第1話 出会い
仕事で行った新潟で流川聡は一人の少女と出会う。少女の名前は荻原莉緒、何かを求めて彷徨う少女に流川は声をかける。少女の系譜は術師の系譜であり、莉緒はその血を濃く受け継ぐ者だった。そして流川も術師の系譜、修験道の家で生まれていた。
二人の出会いは偶然なのか?やがて二人は妖も仲間に加え、太古の時代に神の使途によって封じられた邪神との闘いに向かう事になる。
1、出会い
『寒いな、冬の日本海側は東京とは違うな』
流川聡は一月下旬の日もとっぷりと暮れた、地方の繁華街を歩いていた。食事の時に軽く呑んだ後、バーで呑みホテルに帰る途中だった。この地で依頼された仕事で訪れ今日中に帰るつもりだったが、予想以上に時間が掛かってしまい急遽ホテルに泊る事になった。日本海側に位置する新潟…寒風が吹く古町を彷徨っていた。時刻はまだ十時前だが街を歩く人影は少ない。新潟市の中心街だった面影は、かなり薄くなっているのかもしれない。
流川聡…弁護士資格と司法書士の資格を持ち、東京で個人事務所を構える33歳になる男だ。弁護士として…或いは司法書士として、企業や個人の相談や依頼を受け解決する事が仕事だが…流川聡の事務所はもう一つ裏の顔がある。世の中には様々な事で困っている人は多く、国家資格をもってしても裁けない不可思議な事も多い。流川法律事務所はそういった不可思議な事も受ける、変わった法律事務所だった。
流川『こっちじゃないか?』
ホテルに向かっていた流川は何故か方向を見失っていた。宿泊するホテルは信濃川に面した場所にあった。感覚の優れている流川が方向を見失う事など、産まれてこの方から一度も無かった事だった。胸の中に何か引っかかるものを感じながら、取り敢えず大通りに出てタクシーでも拾うかと思っていた。
狭い路地を歩いていると数人の人影が見え、何か言い争っているのが見えた。呑み屋の多い繁華街の狭い路地裏だ、酔っぱらいの集団だと思って通り過ぎようとした。しかし集団を視た時、この場所には似つかわしくない服装が見えた気がした。立ち止まってよく見ると数人の男に囲まれて、まだ幼い制服姿の女子高生が立っている事に気づいた。女子高生は男達に腕を掴まれ、路地の奥に連れ込まれて行った。女子高生は声を上がる事も助けを求める事もしなかった。流川は気になって後をつけて男達に話しかけた。
流川『君達、高校生相手に何をしているんだ。』
女子高生の周りには二十代前半位の三人の若者が立っていた。流川が話しかけても逃げるそぶりも見せずに、女子高生の腕を掴んだまま離さずに、脅すような口調で怒声をあげて睨みつけてきた。髪の色も口調も服装もチンピラ風の男達だった。
男 『なんだよ、邪魔するんじゃねえよ。』
流川『その手を離しなさい。いう事を聞かないと警察に通報する事になるよ。それと君達程度では僕には勝てないよ。手を離して立ち去りなさい』
流川は若者達の正面に立ち静かに話しかけた。三人のうちの一人が殴り掛かろうとしたが二人がそれを止めて、捨て台詞を残して三人は立ち去って行った。その間も女子高生は一言も発せずに黙って佇んでみていた。ひょっとして声を失っている子なのかと思ったくらい、言葉も悲鳴も溜息も…全く発しない女子高生だった。
流川『大丈夫?』
女子高生『……』
流川『大通りまで出ようか。ここは暗くて危ないから。声が出せないのかな?』
女子高生『……いえ…喋れます…助けて頂いてありがとうございました。』
流川と女子高生は並んで歩き路地を出て、大通りに向かって歩いていった。女子高生は俯きがちに歩き流川を一切みようとはしない。一緒に歩いている時も何もしゃべろうとはしなかった。何か訳ありなのか…俯きながら歩く女子高生をみて、少し心配な気持ちになっていた。数分歩くと大きな通りに出た。
流川『駅の方角はどっちかな~。実は迷っていたんだよ。君、わかるかい?』
女子高生は無言のまま駅の方角を指で示してくれた。流川は女子高生に案内を頼み、一緒に大通りを駅方面に向かって歩き始めた。宿泊するホテルは駅まではいかない、すぐ先の信濃川の手前にあるホテルだ。普段道に迷う事などない流川が方向を見失った…そして女子高生と出会っている。この事実が示すものに暗示的な何かを流川は感じていた。少女と出会う為に道に迷わされた…流川の中には何故か確信に近いものがあった。
流川『君はこんな時間に何をしていたの?家は近くなのかな。』
女子高生『あの…大丈夫ですから。』
流川『高校生でしょう?ほっておけないよ。何か事情があるの?話してごらんよ。』
女子高生は俯いたままで事情を話そうとはせずにいた。困っているようにも見える女子高生の様子に、流川は放置して立ち去る事は出来ないと感じた。こんな夜中に繁華街をうろつく様な高校生にはみえない…人を容姿で判断してはいけないが…真面目そうな女子がこんな場所にいるのは、相当の理由があるはずだ。
流川『…タクシーでホテルに戻ろうと思っていたから、ついでに家まで送って行くよ。それでいいね?』
女子高生『いえ結構です…家は遠いから…。』
流川『遠いって…制服でそんなに遠くまで来ないでしょう?どこに住んでいるの?』
少女は流川の言葉には応えずに、俯いて泣いているようだった。ここで少女と出会ったのは何か理由が…縁があるのだろうと流川は思った。泣きながら押し黙る少女…彼女を安心させる為にはどうする事が最適か…考えた末にまずは自分の素性を明らかにする事にした。司法書士であり弁護士でもある身分を証明すれば、少女の心に少しは安心感があるかもしれない。
流川『僕はこういう者です。弁護士と司法書士の仕事をしています。安心して話してごらん。』
流川は少女に名刺を差し出して、彼女の頭を軽く撫でて慰めた。流川の言葉に少女は顔をあげ渡された名刺をみていた。名刺と流川の顔を交互にみながら、少し戸惑った感じでぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。綺麗な耳心地の良い声だった。
女子高生『弁護士…?弁護士さんですか?相談を聞いてくれますか?』
女子高生は流川に安心感を抱いたのか、やっと重い口を開いてくれた。1月深夜の新潟は冷え込んでいる…ここで話し込むには寒すぎるだろう。少女を説得してタクシーで宿泊先のホテルに向かった。ホテルに着くとすぐにフロントに行き、彼女の泊る部屋を用意した。もう夜も遅くホテルのロビーで話す訳にもいかない。仕方なく流川は自分の泊まっている部屋で話を聞く事にした。部屋に入り椅子に座らせて、暖かい飲物を渡して彼女の前に座った。
流川『まだ名前を聞いてなかったね。僕は流川聡と言います。君は?』
女子高生『萩原莉緒です。』
流川『莉緒さんだね。高校生だよね、何年生なの?』
莉緒『二年生です。十七歳です。』
流川『わかりました。じゃあ話を聞かせてもらえるかな。ゆっくりでいから話してごらん。』
莉緒がゆっくりと抱えている問題を語り始めた。莉緒が住んでいる町は新潟県の南部、上越市の高田という街だそうだ。両親は高田の街で従業員五名程の、小さな町工場を経営していたそうだ。莉緒は一人娘で両親にも従業員にも、可愛がられて育ったらしい。昨年十一月、両親と三人でレストランから出た時に、猛スピードで突っ込んできた車に跳ねられてしまった。莉緒も傷を負ったが二週間の入院で済んだ。しかし両親は二人とも帰らぬ人となった。
従業員『莉緒ちゃん、工場は僕らで何とかするから、早く元気になって戻っておいで。』
入院中に見舞いに来た従業員たちは莉緒を慰め、経営者のいなくなった会社を莉緒が戻るまで支えると言ってくれたそうだ。莉緒が退院し家に戻り暫くすると母方の弟、叔父の一家が長野からやってきた。叔父夫婦が『俺達が後見人になる』と言って子供二人も連れて、莉緒と亡くなった両親の家に住み着いてしまった。それが二週間前の事だ。叔父は素行も悪く莉緒の両親とは断絶状態だった。叔父は真田という男だった。
莉緒は出て行くように何度も言ったが聞きいれて貰えず、工場も自分が社長になると言って従業員たちも困っているらしい。叔父夫婦には弁護士を名乗る人がついていて、法律的に叔父が後見になると言われたそうだ。莉緒は従業員にも亡くなった両親にも申し訳なく思い悩んでいると、足が自然と駅に向かい電車に乗って新潟駅に来ていたそうだ。改札を出ると引き寄せられる様に、道を歩き万代橋を渡って、気付くと古町を彷徨っていた。
流川『事情は大体わかりました。まず…法的に叔父さんが君の後見人になっている可能性は殆どないはずだよ。明日、僕も一緒に家に行って、きちんと法律に基づいて話をしよう。大丈夫、心配いらないよ。』
莉緒『本当ですか?本当に…可愛がってくれた工場の人とかに申し訳なくて。父も母も大事にしていた人達なんです。』
流川『そうか…じゃあ、先に工場に行って話をしようか。』
次の日、二人は朝早く新潟を出発して高田に向かった。途中、電車の中から莉緒が従業員に連絡して、工場で待ち合わせする事になった。流川は莉緒に叔父さんの連絡先を聞き、十一時に莉緒と一緒に話に行く事を伝えた。
叔父は『関係ない者が口出すな』と言っていたが、莉緒から依頼された弁護士であると伝えた。依頼主である莉緒の要請で、不当占拠についても含めての通達だと告げて電話を切った。
十時前に工場に着いた。小さな工場だが工具類は綺麗に片づけられていて、会社の文化がわかる感じだ。莉緒の両親と従業員は楽しく働いていたのだろう。工場に着くと五人の従業員が心配そうに莉緒に駆け寄ってきた。莉緒の両親、社長夫妻は従業員に慕われる存在だった。
従業員『良かった、いなくなったって聞いて心配していたんだよ。』
莉緒『おじさん達、心配かけてごめんね。』
従業員『僕らがもっとしっかりしてれば、莉緒ちゃんが苦しむ事も無かったのにな。ごめんよ』
流川『流川という者です。普段は司法書士の仕事をしていますが、弁護士資格も持ってます。今回は未成年後見人制度にかかわる事なので、司法書士の範疇になるかも知れませんが、訴訟になれば弁護士として守りますよ。安心してください。』
従業員達は莉緒を囲むようにして、優しく言葉をかけていた。莉緒の表情にもやっと笑みが浮かび始めていた。流川の言葉を聞き従業員達にも安堵の表情が浮かんでいた。流川は従業員達に叔父から何か言ってきたか尋ねた。莉緒の話を聞く限り莉緒の財産全てを狙っているように思えた。小さいとはいえしっかりした会社のようだ。会社を売却すればそれなりの金額にはなるだろう。
従業員の中でも年長の一人が口を開いた。この従業員は莉緒の両親が会社を創った時からの仲間で、経営状態や資産状況なども知っている人だった。会社の登記は有限会社としての登記で、出資者は莉緒の父親と母親の二名、父親が無限責任者となり母親は有限責任者だった。つまり莉緒の両親の所有する会社という事になる。この従業員は監査役に任命されていた。会社は莉緒の両親の資産として、莉緒に受け継がれるべき遺産となる。
従業員『僕らで出来る事は何かないですか?』
流川『会社の登記はわかりましたから、皆さんに迷惑が及ぶ事にはならないでしょう。そうですね…仮に裁判になった時に証言をして頂く事はあるかもしれません。』
従業員『わかりました、その時は証言するよ。家に行くんだろう?僕らも行くよ。二人じゃ心細いだろう。』
口上で従業員達との話も終わり、流川は莉緒と従業員を連れて莉緒の自宅に向かった。莉緒の実家には十一時前に着いた。従業員たちは家の前で待っている事になった。流川と莉緒が玄関から家の中に入ると、居間の中に叔父夫婦と弁護士を名乗るものが座っていた。子供二人は別の部屋にいるようだ。叔父夫婦は睨みつけるように流川をみていた。
叔父『莉緒!どこの馬の骨を連れてきたんだ。血の繋がった後見人の俺に断りも無く、どこの馬の骨ともわからん奴を連れてきやがって。先生、こいつにわからせてくださいよ。』
弁護士『全く…遺産目当ての若造が。いいですか、未成年後見人として叔父である、真田様が専任されているのですよ。わかりましたか?』
流川『では書類をみせて戴けますか。後見人制度は残された本人が裁判所に申し立てるか、最後の親権者が遺言等で指定した場合の二つのパターンです。莉緒さん本人はあなたを後見人にする事を望んでいません。御両親が遺言で貴方を後見人に指名する事もないでしょう。弁護士と言いましたね?名刺を頂けますか。こんな事がわからない弁護士や司法書士はいませんよ。』
弁護士『いや…私は後見人になると言われたので…お手伝いをしているだけで。』
流川『真田さん、あなた方、まさか財産に手を着けていませんよね?そういった事が発覚すれば詐欺や横領等の罪に問われる事になりますからね。』
叔父『俺は莉緒の叔父だ。権利があるんだ。』
流川『法的に貴方には何の権利もありません。御両親には莉緒さんという娘さんがいます。遺産の相続権があるのは莉緒さんだけです。あなた方は莉緒さんの承諾もなしに、違法に占拠しているという事を理解する必要があります。今すぐに立ち去る事をお勧めしますよ。立ち去らないのであれば、警察に通報して退去させます。』
流川と叔父たちが話し合う居間は、庭からも見える場所にある。従業員が外からこの様子を動画で撮影していた。叔父の弁護士と名乗る男はばつが悪そうな感じになり、黙ったまま身体を揺れ動かしている。一刻も早くこの場を立ち去りたいという感じだ。叔父は顔を真っ赤にしているが、法的根拠と言われると返す言葉も無く睨むばかりだ。その時、隣に座っていた叔母が口をはさんできた。
叔母『莉緒ちゃん、叔母さん達は困ってるのよ。親戚なんだから助けるのは当たり前でしょう?あんたの両親は冷たくて、頼んでも何もしてくれなかったのよ。本当にひどい人だよ。』
流川は叔父の態度と叔母の言葉に、呆れて言葉も出なかった。『こういう人間が、世の中にはいるんだな。』と心の中で思いながらも、この卑劣で恥知らずな者達を莉緒から遠ざけねばならないと思った。叔母は莉緒の両親の悪口を言いながら、自分の子供達と一緒に莉緒を育ててあげるからと、訳のわからないことを話し始めた。その言葉を流川が遮った。
流川『もういいですか。莉緒さんや従業員の方からも話は聞きました。莉緒さんの御両親はあなた方とは、絶縁していると言っていたそうですね。速やかにお引き取り下さい。お子さんの目の前で警察に連行されたいですか?』
叔父『先生、法的にダメなのか?取れるって言ったじゃないか。』
弁護士『私はこれで失礼しますよ。頼まれただけだから』
叔父夫婦は連れてきた弁護士を名乗る男に、何とか遺産を貰えないか詰め寄っていった。先生と言われていた男は突然冷淡になり、叔父夫婦に一言だけ残して立ち上がると足早に去っていった。残された叔父夫婦は釈然としない様子だった。それでも諦めきれないのか…しつこく纏わりつくように莉緒にあれこれと言い始めた。
叔父『なあ、莉緒。おまえ一人で生活なんか出来んだろう。俺達が一緒に暮らしてやるって言ってるんだよ。』
叔母『そうよ、莉緒ちゃん。親族の私達が一緒の方が安心なのよ。』
莉緒『叔父さん達の事は母から聞いています。何があっても叔父さん達には近づくなと言われて育ちました。あなた方が私の両親にどれだけ迷惑をかけたかも聞いています。あなた方と暮らすくらいなら一人で暮らします。早く出て行って下さい。』
叔父『お前は未成年だろ。未成年は親族が後見人になるんだよ。そんな事も知らないのか』
流川『それは違いますよ。未成年者後見人には親族以外でもなれます。莉緒さんの後見人には私がなる予定です。月曜日に家庭裁判所に申し立てを行うつもりですよ。莉緒さんに聞いた話ではあなたは自己破産されてますよね。破産者は後見人にはなれませんよ。これ以上あなた方と議論する時間は無駄です。退去しないのであれば警察に通報します。』
叔母『お前の親も冷たいから、あんな死に方したのよ。お前も覚悟しときなよ。あんた、警察が来たらまずいよ。』
叔父『ああ、わかった。お前らおぼえとけよ。子どもを呼んで来い、行くぞ。』
叔母が別の部屋にいた子供達を連れ、叔父親子が玄関から家を出た。手にはそれぞれ大きな荷物を持っていた。流川は叔父親子の前に立ち『荷物をみせてください。莉緒さんの家の物を持ち出せば犯罪ですからね』と言って、彼らの前に立ちふさがった。四人の荷物からは時計や宝飾類、ゲーム機やらいろいろな物が出てきた。
流川『恥ずかしくないのか。人の家の物を勝手に持ち出して。窃盗だぞ。』
流川は初めて声を荒げて彼らを怒鳴った。四人は何も言わず謝りもせずに去っていった。流川は叔父のカバンの中に形代を忍ばせた。神道で使われる人の形を模した紙で、神道の術や呪術等で使われるものだ。流川のもう一つの顔…それは修験道や神道、仙道に通じた術者としての顔だった。流川聡はそういった環境の中で生まれ育った。
流川聡は七歳になった頃から両親は傍におらず、父親の母である祖母に育てられた。祖母は山形の羽黒山の畔で修験道の信守として、邪を祓う神道的な儀式を行う人だった。祖母の術者としての力は強く、流川の住む社には多くの参拝者が祈りを捧げていた。弟子も多く抱えており後進の育成にも力を入れていた。流川は当たり前のように物心ついた頃から、祖母の祈祷する姿や祖母の元に祈?を受けに来た人達をみて来た。そして流川自身も幼い頃から、可思議な世界が見えていた。
流川は幼い頃から《異質なもの》と遭遇し、それを見る事も感じる事も出来る能力を持っていた。森を歩けば妖魔や妖怪の類を目にしたり、亡くなった人の姿も目にしてきた。不可思議な世界は流川にとっては、当たり前の日常になっていた。或る日、森で夥しい黒い息を吐く妖魔と出会った。それまで妖怪の類を視ても怖いと思った事はなかったが、この時だけは背筋がゾッとしたのを憶えている。
妖魔は流川を睨み今にも襲ってきそうな感じだった。その時、身体の中に異変を感じた。身体の奥から血流を通して何かが広がる力を感じていた。妖魔への恐れは消え自然と祖母の祈?の言葉が口から溢れ出していた。流川の祈祷の言霊を受けると妖魔は、藻掻きだし光に包まれ消えていった。妖魔が消えた周囲の空気は清浄となり、妖精のような妖怪達の姿が現れ始めた。自分自身、何が起こったかわからなかった。
流川『さっきの黒いものはなんだったんだろう。それに…あれはお祖母さんが儀式の時に口ずさむ言葉…?』
その事があった夜、祖母に修験場に呼ばれた。祖母は初めて流川聡に、今まで伝えなかった事を話して聞かせた。流川家の伝承や両親の事を全て、祖母が知っている限りの事を流川に伝えた。流川聡も祖母の様子や気質が、普段とは全く違う事を感じて畏まって聴いていた。
祖母『よいか聡。今までお主には伝えて来なかった事じゃ。この社はお前の父、総一郎に継がせるつもりであったのだが…』
流川家は代々修験道の血筋で奈良の金峯山が祖で、役小角の流れだと祖母は言った。役小角…一般的には役行者と言った方がわかりやすいか。役小角は634年に大和国葛上郡茅原郷(現在の奈良県御所市茅原)に生まれた。父は出雲から入り婿した大角といい、母は白専女(伝説では刀良女とも呼ばれた)人だった。650年16歳の時に山背国(後の山城国)に志明院を創建。翌年17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いたと云われる。流川家はこの血を引く一族だった。
時代が過ぎてやがて奈良では継承されなくなり、明治初期に居を羽黒山に社を移したそうだ。父は役小角の孔雀明王の呪法や退魔行を習得し苦しむ人の依頼を受け、全国に退魔行に出向いていたそうだ。『あの子はね、歴史上でも最高の退魔士だったよ』と祖母は言った。父が四国で依頼を受けた時に母と知り合ったらしい。母も依頼を受けてやってきた退魔士だったそうだ。母は中国系の女性で道教を使っていたらしい。
道教の術師だった母は神仙術や符?、巫術といった類の術に長けていた。二人は度々、仕事で一緒になり恋に落ち聡が生まれた。祖母は聡の母の術も高位の退魔士に匹敵すると言っていた。流川が七歳になった頃、祖母は二人から孫を預かった。二人は『西の孤島にいく』と言ったそうだ。それを最後に二人は消息を絶ってしまった。祖母は『あの二人が死ぬとは思えん』と言っていた、何処に行ったのかは聞いていないそうだ。それから暫くして、祖母が病に倒れた。
祖母『お前の中には父と母の血が混じっている。父の術の役小角の流れと、母の神仙術や道教の血がな。世の中の役に立ちなさい…お前の両親も願っているはずだ。』
それが祖母の最後の言葉だった。流川聡は祖母に習った古神道と、母が使ったという術について調べ修業をした。幸いな事に祖母はかなりの額の遺産を残してくれた。修業を続けながら大学に進み、学生の時に司法書士の資格を取った。大学を卒業後に弁護士の資格も取り、東京に個人事務所を開設した。山形の羽黒山の畔の社は祖母の高弟に任せて、東京で退魔行を裏の仕事、司法書士を表の仕事を請け負ってきた。退魔業の依頼は羽黒山の社経由で来る事も多かった。祖母の高弟達も流川聡を社の後継者として認め、いずれ社に戻る事を願っていた。
困っている人は法律家に相談する事が多い。この世の方では裁ききれない不可思議な事はたくさんある。そういった相談を受け解決するのが、流川法律事務所の役割になっている。流川は表の仕事と裏の仕事をこなして三十三歳になっていた。父、聡一郎と母、静麗がどうなったのか?何処にいるのか?…仕事を続けながらずっと追っているが、まだ何の手掛かりも掴めていない。この仕事を続けていれば必ず両親と会える…そんな想いを持ちながら今日に至る。
莉緒の屋敷の前には歓声が沸き起こっていた。従業員達が莉緒の周りに集まり、涙を流しながら喜んでいた。莉緒もやっと家を覆っていた暗雲が晴れて、晴れ晴れとした笑顔を従業員達にみせている。まだ高校2年生、17歳の少女を襲ったアクシデントは一応の結末を見た。
従業員達『莉緒ちゃん、良かったな。』
莉緒『うん、みんなのお陰だよ、ありがとう。流川先生、本当にありがとうございました。』
流川『先生と言われるような人物ではないよ。流れで後見人になるって言っちゃったけど…僕で良ければ引き受けるよ。さっきご両親にもお願いされたからね。』
流川の何気ない一言が和んでいた場を、一瞬にして凍り付かせてしまった。妖魔や妖怪、神霊や霊魂は湯川にとっては、日常的な事で《普通の事》だが、莉緒や従業員にとっては違った。なくなった莉緒の両親にお願いされた?この言葉の持つ意味に引き気味なったようだ。
莉緒『…亡くなった父と母にですか…どういう事でしょう…』
湯川『ああまたやっちゃったか(笑)。ちゃんと説明しますね。僕がなぜ新潟に来て昨日、あんなに手こずって泊まる事になったのかもわかったしね。どうやら君と会う為だったみたいだね。中に入って具体的な事を話そうか。従業員の皆さんにも関係するから、聞いて貰った方がいいかも知れない。』
流川は笑いながら莉緒と従業員に話しかけた。彼にとってはこういう事はよくあるらしい…莉緒も従業員達も半信半疑というか、戸惑った様子で家の中に入っていった。従業員五人と莉緒が居間に座り、類皮もみんなの前に座った。会社の監査役を引き受けていた古参の社員が、最初に口を開いて流川に訊ねた。
従業員『先生、具体的な事と言うと…』
流川『先生って呼ばれるのは…流川さんでいですよ。先に決めなければいけない事は、工場の運営と後見人の事だと思います。工場は取引先の事もあるから、はっきりさせておかないと困る事になりますから。登記関係の書類がどこにあるかわかりますか?』
莉緒『流川さん、こっちの部屋です。両親がここに隠してあるって言ってました。』
流川と監査役の従業員が、莉緒の案内で奥の座敷に入った。莉緒は『ここに仕舞ってあるって言ってたの』と天井を指さした。流川はそばに置いてある脚立を組み、天井の天板を外して箱を二つ天井から取り出した。会社関係と書かれた箱が一つと何も書かれていない箱が一つあった。会社関係の箱を開き登記の状況を確認した。
流川『どうやら御両親は万一の時に、叔父夫婦の事を心配されていたみたいだね。だから大事な書類は隠すように保管してあったんだね。…有限会社って言っていたけど…会社法が変わった時に株式会社に変更したようだね。株は御両親ともに半々で持っていたようだ。資本金は三百万…経営権は莉緒さんが相続する事になるけど…ご両親は望んでいないようだよ。』
莉緒『私には経営なんて無理です。流川さんのおっしゃる通り生前、父も母も、会社は従業員の方が継げばいいって言ってました。おじさん達で継いでくれると助かります。』
従業員達『そうは言ってもさ、社長は莉緒ちゃんがやりなよ。俺達はちゃんと働くからさ。先生、莉緒ちゃんが社長でもいいんだろう?』
流川『対外的に社長は顔ですからね。取引先に安心を与えるのも社長の責務です。私は皆さんが引き継ぐのがいいと思います。株の相続権は売買と譲渡の方法がありますが、譲渡の場合は贈与税がかかるかもしれません。事業承継制度を使えば大丈夫かもしれませんね。莉緒さん、会社は従業員に承継でいいですか?』
莉緒『はい、それでいいです。おじさん達にお願いしたいの。』
5人の従業員達は莉緒の申し出に困った様子だったが、決意が固い事を感じて話し合いを始めた。監査役を勤める古参の従業員、丸木を社長に押す声が多かった。しかし丸木は自分は社長の器ではないと断り、一番若い30歳の樋口を推薦した。今後の会社の成長も考えての丸木の意見に、他の従業員も莉緒も賛同した。樋口はまだ結婚もしていない自分には無理だと頑なに固辞し、莉緒も従業員達も困ってしまい流川に助言を申し出た。
丸木『先生、どう思いますか?私達は樋口が最適任者だと思うんですが。』
流川『樋口さん、結婚しているかどうかは関係ないよ。三十歳なら若くはないし社長御夫妻も君でいいと言うと思いますよ。樋口さんが代表取締役社長という事で、来週から会社の登記手続きに入りますね。皆さんは今まで通り働いていてください。経理関係は奥さんがやっておられたようなので、経理に一人雇う必要があるかも知れません。その当たりもこっちで考えておきますので。』
莉緒『お願い、樋口のおじさん。』
樋口『…わかりました!頑張ってみます。皆さん、宜しくお願いします。』
会社の案件は両親の希望通りになった。莉緒もほっとした表情をみせ従業員達は安心して帰っていった。周りに誰もいなくなり莉緒と二人きりになってから、箱の表面に何も書かれていない箱を開けることになった。流川はこの箱の中にある物を、莉緒以外に見せる事は許されない物だと感じていた…というよりは《聞いていた》という表現が正しいだろう。箱を開けると保険証や家屋の権利証が、最初に二人の眼に入った。
流川『莉緒さんが相続する遺産を正確に把握する必要があるね。』
莉緒『お金なんかいらないわ。』
叔父夫婦のゴタゴタで両親を失った悲しみを感じる暇もなかったのだろう。ゴタゴタガひと段落して莉緒は、やっと泣く事が出来た様子だった。そして…箱の一番下に小さな木箱があった。この箱の中身が流川と莉緒が出会う事になった理由だった。両親には莉緒に伝えなければならない事がある。それを伝える事、それこそが両親が流川に託した事だった。両親の隠された使命、御両親の血統の事そして…それを受け継いでいる莉緒の事だ。
流川『莉緒ちゃん。その木箱を開けてごらん。』
古い…本当に古い小さな木箱…木の変質の状態から数十年ではなく、数百年前から受け継がれた《もの》だという事がわかる。莉緒は初めて見る木箱だった。流川の言葉を聞き恐る恐る小さな箱を開けた。中に何か古めかしい紙の束が幾つか見えていた。莉緒は木箱から紙の束を取り出して、座卓の上に丁寧に並べていった。
莉緒『…こんなの…初めて見ます。なんでしょう?』
木箱の中から取り出した紙をひろげると、それは莉緒の先祖代々の家系図だった。大きな和紙に書かれた系譜は千百年前、西暦九百年まで遡っていた。新潟県の南端に位置する荻原家、その系譜が数百年、いや、千年以上も続いていた事に、莉緒自身が驚いていた。系譜の初代の欄に記載されていたのは、歴史上の人物であり莉緒も知っている名前だった。そしてもう1枚の紙には陰陽道の術式と思われる、幾つかの呪文のような言葉が書かれてあった。
莉緒『…最初の人の名前、知ってます。』
流川『そういう事だったんだね。安倍晴明、陰陽道の始祖と言ってもいい方だ。そうか、安倍晴明の血筋は途絶えたと言われているけど、それは男系であって女系は脈々と受け継がれたんだ。萩原家は安倍晴明の系譜の一族だったのか。』
安倍晴明…系譜は不詳だが中級貴族の大膳大夫・安倍益材(あべ の ますき)の子と伝わっている。安倍晴明の出生には謎が多く一説では、人の子ではないという話も残っている。幼少の頃については確かな記録がないが、賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたという。のちに賀茂・安倍(土御門)の両家は二大陰陽道宗家となる。平安時代の最盛期、安倍晴明は陰陽師として一条天皇や、藤原道長の信頼を得た人物だった。
安倍晴明には幾つかの伝説?のような逸話が残っている。本来、陰陽師は星の動きなどで天変地異を予言する任務だ。天災や人災を予言し朝廷や、有力貴族に進上するのが役割だった。安倍晴明も陰陽師としての任を果たしていたが、呪詛や呪術を祓う事や式神を自在に使ったりと、官職としての陰陽師とは違う顔を持つ人物だったようだ。
莉緒『どういう事ですか?私には何がなんだか、なんですか?』
流川『僕よりも御両親の方が詳しいでしょう。御両親に聞いてみようか。僕の手を握って。』
戸惑う莉緒の手を取り仏間の前に立たせた。暫くすると莉緒の眼に白い靄が見え始めていた。最初は白い靄のようなものだったが、段々と人の姿に変わっていった。そして懐かしい両親の…元気だったころの両親が莉緒の前に立っていた。流川は莉緒と高田の街に来てからすぐに、莉緒の両親とコンタクトしていたようだ。妖魔、妖怪だけではなく心霊との交流も出羽三山の羽黒山で修練した流川には造作もない事だった。叔父夫婦との話し合いの時も、両親の霊魂は流川に情報を伝えていた。会社の後継者を社員にする事に両親も賛同していると湯川が言ったのも、背後から両親が伝えていた事だった。
莉緒『パパ…ママ』
流川『落ち着いて、心を整えるイメージを。そうすれば君の頭の中に、御両親の声が届くはずだよ。』
両親は静かに優しい笑顔で莉緒を見下ろしていた。莉緒は眼を閉じて深呼吸をして両親の姿を見上げた。すると莉緒の頭の中に父の声が聞こえてきた。その声はまぎれもなく優しい父の声だったが、普段話していた感じとは少し違っていた。何か…そう…威厳に満ちた…そんな厳粛なものを莉緒は感じていた。父は娘に静かに語り始めた。
父 『莉緒、パパの家系は古から続く陰陽道の家系だったんだよ。数百年が経ち血は薄らいで系譜を継承する人も、数百年のあいだ何代も現れなかったんだ。私にはそんな力もなかったから、私もすっかり忘れているくらいにね。しかし莉緒が成長するにつれ薄らいでいた太古の血脈が、お前の中に濃く蘇っている事を感じた。』
莉緒の父親は陰陽師、安倍晴明の血脈を繋ぐ一族の末裔だった。陰陽道の修練や儀式的な事から徐々に遠ざかり、系譜の中に安倍晴明を継承する者は何代も現れなかった。父親自身も系譜の事は気にも留めていなかったそうだ。しかし莉緒が産まれ成長するにつれ、莉緒の周囲に不思議な現象が起こり始めた。夜中に寝ている莉緒の周りを蠢く光が見えたり、莉緒が遊んでいる人形が一人で動いたり…父は失われた血脈が莉緒の中に蘇っているかもと思っていたようだ。
父 『あの事故の時…私達には襲おうとする物がはっきりとみえたんだ。あれは人の仕業ではない…運転手を操る異質なモノが私達を襲ったのだと直感した。私達にはお前を守るのが精いっぱいだった。お前を襲ったものはまだ近くにいるはずだ。なぜお前を襲うのかはわからない。死んでここに留まっていた時に先祖の声が聞こえてきた。莉緒を新潟市に送れと。私達はお前をなんとか電車に乗せた。莉緒、その人が守ってくれるはずだ。その人と行動を共にしなさい。神棚の裏に先祖から預かった道具がしまってある。莉緒なら使えるはずだ。』
母 『ごめんね、莉緒。ママはずっと莉緒を見守っているからね。私達は身体が無くなっただけなのよ。心はいつも莉緒と一緒だからね。いい?その方と一緒に過ごしなさい。私達はそろそろ行かなければならないわ。莉緒、ずっと見守ってるから。莉緒、あなたが必要になるはずの物が、神棚の裏に隠してあるわ。莉緒、その方と共に明るく生きていくのよ。』
やがて二人の姿がぼやけて消えていった。消えていく二人の姿を目で追って莉緒は泣き崩れていた。しかし暫くするとしっかりとした眼で流川聡を見た。両親の言葉を聞き流川に引き合わせたのが両親であり、数百年も続く荻原家の先祖の意思でもある事を知った。そして自分達を襲ったモノが現実離れした存在である事も悟り、莉緒の中に一つの選択肢が見えていた。決心と決意…莉緒の中に迷いはないようだ。
莉緒が神棚を見上げている…普通の屋敷にある様な神棚ではなく、大きな立派な神棚が祀られていた。脚立にのって神棚を動かすと、神棚の裏に扉が隠されていた。扉を開けると中に式盤が三つ、具中暦、形代と古い古文書の様なものがあった。古文書は安倍晴明の使った陰陽道について書かれている、子孫の為の教育書のようなものだと思う。書かれている文字は流川には読めない文字だった。莉緒は初めて見た字だが読めますとはっきりと言った。陰陽道は修験道や中国の道教、神仙術の流れをくんでいる。それらを独自に重ね合わせた感のあるものだった。
莉緒『パパもママも私と一緒にいるんですね。私は頑張って生きていきます。父も母も流川さんと一緒にいるように望んでいました。御迷惑でなければお願いしたいのですが…。』
流川はこの先、莉緒との接し方、暮らし方をどうするか考えていた。莉緒の両親の話では荻原莉緒には失われつつあった、先祖の陰陽師としての血が色濃く残っているようだ。単純に莉緒を守るために流川に引き合わせたとは思えなかった。物事に偶然は無い、全てが必然である…流川の座右の銘でもある言葉だ。莉緒との出会いは流川のとっても何か意味のある事のように思えていた。莉緒の力を覚醒させる事、これも流川の使命なのかもしれない。
流川『莉緒さん、僕の事を話しておこう。』
流川は莉緒に自分の育った環境や、流川事務所の仕事について時間をかけて説明した。表向きの司法書士、弁護士とは別の顔、退魔士としての流川聡の事を話した。そして莉緒が背負う使命・宿命についても、自分なりの考察を説明した。莉緒は少し戸惑っているようだ、昨日までは普通に暮らしてきた女子高生が、いきなり不可思議な世界に放り込まれたようなものだ、戸惑うのは当たり前だった。
流川『莉緒さんの家族を襲った事件を調べてみようか。何か異質なモノが入り込んでいると、御両親は感じておられたようだ。』
不審な交通事故の事、そして莉緒の話では事故の事は、叔父夫婦には伝えていなかったという事。それなのに事故のすぐ後に叔父夫婦は、一家でこの地にやってきて居座った。しかも怪しい弁護士を名乗る男まで連れて。事故の背後には叔父夫婦が関わっている様な気がしていた。莉緒もいろいろな事があって疲れているようだ。この先の事は明日以降にすべきだろう。
流川『今日はこのくらいにして休もうか。これからの事は明日以降に考えよう。その前に今回の件は片づけないといけない。』
莉緒も疲れた様子で流川の言葉に従った。一晩眠れば少しはすっきりすると思っているようだ。流川を客間に案内して布団を敷いてから、莉緒は自分の部屋に入っていった。流川は客間の布団の中で屋敷の気質を感じていた。この屋敷は結界で守られている。莉緒一家がこの地に住みついたのは、何代も前の事で三百年近く経っているそうだ。恐らく当時の祖先の中に覚醒者がいて、何らかの理由で結界をはったのだろう。流川ほどの術者でも今まで気づかない結界だった。
次の日、二人は莉緒の事故現場に行った。莉緒の父が言った言葉…運転手を操る異質なモノ…その正体が何なのかを突き止める必要があった。莉緒一家を狙ったという事であれば、この先も莉緒を狙って来るだろう。憂いは払っておかなければならない。
莉緒『ここです。お店から出たらいきなり車が突っ込んできたんです。』
莉緒の示した場所に立ち流川は神仙術を使い、事故現場に残る見えない痕跡を見定めようとしていた。妖怪、妖魔の類であれば数時間も経っていれば、その場に見えない感触は残らない。残るのは物理的な血痕や破壊されたあとだけだ。しかし呪詛や呪術的なものであれば、空間にひずみや呪詛の気が必ず残る。術者や式神の痕跡が必ず残っている…そして呪術だとすれば人の仕業という事になる。流川は注意深く空間に残る気質を探り出した。
精神を統一し目を瞑り事故現場周辺を心眼で見定め始めた。空間には呪禁師の使う呪符の気配が漂っていた。陰陽道や流川の使う神仙術、修験術とは異なる気配だった。この事故には呪禁術を使う者が関わっている…叔父夫婦からはそういった気質は感じられなかった。人の所業となると火種を絶つ必要がある。犯人の狙いが莉緒まで及ぶ可能性が大きいからだ。莉緒の周囲に結界を張り、万が一の事態に備えた。
その上で人形を使い呪詛返しの術を仕掛けた。呪術を仕掛けた者の元に人形が流川を誘ってくれる。人形のみる光景が流川の眼に広がってくる。人形は県境を越えて、新潟県から長野県に飛んでいった。そして数人がいる店のような建物に入っていった。どうやら呪禁を生業にしている集団の住む建物のようだ。流川の眼に建物の中の様子が映ってくる。
呪禁師『連絡はまだないのか。依頼料の二割しか受け取ってないぞ。』
師弟『一昨日連絡があったのが最後です。相続する娘がいなくなったとかでしたが。始末しますか?』
呪禁師『あの時も娘だけは何かに守られている感じだったな。屋敷への呪詛は届かないし…連絡が来ないようなら催促しなさい。』
建物の中には年配の男と若い男が二人、三人の男が椅子に座って話しをしていた。年配の男が呪禁師、若い二人の男は弟子なのだろう。
呪禁道は中国の道教の影響を受けた呪術と言われている。歴史上に呪禁道の名が出るのは、古く日本書紀にも記載されている呪術だ。呪術、呪禁も病気の原因と思われていた邪気を払う治療法として、病気治療や安産の為に欠かせない呪術として重用された。律令制政治の中で優秀な呪禁師は呪禁博士に任じられ、後進の指導を任され育成にも努めたようだ。
しかし厭魅蠱毒…厭魅とは人形を使って呪殺する事であり、その際に蟲毒を用いる事…で呪殺する事件が続き、時の権力者が呪禁道を危険視し始めた。同時期に台頭してきたのが陰陽道で、呪禁道と同様に道教の呪術を取り入れた呪法を、時の権力者が重用し始める。そして奈良時代末期に呪禁道は廃止され、平安時代には呪禁師の制度も無くなった。
それから千数百年…呪禁道は消滅する事なく繋がれていった。その最大の理由は呪詛を必要とする人間の性だろう。ライバルを蹴落としたい…恨みを晴らしたい…様々な人の恩讐が呪禁道を存続させ、呪禁師に力を示す場を与えてきた。此処にいる呪禁師達も人に対する呪詛を振りまく事を生業にしていた。三人の男の耳に流川の言葉が聞こえてきた。
流川『貴方たちが事故を起こさせたのですね。呪詛はそのまま自分に返る…貴方達は知らないようですね。』
呪禁師『何者だ。』
流川『昨年十一月、新潟県高田の事故はあなた方が起こしたものですね。殺害された被害者の代理人です。誰に頼まれたのか白状するのなら、命は助ける事を約束しましょう。誰の依頼ですか?』
呪禁師『貴様、我々と闘って勝てるとでも思っているのか。結界を張り巡らせよ、この男に呪詛をかけて死に至らしめるのだ。』
呪禁師は手刀を切り呪詛の言葉を唱えていた。弟子たちは呪符を周囲に飛ばし呪詛の力を増大化させようとした。自分たちが流川が作った降魔結界の中に、封じられている事にも気付いていない。流川の張った結界は呪詛や妖力を結界の中に封じ込めるものだった。封じ込まれた結界内で呪詛を使えば、結界内にいる者達に害が及ぶ事になる。呪禁師達は自らの呪詛で身を滅ぼそうとしていた。弟子の二人は呪符を撒く事に必死で気づかなかったが、呪禁師が身体の異変に気付き始めた。
呪禁師『いかん、結界の中に封じられている。やめるんだ、自分たちに降りかかるぞ。』
流川『もう遅いようですね。このままだと数分であなた達の命も尽きるでしょう。誰に頼まれたのか言えば結界を解いてあげましょう。』
呪禁師『わかった…真田という男だ。三人の始末を五百万で受けた。まだ代金は一部しか貰っていない。結界を解いてくれ。』
流川『そうでしたか。教えて戴いて有難う。あなた達は人を殺めました。恐らくはこの事件だけでは無いでしょう。建物の中に貴方達の呪詛で亡くなった人の姿が見えます。その償いはしなければなりません。見えますか?周りにいる鬼たちが。あなた方を地獄に連れていく為に集まって来ているのですよ。罪を悔いて地獄にいきなさい。』
流川は結界を解く事をせず三人の呪禁師を葬った。建物の中に呪禁師に殺害された人達の霊魂は無かったが、三人が今まで行ってきた呪詛の痕跡はわかった。十数名の人が殺害され数十名の人が、呪詛により身体を壊したりしていた。この呪禁師達を放置すれば被害者が今後も増えるだろう。こういった時の流川は冷徹な男になる…呪禁師達は自分の呪詛で命を落とす事になった。後は真田…あの叔父夫婦をどうするかだ。
叔父の真田を法的には裁くことは出来ない。殺人を依頼したとはいえ呪禁道では警察も裁判所も相手にしてくれないだろう。両親の事故を身内の叔父が画策した事を、莉緒に伝える事は流川には出来なかった。しかし実の姉夫婦の命を奪った償いはさせなければならない。このまま放置すれば別の形で莉緒を狙うだろう。叔父夫婦から感じた気質は性根が腐りはてたものだった。莉緒には知らせずに処理する事を流川は決心した。
高田の屋敷を追い出した時に忍ばせた形代が、莉緒の叔父の居場所を教えてくれる。呪禁師の建物から意識を外して、叔父に忍ばせた形代を追った。叔父は長野市の郊外にいるようだった。千曲川の畔にあるアパート…そこが彼らの家なのだろう。流川は形代に意識を集中し叔父の家の動向を探った。やがて流川の耳に四人の会話が聞こえてきた。
叔父『くそ、莉緒の奴め、変な男を連れて来やがって…こうなったら最初の予定通りにするしかないな。』
叔母『あんた、最初の予定通りってなにさ』
叔父『お前は知らんでいい。俺の言うとおりにしていればいいんだよ。』
莉緒の両親の殺害を依頼したのは、叔父で他の家族はその事を知らなかった。叔母はたまたま事故で義姉夫婦が亡くなって、遺産が手に入る事になったと聞いていただけのようだ。流川は少しだけ胸をなでおろした。叔母までが関与していれば叔母も放置するわけにはいかなくなる。両親がいなくなれば残された子供達は不幸な事になっただろう。叔父は叔母と子供達に言い残すと、そのまま家の外に出ていった。
叔父は家の傍を流れる千曲川の川岸に行き、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。タバコを吸いながら忌々し気に莉緒の事を罵っていた。スマホを取り出して何処かに電話をかけ始めた…あの呪禁師の男に電話をかけていた。すでに絶命している呪禁師のスマホの着信音が、呪禁師の根城の建物内に響いている。3回、4回、5回…呪禁師が電話に出る事は無かった。
叔父『電話に何故、出ないんだ?あの連中がちゃんとやっていれば、今頃遺産は手に入っていたのに…着手金を2割も取っておきながらへましやがって。』
流川は形代に呪縛の法を掛け叔父の動きを封じた。これからの莉緒との事を考えると、後顧の憂いは残さない方が賢明だと思った。突然、身体が金縛りのように動かなくなった叔父は焦った。咥えていた煙草は足元に落ちたが、指一本も動かす事が出来なかった。家に助けを呼ぼうにも声も全く出す事が出来なかった。やっと身体が動き出し始めたがそれは叔父の意思ではなかった。流川は叔父の身体を千曲川に向かわせた。
叔父『身体の自由が利かない。まさか呪禁師か。川にはいってしまうぞ。』
叔父は声が出せない…言葉を頭の中で叫ぶように繰り返した。叔父の脳裏に呪禁師の顔が浮かんでいた…こんな事が出来る人間を叔父は呪禁師しか知らない。一歩一歩川に向かっていく自分の足を、何とか押しとどめようと藻掻くが無駄な事だった。一月の夕刻の長野市の気温はマイナス五度を下回っている。千曲川の水温もかなり冷たい。そのまま叔父の身体を川の中にいれ、胸の下あたりの水位の場所を歩かさせた。腰まで川に浸かると叔父は寒さで気を失いそうになっていた。出来れば苦しませたくはない…凍死なら苦しむ事はないだろう。やがて叔父の意識は途絶えて川下に流されていった。すべてが終わり人形と形代を始末し、高田の事故現場に意識を戻して莉緒の結界を解いた。
流川『莉緒ちゃん、帰ろうか。これからの事を相談しよう。』
事故現場で莉緒は眼を閉じている流川を見ていた。流川が眼を閉じてから目を開けるまで…十分近くの時間が経っていたが不思議な事に莉緒は、それ程の時間が過ぎたとは感じていなかった。『終わった』という流川の言葉を、莉緒は不思議そうな顔で見ていたが、それ以上聞く事はしなかった。何かが起きている…荻原家の陰陽師の系譜を聞いた莉緒は、流川の不可思議な行動も不思議な事ではなくなっていた。二人はそのまま莉緒の家に戻った。
莉緒とこれからの事を話さなければならない。流川が住んでいるのは東京都下のマンションだ。莉緒を両親から託されたが新潟県上越市の莉緒の家は遠すぎる…莉緒の修験者としての覚醒の手伝いもしなければならない。屋敷に戻った流川は率直にこれからの事を莉緒に伝えようと思った。
流川『住み慣れた土地を離れるのは辛いだろうけど、僕と一緒に東京に来てもらおうと思っている。僕の仕事を一緒にして欲しいと思っている。』
莉緒『ここにいる必要はないと感じています。東京に行くのはいいのですが…流川さんの仕事って退魔行の方ですか?私にはそんな力はないです。』
流川『今は無いと思う。でも君のお父さんが仰っていたように、君には未知の力を感じる。その未知の力を解放して役立てる事、それが君の使命のような気がするんだ。僕のもとで修業していずれは一緒に闘えるようになってくれればいい。』
莉緒『流川さんは後見人ですしパパもママも一緒に居る様に言っていました。流川さんと一緒に暮らします。修業?もしますけどあんまり期待されると困ります。』
莉緒の件は決まった。3月の終業式を待って地元を離れ、4月からは都内の高校へ転入する事にした。すぐに湯川は莉緒の遺産の把握と整理、未成年後見人の申し立てを行った。屋敷の売買にかかわる件も迅速に進めて、樋口が社長に就任する会社の法的処理も行っていた。法的な手続きは一月中にほぼ終わり、莉緒は地元での最後の高校生活を級友たちと過ごした。2月中旬になり都立高校の編入手続きが始まり、都下にある都立の名門校に転入する事が出来た。莉緒は学業も優秀な女子高生だったようだ。
一方。流川は…2月以降は表の仕事が忙しくなっていた。司法書士の繁忙期は企業の株主総会が集中する3月だ。処理しなければならない案件を進めながら、莉緒が通う都立高校の近くの物件を探していた。流川が住んでいる部屋では狭すぎて、莉緒を迎え入れる事は難しかった。住んでいるマンションの売買手続きを進めて、二人で暮らすのに十分な広さのマンションを探していた。莉緒が引っ越してくる3月中旬前に、都下に4LDKのマンションを購入した。
流川が先に新しいマンションへ引越しをし、春休みになって莉緒が東京に越して来ることになった。三月中旬、再び高田の莉緒の実家に流川は向かった。莉緒の引越しの作業とあいさつ回りの為だ。近所やお世話になった人達へ二人で挨拶に回った。家に戻ると工場の従業員達が引越しの手伝いをしてくれていた。明るく人付き合いもちゃんとしていて、学校では人気者だった莉緒。同級生たちも何人も来て、手伝いながら莉緒との別れを惜しんでいた。
莉緒『流川さん、行きましょうか。』
荷物を送って家の掃除も終わって、莉緒は庭から実家を眺めていた。ここで十七年間、両親と幸せに暮らした事を想い出しているのだろう。家を無言で眺める莉緒の表情には、哀愁の色は帯びていない。これからの人生…先に向かっていく意思を帯びた毅然とした表情だった。振り返って流川に言うと莉緒は歩き始めた。屋敷の周りに張られていた結界が、莉緒が歩き出し始めた時に解かれていた。流川にもわからない謎の結界…誰が何の為に講じたのか…それはやがてわかる時が来る。
流川と莉緒が出会った事で運命の闘いの場に向かう事になる。二人を待ち受けるモノ…まだ物語は始まったばかりだ。