プロローグ 第12815号怪異事件ファイル:西多摩郡精神病院異界事件
澄み渡る秋の夜空に、満月が浮かんでいた。月明かりは柔らかく、その光がやくざの屋敷を淡く照らし出している。屋敷は東京都心の一等地に位置し、外から見れば豪華な建物だが、その内部には不穏な空気が漂っていた。腐臭が染みついた空気は、長年続けられてきた違法な商売や脅迫が作り出したものだ。やくざたちは、自らの罪深い行いを顧みることなくむしろ誇らしげに、夜更けまで酒を酌み交わしながら金のやり取りをしていた。
屋敷の大広間では、数人の男たちが高級な座卓を囲みながら、盃を交わしていた。床には見事な彫刻が施された畳が敷かれ、その柔らかな感触が緊張感をわずかに和らげているようだった。天井には木製の梁がむき出しになっており、その一つ一つに丁寧な彫り物が施されている。壁には巻物が掛けられ、風景画や達筆な書が和の趣を醸し出していた。薄暗い灯りをともす行灯が部屋の隅々を照らし、静けさの中にも不気味な影を落としている。男たちは座布団に腰を下ろし、刺身や漬物の入った器を前に置いていたが、その表情には不安が滲んでいた。最近、奇妙な噂が流れ始めていたのだ。取引相手が突然行方不明になったり、誰かが「黒い影」を見たと口走ったりすることが増えていた。
『怪異』
金と暴力のやくざの世界は「怪異」と無縁ではない。やくざの世界は、恨み、つらみ、妬み、死とは隣り合わせだ。彼らは本能的にその不気味さを感じ取っていた。
「なんだ、この空気…妙に寒くなってきやがった…」一人が呟くと、他の男たちも不安げに周囲を見回した。
その瞬間、空気がまるで地獄の底から吹き上げるかのように冷たくなった。温度が急激に下がり、まるで何かが近づいていることを示すかのようだった。やがて、異様な静寂が辺りを支配し始め、誰もが言葉を失った。男たちは慌てて銃を構え、周囲を警戒し始めたが、その異常さに対処できるはずもなかった。まるで時が止まったかのような静けさの中、彼らの背筋には冷たい汗が流れていた。
次の瞬間、黒い霧が床から、壁から、そして天井から湧き上がり始めた。最初は小さなもやのようだったが、次第にその霧は形を成し、徐々に人型の影が浮かび上がってくる。黒い影たちは音もなく現れ、暗闇の中で蠢いていた。
「こ…これ、何だ?」声が震える男が銃を引き金にかけ、恐る恐る影に向けて発砲した。銃声が屋敷に響き渡るが、弾丸は黒い霧を通り抜け、まるで効果がないかのように無音のまま消えていく。
「弾が…効かねぇ!」誰かが叫ぶが、男たちは一斉に銃を乱射し始めた。銃声が響き渡り、弾丸が壁や家具を砕いたが、黒い影たちには一切影響がなかった。霧はまるで無尽蔵に現れ、次第に形をはっきりとしながら近づいてくる。
「逃げろ!」誰かが叫んだ。しかし、恐怖で足がすくみ、誰もその場から動けない。
黒い影は無音で動き出し、次々とやくざたちを襲い始めた。その動きは冷酷で、容赦なかった。影が近づくたびに、男たちの体は黒い霧に包まれ、肉体が引き裂かれる音が響いた。悲鳴が空間を満たし、血しぶきが豪華な家具や壁に飛び散る。だが、恐怖に囚われた男たちはもはや逃げることもままならなかった。
「た、助けてくれ!」一人の男が床を這いながら逃げ出そうとしたが、黒い影が彼の背後から忍び寄り、その体を引き裂いた。彼の叫び声はすぐに途絶え、冷たい静寂が再び戻ってきた。
「俺たちは…終わりだ…」誰かがつぶやいたが、その声もまた黒い霧に飲み込まれた。
影たちは音もなく動き続け、残った男たちに向かってじりじりと迫っていった。逃げようとするやくざたちの動きは、恐怖に縛られたかのように鈍く、まるで体が重くなったようだった。動けないまま、彼らは次々と黒い霧の中に消えていき、その姿は二度と戻らなかった。
やくざたちの運命が、ここで終わりを迎えることは避けられなかった。その運命は、まるで彼らが長年犯してきた罪の代償のように、容赦なく押し寄せていた。
その時、一人の影が屋敷の門前に立っていた。神宮寺遥である。彼女の姿は月光の下で際立ち、冷たい石畳に反射する銀色の刃と共に、暗闇の中で静かに立っていた。神宮寺は無言のまま、目の前で繰り広げられる血生臭い惨劇を見つめていた。彼女の長い黒髪はポニーテールに結ばれ、月明かりを反射するその髪は、戦闘時には邪魔にならないようしっかりと束ねられている。彼女の顔立ちは清楚で整っており、静かで冷徹な表情を浮かべていたが、その瞳には一切の揺らぎがなかった。彼女の細身の身体は、鍛え抜かれた筋肉と武術の技術に裏打ちされ、まるで獲物を狙う虎のように静かでありながら、圧倒的な力を感じさせる。
神宮寺の装束は、黒を基調とした戦闘服で、軽量ながらも身体の動きを最大限に引き出すように設計されていた。腰に差した鞘には、神社から受け継いだ伝統の日本刀が収められている。その刀は、ただの武器ではなく、神聖な力を宿す霊力を帯びた存在であり、彼女の手によって怪異を断ち切る力を持っていた。
彼女はゆっくりと屋敷に足を踏み入れた。無残に倒れていくやくざたちの姿は、彼女にとっては何の感慨も引き起こさなかった。彼らが悪行を重ねた末に迎えた運命に過ぎない。神宮寺は冷静に状況を見極めながら、無言で歩みを進める。そこに立ち込める黒い霧がまるで彼女の存在を試すかのように蠢いていたが、彼女の一歩一歩は迷いなく、静かに、しかし確実に屋敷の中枢へと近づいていった。
その時、黒い霧がまるで察知したかのように形を変え始めた。霧はゆっくりと渦を巻きながら凝縮し、やがて人型の影を成し始める。その姿は一瞬ごとに異形へと変化し、不規則に伸び縮みする腕や、はっきりしない顔の輪郭が見る者に強い不安感を与えた。霧から漂う冷気は辺りの空気をさらに重くし、まるで空間そのものが怪物の気配に圧倒されているかのようだった。無数の黒い影が、音もなく、静かに神宮寺に向かって進んできた。彼女はその光景を目にしても微動だにせず、ただ刀の柄に手をかけ、鋭い目で敵を見据えた。
「出てきたか…」
彼女の言葉に応えるように、黒い影が襲いかかる。その瞬間、神宮寺の体が一瞬で加速し、刃が風を切った。月明かりの下で光る刀は一閃、そして二閃。彼女の動きはまるで舞を踊るかのように流麗でありながら、致命的だった。刃が黒い影を切り裂くたびに、霧は無音のまま消散し、怪物たちは跡形もなく消え去っていく。
「無駄な抵抗だ…」
神宮寺は冷ややかに呟き、さらに一歩踏み込んだ。襲いかかる影たちは、一切の感情を持たない無機質な存在であり、その動きには目的以外の意図はなかった。だが、神宮寺の目にはそのすべての攻撃が読み取れていた。彼女は怪物の動きを先んじて見切り、その刃を正確無比に振るっては、一撃で影を消し去っていく。
一振り、二振り、神宮寺の剣技は鮮やかであり、まるで予測していたかのように全ての動きを対処していた。彼女の刃が敵を切り裂くたびに、黒い霧は無に帰し、その跡には静寂だけが残る。次々と襲いかかってくる雑魚怪物たちも、神宮寺の一閃によっていとも簡単に断ち切られ、彼女の進路を阻むものは何もなかった。
影が集まり、黒い霧が再び彼女の周囲を取り囲む。しかし、彼女の瞳には一切の動揺が見えない。冷静に、そして確実に一つ一つの怪物を斬り倒していく神宮寺。その剣技はまさに熟練の域を超え、誰も彼女を止めることはできない。
やがて、黒い霧は神宮寺の圧倒的な力に抗うことなく、次々と消えていった。まるで彼女の前に立ちはだかるものがすべて無力であるかのように、怪物たちは斬り倒され、静かに消滅していった。
「ここで終わりではない…」
神宮寺は鋭い視線でさらに奥へと進む。彼女の背後には、黒い霧と共に消え去った怪物たちの残骸すら残っていなかった。
しかし、それは序章に過ぎなかった。
突然、屋敷の天井が轟音と共に崩れ落ち、瓦礫が四方に飛び散った。神宮寺が瞬時に見上げると、そこには黒い影の巨人が現れた。8メートルを超える巨大な姿は、屋敷を一瞬で暗闇に包み込むほどの威圧感を放っていた。空気は一気に重くなり、恐怖と寒気が場を支配し始める。周囲の温度が急激に下がり、まるで空間そのものが凍りついたかのような異様な雰囲気が漂っていた。
巨人は異形の姿をしていた。無数の手がその体から生え、目は血のように赤く輝いていた。巨大な体躯は天井を突き破り、崩れた瓦礫の下から、庭までを覆うほどの存在感を誇っている。黒い霧が巨人の体から放出され、その霧が周囲をさらに暗く染めていった。
神宮寺遥はその巨人の姿を目の当たりにしても、微塵も動じることなく、刀を構え直した。彼女の瞳は静かに巨人を見据え、その瞬間にも冷静に次の動きを計算していた。巨人は咆哮を上げ、空気を震わせる。まるで怒りそのものが具現化したかのような叫び声は、屋敷の壁を揺るがし、床を砕いた。だが、神宮寺の表情は変わらない。彼女は静かに息を整え、一歩、また一歩と間合いを詰めていった。
次の瞬間、巨人はその無数の手のうちの一つを振り下ろしてきた。その一撃はまるで空間ごと引き裂くかのような速度と力を伴っていたが、神宮寺は冷静にその攻撃を見切り、軽やかに身を翻して回避する。そして、その瞬間を逃さず、反撃に転じた。
「これで終わらせる…」
神宮寺は一瞬の隙を見つけると、鋭く刀を振りかざし、巨人の腕に深々と切り込んだ。彼女の一刀は確実に巨人の体を斬り裂いたが、巨人はただ倒れることはなかった。むしろその傷口から黒い霧が勢いよく噴き出し、さらに攻撃を激化させてきた。巨人の怒りが一層増し、無数の腕が次々と神宮寺に向かって振り下ろされる。彼女はそのすべての攻撃を空中を駆けるように軽やかに回避し、時には跳び回りながらも冷静にカウンターを狙った。
巨人の猛攻により、屋敷の床は次々に砕け、壁は崩れ落ち、屋敷全体が徐々に崩壊していった。庭もまた、瓦礫と巨人の攻撃で半壊状態となり、かつての豪華な屋敷の面影はもはやなかった。
だが、神宮寺は一瞬の迷いも見せることなく、目の前の敵に集中し続けた。彼女の剣筋は鋭く、巨人の体に次々と深い傷を刻み込んでいく。毎回の攻撃で巨人の体が揺れ、赤い目が痛みに震える。神宮寺は巨人の動きを冷静に読み取り、その攻撃に合わせて鋭い一撃を叩き込む。彼女の動きは緻密で、無駄がなく、一つ一つの動作が正確無比だった。
やがて、巨人の動きが鈍くなり、神宮寺は最後の一撃を放つために大きく跳躍した。月明かりを背にしながら、彼女は高く舞い上がり、巨人の首元に向かって渾身の一刀を振り下ろす。その瞬間、鋼の刃が巨人の首元に深々と突き刺さり、その巨体が大きく揺れた。
巨人は大きな咆哮を上げながら、その体が崩れ落ちていった。屋敷全体が震える中、神宮寺は静かに地面に降り立ち、深い息を整えた。彼女は一瞬も気を抜かず、巨人が完全に消滅するまでその場を離れなかった。
やがて、巨人の体は完全に霧散し、黒い霧と共に消え去っていった。静寂が再び屋敷に戻る。神宮寺は、勝利を確信したようにゆっくりと日本刀を鞘に収めた。その動作は冷静で、まるで戦いが日常の一部であるかのようだった。
周囲を見渡すと、屋敷はもはや見る影もなく、瓦礫と崩れた壁が散乱している。床には無数の亀裂が走り、庭は荒れ果てていた。静寂が戻ったその場所には、ただ倒された怪物たちの残骸だけが残っていた。
神宮寺の衣服は、その激しい戦闘を物語っていた。血と埃にまみれ、彼女の姿は戦士そのものだったが、表情には疲れや焦りは一切なかった。
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静まり返った屋敷には、もはや動く者はいなかった。
屋敷の庭は、戦いの痕跡を如実に物語っていた。瓦礫が乱雑に積み重なり、壁は無惨に崩れ落ち、地面には大きな亀裂が走っていた。庭木は根元から引き裂かれ、折れ曲がった枝が風に揺れている。静寂が戻ったその場所に、血まみれの神宮寺遥が立ち尽くしていた。彼女の瞳はまだ鋭く、体は完全に戦闘モードから抜け切っていないが、静かにその場を見つめていた。
戦いの余韻が残る中、神宮寺は自分の腕や衣服に飛び散った血を見て、深く息を吐いた。戦いは終わったとはいえ、その代償は大きかった。屋敷は半壊し、庭もまた荒れ果ててしまっている。神宮寺の身体にも激しい戦闘の痕跡が刻まれていた。流れた血が皮膚にこびりつき、埃と汗が混ざり合っている。その姿は、まるで生還した戦士そのものだったが、彼女の表情には微かな疲労感が漂い、戦闘後の反省の色が浮かんでいた。
「やりすぎたかもしれない…」
ふと、神宮寺の脳裏にそんな思いがよぎる。戦いの中で無我夢中であったものの、こうして振り返ってみると、自らの手で巻き起こした破壊が目に映り、その代償の重さを感じざるを得なかった。怪物たちは消え去り、やくざたちもほぼ全滅状態だが、この状況を誰がどのように受け止めるかは、彼女にとって重要な問題ではない。ただ、任務を遂行することが彼女の役割だった。
しかし、戦いは終わった。神宮寺遥は呼吸を整え、荒れ果てた屋敷と自分の血にまみれた姿を一瞥する。無言のまま、日本刀を静かに鞘に収めると、彼女はポケットからスマホを取り出した。画面に映る神社の連絡先に指を滑らせ、即座に連絡を入れる。画面越しに神社の担当者が応答するが、彼女は冷静な声で要件を告げた。
「こっちは片付いたわ。怪物はすべて討伐、屋敷の状況は…半壊といったところね。被害は甚大。詳細な報告は後でするわ。」
画面の向こうから短い返事が返ってくるが、神宮寺はそのまま通話を切り、スマホをポケットに戻した。無駄のない、冷静な報告。しかし、その背後には疲労と戦いの重圧が潜んでいた。
「やれやれ…また修理費用が嵩むわね」と、彼女はため息をつく。
屋敷の残骸の中で、ようやく戦いから解放されたが、心に浮かぶのは次の課題だった。彼女は周囲を見渡し、瓦礫の山と崩れ落ちた壁の無残な姿に眉をひそめた。こんなに破壊しなくても済んだのではないかという反省の思いが、ふと頭をよぎる。しかし、後悔しても遅い。
「まあ、怪物を止めるためには仕方なかった…ってことにしておこう。」
神宮寺は屋敷の外へとゆっくり歩き出し、冷たい夜風が頬を撫でるのを感じながら、少しだけその場に立ち止まる。まだ戦いの興奮が体内に残っているが、彼女はいつもの冷静さを取り戻そうとしていた。これまでに幾度も繰り返されてきた、戦いの後の静寂。その感覚は、まるで嵐の後の穏やかな波のようだった。
迎えの車が来るまで、彼女には少し時間があった。神宮寺は瓦礫の山に腰を下ろし、しばし月明かりの下でぼんやりと空を見上げた。遠くでうっすらと夜明けの気配が感じられ、空が少しずつ薄明るくなり始めていた。
「こういう時間、あまり好きじゃないのよね…」
神宮寺は独り言をつぶやき、戦闘から解放されたばかりの自分の内面に向き合う。その静けさと、身体に残る戦いの余韻。その感覚が、戦士としての自分と、普通の生活を夢見る自分との間で、わずかな揺らぎを生んでいた。
迎えの車が静かに止まり、ベテラン運転手が神宮寺に向けてドアを開けた。彼女は何事もなかったかのように無言で車内に乗り込むが、その表情には戦いの疲労が微かににじんでいた。車のドアが静かに閉まり、ふかふかのシートに体を沈めると、神宮寺はふうっと小さくため息をついた。車内の冷気が、戦闘で熱を持った体を心地よく冷やしていく。
「お疲れ様でした、いつもより少し早かったですね。」運転手の落ち着いた声が静寂を破る。彼は神宮寺の長年の付き合いのあるベテラン運転手で、彼女の戦いの裏側もある程度は理解している数少ない人物だ。
「ええ、少しだけね。でも…」
神宮寺は言葉を一瞬濁し、窓の外へ視線を向けた。夜の街並みが流れていく。「少し派手にやりすぎたかもしれないわ。」
「そうですか。まあ、結果オーライということで。」
運転手は微笑を浮かべながら、特に深く突っ込むことなく会話を流す。こうしたやり取りも、彼らの間ではすでにお決まりのパターンだった。
神宮寺は静かに制服へと着替えを始める。戦闘で汚れた服を脱ぎ捨て、身軽になった彼女の体は、少しずつ戦いの余韻から日常へと戻っていくように感じられた。血の染み付いた服と日本刀をそっと横に置きながら、彼女の思考はふと普段の生活へと移り始めた。
「みんな、今頃何をしてるんだろう…勉強でもしているのかな」
ふと、神宮寺の脳裏に友人たちの顔が浮かぶ。普通の学生が過ごす普通の日常、それを手に入れるのは、神宮寺にとっては夢のような話だ。彼女は戦いの中で生きる運命を背負っている以上、そうした「普通の生活」に完全に戻ることはできない。それでも、その瞬間だけでも、彼女はその「普通さ」を少しだけ感じることができた。
「大学、どうするかな…」
神宮寺は心の中でつぶやいた。戦いの合間に、普通の高校生としての生活を送ることは、いつも容易ではない。友人との会話や部活動、試験の勉強、それらすべてが彼女にとっては別世界のように思える。今日のように、戦いが思いのほか早く終わることもあれば、徹夜で任務をこなすこともある。そうなると、当然学校に出席するのも難しくなる。
「両立なんて無理よね、正直…」
彼女は窓の外の夜明け前の空を見つめながら苦笑いを浮かべた。もし自分が普通の学生だったら、こんな風に夜中に戦いに出ることなく、もっと勉強に専念できただろう。
「キリスト教だったらね、もうちょっと楽だったかも。でも、私が神社の家に生まれたからには仕方ないか。」
神宮寺は軽く肩をすくめた。
運転手はそんな彼女のつぶやきを聞きながらも、特に何も言わず、穏やかに運転を続けていた。彼女がこの仕事と学生生活を両立させることが、どれほど大変かを知っているが、同時にそれを口に出すことは避けていた。
車窓から見える街の風景は徐々に明るくなり始め、夜明けが近づいているのを感じさせる。神宮寺はその光景を見つめながら、友人たちとの何気ない会話を思い返していた。彼女にとって、それは非常に遠い存在だった。学校で友人たちが話す恋愛話や、次の試験の勉強についての悩みは、どれも彼女の今の生活とはかけ離れたものだ。
「まあ、両立が大変なのは当たり前か。」
神宮寺は自分自身に言い聞かせるように小さく呟き、気持ちを切り替えた。戦闘も、学校生活も、すべてが彼女の運命の一部なのだと。そして、そのすべてを自分なりにこなしていくしかない。
「でも…たまには、もう少し楽な道もあっていいんじゃないかな。」
彼女は再び窓の外を眺めながら、そう呟いた。
車はやがて、彼女の自宅に近づいていく。神宮寺は、心の中で静かに次の任務と学校生活のバランスを考えながら、現実へと戻るための短い時間をかみしめていた。
神宮寺が窓の外の景色をぼんやりと眺めていたとき、突然、スマホが振動し、冷たい電子音が車内に響いた。深くため息をついて、彼女はスマホを手に取る。画面には、実家の神社からの通知が表示されている。いつものことだと分かっていても、また新たな依頼が来ると思うと、心が少し重くなる。
「今度は何だろう…」
指先でスライドして通話に出ると、父親の声が耳に飛び込んできた。その声には慌ただしさがあったが、長年の経験から来る冷静さも感じられた。
「遥、また頼むことになってしまって悪いな。お前にはいつも無理をさせてしまって…」
父親は一瞬言葉を詰まらせた後、話を続けた。「西多摩郡の精神病院で異常事態が起きている。退魔師たちが派遣されたが、行方不明者が出ている。これ以上犠牲者を増やすわけにはいかない。どうしてもお前の力が必要なんだ。」
その声には、どこか申し訳なさを含みつつも、娘への信頼と期待が滲んでいた。神宮寺は深く息を吸い、父親の気持ちを受け止めるようにうなずいた。
「…怪物の出現は確認されてるの?」
「そうだ。怪物の影響で病院内が混乱している。患者たちの状態も悪化していて、現場のスタッフもパニックだ。頼れるのはお前だけなんだ。」
父親の言葉には、娘を頼らざるを得ない苦悩が滲んでいた。それでも、彼は自分の頼みがどれだけ大変なことかを理解しており、その上で遥に頼むしかない現実に胸を痛めているようだった。
「わかった。すぐに行くよ。」
神宮寺は短く返事をし、電話を切った。彼女の表情が少しだけ引き締まる。家族としての温かい信頼と、退魔師としての使命感が交錯する中、遥は静かに決意を固めた。
「精神病院か…複雑なことになりそうね。」
これまで何度も怪物を退治してきたが、精神病院という特殊な環境での異常事態は一筋縄ではいかない。何が待ち受けているのか、具体的な想像もつかないまま、次の戦闘に臨む準備を心の中で整え始めた。しかし、彼女の心には、やはりわずかな重みが残っていた。やくざの屋敷での戦いが終わったばかりで、まだ疲労が体に残っている。それでも、再び戦場に赴かなければならない。
「忙しすぎる!お小遣い、増やしてもいい頃じゃない?」
彼女は苦笑いを浮かべつつ、つい声に出してしまう。運転手がちらりとバックミラー越しにこちらを伺っているが、特にコメントを挟むことはなく、穏やかに車を走らせている。
「ったく、怪物の討伐はともかく、どれだけ続けても報酬は変わらない。おかしいでしょ、これ。」神宮寺はスマホを手にしながら、これまでの任務と、それに伴う報酬のアンバランスさを思い出していた。神社での務めは確かに崇高なものだが、現実的な報酬が伴わなければ、いくら強力な退魔師とはいえモチベーションが落ちるというものだ。
車は静かに走り続け、西多摩郡に向かっている。精神病院での異常事態。やくざの屋敷での事件が終わったばかりだというのに、すぐに次の戦いが待っていることに対して、神宮寺の心は少しだけ重くなっていた。身体はまだ疲れが抜けていない。戦闘が終わったばかりで、もう少し休息が欲しかったというのが本音だ。しかし、退魔師としての使命を果たさなければならないのはわかっている。
「こんなペースじゃ、いくら私でも限界が来るわよね。」
神宮寺は、窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めながら、次の戦いへの心構えを整えていた。西多摩郡の精神病院で何が起きているのか。これまでの任務以上に厄介な怪物が現れることは確実だ。そして、それに立ち向かうのは自分しかいない。
「はあ…学校のこともあるし、もっと計画的にいかないと…」
彼女は心の中で、自分にしか分からないような苛立ちを感じながらも、すぐに気を取り直した。退魔師としての覚悟を持ち続けている限り、どんな状況でも冷静に対処しなければならない。神宮寺はスマホを再びポケットに戻し、もう一度深呼吸をしてから目を閉じた。忙しさに対する愚痴は一旦置いておき、今は次の任務に集中するしかない。
「よし、やるしかないか。」
彼女の声には、決意とわずかな不満が混じっていたが、それでも神宮寺は冷静な心を取り戻していた。
車内の静寂を破るように、再びスマホが振動した。神宮寺遥は、眉間にわずかな皺を寄せながら、スマホを手に取り画面を確認する。今回の通知は、神代蒼からのものであった。
神代蒼――魔術師協会に属する電脳の魔女として知られる彼女は、神宮寺にとって重要なパートナーであり、時には仕事上のライバルでもあった。
神宮寺はその名前を見て、直感的に「やはり」という気持ちがこみ上げてきた。魔術師協会の動向が常に自分の活動に影響していることを、彼女は十分に理解していたからだ。
神代蒼のメッセージを開くと、簡潔ながらも核心を突いた内容が表示される。
「明松真也が今回の事件に派遣される。現地で合流することになるだろう。」
神宮寺は思わず苦笑を浮かべた。
「タイミングが良すぎる…」と呟きながら、スマホを手の中で回し、天井を見上げた。
明松が現場に派遣されるということは、魔術師協会が事態をかなり深刻に受け止めている証拠だ。彼が派遣されるということは、表向きの協力を装いながらも、彼女自身を監視する意図が含まれているのも明白だった。
神宮寺は何度も明松と一緒に任務をこなしてきた。そのため、彼の能力には信頼を置いている。冷静で緻密な観察力、そして彼の霊能力は、今回のような精神的異常が関わる事件では特に役立つだろう。だが、問題は明松個人ではなく、彼の背後にある魔術師協会だった。神社勢力と魔術師協会の間に横たわる深い確執は、どこまでも神宮寺の心に重くのしかかる。
神宮寺は深いため息をついた。
「またか…」
彼女は自分が一体どちらの組織に忠誠を誓っているのか、時折わからなくなることがあった。神社勢力に属し、退魔師としての任務を遂行しながら、彼女は魔術師協会との協力も余儀なくされる。だが、それがどれだけ心を消耗させるかは、彼女自身にしかわからない。
運転手がバックミラー越しに彼女を見て、少し気を遣うように声をかけてきた。
「また、神代様からですか?」
神宮寺は軽く頷き、淡々と答える。
「明松が来るってさ。」
運転手は少しだけ驚いたように目を見開いた。
「彼が来るとなると、今回の事件も相当厄介なもののようですね。…ま、彼がいれば少しは安心かもしれませんが。」
「そうね。でも、私たち神社勢力と魔術師協会の関係がね…」神宮寺は言葉を濁しながら、深く息をついた。彼女の頭には、明松との共同作業が過去に何度も問題なく終わったことが思い出されるが、それでも互いの組織間の緊張感が常に影を落としていた。
西多摩郡の精神病院で何が起きているのか、その詳細はまだ完全には明かされていない。明松との再会が、どのような形で事件を展開させるのか、彼女の中で疑問が広がりつつも、やがてそれは次第に高まる緊張感へと変わっていった。
単なる怪物の討伐では済まない可能性が高かった。何かもっと大きな力が背後に潜んでいるのではないか、という考えが彼女の頭の中で次第に膨らんでいく。
再びスマホを握りしめ、神宮寺は小さくつぶやいた。
「やっぱり、今回も厄介なことになりそうだな…」
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グーグルドキュメントで書いたんだけど。どうやらページ数を完全に間違えたようだ。アップして縦書きで見ると、想定の3倍から4倍の頁数。道理で書いても書いてもページ数が増えないわけだ。文字数をちゃんとカウントすべきだったな・・・・反省。