第1話:追放と始まりのスライム
じめじめとした空気が、肌にまとわりつく。洞窟の壁を伝う雫が、不規則なリズムで水たまりに落ちる音だけが、やけに大きく響いていた。俺、ライアン・アークライトは、ゴブリンの緑色の血と臓物の悪臭に顔をしかめながら、無心で死体を洞窟の隅に積み上げていた。
「おい、ライアン!まだ終わんねえのか、この役立たずが!」
背後から投げつけられたのは、ねぎらいの言葉ではなく、いつもの罵声だった。声の主は、俺が所属するパーティー『赤き獅子の牙』のリーダー、剣士のゲイル。彼は、仲間たちと倒したばかりのゴブリンキングが落とした魔石を眺めながら、満足げに口の端を吊り上げている。
「すみません、ゲイルさん。今すぐに…」
「ったく、お前は本当に『テイマー』か?モンスターを従わせるのが仕事だろうが。ゴブリン一体テイムできずに、死体処理ばっかりじゃねえか。なあ、皆もそう思うだろ?」
ゲイルが同意を求めると、魔法使いのセリーナが扇子で口元を隠しながら、くすくすと笑った。
「本当ですわ、ゲイル様。ライアンさんがいると、パーティーの格が下がりますもの。せめて荷物持ちとして、もう少し俊敏に動いていただきたいですわね」
重戦士のボルガは、巨大な戦斧を肩に担ぎ、鼻で笑う。
「荷物持ちに俊敏さなんざいらねえだろ。だが、報酬を同じだけ持っていく寄生虫だってんなら話は別だ。なあ、ライアン?」
彼らの言葉は、鋭い刃物のように俺の心を突き刺す。だが、反論はできなかった。十五歳で神から職業を授かる『天啓の儀』で、俺が授かったのは【テイマー】。モンスターを従え、使役するその職業は、かつては英雄たちがその名を連ねた花形の職業だったという。しかし、現代では強力なモンスターのテイムは極めて困難で、成功例は数えるほどしかない。結果として、ゴブリンやスライムといった最弱のモンスターしか従えられない『不遇職』『お荷物職』として、蔑みの対象となっていた。
俺も例外ではなく、このパーティーに拾われてからの三年間、まともにモンスターをテイムできたことは一度もない。できることといえば、薬草の採取、荷物持ち、野営の準備、そして今やっている死体の後片付け。冒険者というより、ただの雑用係だ。
全ての死体を片付け終え、恐る恐るゲイルたちのもとへ戻る。
「終わりました」
「ああ、ご苦労。ちょうど話があったんだ、ライアン」
ゲイルは汚物でも見るかのような目で俺を一瞥し、そして言い放った。
「お前、クビな」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。頭が真っ白になり、耳鳴りがする。
「…え?」
「だから、クビだっつってんだよ。聞こえなかったのか?今日限りで、お前をこのパーティーから追放する」
冷酷な宣告に、俺は言葉を失った。追放。その一言が、ずしりと重くのしかかる。
「な、なんでですか…!俺、これまでずっとパーティーのために…」
「パーティーのため?お前がやったことなんて、誰にでもできる雑用だけだろうが」
ゲイルは嘲笑を浮かべ、俺の胸を指で突いた。
「いいか?俺たちはもっと上を目指してんだ。Cランクに上がるためには、お前みてえな不遇職の寄生虫は足手まといなんだよ。お前のせいで、攻略ペースも落ちるし、何より見栄えが悪い」
「そ、そんな…」
「ゲイル様の言う通りですわ。あなたの薄汚いローブ、わたくしたちのパーティーに相応しくないと思っていましたの」
セリーナが追い打ちをかける。ボルガも腕を組み、威圧するように俺を見下ろした。
「ガキのお守りはもう終わりだ。さっさと失せろ」
仲間だと思っていた。いつかテイマーとして覚醒し、彼らに認められる日が来ると信じて、どんな罵詈雑言にも耐えてきた。だが、それは全て、俺の独りよがりな幻想だったらしい。
「分かり…ました。追放、受け入れます。ですが、これまでの報酬の取り分だけは…」
せめてもの抵抗として、これまでまともに支払われてこなかった報酬を要求する。だが、その淡い期待は、ゲイルの卑劣な笑みによって打ち砕かれた。
「報酬?お前にやる金なんざ一ゼニーもねえよ。これまでお前を養ってやっただけでも、ありがたいと思え」
そう言うと、ゲイルはボルガに目配せした。ボルガはニヤリと笑い、俺が大切に持っていた革袋をひったくる。中には、なけなしの金と、両親の形見である小さなナイフが入っていた。
「うわっ、きたねえ袋。金はもらっとくぜ。ああ、このボロいローブも置いていけよ。パーティーの支給品だからな」
ほとんど抵抗もできず、俺は装備を剥ぎ取られていく。古びたローブ、使い古した短剣、そしてわずかな所持金。全てを奪われ、薄汚れたシャツとズボン一枚になった俺を、彼らはゴミを見るような目で見ていた。
「さあ、とっとと失せろ。二度と俺たちの前に顔を見せるなよ」
ゲイルに背中を蹴り飛ばされ、俺はダンジョンの冷たい石畳に無様に転がった。彼らは高笑いをしながら、ダンジョンの出口へと消えていく。遠ざかっていく松明の光が、俺の最後の希望を奪い去っていくようだった。
どれくらいそうしていただろうか。痛みと寒さ、そして何より心の絶望に、立ち上がる気力も湧かなかった。ようやく震える足で立ち上がり、壁を伝いながら、とぼとぼとダンジョンを後にする。
外は、冷たい雨が降っていた。まるで俺の心を映し出すかのように、空は暗く淀んでいる。行くあてなどない。パーティーを追放され、金も装備も、帰る家すらない。冒険者の夢も、仲間との絆も、全てを失った。
雨に打たれながら、あてもなく森の中を歩き続ける。疲労と空腹、そして絶望で、意識が朦朧としてきた。木の根に足を取られ、俺はぬかるんだ地面に倒れ込んだ。もう、どうでもよかった。このままここで朽ち果てていくのも、悪くないかもしれない。
降りしきる雨が、俺の体温を容赦なく奪っていく。薄れゆく意識の中、ふと、頬にぷにぷにとした柔らかい感触があった。
なんだ…?
重い瞼を必死にこじ開けると、そこには一匹のスライムがいた。透き通った水色の体は、雨粒を受けてきらきらと輝いている。最弱モンスターの代名詞。冒険者なら誰もが見向きもしない、そんな存在だ。
そのスライムは、倒れた俺の顔を心配そうに覗き込み、小さな体で頬の泥を拭うような仕草をしていた。普通、モンスターは人間に警戒心を持つはずだ。特にスライムは臆病で、すぐに逃げてしまう。なのに、このスライムは逃げようともせず、ただ健気に俺のそばにいる。
その姿を見た瞬間、俺の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
パーティーの仲間からは、寄生虫と罵られた。役立たずと蔑まれた。だが、目の前のこの小さなモンスターは、何の価値もないはずの俺を、ただ純粋に心配してくれている。
「…ありがとう」
かすれた声で礼を言うと、スライムは嬉しそうにぴょん、と跳ねた。その姿は、まるで曇り空に差し込んだ一筋の光のように見えた。
死ぬのは、まだ早いかもしれない。こんな俺でも、心配してくれる存在がいる。
俺は、最後の力を振り絞って、震える手をスライムに伸ばした。
「なあ、お前…俺と、一緒に来てくれないか?」
テイマーとしての才能がない俺の呼びかけに、応じてくれるはずがない。そう分かっていた。だが、言わずにはいられなかった。
すると、スライムは躊躇なく俺の指先にその身を寄せ、すり、と甘えるように体をこすりつけた。契約の意思表示。信じられない光景だった。
俺は、テイマーとしてのスキルを発動させる。
「契約」
俺の指先から放たれた淡い光が、スライムを優しく包み込む。通常、テイムには抵抗が伴う。だが、目の前のスライムは、その光を心地よさそうに受け入れていた。光が収まると、俺の脳内に、確かな絆が結ばれた感覚が流れ込んできた。
契約は、成功した。
「これからよろしくな。お前は、空みたいに綺麗だから…そうだ、『ソラ』だ。今日からお前の名前は、ソラだ」
『ピュイ!』
ソラは、嬉しそうに鳴いた。
これが、不遇職と蔑まれた俺と、後に世界を震撼させることになる最強の存在との、最初の出会い。
絶望の淵から始まる、俺の逆転劇の、本当の始まりだった。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます!
ライアンとソラの新たな冒険、お楽しみいただけましたでしょうか。
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