第1章 病院 その2
小林が到着すると、スタッフたちの間にはわずかながら安堵の空気が広がり、彼がもたらすであろう解決の可能性に期待が寄せられた。
小林は到着後すぐに調査を開始した。まず彼は、失踪した患者の部屋に残された奇妙な紋様を入念に観察し、その形状や配置にどこか見覚えがあることに気づいた。それは、古い文献に記されていた異界召喚に関する図形と酷似しており、小林はその場でノートを取り出して詳細に記録を取った。次に彼は病院全体を歩き回り、異常現象が発生した場所を特定しながら、スタッフたちからの証言を丁寧に聞き取った。
彼が調査を進める中、病院内の状況はさらに悪化していった。小林はある部屋で、壁一面に描かれた血のような赤黒い紋様を発見した。それらは、見ただけで不快感を覚えるような不規則な線と形で構成されており、その中心には焦げた跡が残っていた。その場に立った瞬間、小林は背筋に冷たいものが走るのを感じ、この場所がただ事ではない力に影響されていることを直感した。
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小林は慎重にその紋様を写し取り、その場を後にしたが、次第に彼の周囲でも不可解な現象が起こり始めた。廊下を歩いていると、不意に背後で囁き声が聞こえるようになり、視界の隅には人影のようなものが揺れ動いていた。それらは一瞬のうちに消え去り、どこにもその痕跡を見つけることができなかったが、小林はそのすべてが異界の力の影響であることを確信していた。
彼はスタッフに「次に何が起きても驚かないように」と警告を与えたが、その言葉が意味するものの重さに、スタッフたちは恐怖を隠せなかった。その後、小林はさらに病院内を調査し続け、異常現象の源を突き止めようとしたが、その途中で突然消息を絶った。
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小林が到着すると、病院の空気がわずかに変わった。疲れ切ったスタッフたちの間には、期待と不安が入り混じった微妙な緊張感が漂っていた。若い看護師の一人が、緊張で指を震わせながら小林に声をかけた。
「あ、ありがとうございます…来ていただいて。」
その言葉に小林は微かに微笑み、穏やかな声で応じた。
「大丈夫ですよ。すべてを解決できるとは限りませんが、できる限り尽くします。」
彼は到着後すぐに、失踪した患者・中野真一の部屋へ案内された。その部屋の扉を開けると、強い冷気が全身を包み込んだ。部屋の中央には、壁一面に広がる奇妙な紋様が描かれており、赤黒く不気味な色合いが際立っていた。
「ここでは自由にペンを持たせるのですか」
「はい。そうしないと自身の血で書き始める患者も居るので」
小林は一瞬立ち止まり、深呼吸をしてから慎重に近づいた。
「これは…」
彼は独り言のように呟きながら、その紋様の細部を観察し始めた。
紋様は、曲線と直線が複雑に絡み合ったもので、中心部分にはいびつな円形が描かれている。その円の中には小さな焦げ跡が点在し、まるで何かが燃え尽きた後のようだった。小林は鞄から古い文献を取り出し、ページをめくりながら紋様と照合を始めた。
「悪霊召喚…いや、それだけじゃないな。」
眉間に皺を寄せた小林は、その文献に記されていた図形との類似性に気づき、ノートに詳細な記録を残し始めた。
「先生、これって何か特別な意味があるんですか?」
付き添っていたベテラン看護師の倉田美緒が、不安げに尋ねた。彼女の目には恐怖と困惑が浮かんでいた。小林は一瞬視線を上げ、慎重に言葉を選んで答えた。
「これは…異界と呼ばれる場所に繋がる儀式に使われるものと似ています。ただし、日本の神道や仏教にはない形式です。海外のオカルト…恐らく西洋や中東系のものですね。」
「そんな…どうしてこんな場所で…。」
倉田は困惑した様子で目を伏せ、つぶやいた。
「それをこれから調べます。何者かがこの場所を通じて異界との接触を試みた可能性があります。ただ、詳細を確定するにはさらに調査が必要です。」
小林は静かに言い、紋様の周囲を再度観察し始めた。
その後、小林は病院内を巡り、異常現象が報告された場所を次々と確認していった。廊下の角で、不意に冷たい風が吹き抜けたかと思うと、視界の隅で黒い影が揺れた。
「おい、あれを見たか?」
隣にいた若い男性スタッフが声を上げたが、小林は落ち着いた口調で「気にしないでください。こうした現象は、特に精神的な負荷が高い場所で起こりやすいものです」と答えた。
ある部屋では、壁一面に血で描かれた赤黒い紋様が彼の注意を引いた。それは、失踪した患者の部屋にあったものと酷似していたが、ここではより荒々しく描かれていた。紋様の中心には焦げ跡があり、その周囲には灰が散らばっていた。
「ここで何かが燃えたようだな…」
小林は膝をつき、手袋をつけて焦げ跡を調べた。
「先生、これって…本当に安全なんですか?」
彼の背後で、倉田が震えた声で言った。
小林は焦げ跡から立ち上がり、冷静に答えた。
「安全とは言い切れません。この部屋は明らかに何か特異な力の影響を受けています。この力がどこから来ているのか、そして何の目的で使われているのか、それを突き止めるのが私の役目です。」
立ち上がった小林は、改めて部屋全体を見渡した。その冷たい空気、散らばった灰、不規則に描かれた紋様。それらすべてが、ただ事ではない力の存在を物語っていた。彼の背筋に冷たいものが走る。確信が、徐々に形を成していくようだった。
小林は慎重にその紋様を写し取り、鞄に記録をしまった。部屋を後にする際、背後に強烈な視線を感じたが、振り返ってもそこには何もなかった。廊下を進む彼の足取りは冷静だったが、どこか張り詰めた空気をまとっていた。
「ここに来てから、全身が重い……」
小林は小さく呟いた。異界の力が病院全体に浸透しているのを感じるたび、彼の経験に裏打ちされた冷静さがわずかに揺らぐ。周囲を見回しながら歩く中、背後で微かな囁き声が聞こえた。耳を澄ますと、それははっきりとした言葉ではなく、混濁した囁きの波のようだった。
「……助けて……ここじゃない……扉が……」
声は徐々に近づき、やがて消えた。
小林は足を止め、振り返るが、廊下には誰もいない。視界の隅で黒い影が揺れるのが見えた気がしたが、焦点を合わせるとすでに消えていた。
「これは……異界の浸食だな」
小林は眉間にしわを寄せ、再び歩き始めた。心の中で冷静さを保つための祈りを唱えながら、廊下を進む。
途中ですれ違った看護師、倉田美緒が彼に話しかけた。
「小林先生、大丈夫ですか? こちらに来てから、少し……疲れが見えます。」
「心配はいりません。しかし、次に何が起きても驚かないように、スタッフに伝えておいてください。状況は想像以上に深刻です。」小林の言葉に、倉田の顔が曇った。
「それは……何が起きているのでしょうか?」
小林は言葉を選んで答えた。「ここには、人の意識ではない『何か』が存在している。すでに患者たちやこの場所そのものに影響を及ぼし始めているんです。」
倉田は不安げに頷き、さらに質問を重ねようとしたが、小林は手を軽く上げて制した。「答えは調査を終えてからお伝えします。それまでは、患者たちの安全を最優先してください。」
その後、小林は病院内の別の区域へ足を運び、さらに異常な現象を調査し始めた。ある病室では、家具が不自然に配置され、天井には焦げた跡が残っていた。彼は念入りに観察し、異界召喚に関連する痕跡であると確信した。
その時、不意に廊下の奥から足音が聞こえた。規則的ではなく、引きずるような不自然な音。小林は慎重に歩を進め、足音のする方向へ向かった。
「誰かいるのか?」
低く落ち着いた声で呼びかけるが、応答はない。
彼が足音の方向に進むと、視界が突然暗くなり、廊下全体がぼんやりとした霧に包まれた。
「これは……」
彼は足を止め、祓いの札を取り出したが、その瞬間、霧の中から影が飛び出してきた。
反射的に札を掲げると、影は一瞬にして霧の中に溶け込んで消えた。しかし、その場に残ったのは、小林の右腕に刻まれた鋭い痛み。影が何かを持っていたのか、血が滲んでいた。
「くっ……!」小林は息を整え、札を握りしめた。
「これ以上進むには……厄介な相手だ」
その後も小林は調査を続けたが、異常現象の源にたどり着くことなく、その夜を最後に消息を絶った。彼が最後に残した足跡は、病院の隔離された区域へと向かっていた。
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小林が消息を絶ったという知らせは、病院内に漂っていた不安を一気に現実の恐怖へと変えた。彼の到着によって薄らいだかに見えた安心感は完全に消え去り、代わりにスタッフや患者の間に緊張が張り詰めていく。特に彼が調査していた紋様が描かれた部屋の周辺では、不気味な現象が増幅し始めた。
看護師の佐藤明がナースステーションに駆け込んできた。
「廊下の端で何か見たんだ。影が……いや、人影が動いていた。でも、人じゃない。目が……赤く光ってたんだ。」
その顔には明らかな恐怖が浮かんでいた。周囲にいた看護師たちも動揺し、「また例の影?」、「いや、最近はもっと酷くなってる」と囁き交わす。
一方、患者たちの行動はさらに異常さを増していった。特に隔離病棟では、一部の患者が部屋を飛び出して廊下を駆け回り、叫び声を上げ続けるという事態が発生した。その内容はまるで呪文のように意味不明で、「闇が来る」、「扉が開く」、「救済はない」といった言葉が繰り返されていた。
「佐藤さん!手伝って!」と看護師の森口奈々が叫び、暴れる患者を抑え込もうとする。しかし、患者の力は常識を超えており、大柄な男性の佐藤ですら押さえ込むのに苦戦していた。
「もう限界だ……。」
理事長の斉藤隆志は、書類の山を前に深く頭を抱えた。小林の失踪は、彼にとっても予想外の事態だった。もともと外部の専門家に頼ること自体が異例であり、彼は長年の経験から、医療の現場に必要以上にオカルト的な要素を持ち込むことには慎重だった。しかし、今回ばかりは背に腹は代えられない。
斉藤はゆっくりと電話の受話器を取り上げた。
「……田村先生、緊急です。すぐに来ていただけませんか?」
冷静を装いながらも、その声には明らかな焦燥感が混ざっていた。
「わかりました。すぐ向かいます。」
田村一真の応答は簡潔だった。
小林の失踪、続発する異常現象、そして患者たちの不可解な行動が重なり合い、病院はもはや通常の医療施設としての体裁を保てなくなっていた。廊下には、何度清掃しても消えない謎の模様が浮かび上がり、夜になるとその模様がほのかに光るという報告が相次いだ。病室の窓ガラスには、内側から爪で引っ掻いたような跡が見つかり、それを目にした看護師たちは言葉を失った。
「美緒さん、もう限界だよ。こんなの看護師の仕事じゃないよ」
佐藤がため息をつきながら、倉田美緒にぼそりと呟く。
「俺たちがいくら頑張ったところで、この病院はもう……普通じゃない。避難するべきだ」
「そんなの判っているわよ。じゃあ、誰が代わりにやるの。患者さんはどうするの。幽霊が出るからって病院を閉鎖できるの。私たちは出来る限りやれることをやらないと。ここにいる患者さんたちは私たちが守らないと。」
美緒は毅然とした表情で答えたが、その声には微かな震えがあった。
スタッフたちは、一丸となって病院の管理を維持しようと努力していたが、もはやそれは形だけのものになりつつあった。患者たちの奇怪な行動が続き、一部の医師と看護師は逃げ出し、残った看護師たちの疲労と恐怖が日増しに募る中で、病院全体が得体の知れない力に支配されていく感覚が広がっていた。