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巫女と魔術師のミステリー事件簿 ~精神病院の怪異  作者: 怠け者は電気羊の夢を見るか
2/12

第1章 病院

 時間は5日前に戻る。


 奥多摩の山間に佇む精神病院は、鬱蒼とした森に囲まれ、まるで世界から切り離されたかのように静寂に包まれていた。日の出前の山道は霧が濃く、白い霞が木々の間を漂っている。病院へと続く細い道路は曲がりくねり、その先にある建物の全貌を簡単には捉えられない。霧の隙間からかすかに見える病院の影は、どこか神秘的で、不安感を抱かせる雰囲気を持っていた。


 やがて朝が訪れると、霧が徐々に晴れ、レンガ造りの建物が姿を現す。古い外観だが、外壁は白く塗り直されており、細かい手入れの跡が見て取れる。周囲には緑豊かな庭が広がり、色とりどりの花が咲き乱れるエリアもある。しかし、自然の美しさが建物全体に柔らかな印象を与えている一方で、その静けさにはどこか人工的な隔絶感があった。施設の大きな窓からは、患者たちの姿が時折垣間見える。窓越しに外を見つめる彼らの表情は一様に空虚で、不安げな目つきが印象的だった。


 病院の正面玄関では、朝早くからスタッフたちが活動を始めている。清掃員がモップを手に、入り口付近を綺麗に整えながら、訪れる家族や新しく到着する患者を迎える準備をしていた。受付のカウンターでは、白衣を着た看護師が患者の家族と話し込んでいる。中年の女性が「母の様子はどうですか?」と心配そうに尋ねると、看護師は柔らかな笑顔を浮かべながら「最近は少し落ち着いています。ですが、様子を見ながら慎重に進めていきますね」と丁寧に応対していた。


 廊下に入ると、忙しない足音が響き渡る。看護師や医師がカルテを手に急ぎ足で移動し、その合間に患者を案内する車椅子の音が混ざる。病院内の空気には消毒薬の匂いが漂い、どこか冷たさを感じさせた。壁には案内板やポスターが貼られ、「患者様の権利を尊重します」といった標語が目に入る。天井には蛍光灯が整然と並び、白い光が廊下を隅々まで照らしている。


 朝食の時間になると、食堂には患者たちが集まり始めた。広々とした空間に長いテーブルが並べられ、それぞれの席には名前が記されたプレートが置かれている。調理スタッフが笑顔でトレーを運びながら患者たちに「今日のメニューは温かいスープとパンですよ」と声をかける様子が見られる。年配の男性患者が新聞を広げてじっと文字を追いながら、意味のない独り言を呟いている。その隣では、若い女性患者がスプーンを握りしめたままぼんやりと窓の外を見つめていた。


「美味しいスープだよ。冷めないうちに食べてね」とスタッフが声をかけても、反応は薄い。しかし、スタッフはそれを気にする素振りもなく、明るく振る舞い続ける。調理スタッフの一人は、「こうやって笑顔で接することが、患者さんの安定につながるんですよ」と新人スタッフに話しかけていた。


 ナースステーションには、夜勤明けの看護師たちが集まり、交代のスタッフにその日の状況を引き継いでいた。カウンターの上にはカルテや記録用紙が整然と並び、室内にはほのかに消毒薬の匂いが漂っている。若い看護師がカルテを片手に立ち上がり、「昨夜は特に大きな問題はありませんでした。ただ、3号室の患者が少し興奮気味で、薬を増やしました」と小声で話すと、隣のベテラン看護師が「そう、ありがとう。ちゃんと休むのよ」と彼女の肩を軽く叩いて励ました。


「それにしても、最近みんなピリピリしてるわね。なんだか変な空気が漂ってるっていうか……」と、若い看護師がぽつりと漏らすと、別の中堅の看護師が振り返って、「確かに。でも、気のせいよ。夜勤続きで感覚が敏感になってるだけ」と無理に笑顔を作った。


 その会話を聞いていた先輩看護師の一人が、疲れた表情で顔を上げ、「それだけならいいんだけどね。実は、昨日の夜、廊下の角で誰かが動いたような気がして。振り返ったけど、誰もいなかったのよ」と小さく声を潜めた。


「やめてくださいよ、そんな話」と、若い看護師が怯えたように身をすくめる。「廊下の角、ってあの奥の方ですか? あそこ、いつも暗くて嫌なんですよ」


「大丈夫、大丈夫。ほら、気のせいだって」中堅の看護師が笑って見せたが、その声にはどこか緊張が滲んでいた。

 一方、カルテを確認していた主任看護師は一連のやり取りを無言で聞きながら、ふっとため息をついた。「確かに最近、患者さんたちが少し不安定になってる気がするわね。でも、こんな話を続けてると私たちまで気が滅入るわ。交代の時間なんだから、さっさと報告を済ませて休みなさい」


 主任の声に促されるように、看護師たちはそれぞれ立ち上がり、持ち場に向かった。しかし、その場に漂っていた微妙な緊張感は完全には消えなかった。夜勤明けのスタッフたちが去ると、交代した日勤の看護師たちも、どこか落ち着かない様子で廊下を歩き出す。彼らの目には疲れと不安が浮かび、その背中は微かに縮こまって見えた。


「本当に、何かが起きてるんじゃないの?」

 若い看護師が廊下を歩きながら隣の同僚に囁く。

「昨日も3号室の患者さんがずっと何かに怯えてるみたいだったし」

「やめなさいよ、考えすぎるのは良くないって。とにかく、今日も頑張ろう」と隣の看護師が努めて明るく言いながらも、その視線は明らかに落ち着きを欠いていた。


 ーーーーーーーーーーーー


 午後になると庭では、患者たちが日光浴を楽しむ時間となり、数人の患者がスタッフに付き添われながら散歩をしている。芝生の上に座り込んで空を見上げる者、池の水面をじっと見つめる者、それぞれが独自の世界を持ちながらも、どこかで繋がりを求めているようだった。病室の廊下を歩くと、扉の奥から患者たちの囁き声や小さな物音が漏れ聞こえてくる。扉にはそれぞれナンバーが振られ、そこに収容されている患者の名前が記されている。その中には静寂が保たれている部屋もあれば、時折奇妙な音が聞こえる部屋もあった。


 しかし、いつもと違う点もあった。普段は比較的穏やかに過ごしている患者たちが、このところ頻繁に不安定な行動を見せるようになっていた。それは単なる気分の浮き沈みではなく、何か見えない力が彼らの心を揺さぶっているかのような、説明のつかない変化だった。

 そして、その変化は徐々に、だが確実に世界を侵食していった。


 例えば、ある中年の男性患者は、朝食の時間にテーブルに着くと、スプーンを持ったまま固まってしまった。彼は目を見開き、部屋の隅を凝視している。その表情は恐怖と困惑が入り混じり、まるでそこに誰か、あるいは何かが見えているようだった。スタッフが「どうしましたか?」と声をかけても反応はなく、患者はただ低い声で何かを呟き続けた。その呟きは聞き取れないほどの音量だったが、注意深く耳を澄ますと、単語が繰り返されているのがわかった。


「影が……来る……逃げろ……」。


 また、若い女性患者の一人は、廊下を歩いている途中で突然立ち止まり、壁に向かって顔を押し付けたまま動かなくなった。看護師が「どうしたの?」と声をかけると、彼女は震える声で「ここにいる……ここにいるの……」と呟き、肩を震わせた。彼女の目は涙で潤んでおり、そこにあるはずのない何かに完全に怯えているようだった。その姿は、ただの精神的不安定さでは片付けられないほど異様だった。


 さらに、別の患者は病室の中で独り言を繰り返し、手を使って壁に奇妙な模様を描くような動きをしていた。その模様は具体的な形を持たず、見る者にはただの無意味な動作に思える。しかし、その患者の集中力と動作の正確さには奇妙な秩序が感じられた。


 看護師が「何をしているの?」と尋ねると、彼は一瞬だけ振り返り、目を大きく見開いて「祈らなければならない。彼らが来る前に」とつぶやいた。その言葉には切迫感があり、スタッフの誰もがその異常さに背筋を凍らせた。


 食堂でも通常とは異なる光景が見られた。

 患者たちはそれぞれ指定された席に座り、食事を始めるはずだったが、彼らの多くはスプーンを握ったまま動かなかった。ある患者は、手を震わせながらスープの表面をじっと見つめ、時折小さな声で「ここじゃない、ここじゃない」と繰り返していた。別の患者は、テーブルの上に顔を伏せ、何かから逃れるように両耳を塞いでいた。その姿は、目に見えない何かに圧倒されているようだった。


 看護師たちも異常事態を感じ取っていた。いつもなら明るく患者たちに声をかけるスタッフも、彼らの異様な様子にどう対応すべきか戸惑っているようだった。「大丈夫ですか? 少し食べてみましょう」と優しく声をかけるが、患者たちの反応は薄く、まるでその言葉が耳に届いていないかのようだった。


 これらの現象が徐々に積み重なるにつれ、病院全体の空気が変わり始めていた。日常の風景に潜む不安感。それは次第に、明確な恐怖へと形を変えつつあった。スタッフが話しかけても反応が鈍く、その態度は通常の症状とは明らかに異なっており、彼らの目に映るものが、この世界のものでない可能性を示唆しているようにも見えた。


 ーーーーー


 壁や天井は清潔感を保っているはずなのに、妙にくすんだ印象を与える。電灯の白い光も、どこか冷たく湿った空気の中に吸い込まれるように見えた。その静寂を破るのは、患者たちの低い囁き声と、ところどころで響く金属音や何かがこすれる音だった。


 杉田達也が描く奇妙な模様は、白いタイル張りの壁を侵食するように広がっていた。杉田は40代半ば、骨ばった顔に深い目のくぼみがあり、無精髭が伸び放題だ。いつも灰色の病院服を着ているが、その服の袖や襟は、壁に押し付けた黒いペンのインクで汚れていた。痩せた身体は動きに不自然さを感じさせるものの、指先だけは異常なほどの正確さを持って壁に模様を刻み続けている。


「杉田さん、そろそろ休みましょう。手が痛くなりますよ。」とベテラン看護師の倉田美緒くらた みおが優しく声をかけた。肩まで伸びた黒髪を一つに束ねた倉田は、30代前半の穏やかな雰囲気を持つ女性だ。杉田に向かう表情には、仕事を超えた誠実さが感じられる。しかし、その言葉が届くことはなかった。


 杉田は独り言のように呟いていた。

「見える……見えるんだ……彼らが近づいている……扉を開けなければならない……」


「彼らって誰のことですか?」

 倉田がもう一歩近づくが、杉田は全く反応しない。その目は模様に集中し、どこか別の世界を見ているかのようだった。

 壁を次々と不規則な模様で埋めていく。その表情は、何かに取り憑かれているように無表情だった。

「倉田さん、無理しないで」と後ろから声をかけたのは、同僚の看護師である佐藤明さとう あきら

「無理だよ。倉田さん。あの人、近頃は、いつもこうなんだから。昨日なんて。1日だけで壁の半分以上を埋めたらしいよ。」

 彼は30代後半のベテラン看護師で、杉田の様子には慣れている。

「俺たちが注意したところで止まらない。それどころか暴れだす可能性もある」


「でも、あの模様……」

 倉田は壁に目をやる。その模様は、単なる落書きには見えなかった。直線と曲線が複雑に絡み合い、まるで何かを示す暗号のように見える。

「単純な妄想にしては、あまりにも……秩序だっているように感じます」

 倉田は模様を指さしながら呟く。

「意味なんてないよ。どうせまた『神の啓示』とか言ってるんでしょ。」

 佐藤が呆れたように肩をすくめる。


「神の啓示ではない。扉だ!!」


 杉田が突然振り返り、二人を睨みつけた。その目は血走っており、汗ばんだ額が不気味に光っている。

 倉田は一瞬息を飲んだが、冷静さを保った。

「扉って、何のことですか?」

「扉だよ!」

 杉田は壁を指さしながら叫ぶ。

「ここに描かなければ、全てが無に帰る!お前たちにはわからない!」

 その言葉に周囲の患者たちが反応を見せ始めた。壁際に集まっていた数人の患者たちが、低い声で何かを囁き合い、時折杉田の描く模様に手を伸ばそうとする。その囁きは意味不明だが、まるで祈りのようでもあった。


「杉田さんだけじゃないんですよ。最近、他の患者さんも妙な行動をするんです。」

 別の看護師、森口奈々(もりぐち なな)が加わる。

「昨日なんて、隣の部屋の患者さんが急に祈り始めて……まるで、これに合わせるみたいに」

「やっぱり何かおかしい……」

 倉田の呟きに、佐藤は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに無理に笑ってみせた。

「まあ、でも俺たちは看護師だ。変なこと考えたら疲れるだけだぞ」


 その後も杉田の行動は止まらず、模様はさらに複雑になり、他の患者たちの囁き声も増していった。倉田は壁に描かれた模様をぼんやりと見つめながら、その形状が何か言い知れぬ不安を掻き立てるものであることを確信していた。まるで、それ自体が意思を持っているかのようだった。


「神の声が聞こえる……」

 唐突に杉田がつぶやいた。その声は低く、震えるようだったが、病棟内に響き渡ると、周囲の患者たちが一斉に沈黙した。倉田と佐藤、森口の三人は、その場で立ち尽くし、思わず息を飲んだ。

「……杉田さん?」

 倉田が恐る恐る呼びかけるが、返事はなかった。ただ壁に向かい続ける彼の姿だけが、その場を支配していた。

「美緒さん、離れた方がいい」

 佐藤が倉田の肩に手を置き、引き戻そうとする。

「ここで下手に刺激したら危険だ。俺たちにできるのは観察だけだ。あとは医師と相談するしかない」

 佐藤の声は冷静だったが、その表情には不安が滲んでいた。


 倉田は一瞬迷ったが、佐藤に従った。

 二人が距離を取る中、杉田は再び壁に向かい、描き続ける。模様はますます複雑さを増し、どこか脈動するような奇妙な感覚を周囲に放っているようだった。その姿は狂気とともに、何か得体の知れない力を感じさせた。


 ーーーーー


 また、別の患者は部屋の中央に座り込み、頭を抱えて震えていた。

「来る……来る……」と繰り返す声は怯えと絶望に満ちており、その様子に触発された他の患者たちも次々と奇妙な行動を見せ始めた。誰かが床に伏して泣き始めると、別の患者は突然笑い出し、その笑い声が廊下中に響き渡った。看護師たちはこの異常な状況を鎮めるために奔走していたが、患者たちの行動はもはや人間の常識では測りきれないものになっていた。


 これらの出来事が続く中で、病院全体の空気は目に見えない不安感に包まれていった。特に夜になると、その不安感はさらに強まる。廊下を歩く看護師たちは、背後に何かの気配を感じることが増えていた。振り返っても誰もいない。ただ静寂が広がるばかりだった。「気のせいだ」と自分に言い聞かせながらも、その感覚を完全に無視することはできなかった。


 ナースステーションに戻った看護師たちは、何とか笑顔を保ちながら互いに声を掛け合っていたが、その笑顔の裏には明らかな疲労と緊張が隠れていた。「大丈夫よ、きっとすぐに収まるわ」とベテラン看護師が新人看護師に声を掛けたが、その言葉に確信はなかった。


 隔離病棟で起きている異常は、まるで病院全体を侵食するウイルスのように広がり始めていた。患者たちの間に蔓延する得体の知れない「何か」は、スタッフたちの精神にも影響を及ぼし始めていた。いつも明るかった看護師たちの表情は暗くなり、彼らの笑顔は日に日に消え、短い会話にも緊張感が漂い始めていた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 そればかりではなかった。怪現象が次々と発生し、病院内に不気味な変化が広がりつつあった。

 夜間巡回中、看護師の一人、斉藤久美子は廊下の角に漂う奇妙な影を目撃した。影は初め、ただの暗がりのようにじっと動かないかと思えたが、突然、不規則な動きで形を変え始めた。時折、まるで何かを追いかけるように滑るように動き、その動きが止まるたびに、久美子の背筋は冷たくなった。


「ただの影よ、気のせい…」

 久美子は自分に言い聞かせながらも、心臓の鼓動が早まるのを感じた。廊下の電灯が薄暗く点滅し、彼女の足音が冷たいタイルに反響する中、視界の隅で影が再び揺らめく。


「誰か…いるの?」

 小さな声で問いかけても、応える者はなく、ただ静寂が広がるだけだった。


 翌朝、ナースステーションで久美子は同僚の倉田美緒にその体験を打ち明けた。

「昨夜、あの廊下で…影が動いているのを見たの。誰もいないはずなのに。」

「私も最近、似たようなことがあったわ。廊下の端に誰かが立っているように見えたの。でも、近づくと誰もいなかった。」

 美緒は顔を曇らせた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 さらに、深夜になると病院全体が微かに揺れる感覚が広がるという新たな異常が職員の間で囁かれるようになった。

「病院全体が息をしているみたいだって感じるのよ」と、夜勤の佐藤明が話すと、別の看護師が「そういえば、私も感じたわ。まるで生き物の中にいるみたい…」と続けた。


 これらの不気味な現象は病院全体に不安をもたらし、夜勤明けの職員たちは明らかに疲労を感じている様子だった。さらに悪いことに、電灯の不規則な点滅が頻発し、廊下が一瞬、完全な闇に包まれることがあった。ある夜、患者たちがその闇に怯え、一斉に部屋を飛び出し、騒ぎを起こした。


「何かがいる!暗闇の中に…!」

 患者の一人が叫び、別の患者は床に伏して震えながら「神が降臨される」と祈るような仕草を見せた。スタッフたちは急いで対応しようとしたが、恐怖に駆られた患者たちを落ち着かせるのは容易ではなかった。

 特に隔離病棟では事態が一層深刻だった。患者たちの間で奇妙な笑い声や祈るような囁き声が夜通し続き、それが看護師たちの神経を蝕んでいた。ある夜、倉田美緒は患者の一人が壁に向かって何かを囁いている姿を目撃した。


「何をしているの?」と尋ねると、患者はゆっくりと振り返り、まるで何も見えていないかのような目で「扉が開く」とだけ呟いた。

 病院内の状況は日に日に悪化し、スタッフたちの間で疲労と不安が徐々に蓄積していった。笑顔を絶やさないように努めていた看護師たちも、次第にその余裕を失い始め、短い会話にも微かな緊張感が漂うようになっていった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 患者の部屋からも不可解な現象が報告された。誰もいないはずの部屋から囁き声が聞こえたり、室内の家具が勝手に動くような現象が起きたりした。これにより、看護師たちは夜間の巡回を交代で行うようになったが、それでも恐怖をぬぐうことはできなかった。


 病棟内に置かれた時計は、時折狂ったように針が逆回りし、数秒後には何事もなかったかのように正しい時間を刻み始める。この現象を目撃した職員は、誰に相談することもできず、ただ恐怖を押し殺すしかなかった。さらに、隔離病棟の一室では、突然気温が急激に下がり、息が白くなるほど冷え込むこともあった。その部屋に入った職員は、何もない壁の向こうから視線を感じたと話し、二度とその場所に近づこうとはしなかった。


 これらの現象が重なるにつれ、病院内の雰囲気はますます異様なものへと変貌していった。それは単なる偶然や心理的な錯覚では済まされないほど頻繁に発生し、職員たちは次第に冷静さを失い始めていた。患者たちも異常な状況に拍車をかけるかのように、奇妙な行動をますます強め、病院内は恐怖と混乱に包まれていった。

 その最中、隔離病棟に厳重に収容されていた患者が突如として姿を消すという事件が発生した。患者の名前はカルテに「中野 真一」と記されており、病院内では最も症状が重い患者として知られていた。最後に目撃されたのは深夜の巡回中であり、監視カメラには特に異常が映っていなかった。部屋の施錠状況も確認されたが、鍵は内側からしっかりとかかっており、外部から侵入した痕跡は一切見られなかった。まるで彼の存在そのものが突然消え去ったかのように、ただ空っぽの部屋だけが残されていた。


 この失踪事件は、病院全体に衝撃を与えた。特に隔離病棟で勤務していたスタッフたちは恐怖に怯え、不安が伝染するように病棟全体に広がっていった。ある看護師は、事件直前に廊下で「誰かが自分を見ている気配」を感じたと語り、その気配が突然消えた後、静寂だけが残ったという証言をした。別のスタッフは「患者の囁き声が部屋の外まで聞こえた」と話しており、その内容は理解できない言語だったという。


 失踪した患者の部屋には不可解な痕跡が残されていた。壁や床には、何度消しても現れる奇妙な紋様が浮かび上がり、その形状はまるで暗号のようだった。スタッフがこの紋様を消そうと試みるたびに、どこかから冷たい風が吹き抜け、誰もいないはずの部屋から微かに囁き声が聞こえると報告された。この現象に対し、病院内のスタッフたちは、理論的な説明がつかないことに恐怖を募らせるばかりだった。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 失踪事件をきっかけに、患者たちの異常行動がさらに増幅していった。特に隔離病棟では、一部の患者が突然、床に伏して祈りのような行動を始め、他の患者たちもそれに倣うように低い声で何かを呟き始めた。この現象は、病院内で小さな宗教的コミュニティが形成されているようにも見え、スタッフたちはその異様な光景に困惑するばかりだった。


 このような状況の中、病院内の雰囲気はますます重苦しいものへと変わっていった。失踪事件が発生した夜以降、スタッフ間の会話は次第に短くなり、全員が何かを恐れているような沈黙が支配的になった。看護師たちは巡回を二人一組で行うように変更したが、それでも安心感を得ることはできず、むしろ互いの不安が増幅する結果となった。


 この事件を受け、病院の理事長である斉藤隆志は、重い決断を下した。書類の山に囲まれたデスクに座りながら、深いため息をつく。


「もうこれ以上、手に負えない…」

 小声で呟いたその言葉には、病院全体を覆う不安と絶望が凝縮されていた。電話機の受話器を取り上げると、彼はある人物に連絡を取るための番号をゆっくりと押した。


「小林先生、斉藤です。お久しぶりです。」

 彼の声には、微かな震えが混ざっていた。電話の向こうからは、穏やかだが力強い声が返ってきた。「斉藤さん、お久しぶりです。何かあったんですか?」


 斉藤は少しの沈黙の後、状況を説明し始めた。

「実は、ここ数日、病院内で異常な出来事が頻発していまして…。患者が行方不明になり、スタッフも目に見えないものに怯えています。普通の問題ではありません。」


 言葉を選びながら話す斉藤に、小林虎次郎は一言「わかりました。すぐに向かいます。」と答えた。その頼もしい声に、斉藤は少しだけ肩の力を抜いた。


 この病院は、表向きは通常の医療施設として運営されているが、裏では特異な患者たちと接する中でオカルト分野とも密接な繋がりを持っていた。精神異常者の中には、普通の病院では説明できない霊的能力や奇怪な行動を示す者が少なからずいる。こうした患者たちに対応するため、多くの精神病院は一部の専門家とのネットワークを築いていた。その一環として、退魔師の小林は過去にもこの病院の問題解決に貢献していた。


 しかし、そのことを知っているのは一部の医療関係者のみであり、心霊に関係するトラブルは、一般の人にはトラブルの存在すら知られることなく解決されていた。


 小林虎次郎は、神道系の退魔師として知られる存在であり、これまで数多くの霊的問題を解決してきた実績があった。


 その夜、小林は神社での儀式を終えた後、病院からの要請を受け取り、すぐさま支度を始めた。


「異常事態が発生している…か。」

 彼は独り言を呟きながら、神棚に向かって一礼をし、必要な道具を鞄に詰め込んでいった。その表情は冷静そのものだったが、目には決意の光が宿っていた。


 事情を知る一部の病院のスタッフたちは、彼の到着を心待ちにしていた。その一方で、表向きの医療に従事しているスタッフの多くは、不安を拭い切れない様子だった。


「本当にこういうことで解決するんだろうか…」と、ある医師が呟いたが、理事長は静かに言い返した。

「小林先生がこれまでに成し遂げてきたことを見れば、そう思わざるを得ない。」

 こうして、小林虎次郎の訪問が決まり、病院内の空気はほんの少しだけ安堵に向かいつつあった。



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