第11話 デート
夢。夢を見ていた。
リナは普段であれば、夢の中でさえ剣の記憶ばかりをなぞる。
けれど今夜の夢は──剣ではなかった。
「リナ。綿菓子でも買うか?」
「……何それ」
幼いリナは、小さく首を傾げる。
そこは極東の国。師はリナと共に世界を巡り、斬ることを生業としてきた。
夜祭りの灯りが道を埋め尽くし、知らない匂いと音が溢れていた。師は迷うことなく屋台の列へと向かい、当たり前のように彼女を連れ出した。
「甘いお菓子だ」
「……食べる」
渡された綿菓子は、指先で触れただけで形が崩れそう。リナは恐る恐る、それを口に運ぶ。
ふわり。
口の中で綿が溶ける。甘さだけが、確かに残った。リナはもふもふと頬張る。
「……甘い。美味しい」
「口についてるぞ。もっと綺麗に食べろ」
「……うん」
こくり、と頷く。
リナはそれさえも命令だと思っていた。
ただ──その時、師は笑っていた。
剣を握る時の苛烈さとはまるで違う、穏やかで、どこか不器用な笑み。
──ああ。この人は、こういう顔もするのだと。
そして、なぜかその表情だけがやけに鮮明に残っていた。
「……夢?」
目を覚ます。
いつもと同じ朝。いつもと同じ天井。
けれど、胸の奥に残る感覚だけが微かに違っていた。
剣以外の夢を見るのは、初めてだった。
どうして、今になってあの記憶が。
剣とは関係のない、些細な記憶のはずなのに。
分からない。
けれど、それは確かに大切な記憶な気がする。
「……今日はデート。楽しみ」
名前もつけられない温もりを抱えたまま、リナは静かに身支度を整える。そして何事もなかったように、フィアとのデートへ向かうのだった。
「リナさん。おはようございます」
「……おはよう、フィア。あれ……? なんか違う?」
「ふふ。今日はデートなので、服装も変えて来たんですよ」
フィアの服に派手さはない。淡い色合いのワンピースに、動きやすそうな靴。装飾も最小限で、普段の彼女と大きくは変わらない。けれど、布地は丁寧に整えられ、髪もきちんとまとめられている。
「──デートは服装を変える。わ、私は……これしかない……! どうしよう……」
「いえいえ。リナさんはいつも通りでいいですよ」
「そうなの?」
「はい!」
よく分からないが、このままでいいなら良かったとリナは安心する。
そして二人は、朝の王都へと繰り出していった。王都はすでに目を覚ましていた。石畳の通りには人の流れがあり、商人の呼び声と馬車の音が重なっている。
焼き立てのパンの匂い、湯気を立てる屋台。
どこもかしこも騒がしく、それでいて活気に満ちていた。
「朝はいい匂いがする」
「ふふっ。それはパンの匂いでしょう?」
「……うん。そう」
「リナさんは相変わらずですね」
「ふふん。私は食べることが好きだから」
リナはきょろきょろと辺りを見回しながら歩く。人の多さも、建物の高さも、どれも新鮮だった。
「こちらの喫茶店に入りましょうか。モーニングも美味しいので」
「……うん。楽しみ」
やがてフィアに連れられ、リナは小さな喫茶店に入る。中は木の香りがして、朝の光が窓から柔らかく差し込んでいた。席に着くなり、リナは迷いなくメニュー表を持って注文する。
ほどなくして、テーブルの上には次々と料理が並んだ。パンに、卵料理、温かなスープ。果物と甘い菓子まで添えられている。
「……いっぱい来た」
「私は軽くですが、リナさんはお気にせず食べてください」
「うん……!」
リナは嬉しそうに手を伸ばす。
パンを頬張り、スープを飲み干し、次の皿へ。
次々と食していくが、その所作は綺麗なものだった。
「思ったのですが、リナさんの食べ方は綺麗ですね」
「……ん? そうかな?」
「はい。たくさん食べますけど、所作がとても丁寧ですから」
「師匠が……そうしろって」
普段なら師との記憶は剣のことしかないのに、今日夢見たことを彼女は思い出す。
「お師匠様ですか。確かもう……お亡くなりに」
「うん。師匠からは剣をたくさん教えてもらったけど……ご飯は綺麗に食べろって言われたから」
「そうですか。とても良いお師匠様なんですね」
リナは逡巡する。
良い師匠。確かにリナにとって、彼は素晴らしい師匠だった。剣の理をその姿で全て伝えてくれた。けれど──リナは、何か大切なものを忘れている気がしていた。
「……うん。良い師匠だったよ」
けれど、リナにとって師が素晴らしい人物であることに変わりはない。彼女は懐かしむように、小さく頷いた。
会計時。フィアが自然な動作で財布に手を伸ばすが、リナはその前にずいっと一歩踏み出した。
「……お金は、私が出す」
リナなりに考えた末の行動だった。
フィアにはいつも世話になっている。その自覚があるからこそ、ここは自分が払うべきだと思ったのだ。
「もしかして、リナさんの奢りですか?」
「そう。私は……奢り、をする!」
「ふふ。それでしたら、お言葉に甘えましょうか」
「任せて……!」
言い慣れない言葉に、少しだけ間が空く。使い方が合っているのか自信はないが、それでもリナは会計台に硬貨を置いた。結果として、支払いはきちんと彼女が引き受ける形になった。
腹が満たされたところで、二人が次に向かうのは。
「次は被服店に向かいましょうか」
「何それ?」
「お洋服のお店です。リナさんはそれしか持っていませんよね?」
「……うん」
リナの服装は、動きやすさだけを突き詰めた黒の剣士装束だった。無駄な装飾は一切なく、布地も丈夫で軽い。斬り結ぶ際に邪魔にならぬよう、袖や裾は短く整えられ、身体の線に沿っている。
「一応、見てみませんか?」
「うん。見る」
二人はそうして、通り沿いの被服店へと足を向けた。
店内に入ると、外の喧騒が嘘のように遠のいた。木製の棚には整然と衣服が並び、柔らかな布の色合いが目に優しい。
「そうですね……。リナはさんは背が高くて、スラっとしているのでこちらを試着してみませんか?」
「了解」
リナはフィアの選んだ服を手に取り、試着室へと入る。
「……どう?」
しばらくして、試着室の奥からリナが姿を現す。
濃色の上着は身体に程よく沿い、締め付けすぎない造りで動きを妨げない。腰から下は細身で長めのスカートシルエットでまとめられ、脚線をまっすぐに見せている。
布地は軽いが、安っぽさはない。
派手な装飾はなく、色合いも落ち着いていた。
リナは居心地を確かめるように、軽く身体を動かす。
「ひらひらは……ちょっと変な感じ」
「とてもお似合いですっ! 前々から、リナさんはこの系統が似合うと思っていたんです! ぜひ、購入しましょう!!」
「う、うん……。でも、お金が足りないかも。ご飯にたくさん使ったから……」
「任せてください! ここは私が出しますから!」
「あ、ありがとう……」
なぜかフィアは異様なほど興奮していた。けれど、その理由をリナが理解できるわけもなく。
「せっかくですし、今日はその服で過ごしましょう! えぇ。絶対にその方がいいです!」
「う、うん……。そうする」
強く勧められ、リナは頷くしかなかった。
こうして彼女は、その服のまま一日を過ごすことになった。
(ひらひらしてるけど、これなら普通なのかな……?)
斬るためではない服。そんな選択肢があること自体、リナにとっては新鮮だった。今のリナを見れば誰もが、彼女を美しい街娘だと思うだろう。といっても、腰には刀を差しているので違和感は残るが。
「ねぇ。フィアは……」
「はい。何でしょうか?」
被服店を後にし、王都の街を歩きながら──リナは前から気になっていたことを口にした。
「──もしかして、貴族の人だったりする? それによく鍛えている……よね」
リナは以前から感じていた。フィアの佇まいは上品で、仕草も整っている。だが、それだけではない。動きを見れば一目で分かるほど、無駄がなく、身体は確かに鍛えられていた。
かつて師の付き添いで貴族の人間と会ったことがある。その記憶と、今目の前にいるフィアの姿が、どこか重なって見えたのだ。
「……わ、私は──」
フィアは表情がこわばり、その場で動きを失ってしまう。
もしかして、良くないことを言ってしまったのかもしれない。そう感じたリナは、すぐに謝ろうと口を開こうとするが。
――その瞬間。
通りの向こうから、ざわりとした喧騒が押し寄せてきた。人の声が重なり、何か異変が起きているのは明らかだった。
「おい、貴様。騎士にぶつかっておいて、即座に謝罪しないとは──何事だ?」
「い、言いがかりだ! そっちがよそ見していたからだろ!」
「私の問題ではない。〈魔力無し〉は騎士を敬い、道を譲るのが当然だろう。貴様には少し、教育が必要なようだな」
騎士は剣を抜いた。
まるで鏡のように磨き上げられた刃が、陽光を反射する。ためらいもなくその剣は、男性へと振り下ろされたが──
「……ねぇ。あなた──何してるの?」
金属音が響いた。
それはいつの間にかリナが、その剣を刀で受け止めていた音だった。
「……ん? 貴様。誰の許可を得て、私の邪魔をしている」
「あなた……その人を斬ろうとした」
「別に殺すつもりはない。腕に軽く傷をつけるだけだ。教育には、多少の痛みが必要だからな」
「それは……良くないと思う」
理屈ではなかった。
感覚的に、リナはこの騎士の立ち振る舞いを受け入れられなかった。
「貴様──街娘ではないな。冒険者か?」
「違う。私は〈バイト剣士〉」
「? 意味の分からない女だ。まあいい。明確に邪魔をした貴様から、教育をするとしようか」
リナはそんな彼に問いかける。
「ねぇ。あなたは──敵なの?」
お前は敵か否か、と。
彼女の意識は既に──〈神の剣域〉へと踏み込もうとしていた。
「敵? あぁ、私は貴様の敵だ。さぁ、どこからでもかかってくるといい。特別に騎士の剣というものを、貴様に見せてやろう」
その騎士は深く考えることもなく、リナの言葉を肯定してしまった。
――刹那。
空気が、沈んだ。
音が遠のき、王都の喧騒が一瞬で剥ぎ取られる。
「敵は──斬る」
剣の化身が生まれる。それは威圧でも、誇示でもない。ただ〈斬るために在る者〉が、この場に顕現する。
ゆらり。
刀が真横に構えられる。
その所作はあまりにも静謐で異質だった。
次の瞬間に起こる結果だけが、すでに確定している――そんな予感が場を支配する。
(なっ……なんだ、この殺気は……)
そう感じた時には、すでに遅かった。
騎士は直感的に悟る。目の前の少女は決して只者ではない、と。
タンッ──と、リナは軽く跳躍するように踏み込み、騎士との距離をたった一歩で踏み潰した。閃いた刀は正確に騎士の喉元を捉える。
――死。
その騎士は生まれて初めて、自分の命が終わるという事実を理解したが──
「リナ──ッ!! 待て!! 頼む、やめろッ──!!」
喉が裂けそうなほど、ただ必死にリナの名を呼ぶ声が響く。
「……ん?」
その声を聞いた瞬間、リナの動きがピタッと止まった。あと一秒。ほんの一瞬でもその声が遅れていれば、騎士の首は間違いなく刎ね飛ばされていただろう。
刃は首筋の薄皮を一枚だけ掠めている。
遅れて、そこから細い血の筋が伝い落ちた。
騎士は恐る恐る喉元に手をやり、自分の首がまだ繋がっていることを確かめる。
「はぁ……はぁ……」
その事実を理解した途端、胸の奥から震えるような恐怖と安堵が込み上げてきた。
「リナ! すぐにそっちに行く! そのまま待っていてくれ!」
そして人混みをかき分けて、慌てた様子で駆け込んできた人物。それは、リナの知り合いの金髪騎士である──
「アレク……?」




