死者の言葉
瓦礫の隙間から差し込む、夕暮れの光。
血に濡れた手が、ゆっくりと壁をなぞる。折れた指先から伝う赤い雫が、ひと文字ずつ、崩れかけた白壁に染み込んでいく。
「これは……俺が、俺を殺した記録だ」
かすれた声が風に流れ、誰にも届かぬまま消えた。
壁に刻まれた最後の言葉は、乾いた風とともに、静かに揺れていた。
「……死んでるな。間違いなく」
現場に踏み込んだ一ノ瀬夜羽は、すでに動かぬ遺体の周囲を静かに見渡した。警察と写魂局の職員たちが一定の距離を保ち、死体に触れぬよう慎重に動いている。
だが、夜羽の視線は遺体には向いていなかった。
その周囲――壁、床、天井、果ては空気の“ひずみ”に目を走らせていた。
「魂が……まだ残ってる」
右手をポケットから出し、黒革の手袋を外す。
彼の掌には、うっすらと青白い光のようなものが滲んでいた。
――写魂師。
死者の言葉を“読む者”。
かつては迷信と呼ばれた力が、21世紀の終盤、科学の裏付けを得たことで現実となった。
人は死ぬと、「想念の断片」がこの世界に残る。
それは音や映像ではなく、**“言葉”**として、空間に刻まれる。
それを読み解ける者だけが、死者の真実に触れられる。
「――視える」
夜羽の目の前に、淡く浮かび上がった文字列が並ぶ。
虚空に刻まれた“メッセージ”。
死者の最後の想いだ。
《私は、殺された。知っている顔だった。けれど、名を思い出せない。なぜ……?》
《いや、違う――思い出したくなかった。あれは――》
「……切れてる」
夜羽は眉をひそめた。断片的で、異常なほどに短い。
まるで、途中で“編集された”かのように。
写魂は本来、操作不能の自然現象だ。
だがこれは、誰かの手が加わっている……?
――そのとき、第二の“記録”が視界の端に浮かび上がった。
《死ぬのは、三日後。場所は第五区、崩壊予定の地下施設。犯人は――》
夜羽の動きが止まった。
三日後。
第五区。
そして、名前。
そこに刻まれていた名前を見て、彼の心臓が跳ね上がる。
《一ノ瀬 夜羽》
「――……ッ」
まるで世界が、ぐにゃりと歪んだような感覚。
胸を刺すような痛み。頭の奥で、誰かが自分を殺す光景が流れ込んでくる。
焦げた空気。鉄の匂い。骨が砕ける音。自分の喉を貫く銃声。
見たこともない未来の映像が――“死の記憶”が――彼の脳裏に叩き込まれる。
息が詰まる。崩れ落ちそうな体を、壁に手をついて支える。
なぜ、こんなものが……?
なぜ、俺の死が……ここに?
死者の言葉は、過去を語るもののはずだ。
未来の言葉など、存在するはずがない。
――だが、それは間違いだった。
夜羽は、死者ではなく、“未来の自分”からの遺言を読み取ってしまったのだ。
それが、この物語の始まりだった。