんなやりとりをして、二人は営業を始めた。

 二人の新しい制服はもちろん大盛況で、常連たちは手放しでその服を褒めちぎっていた。


「おぉ! これはフィアちゃんが作ったのかい!」

「すげぇな!」

「あぁ。こりゃあ、店を出せるれべるだな!」

「あ、ありがとうございます」


 それに対してリナもまた返事をする。


「そう……フィアは凄い。ふふ」

「バイト剣士も似合ってるなぁ! 身長高いけど、それが様になってるな!」

「……うん。いい感じ」


 制服の影響もあって、今日の客入りはいつもより多かった。その中で──いつものようにやって来たリリエルは、店に入った瞬間に……完全にフリーズする。


「……いらっしゃいませ。ん? リリエル?」

「……」


 リリエルは信じられない、という表情かおをしていた。


「どうしたの? お腹でも痛い?」

「そ、その装いは一体……!?」

「フィアが作った服……。いいでしょ?」

「良い……っ! なんてものではありません──! 私の神への信仰が揺らぐほどの衝撃……! いや、リナさんは推しでもありながら、まさか……神だったのですか……!?」

「私は神じゃないよ」

「いいえ! リナさんはこの世界に舞い降りた〈女神〉です! そうに違いありません!」


 リリエルは突然、膝をついたて両手を胸の前で組み、リナに向かって祈るような仕草を見せる。もはやその奇行に、この店の人間が驚くことはなかった。あぁ、いつものだな──そんな空気である。


「フィアさん……! 素晴らしいお仕事ですっ!」


 ぐっ、と力強く親指を立てるリリエル。


「はい! やっぱりリナさんには、この服がとても似合ってますよね!」

「えぇ! これは目に焼き付けて、しっかりと描き残さねば……! まさに――国宝級ですからっ!」

「なんで……国宝?」


 そんな小さな騒ぎもありつつ、今日の営業は無事に終わった。閉店後にリナが普段着に着替えようとすると、背後からフィアの声がかかる。


「リナさん。少しだけ、お時間よろしいでしょうか?」

「いいよ」

「リナさんのお部屋に伺っても、よろしいですか?」

「うん……もちろん」」


 二人はリナの部屋へと向かう。

 そこは最低限の家具しか置かれていない、簡素な空間だった。飾り気はなく、生活に必要なものだけが整然と並んでいる。一応、テーブルと椅子はあるが。


 あまりにも無機質。だが、不思議と落ち着く部屋でもあった。


「実は──リナさんが普段着ている服、少しほつれているようでしたので。手直しをしてもいいかな、と」

「ん? そうなの?」

「はい。よろしいですか?」

「……うん。お願い」


 そう答えると、フィアは小さく微笑んだ。

 微かな月明かりが窓から差し込み、部屋を淡く照らす。フィアは裁縫道具を取り出し、慣れた手つきで針に糸を通した。


 布を押さえる指先は静かで、動きに一切の迷いがない。針が布を行き来するたび、かすかな音だけが部屋に落ちる。


 リナはそれを静かに見ていたが、しばらくして気になったことを尋ねる。


「フィアは……服が好きなの?」

「えぇ。大好きです。いつか──自分のお店を持つことが私の夢でしたが……それも叶いませんね。夢はきっと、叶わないから夢なのだと思います。今後は、趣味として続けていきます」

「……」


 夢は叶わない。

 その言葉がリナの胸に静かに沈んだ。

 今日はとても楽しい一日だった。

 少し笑って、驚いて、知らないものを知って――まるで夢の中にいるような時間。


 けれど、夢はいつか醒める。


 フィアは──数日後には〈アルトレイン家〉に戻らなければならない。一度は勘当され、捨てられたというのに。あまりにも理不尽だが、貴族にとってはそれが当然。

 

 地位。立場。権力。上の人間に逆らうという選択肢は、最初から存在しない。でもだからこそ、リナは自分に出来ることがあると思っていた。


(私がすべきことは──)


 リナがそう思考を巡らせていたところで、フィアの手が止まった。


「うん。こんな感じでしょうか。着てみてください」

「……分かった」


 リナはその場で制服を脱ぐ。

 露わになった身体に無駄な肉は一切なく、肩から背中、腰にかけての線はスッと繋がっている。


 長い時間をかけて、戦いと鍛錬の中で削ぎ落とされて残された――剣のための肉体だ。


 リナはゆっくりと袖を通していく。

 和装を基調とした黒の装い。

 無駄を削ぎ落とした直線的な仕立てに、深紅の差し色がわずかに走り、静かな威圧感を纏わせている。長めの袖と外套のように広がる布が、リナの動きに合わせて微かに揺れる。


「うん。良い感じ……」

「良かったです。それにしても、とても上質な布ですね」

「……そうなの?」

「えぇ。もしかして、リナさんのお師匠様から貰ったものですか?」


 リナは、ふと思い出す。

 この服をもらった時のことを。


『リナ。お前に、良いものをやろう』

『……良いもの?』

『新しい服だ。大切に着ろ』

『……うん』


 その時、リナは何も感じなかった。

 ただ与えられただけ。

 剣を振るうために必要な道具の一つ。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。


 だが、フィアにそう言われて。誰かが服を直してくれる時間を知って、リナはようやく気がつく。

 

 師が与えてくれたものは、決して――刀だけではなかった。


「そう……師匠がくれたの」

「そうですか。きっと、リナさんのことを大切に想っていたのでしょうね」

「……」


 リナは何も答えなかった。

 いや、答えられなかった。


 師は自分をどう想っていたのだろう。

 ただの弟子。剣を教えるための存在。

 それ以上でも、それ以下でもない――と思っていた。


 けれど、今になって思う。

 本当にそれだけだったのか、と。

 少なくともリナにとって師は……。



「では、私はこれで失礼しますね。リナさん、また明日……あ、明日はお店はお休みでしたね。また明後日ですね」


 そう言って、フィアは静かに踵を返す。

 その背中が遠ざかろうとした時、リナは衝動的に彼女の袖を掴んでいた。


「あら……どうかしましたか、リナさん?」


 月明かりの下、フィアの純粋な瞳が映る。


 リナは一度、息を吸う。

 胸の奥で何かが強く脈打っていた。

 剣を握る時とは違う感覚。


 フィアとの別れの時はもう近い。

 だからこそ、リナは自分で道を選び──その道を歩むと決めた。



「フィア。明日は、デートに……行こう」


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