とある二月の物語
◇◇◇
「はいっ♪監督さん、バレンタインチョコです♪」
きれいにラッピングされたチョコを濱屋らんから受け取り、犬飼監督は照れくさそうに困り顔で頭をかく。
「あぁ、これはどうも。帰ったら娘に自慢しますよ」
「んふふふ、して下さい♪」
撮影も佳境に迫る二月のとある日。濱屋は撮影前にチョコを配る。古いとか悪しき風習とか言われながらも、何となく一日現場の雰囲気が柔らかくなるのだから安いものだと濱屋は考える。
「あっ、雨野さん♪」
五月を見つけると手を振りながら駆け寄る。息を切らせて近付き、一瞬視線を落とした後で顔を上げるとそこには完全に恋する乙女の顔した少女がいた。演技派女優濱屋らんの真骨頂だ。
「桐香ちゃんがいるのは分かってます。でも、……雨野さんにだけは手作りしたので、受け取ってくれますか?」
もじもじと恥ずかしそうにしながら、バッグからチョコを取り出して五月へと差し出す。何も知らなければその健気さに罪悪感が揺さぶられるかも知れない。例えば一年も前なら。
「ありがとう」
にっと笑い受け取ると、濱屋もクスリと笑う。
「成長しましたねぇ」
「最近それ別の人にも言われたっすよ」
「なら本当にそうなんでしょうね♪ところで、本命さんの激重チョコはもう貰いました?」
「……なんすか、それ」
濱屋はケラケラと笑いながらチョコをひとかけら口に入れる。
「や、だって桐香ちゃんの本命チョコとかもうすごそうじゃないですか~。強壮剤とか媚薬とか入ってるかもしれませんよ~?雨野さん、気を付けて♪」
「そんなの入ってない!」
「おっと来ちゃった。ではでは、のちほど」
そして他のスタッフにもチョコを配りに行く。
「もうっ」
遠ざかる濱屋を見ながら白田は息を吐く。そして五月の持つチョコを気にしつつもちらりと顔を覗き見る。
「……本当に変なものなんて入ってないから」
「別にそんな心配してないけどな」
◇◇◇
先日の『俺の女に手を出すな事件』以降も撮影は順調に進む。結局あの後白田はシリアスなシーンにも関わらず口元が緩みっぱなしだった為、何度かリテイクを受けたのちにクールダウン休憩を取らされた。その後一発でOKだったわけだが、結局仕事に影響を与えてしまったことを少し反省する。そして白田は翌日のスポーツ新聞を全紙購入したそうな。
そして、撮影は順調に終わりに近付く。
大体月に一度の満月。月が重要なテーマになっている本作にとっては貴重な撮影日。撮影期間中最後の満月で、且つ天気も良いとあって翌朝は早朝からの撮影が予定されている。
残すところ、あと二日。
「おはようございます」
日の出前から現場に集合。欠伸をかみ殺しながら挨拶をして回る。今日は満月。朝日が昇っても消えない月の下、ベンチに座り明日を語る佐久間と美乃梨のシーン。互いに恋心を抱いていると思っていた二人だが、美乃梨は今は虎雄と付き合っている。
そんな二人が月と太陽に見守られながら、すれ違い、永遠に道を分かつシーン。
夜明けから僅かな間。撮影時間も極めて限られている大事なシーン。このシーンをキービジュアルにしようと、加賀美さんも早朝から現場入りしている。
暫くして、何となく現場が慌ただしくなる。どうやら御影さんが来ていないようだ。
「あいつ女遊びはアレだけど、時間にはキッチリしてる筈なのにな」
虎雄役の滝川さんが電話を掛けるが繋がらない。何コールかして、諦めようとおもった矢先に電話は繋がる。
「篤人!お前今どこに……」
と、怒気を帯びた声を上げたが、それは一瞬で変わる。
「……病院!?」
話によると、御影さんには実は特定の彼女がちゃんといて、それでも女遊びを繰り返す彼をずっと我慢して見守っていたらしい。で、バレンタインの日も他の子と遊び歩いていた彼に遂に堪忍袋の緒が切れた。痴話喧嘩の末、勢いで彼女の握った包丁が彼の左手のひらをスパリ、と切る。
幸い大事には至らなかったようだが、運ばれた病院から現場まではかなり距離があり撮影時間には間に合わない。
「……あのバカ」
滝川さんは皆に説明して、大きく肩を落とす。
日付をずらすことは出来ないまでも月をCGとかで合成すれば、などと素人考えをしていると、加賀美さんが監督と何やら話をしている。
「残りは二人のラストシーンですよね?夜通しベンチに座り、佐久間と美乃梨が空に残る月の下別れを告げる。脚本見たときから俺もここをキービジュアルに使いたいと思ってました。で、今閃いたんですけど――」
加賀美さんは指をクルリと回して言葉を続ける。
「背中越しってどうですか?」
座る二人を正面からでなく、背後から撮る。空には月と太陽。背中を向けて明日を語る二人の表情は分からない。だが、ちょっと待てよ。背中越しだろうと何だろうと御影さんが間に合わないことにはどうにもならない。
加賀美さんが何かを言い、犬飼監督がチラリと俺を見る。気のせいではない。
「うん」
監督は決意を込めて頷く。
「それで行きましょう。御影くんの残りのシーン、カメラ位置を変えます。カメラはベンチ後方から。時間はありませんよ、三十分後に撮ります。各自準備を」
『はいっ!』と犬飼組と呼ばれるスタッフ達の声が早朝の公園に響く。
「あの、でも御影さんは……、間に合わないんじゃ?」
恐る恐る手を挙げて白田が問う。
「えぇ。だから最後のワンシーン、代役を立てます。雨野さん、お願いできますか?」
マジかと思うよりも早く声が出た。
「はいっ!」
出来るとか出来ないとかじゃない。選ばれた以上やるか、やらないかだ。
◇◇◇
互いに中肉中背、平均的な体格。しかも後ろ姿、更に椅子に座っている。そして犬飼組の優秀なスタイリストが俺の後ろ姿だけを御影篤人……佐久間に仕上げていく。加賀美さん曰く、『元々雰囲気自体は似ている』そうだ。
ベンチに座り、映りを確認しながら仕上げていく。隣には準備を終えた白田が座る。
ちなみにセリフは当然無い。背後から二人のカット、白田のセリフ、白田の表情。御影さんのセリフと表情は後撮りするらしい。
俺の後ろ姿の準備が着々と進む中、不意に白田は呟く。
「幸せなシーンだったらもっと良かったのに」
「白田さん、仕事中ですよ」
俺が窘めると、スタイリストの女性がクスリと笑う。
「普段通りお話して大丈夫ですよ。この現場の人はもう皆知ってますし」
「幸せなシーンだったらもっと良かったのになぁ~」
お姉さんの言葉を受けて調子に乗った白田は足を前後に動かしながら呟くでも無く声にする。
「おい、調子乗んな」
俺の後ろではスタイリストのお姉さんがニヤニヤとしているのが鏡越しにわかる。
「でもまさか一緒に映画に出られるなんて思いもしなかったなぁ。御影さんの女癖の悪さに感謝しなきゃね」
「そんなのに感謝はしたくないなぁ」
スタッフロールに俺の名前は載せない約束。変な邪推で作品の評価を変えたくないから。白田や、濱屋さんや、須藤さんや、加賀美さん、それ以外にも沢山の人々が関わった大切な作品だから。
結局、新堂さんは来なかったのだろうか。来たら加賀美さんが一言くれそうなものだが、特に何も言われていないのだから、そう言うことなのかもしれない。誰しも皆が過去に縛られているわけでは無いのかもしれない。
――そして準備が出来て、ラストシーンが始まる。
◇◇◇
冬の早朝。ぴんと清廉な空気を柔らかな朝日が照らし、俺と白田の吐く息を白く浮かび上がらせる。
もうカメラは回っている。
「佐久間くん。わたしね、虎雄くんと付き合ってるんだよ。知ってた?」
俺は無言。予め指定された角度までしか顔は動かせない。
撮影用のメイクをした、普段と少し違う白田の指がベンチの上、俺の指を探す。
「……ずっと好きだったの」
誰を、とは言わない。だが、主語は佐久間な事は今までの文脈で分かる。恐らく佐久間にも。
「ずっと、ずっと、好きで、いつまでも一緒にいられると思ってたから……、いつだって大丈夫だって、勝手に思っちゃってたんだね。今なんて、一度しかないのに」
『お幸せに』
――佐久間のセリフ。きっと、須藤さんのセリフ。
白田はぎゅっと俺の手を強く握り、目からはボロボロと大粒の涙をこぼして俺の顔を覗き込む。
「……ばか」
すっと顔を俺に近づけ、頬の涙を俺の頬に付けると白田は立ち上がる。
そして目を拭うと、もう振り返ることはなくそのままゆっくりと公園を、俺の元を離れていった。
気が付くと、俺も泣いていた。
監督が告げる終了の合図も耳に入らないまま、こんな日が来ないようにと、強く心に決めた。