第10話 得意なこと
「イカは──斬る」
そう言ったリナはあろうことか、この大荒れの海の中へと飛び込んでいった。
「ちょ……!? リナ!」
「おいおい。流石に腕が立つとは言え、大丈夫なのか……?」
「二人とも安心してくれ。リナは──あのクラーケンでさえ、斬るさ」
アルは、誰よりもリナの剣の腕を信頼していた。これまで何度も彼女の包丁さばきを見てきたが、それだけでも常軌を逸している。料理という行為の中にすら、剣の理が滲み出ているのだ。
そしてアル自身もまた実力者であるがゆえに理解している。リナはすでに、常人が踏み入れることすら叶わない、前人未到の剣域に立っているのだと。
「リナ……」
その一方で──カレンは、海へと潜っていったリナの姿を、じっと見つめ続けていた。すでに彼女の影は波間に消え、視界には荒れ狂う海しか残っていない。それでもカレンは目を逸らさずにこの大荒れの海を、まるで祈るように見つめていた。
(本当は、私が率先して行くべきなのに……)
カレンは、血の滲むような努力の末に〈Aランク冒険者〉になった。その見た目と性格もあって、冒険者ギルドでは馬鹿にされることも多かった。それでも歯を食いしばり、努力を重ね、ようやく掴み取った肩書きだ。
──それなのに。
勇敢に海に飛び込んだリナを見て、カレンの胸に言葉にならない感情が広がる。
Aランク冒険者という称号は、本当に自分の力を示しているのだろうか。その肩書きはいまこの瞬間、何の意味を持つのだろうか。
「……(見えた。大きいイカは──斬る)」
まるで海そのものが、リナの動きを前提に流れを変えているかのよう。リナは水中であっても波に逆らわず、自在に泳いでいた。濁流も、渦も、進路を乱すことはない。
『──オオオオオオォ』
低い声が唸るように響く。
クラーケンが動いた。
山のような巨体が、触腕を振るい、海を叩き潰す。その一撃だけで、小型船など原形を留めず沈むだろう。
だが──その攻撃はリナに届かない。
触腕が振り抜かれる前に、彼女は懐へ入り込んでいた。
「……(大きいだけだね。やっぱり──遅い)」
思考はそれだけだった。
刀を抜く。その動作に、迷いも力みもない。
斬るという行為が、彼女にとっては呼吸と同じだった。
一閃。
海中であるにもかかわらず、刃は寸分も狂わない。切断面はあまりにも滑らかだった。触腕は抵抗する暇もなく、切断された事実を理解する前に崩れ落ちる。
リナは止まらない。
一歩、また一歩と水を踏むように、その巨体の中心へと進む。
神経、筋肉、魔力の流れ。
すべてを把握した上で、必要な箇所だけを斬り捨てていく。
「……(これで──終わり)」
心臓に相当する核を、リナは正確無比に刀で貫いた。巨大な生命が完全に停止する。クラーケンは力を失い、この海に浮き上がっていく。
リナは刀を収めて、浮上していく。
息は乱れていない。心拍も平常のまま。
彼女にとって、この戦いは危機でも死闘でもなく。
「……泳ぐのも、悪くないね」
それだけの出来事だった。
あれほどの大嵐が嘘だったかのように、空は澄み切っていた。荒れ狂っていた海も、今は何事もなかったかのように穏やかだ。
「──終わったよ」
リナは静かに船へと戻り、甲板にいる三人の前に報告をする。
「あ、あぁ……。アル、リナは一体何者なんだ?」
「さぁな。でも――斬ることに関しては、世界でも随一の担い手だ」
「……そうか」
そのやり取りの傍らで、カレンは俯いたまま動かなかった。リナは不審に思って声をかける。
「カレン? どうしたの?」
「……私はAランク冒険者なのに、何も出来なかった。この時のために呼ばれたのに……」
相手は伝説級の魔物〈クラーケン〉だ。
仮にSランク案件であれば話は別だが、Aランク冒険者にそこまでを求める者はいない。バロックもアルも、彼女を責めるつもりは微塵もなかった。
それでもカレンの胸を満たしていたのは、言い訳のしようもない自己嫌悪だった。
「──私は、泳ぐのが得意っ……!」
沈黙を破るように、リナが唐突に口を開く。
「ん? 何の話よ」
「カレンはどうなの?」
「私は普通ね。得意ってほどじゃないけど」
「……なら、泳ぎが得意な私がやるべきだった。人には、向いてる場所があるって言葉……なんだっけ」
「適材適所?」
「そう、それ。だから、泳ぐのが得意な私がやっただけ。カレンは落ち込まなくていい……よ」
「……っ」
カレンは思わず目を見開いた。
それはリナが自分なりに考え、懸命に紡いだ言葉だった。
拙くて、少し分かりにくい。
理解するまでに、ほんの一瞬の間が必要だった。
けれど――だからこそ、その言葉は真っ直ぐとカレンの胸へ刻み込まれた。
「えぇ、そうね! ダンジョンなら私に任せなさい!」
「ふふ……。うん、そうだね」
元気を取り戻したカレンの様子を見て、リナはほんのわずかに口元を緩めた。
その後、無事に沖へ戻った四人はそこで解散することになった。クラーケンの処理はあまりにも大掛かりなため、改めてバロックが引き受け、素材は後日アルの店へと送られる――そんな段取りで話がまとまった。
「リナ」
「ん? 何、カレン」
アルと並んで店へ戻ろうとしたところで、背後から声がかかった。
「リナって、いつもどこでバイトしてるの?」
「アルの店」
「そ。じゃあ、たまに顔を出しに行くわ。リナは私の後輩なんだから、これからは面倒を見てあげる。感謝しなさい!」
小さな胸を張ってカレンはそう言った。
それに対して、リナは頷いた。
「……うん。よろしく、カレン」
「〈カレン先輩〉って呼んでもいいのよ?」
「よろしく、カレン」
リナの反応を見て、カレンも先輩と呼ばせることは諦める。
「……まあ、カレンでもいいけど。じゃあ、またね」
「うん。バイバイ」
リナは小さく手を振り、カレンと別れた。
「思わぬ出会いだったな」
「……うん。カレンは良い人だった」
「ふ。そうだな」
そんな他愛のない会話を交わしながら、リナはアルと並んで歩き出す。
港町の道を、いつもより少しだけ軽い足取りで。
†
「リナ! また決闘をするぞ!」
「リナさん。改めて、入信にご興味はないでしょうか?」
「リナ! 今日こそ冒険者ギルドに行くわよ! え……? まだその時じゃない? まぁ……それならいいけど……。でも絶対に冒険者になるのよ! 約束だから!」
気がつけば、店の常連の顔ぶれにアレク、リリエル、カレンの姿も混じるようになっていた。
理由は言うまでもない。誰もがリナに会いに来ているのだ。そんな少し騒がしく、それでいて穏やかな日々の中で、リナは変わらず毎日を過ごしていた。
その日も営業後の仕込みを終えて、リナが一息ついていると――
「リナさん。お疲れ様です」
背後からフィアの声がかかる。
「ん。お疲れ」
「実は、少しご提案がありまして」
「ん? なに?」
「もしよければ、デートに行きませんか?」
「でーと……って、なに?」
「二人で街を歩いたり、買い物をしたり、ご飯を食べたりすることです。リナさんともっと親交を深めたいと思いまして」
「おぉ……! 楽しそう」
その言葉にリナの表情がほんのりと緩む。
もっとも、即座に反応したのは〈食〉だったが。
「ふふ。やっぱりご飯に反応しましたね」
「うん。ご飯は好き。ここの料理も、とても美味しい」
「では明日は他のお店も巡りましょう。王都には、美味しいお店がたくさんありますから」
「……! やった!」
二人の会話に、カウンターの向こうからアルが笑いながら口を挟む。
「お、二人でデートか。いいねぇ」
「うん。楽しみ」
「ま、同じ店の仲間だ。親睦を深めるのは悪くねぇ。ただしリナ。ほかの店で――食い逃げはするなよ?」
「……もうしない。給料もあるし、ちゃんと払う」
リナはそれをしっかりと理解していた。
「そうだ。それでいい。料理には手間も時間も、気持ちも込められてる。だから、客も店も対等なんだ。それを無視しちゃいけねぇ。分かったな?」
「……うん」
リナは小さく頷く。
料理を手伝うようになって飲食店の苦労が、少しずつ分かってきていたのだ。
「では、明日はここにお迎えに来ますね」
「ん。フィア、楽しみにしてる」
「えぇ。では、失礼します」
「バイバイ」
リナは小さく手を振る。
リナの無邪気な様子を見つつも、アルは気づいていた。フィアの横顔に一瞬だけ落ちた、薄い影を。アルは何も言わず、リナの肩にそっと手を置く。
「リナ。まあ……明日は楽しんでこい」
「うん! 給料でいっぱい食べる!」
「ははは。そりゃ、正しい使い道だな」
「……うん。ふふ」




