エピローグ
事件から数日後の朝、神宮寺遥は東京の神社で静かに掃除をしていた。静寂の中に響くのは、彼女が石畳を掃く音と、小鳥のさえずりだけだった。風が吹き抜けるたび、神社の大きな杉の木が揺れ、彼女の心に一瞬の安らぎを与えていた。
竹箒を手に持ち、落ち葉を丁寧に集めながら、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。澄んだ風が肌に心地よく、境内の静けさが彼女の心を少しだけ癒していた。
境内の鳥居をくぐるたび、あの夜の記憶が鮮やかに蘇る。失われた命、見過ごされていた罪、そして、組織内部の闇。それらは彼女にとって重い課題として胸に残っていた。袴姿の神宮寺は、白い袖をまくり、額に汗を滲ませながらも表情を曇らせていた。
「遥さん、朝から精が出ますね。」
背後から聞こえた声に振り返ると、明松真也が立っていた。彼はいつものように眼鏡をかけ、シンプルなシャツにジャケットを羽織り、手にはいくつかの資料が抱えられている。朝日に照らされた彼の顔はどこか柔らかさを帯びていたが、目元には深い疲れが見て取れた。
「おはようございます、明松さん。こんな朝早くにいらっしゃるとは思いませんでした。」
神宮寺は箒を置き、縁側の端に座った。彼女の白い足袋と深い青の袴が朝日に映え、清らかさを際立たせていた。彼女は袖口で額の汗を軽く拭いながら、隣を促すように手で軽く縁側を叩いた。
「考えないわけにはいきません。私たちが手を尽くしたとはいえ、多くの命が失われました。そして、今回の事件が明らかにした問題は解決どころか、さらに深まっています。」
神宮寺の声は静かでありながら、その裏には揺るぎない決意が感じられた。
明松は彼女の横に腰を下ろし、持っていた資料を足元に置いた。「それでも、世界を救ったのはあなたです。」彼は静かに言葉を紡いだ。「神代さんも今回の対応について高く評価しています。もちろん、神社勢力への追及は避けられませんが。」
神宮寺は一瞬、膝に手を置いたまま考え込んだが、やがて穏やかに頷いた。「神社勢力が責任を問われるのは当然のことです。しかし、それ以上に、この事件の本当の原因を追究しなければなりません。」
朝日がゆっくりと境内を照らし出し、彼女の袴が淡い陽光に包まれる。遥かな空に小鳥たちの鳴き声が響く中で、二人の間にはしばしの沈黙が流れた。
「遥さん、アスタロトの召喚が未遂に終わったことで、少なくとも大規模な被害は防げました。でも、ナベリウスの関与を含めて、これが本当に終わりなのか、誰にも分かりません。」
「分からないことが多すぎます。」神宮寺は小さく溜め息をついた。「80年前にナチスが試みたという召喚事件、それが今回の儀式にどう繋がっているのか。田村さんがどこまで知っていたのか。そして、あの病院で行われていた霊能力実験の真の目的…。」
明松は腕を組み、少し考え込むようにして答えた。「少なくとも、あの実験は完全に失敗というわけではなかったようです。患者たちの中には、確かに霊能力が増幅した者がいた。だが、それは必ずしも成功とは言えない犠牲を伴いました。」
神宮寺は縁側から立ち上がり、竹箒を再び手に取った。「私たちが行うべきは、このような犠牲を二度と繰り返さないこと。そして、真実を明らかにすることです。」
明松は彼女の背中を見つめ、微かに笑みを浮かべた。「その通りですね。ですが、今回の事件が他の勢力にも影響を及ぼすのは間違いありません。魔術師協会、バチカン、さらには海外の霊能力者たちも、この事件に注目しているはずです。」
神宮寺は手を止め、朝日に輝く境内を眺めた。「そうですね。今後は国際的な協力も必要になるでしょう。」
彼女の声には、新たな決意が宿っていた。その瞳には、清々しい朝の光が映り込んでいたが、その奥には燃えるような使命感が輝いていた。
「明松さん、これからも協力をお願いしてもいいですか?」
「もちろんです。」明松は微笑みながら答えた。「神宮寺さんの正義感にはいつも頭が下がりますからね。」
穏やかな笑みを交わし、明松は境内を後にした。新たな戦いが待っていることを知りながらも、彼らは一歩ずつ前に進む覚悟を固めていた。
その夜、神代蒼の端末に新たな異常事態の警報が届いた。
「また厄介な事件ね……。」神代は淡々と笑みを浮かべ、新たな計画に手を付け始めた。
次回予告:新たなる異界の呼び声――"第12836号怪異事件"
エピローグ その2
異界事件から数日後、田村一真は神社勢力の上層部が集う秘密会合に出席していた。会場は深い山奥にある古い神殿を改築した会議場。巨大な柱が並ぶ広間の中央には円形の石造りのテーブルが据えられ、その周囲に幹部たちが威圧的に並んでいた。室内は淡い灯籠の光が影を作り、不気味な静寂が漂っていた。
田村の服装は黒い羽織に白い袴という伝統的な退魔師の正装だった。彼は腕を組みながら隅の席に控えており、その表情は固く読めなかった。だが、その目には僅かな怒りの火花が宿っていた。
「結局、実験は失敗に終わった。しかし……得られた情報は少なくない。」議長の重々しい声が広間に響いた。「召喚の儀式と霊力強化のノウハウ、その両方が手に入った。これらは、我々のさらなる研究に役立つだろう。」
田村はその言葉を聞きながらも表情を変えず、視線をテーブルに落とした。その内心には、惨劇の現場を目撃した者としての苦い感情が渦巻いていた。
「人命を犠牲にして得られたノウハウを、あたかも成果のように語るとは……」彼は誰にも聞こえないような声で呟いた。
議長が彼の方へ視線を向けた。「田村、一言意見はあるか?」
田村は短く頭を下げた。「ありません。ただ、これ以上同じ失敗が起きないことを願うばかりです。」
「しかし、これ以上外部に情報が漏れるのは避けなければならない。」別の幹部が語気を強めて続けた。「特に明松真也と神代蒼。この二人の監視は徹底するべきだ。」
田村はゆっくりと立ち上がり、低く頭を下げた。「了解しました。しかし、あの二人がただの外部勢力ではないことは、皆様もご存知のはずです。」
会議室内に沈黙が広がる。幹部たちは互いに目を交わしながらも言葉を飲み込んだ。重苦しい空気の中、会議は静かに終了した。
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事件から数日後、明松真也は、東京郊外の静かな一角に佇む古びた洋館を訪れていた。その館は、周囲の近代的な建物群とは不釣り合いなほど時代を感じさせる外観で、真っ白な壁は風雨にさらされ、所々に苔むした跡が見られた。館の入り口には重厚な木製の扉があり、その中央には不可思議な紋章が刻まれている。
明松はその扉をくぐり、奥まった部屋に通された。部屋の中央には大きなオーク材の机が置かれ、背後には複数のモニターが並んでいた。それらには、異界事件の際に収集された膨大なデータが表示されており、数字や紋様が不気味に瞬いている。
神代蒼は、その机の向こう側に座っていた。彼女は、深い漆黒のローブに身を包んでおり、その袖口からは細やかな銀の刺繍が光を受けて淡く輝いていた。長い黒髪は丁寧に結い上げられ、その瞳は鋭い光を湛えている。
「神代さん、あの病院で入手した資料の調査結果、どうでした?」明松は対面の椅子に腰掛け、少し疲れた様子で尋ねた。彼の服装はいつもと変わらずシンプルで機能的なもので、ダークグレーのジャケットと黒いシャツを身に着けている。
神代は椅子にゆったりと身を預け、視線をモニターに向けたまま答えた。「さて、結論から言うとね。」神代の声が響いた。「神社勢力の霊能力強化研究は、古代南米の脳科学にすら遠く及ばないわね。彼らは非効率的で、脳に関する知識も断片的。結果的に、得られる霊力強化は一時的なものに過ぎないと推測されるわ。」
明松は軽く眉を上げながら肩をすくめた。「じゃあ、何十人もの命を犠牲にして、わざわざ危険を冒してまでやるようなことではなかった、と……」
神代は唇に手を当てて微笑んだが、その瞳には冷ややかな光が宿っていた。「魔術師にとってはね。彼らにとっては一定の進展があったでしょうけどね。」
そう言うと、彼女は左手を静かに持ち上げた。その手のひらから、黒く荊のような蔓が音もなく伸び出す。それは螺旋を描くようにして机の上のコンピュータに接続され、瞬く間にデータの流れが加速した。
「ただし、召喚が禁じられているアスタロトの霊体サンプルだけは別よ。あれがどれほど貴重なものか、あなたには分かる? あれだけで数百億円のかける価値があるわ」
「……質が悪いな、神代さん。」明松は苦笑を浮かべた。「……確かに霊体サンプルは希少ですが。まさか神代が裏で糸を引いているなんてことないですよね」
神代は楽しげに笑いながら首を振った。「そんなことあるわけないでしょ。第一、私ならもっと上手にやるわよ。」
「確かにそうですが、もはや、神社勢力を非難できる立場じゃないですよね。」
「そうかしら?少なくとも私は、全世界にとっての脅威を封じ込めるために動いている。今回の件で、アスタロトの存在を利用する新たな術式の可能性が見えてきたのも事実よ。」蔓を収めると、再びモニターに表示された解析データを指し示した。
明松は眉間に皺を寄せながら、スクリーンに映るデータをじっと見つめた。「それを利用することがどれほど危険かも理解していますよね?」
「もちろん。」神代はモニターを操作し、解析中のデータを指し示した。「でも、その危険性こそが価値なのよ。魔術師協会としては、どんな力にも対応可能にする。それが私たちの役目。」
明松は苦笑しながらも、スクリーンに映るデータに視線を向けた。未知の紋様やエネルギー反応が解析され、AIにより次々と新たな仮説が立てられていた。
「その考え方自体が危険なんですよ。……相変わらず、倫理観はないですね。」明松は軽くため息をついた。「まあ、あなたが何かを企んでいるのは今に始まったことじゃないですけどね。」
「安心して、明松君。私は神宮寺さんに迷惑をかけるつもりはないわ。」
神代は微笑を浮かべた。
「倫理なんて、脅威を封じ込める力の前には二の次よ。私たち魔術師協会は、常に一歩先を見据えて動いているだけ。」
神代の言葉を聞きながら、明松はデータの残るスクリーンに目を向けた。アスタロトの霊体サンプルと記された項目が、デジタルで整然と並んでいる。
「一歩先、ね……」明松は短く息を吐き、低い声で言った。「その一歩が世界を壊すものにならなければいいですが。」
部屋に微かな緊張感が漂う中、神代の唇は意味深な微笑を湛えていた。
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同じ夜、夜の静けさが境内を包み込んでいた。月明かりが神社の鳥居や石畳を優しく照らし、大きな杉の木々が風に揺れる音だけが耳に響く。白砂の敷地には、ほのかな露が光り、どこか幻想的な雰囲気を漂わせていた。
神宮寺遥は一人、境内の中央で刀の手入れをしていた。彼女の服装は伝統的な巫女装束だが、動きやすさを考慮してやや現代風にアレンジされている。純白の長襦袢の上に、鮮やかな赤い袴を纏い、その上から薄い羽織を羽織っていた。その姿は凛々しくもあり、神々しさを漂わせていた。
彼女の手元には愛用の日本刀があり、月明かりに照らされてその刃が鈍く光を反射している。刃を布で丁寧に磨くたびに、かすかな音が夜の空気に溶けていく。彼女の表情は穏やかでありながら、その瞳には強い決意が宿っていた。
「守るべきものを見失わないように……それが私の使命。」
彼女は独り言のように呟き、磨き終えた刀をゆっくりと鞘に収めた。
境内に吹く冷たい風が彼女の髪をそっと揺らし、夜空を見上げる彼女の頬を優しく撫でた。星々が満天に輝き、次なる試練を予感させるような静けさが辺りを包んでいた。




