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巫女と魔術師のミステリー事件簿 ~精神病院の怪異  作者: 怠け者は電気羊の夢を見るか
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第3章:異界 その2

 

「行きましょう。」

 神宮寺遥が短く告げたその声には、揺るぎない決意が込められていた。


 明松真也、田村一真の二人はその言葉を聞き、神宮寺の横顔を見た。彼女の手に握られた刀には、既に数々の戦いで付いた痕が刻まれていたが、その鋭さを失ってはいなかった。


「そうと決まれば急ぐぞ。」田村が短剣を握り直しながら、深く息を吸った。「あいつを放っておくわけにはいかない。」

「ですが……」明松は銃を持ちながら病院内の異常な様子に目を向けた。「進む先は、さっきまでとは明らかに空気が違いますよ。慎重に行動すべきかと。」


 三人が廊下を進むにつれて、空間の異様さはさらに増していった。壁はねじれるように歪み、その表面にはどす黒い汚れや裂け目が広がっていた。天井からは何か液体が滴り落ち、床を濡らしている。


「気持ち悪い……」田村が呟きながら足元を見た。靴の裏にべっとりと黒い液体が付着している。

 天井から垂れ下がる黒い霧が視界を遮り、床からは冷たい湿気が立ち込める。三人はその場に足を踏み入れた瞬間、体温を奪われるような感覚に襲われた。

「寒いな……これが異界化ってやつか。」田村が吐き出した白い息を見ながら言う。

「ここ、本当に病院かよ……」田村が天井に浮かぶ異様な模様を見上げながら呟く。

「まるで地獄に迷い込んだみたいだ。」

「地獄というより、もう一つの現実です。」明松が言葉を挟む。「異界は現実の影のようなもので、ここで起きた負の感情が具現化しているだけです。」

「どっちにしても気分が悪いのは変わらないな。」田村が苦笑した。

「それにしても、雰囲気が最悪ですね。」明松が周囲を見回しながら言った。「まるでこの病院そのものが、私たちを飲み込もうとしているみたいです。」

 その時、先に進んでいた田村が手を止めた。


「待て、何かいる……!」

 突然、廊下の奥から微かなうめき声が聞こえた。それは風のように静かだが、聞く者の精神に直接響くような異質な音だった。

「来ます。」

 神宮寺が低く告げた。

 廊下の奥から、重い足音と共に影が現れた。それは異様に肥大化した人型のシルエットをしており、何かを握りしめた手をぶら下げながら近づいてくる。明松が一瞬目を凝らし、その姿に眉をひそめた。


「これは……!」明松が言葉を失う。

 その怪物の体は異常に膨れ上がり、歪んだ骨格が皮膚の下で動いているのが見えた。何よりも目を引いたのは、顔面に蠢く無数の目だ。それぞれが異なる方向を向き、同時に三人を睨んでいるかのようだった。

「注意してください!」神宮寺がすかさず刀を構えた。

 怪物はさらに近づくと、その手に握られた巨大な医療器具を地面に叩きつけ、廊下全体に振動を響かせた。まるで挑発するかのような仕草だった。

「おいおい、あれは一体なんなんだ……?」田村が短剣を握る手に力を込めながら呟く。

「こっちに向かってきている!」田村が短剣を構え直しながら叫んだ。「準備しろ!」

「了解です。」明松が冷静に銃を構えた。「援護に回ります。」

 怪物が近づくと、その輪郭は徐々に明確になり、細部が露わになった。

「ただの怪物ではありません。」神宮寺が冷静に言い放つ。「病院の悪意が形を成した存在でしょう。」

 その怪物は、病院内に漂う異常な空気を全身で体現しているかのようだった。その手には血にまみれた器具が握られており、それをゆっくりと振り上げる。


「いやだ、あれはさすがに……!」明松が一歩下がりながら言った。

 その怪物の一歩一歩が、廊下全体に響き渡る。三人はそれぞれの位置で構えを取り、怪物との戦闘に備えた。その空気は、まるで全ての希望を飲み込むかのような重苦しさに満ちていた。

 神宮寺が前方に一歩踏み出す。


「正面は私が引き受けます。」神宮寺が鋭い声で指示を出した。

 田村が短剣を構え直し、式神を召喚する。「俺も加勢する!」

「ありがとうございます。ただ、無理は禁物です。」神宮寺は短く礼を言うと、怪物に向かって一歩踏み出した。


 その言葉と同時に、怪物が手にした器具を振り上げ、神宮寺たちに向かって振り下ろす。その攻撃はまるで壁を砕くような力を持ち、戦いの幕が切って落とされた。

「行きます。」神宮寺が静かに告げた。

 その声とともに、彼女は刀を振り抜いた。

 一閃が空を切り裂き、怪物の腕をかすめた。黒い霧が舞い上がり、一瞬だけ怪物の動きが鈍る。


「ナイス!」田村が後方から声を上げると同時に、式神を召喚して前線に送り込んだ。「こいつで足止めする!」

 式神の放つ炎が怪物の体を包み込み、その動きを一時的に封じた。しかし、怪物はすぐに霧を放って炎をかき消し、再び攻撃を仕掛けてくる。

「強いな……!」田村が短剣を振りかざし、接近戦を挑む。

 一方、明松は後方から冷静に状況を観察していた。怪物の動きを見極めながら、的確なタイミングで銃を放つ。弾丸が怪物の中心を打ち抜くと、黒い霧が勢いよく散る。

「まだ動きますね……」明松が呟く。

「もう少しだけ抑えてください!」神宮寺が鋭く言いながら、再び刀を振り抜いた。一撃で怪物の胴体を切り裂くと、怪物は断末魔のような声を上げながら霧となって消えた。

「1体目、撃破しました。」神宮寺が静かに告げた。

 その瞬間、霧の中から再び複数の怪物が現れた。それらは前のものよりもさらに不気味で、こちらをじっと見つめるような仕草をしている。

「まだ終わりじゃないか。」田村が短剣を握り直した。


『これが神宮寺か』

 敵の数も多い。しかもどんどん強くなっている。しかし、それ以上に神宮寺は凄まじい速さで適応している。1体目よりも2体目、2体目よりも3体目。敵を倒す毎に敵を倒す術が研ぎ澄まされていく。その剣技は見る者を圧倒し、周囲の空気さえも支配しているようだった。

 明松の神宮寺に対する期待は過大に思われたが、実際に目の当たりにしてみると、それがむしろ控えめであると感じるほどだ。全ての動きが洗練され、敵の一挙手一投足を先読みし、無駄のない動きで圧倒していく。


『まさに戦巫女。いや闘神と言うべきか。これじゃ上が扱いに困るわけだ……』


 田村は心の中で呟き、目の前の戦いの光景に息を呑んだ。圧倒的な力と冷静さを兼ね備えた神宮寺の姿が、彼にとっては別次元の存在のように感じられた。

 三人は再び進んでいく。怪物たちは次々と現れるが、三人の連携は確実にそれを撃破していった。

 怪物たちは次第に力を失い、最後の一体が神宮寺の刀によって黒い霧となって崩れ去った。その瞬間、廊下にわずかな静寂が戻った。


「これで一区切りです。」神宮寺が刀を納めながら言った。

「いやー、疲れたな。」田村が短剣を腰に戻しながら深く息をついた。

「このペースでは、すぐに消耗しそうですね。」明松が銃をしまいながら肩をすくめた。

「役割分担しましょう。」神宮寺は静かに言い、次の戦闘に備えて視線を奥へ向けた。「役割を分担しつつ、着実に進めば道は開けます。」神宮寺が冷静に指示を出す。

「田村さん、後方の制圧をお願いします。明松さんは援護射撃を。」

「了解。」明松が銃を再装填しながら答えた。


「明松さん。」神宮寺は低いがはっきりとした声で言った。「銃やアイテムを無闇に使わないでください。消耗品は貴重ですし、今後のためにも温存する必要があります。それに……」

「それに?」明松が少し気を緩めたように口角を上げる。

「あなたは後方支援が役割です。身の安全を優先してください。」神宮寺はきっぱりと言い切った。「私は大丈夫ですから。」

「了解です、神宮寺さん。」明松が肩をすくめながら銃を握り直す。「後方からきっちり援護させていただきますよ。」


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 石田が目を覚ましたとき、頭に鈍い痛みを感じた。

 目の前に広がる光景は、見慣れた病院の手術室とはまるで異なるものだった。薄暗い光が天井から漏れているだけで、薄汚れた室内は闇と腐敗した臭いに包まれていた。

『助かったのか』

 彼は意識を取り戻すにつれ、自分が冷たい金属の手術台に横たわっていることに気がついた。手足は革のベルトで固定され、体を動かすことができない。目を動かすと、頭上のライトが不気味にちらつき、その向こうに見える天井には、異様な形状の紋様が刻まれていた。それはまるで何か邪悪な儀式を象徴するような紋様だった。

「ここは……?」石田はかすれた声で呟いたが、返答はない。


 彼の視界の隅に、何かが動く影が見えた。振り返ることもできず、ただその動きを目で追うしかない。次第に影がはっきりと見えるようになり、その姿に石田は息を呑んだ。

 現れたのは、人間の形をしているが、明らかに人間ではない何かだった。白衣をまとっているが、その衣服は血と黒い液体に染まり、腐臭が漂っていた。頭部は異様に肥大化し、額からは不気味な突起が生えている。無数の眼が動き回るように顔に散りばめられており、その視線が石田をじっと見つめていた。

 その姿は明らかにかつての人間性を捨て去り、この異界の一部となった存在だった。

 その怪物は、手に大きなメスのような道具を握りしめ、もう片方の手には脳のような奇妙な塊を持っていた。彼はゆっくりと石田に近づくと、不気味な声で低く笑い始めた。


「……目が覚めたようだな。」その声は、かつての人間だった名残をわずかに留めているが、どこか機械的で感情の欠片も感じられないものだった。

 石田は必死に手足を動かそうとしたが、革の拘束具はびくともしなかった。

「なんだ……お前は……?」

 怪物は答えず、代わりに石田の頭部を覆うように奇妙な装置を取り出した。それはまるで脳を観察するための古い医療器具のようだが、装置全体に血と錆が絡みつき、異常な形状に歪んでいた。

 怪物がその装置を石田の頭にかぶせると、冷たい金属の感触が頭皮に広がり、奇妙な痛みと圧迫感が彼を襲った。


「やめろ……やめてくれ!」石田は必死に叫んだが、その声は虚しく手術室に響くだけだった。

 怪物はメスをゆっくりと持ち上げると、石田に向かってこう言った。

「恐れるな……お前は偉大な研究の一部になるのだ。」

 その言葉には悪意しか感じられず、石田の背筋を冷たいものが走った。怪物は彼を見下ろしながら、石田の頭部をさらに固定するように拘束具を調整した。

 彼の行動は慎重でありながらも異様な正確さがあり、それがかえって恐怖を掻き立てた。石田は目を閉じ、何かが頭の奥に触れる感覚に身を震わせた。

 怪物の動きは一切の躊躇がなく、ただ無表情に、目的だけを遂行しているようだった。その様子からは、人間らしさや迷いの欠片も感じられず、病院内に広がる悪意をそのまま具現化したかのようだった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 石田の呼吸は浅く、目に見えない圧迫感が胸を締め付ける。目の前の怪物の動きひとつひとつが、彼の恐怖を増幅していった。

「インフォームドコンセントは義務だったな。無知は罪だ」

 歪んだ声が、湿った空気に響いた。それは不快でありながらも、不思議なほど聞き取りやすい音だった。怪物は、かつて医師だったときの記憶を断片的に語り始めた。だが、その内容は人間らしい後悔や反省ではなく、自らの「行い」への陶酔に満ちていた。


「この病院ではねぇ……ずっと……偉大なる研究を進めてきたんだよ……」

 怪物の声は歪んでおり、言葉が途切れ途切れであったが、その狂気は石田の心を容赦なく締め付けた。目の前の異形がかつて医師だったとは信じがたかったが、彼の言葉には真実味が感じられる。

「霊能力……そう、あの力は我々にとって未知の宝庫だ……」

 怪物は手に持つ血まみれのメスを光にかざし、まるでそれが勲章であるかのように見せつけた。その目が蠢く顔には、勝ち誇ったような表情が浮かんでいるようだった。

「多くの患者たちがここで……犠牲になっただと?違う、彼らは世界に貢献したの。だが、その価値がわからんとは……愚かだな。全ては神の意志に近づくための……素晴らしいな献身だ!」


 石田はその言葉に凍りついた。病院で噂されていた事件の真相が、いま目の前で語られている。それは単なる偶然ではなく、意図的な人体実験の結果だった。石田は恐怖を抑えきれずに叫んだ。

「お前たち……そんなことをして、何が得られるっていうんだ!?」


 怪物はその問いに答える代わりに、乾いた笑い声を上げた。そして、石田の顔に近づき、彼の耳元で低く囁いた。

「知りたいかね?力を、知識を得るためだよ……。あの声を聞いた者は皆、神のような存在に近づいていく。……お前にも、体験してもらうよ。」

 怪物の歪んだ声と共に、冷たい何かが石田の頭皮をなぞる。恐怖が彼を襲い、全身が震えた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 怪物は動きを止め、メスを握った手をゆっくりと下ろした。その多眼の顔が蠢き、石田をじっと見下ろす。

「君は知っているか……小林という男を。」

 その名前を聞いた瞬間、石田の胸に嫌な予感が走った。

「小林……まさか、退魔師の小林虎次郎か?」


 怪物の口元がゆっくりと歪み、笑みを浮かべたように見えた。

「そうだ……彼もまた、この場所で素晴らしい『進化』を遂げた。」

「奴は愚かにもこの病院の秘密に触れ、妨害しようとした……だが、結果的には我々の計画を助ける形になった。」怪物は石田の耳元で低く囁いた。「あの小林は捕らえられ、改造されたんだよ……。」

「改造……?」石田はその言葉に寒気を覚えた。

「そうとも。あいつはただの退魔師にすぎなかった。だが、我々の手にかかれば……より強力な霊力を持つ存在に変わる。」

 怪物は言葉を続けながら、まるで思い出すように手元のメスを軽く揺らした。

「霊力を増幅し、身体を最適化する。彼はこの計画の『試作品』として完璧だった。」


 石田の瞳が恐怖で見開かれる。

「そんな……何をしたんだ……!」

「彼は我々の手で『調整』され、普通の人間以上の霊能力を得た。だが、それだけではない……彼の力は我々の目的――大いなる儀式――に必要不可欠だった。」

 怪物は少し間を置き、冷たく笑いながら続けた。

「そうだ、奴は『生贄』になるんだよ。優秀な霊能力者ほど、大いなる存在を呼び寄せる力が強いからね。」


 石田の体が拘束具に固定されているにもかかわらず、彼は全身が震えるのを抑えきれなかった。

「お前たちは……お前たちは何をやっているんだ……!」

「退魔師の改造は初めてだったので興奮したな。非常に良いデータが取れた。だが論文にするにはデータが足りない」

 怪物はその言葉を楽しむように口角を上げた。

「君もすぐに理解するさ。小林が迎えた運命は、君にも訪れる。霊力を増幅し、最適化し……そして、儀式のための『鍵』となるのだ。」

「ふざけるな!」

 石田は必死に身体を動かして拘束具から逃れようとするが、革ベルトはびくともしなかった。


「逃げられると思うな。」

 怪物の声は低く冷たかった。

「君らは特別な素材なんだ。普通の人間では儀式の完成には不十分だが、退魔師なら話は別だ。君の力は私たちの計画に欠かせない。」

 怪物はゆっくりと後ろに下がりながら、口調を変えた。

「もっと驚くべき話をしてやろう……君たちが信じる神社勢力のことだ。」


「神社……?」石田は震える声で繰り返した。

「そうだ、あの尊い正義の味方たちさ。」怪物は嘲るように笑った。「彼らはこの計画に深く関与している。いや、むしろ計画の始まりを支えた存在だと言ってもいい。」

「嘘だ……!神社がこんな非道なことに手を貸すはずがない!」石田は必死に否定しようとしたが、怪物の言葉が続くにつれ、その抵抗が虚しく思えた。


「考えてもみろ、近代科学を信奉する我々だけで出来ると思うか……神社の裏の方々が協力を惜しまなかったからな……。彼らの助力なくして、この研究は成し得なかっただろう……。」


 怪物の言葉に、石田の脳裏に疑念が浮かぶ。神社――霊能力や退魔の力を操る組織が、こんな非人道的な行為に手を貸していたというのか?

「まさか……嘘だろう……」石田はかすれた声で呟いた。


 怪物はその反応を楽しむかのように、笑いながら続けた。

「嘘?そんなものじゃない。君が崇めている正義の神社だよ……。彼らもまた、力の追求には貪欲なんだ……。」

 石田の顔は恐怖と絶望で青ざめていった。病院がただの医療施設ではなく、神社の裏の組織と深く関わり、霊能力を利用するための非道な実験を行っていた――その事実が明らかになる瞬間だった。


「神社が守るべきは人々の安全ではない。彼らが守るのは『力』だ。霊能力を持つ者を増やし、その力を支配することが彼らの本当の目的だ。」怪物は血塗られたメスを持ち上げ、その刃を石田の目の前に突きつけた。

「君はそれを知る資格がある。」


 石田は口を開けたまま、言葉が出てこなかった。目の前の怪物が告げる内容が、すべて真実であるように思えたのだ。

 怪物の語る内容は、石田にとっては到底受け入れがたいものだった。それでも彼の心は、これが真実であると告げていた。呻くような声で石田は呟いた。

「……そんなことが……許されるはずがない……」

 怪物はその反応を嘲笑うように、低く不気味な笑いを続けた。

 怪物の言葉が病院内に漂う腐臭と共に石田の心を蝕む。その言葉の重みと恐怖が、彼を深い絶望へと追い詰めていった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 石田の目の前で怪物が冷笑を浮かべる中、手術室の空気が突然震えた。廊下の奥から何かが迫る気配がする。怪物が動きを止め、その不気味な目が一斉に入口の方向を向いた。


「……来たか。怪物が」

 怪物が言葉を吐くと同時に、手術室の扉が轟音とともに吹き飛んだ。

 神宮寺は一瞬の迷いもなく前進し、刀を振り抜いた。光の筋が暗闇の中を切り裂き、鋭い刃の反射が石田の視界をかすめる。その瞬間、怪物は断末魔の叫びを上げながら黒い霧となり、空中に散っていった。その消滅とともに、手術室に静寂が訪れる。


「間に合いましたね。」低く澄んだ声が響く。神宮寺遥が現れた。

 刀を握りしめた彼女は、冷ややかな表情で室内を見回しながらゆっくりと歩みを進めた。彼女の目は石田の拘束された姿を捉え、瞬時に状況を把握する。

「神宮寺……」石田の声は震えていた。「ありがとう!」

「田村、石田を頼む!」神宮寺が後ろに声を飛ばすと、田村は頷き、石田の拘束具を急いで外し始めた。

「しっかりしろ、石田!」田村が声をかけるが、石田の顔は青ざめ、全身が震えている。

「石田さん、どうですか?」神宮寺が振り返り、田村に支えられている石田に近づく。

「……なんとか。」石田は弱々しい声で答えたが、その目には深い恐怖が宿っていた。

「無理しないでください。」明松が言いながら、周囲を見回した。


 石田は神宮寺たちに支えられながら、手術室を後にする準備を始めた。しかし、その途中で彼は何かを思い出したように顔を歪めた。

「小林……小林が……」

「どういうことですか?」神宮寺が慎重に尋ねる。

 石田は唇を震わせながら、見たこと、聞いたことを断片的に語り始めた。

「奴らは……退魔師を……改造して……強力な霊能力を……」

 その言葉に田村が眉をひそめる。

「それは本当か?小林がそんなことに……?」

「聞いたんだ……直接、あの化け物から……小林が犠牲にされて……そして俺も……」石田の声は震え、涙が頬を伝った。

「そんな馬鹿な。」田村は拳を握りしめ、壁を叩いた。「奴ら、どこまで非道なんだ……!」


「これだけではない。」石田がさらに続けた。「怪物は……神社がこの実験に関与していたと言っていた。」

 その言葉に神宮寺は目を見開いた。「神社が……?」

 田村は即座に否定しようとしたが、その表情には明らかに動揺が見えた。

「噂では聞いていたが……まさか、本当に……」田村が呟く。

「私たちが知っている神社が、そんな非道な行いをしているなんて信じたくありません。」神宮寺の声には怒りが混じっていたが、その目は冷静さを失っていなかった。

「この話が本当なら、私たちは更なる危険に直面している可能性があります。」明松が結論を述べた。「しかし、今は石田さんを安全な場所に移し、体制を整えるのが先決です。」

 神宮寺は頷き、刀を鞘に収めた。「そうですね。ここで立ち止まっている暇はありません。」


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 石田の周りに小型の結界が展開されると、清浄な光が穏やかに揺らめき始めた。明松が手際よく複数のカードを配置し、範囲を絞った結界を維持する。その光は石田の傷口を包み込むように浸透し、黒ずんだ血や汚れを浄化していった。

「さすが医者ですね。止血が的確で出血もほとんどありませんね。」明松が皮肉交じりに口を開いた。

 石田は青ざめた顔を少し持ち上げて返す。「……本当か?頭が開いてるなんて……正気じゃいられない……」

「大丈夫です。雑菌も浄化されますし、傷口が悪化する心配もありません。」明松が冷静に説明した。「インカ文明でもこういった外科処置をしていましたから、大丈夫ですよ」

「それで、本当に平気なのか……?」石田の声は震えていた。

「対処法が他にないので、信じるしかないですよ。」明松は肩をすくめてみせた。

 結界が展開され、石田の体が徐々に回復していく様子を確認した神宮寺は、短く頷いて一歩下がる。そして、護符を出し、石田の周辺に別の結界を張る。

「ここに石田さんを安置して、私たちは先へ進みましょう。」彼女の言葉には、迷いのない冷静さがあった。

「えっ……?俺を置いていくのか?」石田が焦った表情で声を張り上げる。

 神宮寺が石田のそばにしゃがみ込み、優しい声で言った。「心配いりません。この結界は強力です。何かが侵入しようとしても、私たちが戻るまでの間は十分に持ちます。」

「それに、妙な話だが、先ほどから怪物がほとんど出てきていない。」明松が補足した。

 田村が短剣を腰に戻しながら言葉を添える。「石田、お前は無理をするな。ここで安静にしてろ。俺たちが必ず戻ってくる。」

 石田は唇を噛み、辛うじて頷く。

「……気をつけてくれ。」


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 石田を結界内に残し、三人は手術室を後にした。廊下に出ると、あたりは異様なほど静まり返っていた。先ほどまでの怪物との激しい戦闘が嘘のように、空気には重さが漂いながらも不気味な静けさが支配している。

「確かに妙だな。」田村が低く呟いた。「さっきまでの怪物の群れはどうした?」

「ここに近づくにつれて、怪物の出現頻度が減っていますね。」明松が銃を構えながら警戒を続ける。「何かの中心に近づいているのかもしれません。」

「あるいは、これが嵐の前の静けさか。」神宮寺が刀を握り直した。「この先、もっと厳しい状況が待っている可能性もあります。」

 廊下の先にはさらに異様な気配が漂っていた。壁には不規則に刻まれた傷跡があり、その隙間から黒い霧が漏れ出している。だが、奇妙なことに、直接的な危険は感じられない。

「行くぞ。石田を置いてきた以上、戻る前にこの先の状況を把握する必要がある。」田村が短剣を握り直しながら進む。

「ただし慎重に。」明松が後ろから銃を構えてついていく。

 神宮寺が最後に手術室の扉を見つめた。「石田さん、必ず戻ります。」

 扉を閉めた後、三人は緊張を押し殺しながら歩みを進めた。静けさの中に漂う不安感が、これからの困難を予感させるようだった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 石田を救出した神宮寺たちは、一息つく間もなく、次なる脅威に備えるため廊下を進んだ。空気は以前にも増して重く、病院全体が異様な静けさに包まれていた。だが、その静寂は決して安心を与えるものではなく、むしろ嵐の前の不穏さを感じさせた。

「静かすぎる……」田村が短剣を握りながら呟いた。「さっきまであれだけ湧いていたのが、急にいなくなるなんて不自然だ。」

「同感です。」明松が銃を持つ手に力を込めた。「これは単なる休息ではなく、何かが待ち受けている前触れでしょう。」

 神宮寺は先頭に立ち、刀を構えたまま冷静に周囲を見渡していた。

「この静けさの裏に、必ず何かがあります。警戒を怠らないでください。」

 彼女の言葉に頷き、田村と明松は緊張感を新たにした。

 やがて彼らは広めの扉の前にたどり着いた。扉の表面は焦げたように黒ずんでおり、その周囲には血のような赤黒い液体が染み出している。

 やがて彼らは、一際大きな扉の前にたどり着いた。その扉はただの金属製ではなく、複雑な彫刻が施されており、焦げた黒と赤が入り混じった異様な光沢を放っていた。その周囲には血のような赤黒い液体が染み込み、古代の呪文が刻まれているような気配さえ漂わせていた。

 病院なのでこんな扉があるはずもなく、酷く異界に浸食された場所だと判る。

「ここが……」田村が短剣を握り直しながら低く呟いた。「嫌な予感しかしない。」

「まるでボスの部屋ですね。直前にセーブポイントでもあればいいのに。」明松が口元を歪めて笑みを作る。「とりあえずアイテム確認とHPは満タンにしないと」

「馬鹿言わないの。」神宮寺が冷たい視線を向け、扉に手をかけた。「準備はいい?行くわよ。」

 彼女がゆっくりと扉を押し開けると、重厚な音と共に部屋の中から濃密な空気が漏れ出してきた。その空気は腐臭とともにどこか甘ったるい香りが混ざり合い、彼らを一瞬たじろがせた。そして、扉の向こうに広がる光景に彼らは言葉を失った。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 部屋全体は、まるで退廃的な芸術作品の中に足を踏み入れたかのようだった。中央に位置する祭壇は、異常に装飾が施されており、崩れた構造物すらも金色と漆黒の残骸が絡み合い、不気味な美しさを醸し出していた。その周囲には、赤黒い紋様が床一面に広がり、その線が緩やかに光を帯びて脈動しているように見える。

 壁際には壊れた燭台が並び、それぞれから垂れ下がる赤いロウが血液のように床に広がっていた。天井からは豪華なシャンデリアが下がっていたが、その装飾の隙間から黒い霧が漏れ出し、空間全体を包み込むように漂っている。

 床には、無数の血痕が乾いたり、まだ生々しい状態で残されており、その中心に横たわるのは、中野真一の遺体だった。彼の体は無数の傷に覆われ、赤黒い血が儀式の中心を彩るかのように広がっている。その胸には精密な刻印のような魔法陣が彫り込まれており、呪われた芸術品のような異様な存在感を放っていた。


「これは……」明松が顔をしかめ、遺体に近づいた。「他殺です。儀式のために犠牲にされたと考えて間違いありません。」

 神宮寺が遺体に目をやりながら、静かに言った。

「彼が生贄にされた理由を突き止めなければなりません。」

 田村は拳を握りしめ、部屋の隅に目を向けた。

「この祭壇……ナベリウスを召喚するために使われたんだな。」

「ええ。」明松が冷静に頷く。「この部屋自体が儀式の一部であり、ここでナベリウスが召喚されたのでしょう。ただ、これが最終目的地ではないはずです。」


 神宮寺は部屋を歩き回りながら、壁や床に残された痕跡を調べた。その視線が部屋の隅にある小さな人型の折り紙の式神の姿を捉えた。

「ここに何かがあります。」彼女が式神に近づくと、それはわずかに動き、か細い声を発した。

「私は小林の伝令です……」その声は弱々しく、今にも消え入りそうだった。「ここで見たことを……あなたたちに伝えるために……」

 式神が語る内容は、退魔師・小林虎次郎の最後の記録だった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 式神が語り始めると、その声は壊れた楽器のようにかすかで断続的だったが、その言葉には確かな意志が宿っていた。

「……ここで……小林様は……多くを見た……。この祭壇は……悪魔の力を呼び込むために作られた……中野真一……彼が……」

「中野が……儀式を主導していた?」明松が眉をひそめた。「やはり……杉田はただの傀儡だったか。」

 式神は頷くように揺れながら話を続けた。「……この部屋では……小物の悪霊の召喚が成功し……しかし……大物悪魔の召喚が……さらに試みられている……」

 その言葉に神宮寺の表情が一瞬硬くなった。「大物悪魔……それがナベリウス、ということね。」

「……そう……しかし……大物悪魔は……最終目的ではない……神話級の悪魔」

 式神が語る内容はさらに不穏な事実を明らかにした。ナベリウスの召喚は単なる序章に過ぎず、その先にはさらに強力な悪魔を呼び出す計画が進行していることを示唆していた。

「神話級の悪魔……」田村が呟いた。「何なんだ。だが、それほどの存在を呼び出すなど、どうやって……?」

 式神は一瞬沈黙し、次の言葉を絞り出すように伝えた。

「……多くの犠牲……そして……霊能力者……必要……」

 その言葉に石田が苦い顔をした。「霊能力者を犠牲に……そんなこと……!」

 式神は構わず話を続けた。

「小林様は……この祭壇をを破壊しようとした……しかし……何者かに……邪魔され……失敗した……」

 その言葉に、部屋の空気が一層重くなった。

「邪魔……誰かが妨害を?」

 神宮寺が鋭い視線で問いかける。

「……分からない……」

 式神が弱々しく、しかし確固たる意志を込めて最後に言った。

「小林様は……全てを止めるために……儀式を妨害しようとしました……しかし、それは叶いませんでした……私をここに残したのは、後に続く者たちに、少しでも情報を残すため……」

 その声は次第に小さくなり、式神の光がかすかに揺らめいた。

「どうか……止めてください……」

 式神がその最後の力を使い果たすと、微かな光の粒となって空中に消えた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 明松は式神の告げた内容と、これまでの調査結果を整理し、静かに語り始めた。その声には、緊張と焦燥が滲んでいる。

「現状をまとめましょう。まず、この病院で行われた儀式の目的は、ただの悪霊や低級な存在を召喚するものではありません。ナベリウスが召喚されたのは、この計画の一部に過ぎない。そして、その背後には、さらに強大な存在――アスタロトの名が浮かび上がります。」


 田村が険しい表情で明松を見つめる。

「アスタロトだと?俺でも知っているぞ。確かに神話級悪魔だが。」

「ナベリウスが組む神話級悪魔としては、アスタロトが第一候補です」

「そんな高位の悪魔を本当に呼び出せるのか?」

「その可能性があります。既にナベリウスクラスを召還できています。」明松は軽く頷きながら続けた。「ナベリウスは知性や交渉術に長けた悪魔で、人間の心の弱さや欲望を利用することに長けています。その力が中野真一を堕落させ、病院全体を異界化させたと考えられます。しかし、ナベリウスはアスタロトを降臨させるための準備段階です。」


 明松がポケットから古びたメモ帳を取り出し、そこに記された儀式の詳細を見せながら説明を続けた。

「この病院で見つかった魔法陣や道具の一部は、アスタロトの降臨に関連するものです。完全な降臨には膨大なエネルギーと犠牲が必要ですが、彼らが目指しているのは部分的な降臨、もしくは端末(分身)の召喚です。それでも十分に脅威となります。」

「部分的な降臨とは……具体的に何を意味するんだ?」田村が短剣を握りしめながら尋ねる。

「中野に降ろさなかったことを考えると、人への降臨ではなく、おそらく依り代への憑依でしょうね。昔からよくある神降ろしの定番ですよ」明松は冷静に答えた。「一部だけでも、我々にとっては壊滅的な結果を招きます。」


「そして重要なのは、霊能力者がこの儀式に必要不可欠な存在であるということです。」明松は視線を神宮寺に向けた。

「生贄として……霊能力者が?」神宮寺の声は低く冷ややかだったが、その奥に怒りが含まれていた。

「はい。霊能力者は、異界と現世を繋ぐ霊媒として極めて価値が高い。そして、退魔師や特殊な能力を持つ者ほど、儀式のエネルギー源として利用されやすい。」明松は無表情のまま語った。

「つまり、奴らは患者や小林を改造し、強化した後に生贄として捧げる。」明松は静かに続けた。「霊能力者としての力を増幅させることで、儀式の成功率を高めるためにね。」


 田村が激昂して壁を叩いた。「ふざけるな!そんな非道な真似を許すわけにはいかない!」

「私も同感です。」神宮寺が短く応じた。「だからこそ、この儀式を止めなければなりません。」

「ナベリウスが召喚されたこの部屋は、儀式の一部に過ぎません。」明松が言葉を続けた。「最終目的地として考えられるのは、もっと広い空間。例えば……病院の屋上です。」

「屋上か……確かにここより広い場所だ。」田村が深く息を吐いた。

「しかも今日は、満月です」明松は頷いた。「悪魔召喚の条件として、適した場所と言えるでしょう。そして、私たちは完全に後手に回っています。怪物が減ったのも……時間稼ぎが終わったためかもしれません」


「何悲観に暮れているのよ」神宮寺が刀を握り直しながら言った。「屋上を目指しましょう」

 三人は静かに視線を交わし、それぞれの武器を確認した。田村は短剣を握り直し、明松は銃の残弾を確かめる。神宮寺は再び刀を鞘から引き抜き、その鋭い刃に決意を映した。

「行きましょう。」神宮寺が冷静に告げた。「時間がありません。」

 三人は緊張感を保ちながら、静まり返った廊下を抜け、屋上へと向かう階段を目指して歩みを進めた。その先に待つのは、さらなる脅威か、それとも――。


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設定ミスが発覚。アスモデウスからアスタロトに変更。

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