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子爵令嬢と公爵令息の下町実習

「はぁ……」



 子爵令嬢テラコッタ・ライラックは今日何度目か分からない憂鬱な溜息をついた。

 ため息の理由はここ、王立貴族学院の卒業試験が間近に迫っていることにある。



「ちょっとテラコッタ、また溜息?そんなに実習が嫌なら私と替わってくださらない?」

「そのセリフ、色々な方から聞かされすぎて嫌になってるところよ」



 この学園の卒業認定試験には実習試験も含まれるのだが、試験自体が嫌で憂鬱になっているわけでは決してない。



「あら、噂をすればお相手があそこにいらっしゃるわよ」



 友人のモルガナが私の肘を小突いて指した先には、学園の成績最優秀者だけが身に着けることを許された真紅の内張がされたローブをたなびかせた見目の良い長身の青年がいた。


 この青年、サイラス・パルトグラム公爵令息こそ私の憂鬱の元凶だった。


 この実習試験は男女二人一組になって平民に扮し、下町の人間に交じって働く労働実習だ。


 普段必要が無ければ男子生徒と話すことすらないテラコッタは、教師がランダムに決めた実習の相手がサイラスという人物だと聞いたときは「聞いたことがある名前だけど誰だったかな」と思ったものだが、ペアの告知がされると、この人物がかなりの有名人だということを嫌でも思い知らされた。



「はぁ、羨ましいわ。あのサイラス様と10日間も一緒にいられるだなんて。私のペアもあれぐらいイケメンだったらよかったのに」

「あら、ミルトはもう婚約者がいるでしょう?」

「憧れるぐらいいいでしょう?あぁ、テラコッタが羨ましいわ」

「本当よねぇ」

「そんなに評判の良い公爵令息なら婚約者のひとりぐらいいるはずでしょう?お相手の恨みを買わないか心配だわ」

「噂ではいらっしゃらないそうよ、なんでも在学中は勉学に集中したいのだとかで」

「だからこそ!この卒業に向けて人気が高まっているのよ」

「あぁ、どんな方が好みなのかしら……」



 イケメンとペアになりたかったと愚痴をこぼすもう一人の友人ミルトにすかさずツッコミをいれたモルガナだったが、2人してうっとりとした目でサイラスを目で追っている。


 どうやらこのサイラスはその端正な見た目と優秀さで学園の令嬢たちを虜にしているらしい。ミルトのような既に特定の相手のいる者も例外ではないあたり、ある種アイドル的な人気を博しているようだった。


 実際、ペアの告示以降、直接ペアを代わってくれと言ってくる令嬢などはまだ可愛い方で、陰湿ないじめの一歩手前のようなことを仕掛けてくる者も少なくなかった。



「テラコッタはまだ婚約者がいらっしゃらないのでしょう?チャンスではありませんこと?」

「チャンスって、私は一介の子爵令嬢で、あちらは主席卒業も当確と言われる公爵令息様よ?相手にされるわけないんだから、期待するだけ無駄だわ」

「あらご存じありませんの?この実習でペアになる男女は恋仲になることも多いのだそうよ?」

「あぁ、実習を二人で乗り越えて恋仲になるだなんて、なんてロマンチックなんでしょう」

「汗を流して働かなければならないのだから、そんな浮かれたこと言ってられないわよきっと」

「もう、テラコッタはクールでドライなんだから」



 実習での恋仲伝説は他に何例もあるらしく、2人は嬉しそうに過去の実習での恋物話に花を咲かせているが、私の憂鬱は募る一方だ。


 学院側が決めたペアを勝手に変更することが出来ない以上、格上貴族の足を引っ張らないようにするかを考えるだけで正直私には精いっぱいなのだ。



「はぁ……」

「ちょっとテラコッタ、大変よ!溜息なんてついてないで、ほら!」

「え?」



 2人は何を慌てているのだろうかと思ったが、彼女たちの視線の先に、まっすぐ私たちのいる東屋に向かってくるサイラス・パルトグラム公爵令息その人がいることに気づき、私の背筋は無意識に硬直した。



「そなたがテラコッタ・ライラック嬢だろうか」

「はい、私でございます」

「今度の実習でペアにあるサイラス・パルトグラムだ。よろしく頼む」

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」



 サイラスが私たちのたむろする東屋に来たことで、一体何事かと聴衆が東屋の周りに集まり始めていた。


 普段慣れない好奇の目が痛いほど自分に向けられているのを感じ、背中を嫌な汗が滝ように流れているが、そんなことを露ほども悟られぬよう表情を取り繕う。



「そうかしこまらないでくれ。実習先は当日まで分からないが、かなり大変なものだと聞いている」

「はい、サイラス様の足を引っ張らぬよう努力いたします」

「いやいや、あなたも随分優秀だと聞いている。こちらも足を引っ張らぬよう尽力するとしよう。では」



 サイラスが去ると、どっと疲れたような気分になった。面と向かって話をするのは初めてだったが、確かに皆が騒ぐのも分かるような好青年だった。


 恋愛に興味のない無害な朴念仁に見えるよう努めて淡白に接したつもりだが、これでも周囲からの嫌がらせは加速するにちがいない。



「はぁ……」



 私は再び大きなため息をついたのだった。



―――――



「次!3番テーブルだよ」

「はい!」

「おーい、こっち注文まだか?」

「はい、すぐ伺います!」



 数日後、私たちは下町実習の受け入れ先である王都で一二を争う人気の大衆食堂『パープルラック』で汗を流していた。


 このパープルラックは二つの大きな街道が交わる王都で最も人と物の行き来の多い通りに面しているため、昼時は文字通り目の回るほどの忙しさだった。



「テラ、これを先に持って行っておくれ、零すんじゃないよ!」

「はい!」

「サイスはこれを頼むよ」

「はい、こっちもついでに持って行きますね!」



 この実習試験が難関と言われるゆえんは、自分たちが貴族であることを隠して平民と共に働かなければならないことにある。


 実習生としてやってきた私達が貴族だということは、オーナーにしか知らされていないため、この仕事場を取り仕切る給仕長のアンナさんの人使いにもまったく遠慮がない。


 私たちは貴族と悟られぬよう『テラ』と『サイス』として人生で初めての労働に従事していたが、昼時を過ぎても一向に休まる気配のない客足に、初日から忙殺されていた。


 注文を間違えて客に文句を言われるのも、どうしていいか分からなくなってしまってアンナさんに怒られるのもすべて初めての経験だ。


 失敗を悔やんだり恥じたりする時間すらないのがむしろ救いだと感じるほどの初体験の応酬に、私は途中から感情を放棄して手と足を動かすことだけに注力していた。



「おつかれさん。あんたたち、休憩入っていいよ」

「は、はいぃ……」



 アンナさんから休憩に行くように言われたのは15時を過ぎ、昼食ではなく甘味を求めてやって来る客が増えたころだった。


 甘味を求める客は回転が遅いようで、各テーブルではゆっくりと昼下がりの談笑がされていた。



「お疲れ様、テラコッタ」

「サイラス様もお疲れ様でした」

「覚悟はしていたが、想像以上の忙しさだったな」

「はい。驚きました」



 私たちは店の裏口から裏通りに出るとうんと伸びをした。しかし、飲食店街の裏通りは悪臭もひどく、あまり綺麗なところとは言いがたい。



(お昼ご飯にサンドイッチをいただいたけど、どこで食べようかしら……)



「この先に高台の広場があるんだ。そこで食べよう」

「はい」


 迷いのない足取りで通りの坂を上りながら手招きする格上貴族の誘いを断るわけにもいかず、私はサイラスの後を追った。



ーーーーー



 サイラスが案内してくれた場所は王都を見渡せる高台に位置する民の憩う公園だった。


 2人でベンチに座って豊かな緑と高い空を眺めながら食べるサンドイッチは、今まで食べたどんな高価な食事よりも美味しく感じられた。



「君はずいぶんと美味しそうに食べるんだな」

「すみません、その……給仕の仕事をしながら美味しそうだなと思っていたサンドイッチを頂けたのが嬉しくてつい」

「空腹は最高のスパイスだとは言うが、確かにその通りだな。めいっぱい働いた後の食事がこんなに美味しいとは俺も知らなかったよ」



 サイラスはサラサラとした前髪を風になびかせて、ふんわりと笑いながらサンドイッチを頬張っている。



「サイラス様はこの公園をご存知だったのですか?」

「あぁ、実は下見に来た時にたまたま見つけたんだ」

「下見……ですか?」



 この実習先は今朝知らされたばかりのはずだ。サイラスはなぜ下見に来ることが出来たのだろうか。



「ズルをして実習先をあらかじめ教えてもらっていたわけではないよ。ただ実は、1番キツい実習先にしてもらえるようにと前々から教官に頼んでいたんだ」

「まぁ、なぜそのようなことを?」



 確かに大変な職場だなとは思っていたが、まさかここが1番大変な実習先だったとは思わなかった。


 そんな場所に配属されてしまうなんて、ツイていないなと私などは考えてしまうところだが、自ら志願したというサイラスの意図が分からない。



「あの、なぜわざわざそのようなお願いを教官にされたのかお聞きしても?」

「もちろん評価のためだ。簡単な実習先でそつなくこなしたって評価は頭打ちだろう?主席を取るためにはこれぐらい必要だと思ったんだ」

「はぁ……そうでしたか」

「君もそうなのかと思っていたけれど、その口ぶりだとどうやら違うようだな」

「はい。私の場合はただクジ運が悪かっただけでございます」



 私がそう恨めしそうに言うのを聞いたサイラスは何が面白かったのか分からないが、お腹を抱えて大笑いしている。



「はぁ、君はなかなか面白いな。さて、そろそろ戻ろうか。クジ運が悪かっただけの君には少しハードな仕事かもしれないが、俺もかなり慣れてきたし少しはフォローできると思うから頑張ろう」

「ありがとうございます。なるべくご迷惑をおかけしないよう頑張りますわ」



 ―――――



 休憩が終わると大量の皿洗いが待っていて、その後は大量の野菜と格闘して仕込みの準備。そしてそれが終わればまたディナー客の接客に追われ、私たちが仕事を終えたのは21時を回ったころだった。



 サイラスは昼休みの時点で慣れたと言っていただけあって、午後の仕事もすべてミスなくそつなくこなしていた。対して私はお皿を割らないようにと考えるあまり遅いと怒られてしまったし、ナイフがうまく使えず玉ねぎの微塵切り係をクビになって、芋を洗うことしかできなかった。


 接客の方は昼の営業で慣れたつもりになっていたが、夜になると酒類の提供も増えるので覚えることが3倍に増えた。


 サイラスに迷惑をかけないようにしようと思っていたのだが、物の場所や対応の仕方が分からなかった際にさりげなく教えてくれたりと、かなりフォローしてもらってしまった。



 大衆食堂「パープルラック」の2階は宿を兼ねているので、実習の間はそこに部屋を借りて住み込みで働くことになっている。



「おう、2人ともお疲れさんだったな!これが湯で、これが晩飯な!特別に精の付くもん作っといたから、しっかり食べるんだぞ」

「ありがどうございます」



 料理長のエドが気を効かせて、私たちの仕事終わりに合わせて湯を沸かしてくれていたらしい。

 今すぐに湯あみをして布団に飛び込みたい気分だったのでありがたい配慮だが、さすがに足が限界だ。


 湯の入った桶の上に大皿の炒めご飯が乗せられたものを渡されても、これを2階まで持って行く自信が全くない。階段の途中でこれをこぼすようなことになれば、学院に苦情を入れられてしまうかもしれない。



「…………」

「どうしたテラコッタ、部屋の場所を忘れたのかい?」

「いえ、私は少し休んでから参りますので、サイラス様は先にお休みください」

「いや、それではせっかくの湯が冷めてしまうではないか」

「大丈夫です、お気になさらず……」

「あぁ、そういうことか。よし、少し待っていろ」



 サイラスはそう言うやいなや2階の自分の荷物を自室に起きに行くと、軽やかな足取りで再び1階に戻り、私の荷物をさっと取り上げた。



「なりません。サイラス様のような高貴なお方に荷を運ばせるなど……」

「高位の貴族だろうと女性が重い荷を運んでいたら助けるのは当然だ。気にする必要は無い」

「そういうわけには……」



 高位貴族に荷を運ばせたなどと知られては家門の恥なのだが、厚意を無下にするわけにもいかず、結局私は自分の部屋の中までサイラスに荷を運んでもらってしまった。 今日は本当に迷惑をかけてばかりだ。



「本当に申し訳ございません」

「テラコッタ、そうかしこまらないでくれ。共に実習をこなす唯一の仲間である君に爵位のせいで距離を取られるのは寂しいぞ」

「ですが……」



 サイラスはキリリとした黒目を親し気に歪めて敵意が無いことを示してくれてはいるが、かしこまるなと言われたからと言ってそう簡単に捨てられないのが貴族の肩書というものである。


 ただ、こういう時難しいのは、相手の申し出を断るのも失礼になってしまう点だ。だからと言って相手の言う通り平民同士のように気楽に振舞って後から無礼だったと難癖をつけられても何も言い返せないのが下級貴族のつらいところだ。


 とはいえ、いくらか手はある。どうするのが良いか分からない時は、回答を先送りにするのが定石だ。

 実習はたったの10日間。先送りにし続けていれば案外あっさり終わりが見えてくるに違いない。



「業務中の事も含め、助けていただき本当にありがとうございました。本日はこれにて失礼させていただきますが、後日お礼をさせていただきたく存じます」

「そうだな、あまり引き留めて休めないようではいけないな。お礼など必要ないのだが、一応考えておこう。また明日な」

「はい、お疲れ様でございました」



 サイラスが去ると、一日の疲れが一気に体に押し寄せ、そのまま床に転がるように倒れ込んだ。サイラスの手前見栄を張っていたが、一日働き詰めでの体はもうとっくに限界だったのだ。



「はぁ……もう本当、つっかれたぁあああああ…………」



 私はひとりごとで弱音を吐き出すと、最後の力を振り絞って湯あみを終え、食事もとらずに布団に飛び込んだ。


 この時テラコッタは気づいていなかった。平民の住む家屋の壁が薄いと言うことを。そして、隣の部屋で休むサイラスがテラコッタの大きな独り言を聞いていたことを。



―――――



 翌朝、部屋の扉を叩くノックの音で目を覚ました。寝坊してしまったかと外を見たが、まだ日が昇り始めたばかりのようだ。



「テラコッタ、朝食をもらいに行こうと思うんだが、一緒に行かないか?」

「ありがとうございます。ですが……」



 昨晩は湯あみだけしてすぐに眠ってしまったので、エドがせっかく作ってくれた晩飯がまだ全く食べられていなかった。それに、起きたばかりで身支度にもまだまだ時間がかかりそうだ。



「申し訳ありません、食欲がありませんので朝食は遠慮いたしますわ」

「それはだめだ、きちんとた食べないと。今日も忙しいだろうから食べなければ途中で倒れてしまうぞ?」

「ご配慮ありがとうございます。ですが、本当に何も食べられそうにないのです」

「……そうか、分かった」



 貴族としてはさすがに昨晩の残りを食べると言うわけにもいかず断ってしまったが、サイラスをかなり心配させてしまったようだ。


 今日の業務中にもし私が倒れてしまうようなことがあれば、折角忠告したのにと言われてしまうに違いない。私はなんとか眠気を吹き飛ばして精力たっぷりだという牛肉の沢山入った炒め飯を胃に流し込んだ。



 簡単に身支度を整えて食事を終えたころ、再び部屋の扉がノックされた。



「度々すまない、サイラスだ。朝食に暖かいスープとミルクがあってな。食欲が無いと言っていたが、これなら食べられるかと思って持って来たんだ。必要なければ俺が飲むから断ってくれて構わないんだが、どうだ?いい匂いだろう。少しは食欲が出ないか?」

「ありがとうございます、本当に美味しそうです……スープをいただいても構いませんか?」

「良かった。きちんと疲れは取れたか?慣れない場所では眠れなかっただろう」



 そう声をかけてくれるサイラスは私の顔を覗き込んで、不調は無いかと心底心配しているようだった。

 少なくとも、迷惑をかけたからといって無礼だと狼藉するような人物ではないようだ。



(私、サイラス様のことを高位の貴族だからといって穿った見方をしすぎていたかもしれないわ……)



「ご配慮いただき、本当にありがとうございます。恥ずかしながら、昨晩は湯あみを終えてすぐに眠ってしまいまして……おかげで気力も体力も十分回復できました。今日はサイラス様にご迷惑をおかけせずにお仕事に専念できそうですわ」

「そうか、それを聞いて安心した。今日も一日共に頑張ろう」

「はい!」



 私たちは始業の時間まで身支度に努め、二日目の実習に挑んだ。



―――――



 実習2日目の「パープルラック」も相変わらずの忙しさだった。けれど、業務内容自体は昨日と同じなので気持ち的な余裕が生まれたおかげか、ほとんどミスすることなく業務を終えることが出来た。



「テラ、お疲れさんだったね。今日もゆっくり休んでおくれ」

「はい、ありがとうございますエドさん。あの、サイスさんを見かけませんでしたか?」

「あぁ、あいつも今仕事を終えたばかりのはずなんだが……どこへ行ったかな」



 先に部屋に戻ったのだろうかと思ったが、パティシエ用のキッチンから女性たちのキャーキャーという黄色い笑い声が聞こえてきたことでなんとなく事情を察知した。



「あー、なるほどなるほど。サイスはパティシエの女子たちに囲まれてるなぁこりゃ」

「あはは、そのようですね」

「もしかして、学校でもあいつモテるのか?」

「はい、それはもうかなり……」

「カーッ!羨ましいぜあの野郎!」



 エドは40代後半位のいわゆるイケオジという感じの男性だ。サイラスほどではないにしても十分女性の人気を得ていそうに見えるのだが、それでも若いパティシエ女性たちにちやほやされるのはかなり羨ましいことのようだ。



「じゃあお邪魔しても悪いですし、私お先に失礼しますね。サイスさんにもそうお伝えください」



 今日は昨日ほどの疲労感はないので湯をこぼしそうになることもなく二階に荷物を運べそうだ。サイラスが居れば気を使って荷を運んでくれようとするに違いないので、居なくてよかったかもしれない。



「待て待て、良かった間に合った」

「サイラス様、そんなに慌ててどうされたのですか?」

「君が仕事を終えるのを待っていたんだぞ。声を掛けてくれてもいいんじゃないのか?」

「え?お待たせしてしまっていたのですか?申し訳ありません」

「そうじゃない、俺が待ちたくて待っていたんだ。荷物を持つから貸してくれ」



 サイラスは断る隙もなく、さっさと私の荷を手から奪ってずんずんと二階へ運んでいく。



「あの、私になにか御用でしたでしょうか?」

「あぁ、昨日お礼をしてくれると言っていただろう?それを考えていたんだ」

「こうして今日も運んでいただきましたから、いくらでもお申し付け下さい」

「では少しわがままを言わせてもらうとするかな」



 湯桶を机に置いてくるりとこちらを向くサイラス様は、18歳にしては大人びて見える顔に少年のようないたずらな笑みを浮かべている。


 サイラス様の言うわがままとは一体なんだろうか。うちの子爵家はそこまで裕福ではないので、私一人に背負えるものだと良いのだけれど……



「実習の間は可能な限り君と一緒に食事をとりたいのだ。構わないだろうか」

「そんなことでよろしいのですか?」

「そんなことなんかじゃないさ。俺は昨日の昼食の美味しさが忘れられないんだ。目いっぱい仕事をした後で、大変だったって話をしながら君と食べるご飯は本当に美味しかった」

「確かに、あのサンドイッチは絶品でしたね」

「今日の昼も同じものを食べたが、一人ではどうも味気ないんだ。一緒に食べてくれないか?ついでに今日どんな業務をしたかとか、君の話を色々聞かせて欲しいんだ」

「分かりました。私でよろしければいくらでも」

「そうか、よかった」



 サイラスは女性人気が高すぎるあまり、女性客から執拗な呼び出しを受けたり、過度な接客を求められたりと、初日から仕事にならない場面が多々あった。


 アンナさんの配慮で、今日からは厨房の仕事をメインで行うようになっていたので昼の休憩時間が合わなくなってしまっていた。


 正直に言うと、私としても食事を一人で食べるのは少し寂しく感じていた。



 この程度の事ならお願いのうちにも入らないと思うのだが、それをわがままと言うサイラスが少し可愛いと思ってしまう。


 学園でも高位貴族だからと偉ぶる人間は多いが、そういえばサイラスのそういった話は聞いたことがない。こうした偉ぶらない姿勢も女性達の人気を集めている要因のひとつなのだろう。



「湯あみを終えたら部屋に来てくれ……って女性を部屋に呼んで2人きりになるというのはあまりよくないよな。扉を開けたままにするのはどうだろう、それなら声を上げれば外に聞こえるだろうし……って、いや、君に何かするつもりは一切ないぞ!誓ってない!」

「ふふふっ、そんなに気にしなくて大丈夫です。湯あみを終えて身支度をしたら食事を持ってそちらに伺いますね」



(あれだけ人気なのだから女性の相手なんて慣れているだろうと思っていたのに、下級貴族相手にこんなに慌てるだなんて……不思議な方だわ。ちょっと可愛いかも……なんて、思うだけでも失礼かしら)


 

 成人目前の190㎝近くあろうかという騎士にも劣らない体格の男性の可愛らしい一面を自分だけが知っているという事実がなんとなくくすぐったかった。



―――――



「エドさんが新しく考えた料理を、見た目が悪すぎるってアンナさんが没にしてしまったんだ」

「そんなことがあったのですか?」

「あぁ、でも確かにブロッコリーを丸ごとスープの上に突き立てるのは斬新すぎるよな」

「ふふふっ、エドさんの発想力はすごいですね」



 湯あみを終えた私たちは談笑しながら今日あった出来事を共有していた。サイラスは成績優秀なだけでなく会話も上手いようで、すっかり楽しい食事になっていた。



「テラコッタはやっと俺の前で笑ってくれるようになったな」

「友人にも表情が薄いとよく言われてしまうのです」

「そうかな、素敵な笑顔だと思うが?」

「接客業に従事する上では致命的な欠点ですわ。この実習で少しでも改善できればいいのですが……」

「そうやって努力できるのが君の美点だよ。まぁ正直、あんまりにも君が笑ってくれないから嫌われているのかと思っていたんだけどね、ははは」

「そんな!サイラス様のような高位貴族の方を嫌うなんてとんでもありませんわ!」



 絶対に失礼がないようにと接していたつもりが逆に嫌っているように見えてしまっていたなんて、いよいよこの欠点を本腰を入れて直す必要がありそうだ。


 サイラスは笑い飛ばしてくれたが、社交の場に出ればこんな気のいい貴族ばかりではないはずだ。多くの客と接するこの実習は愛想の悪さを改善するいい機会だろう。



「そうか、高位貴族の方を、か。……なぁテラコッタ、この実習の目的は何だと思う?」

「目的、ですか?下町の人々の暮らしを知ることだとは思いますが……」

「そうだ。では平民の気持ちを知るにはどうしたらいいと思う?」

「そうですね……平民になりきって彼らの目線で暮らしを体感することでしょうか」

「その通りだ!つまりこの実習の間、俺は高位貴族ではないし、君も子爵令嬢ではない。俺達は上も下もない平民同士として接し合うべきだと思うんだ」

「えええ!」



 実習の間、平民になりきるつもりではいたが、サイラスとも平民同士のように接し合うべきだとは考えもしなかった。自分が平民になり切ること以上に、サイラスを平民のように扱うということに無理があるように感じてならないが、そう語るサイラスの目は本気のようだ。



「これ以降、俺の事はサイスと呼び、敬語もなしだ。試しに呼んでみてくれテラ」

「ええっと……サイス様?」

「様は不要だ」

「わ、わかったわ……サイス」

「いいね、すごく良い感じだテラ!」



 サイラスは主席をとるために実習先の下見までしていた男だ。本気でこの下町実習でいい成績を修めるつもりの彼が、ペアである私にも高いレベルを求めるのは当然だろう。


 私が平民らしい口調になったことで、サイラスはご機嫌のようだった。



「じゃあ、おやすみテラ。明日も今日と同じ時間に迎えに行くから朝食を一緒にとろう」

「わかったわ。おやすみなさい、サイス」



 私はサイラスに別れを告げて自室の扉を後ろ手に閉めると、膝から床に崩れ落ちた。



「テラって呼ばれるのヤバすぎ……」



 サイラスがテラコッタの事をテラと呼ぶたびに、心臓がうるさく跳ねてどうしたらいいか分からない気持ちになった。



(考えない、考えない!明日も忙しいしさっさと寝ちゃおう!)



―――――しかしこの日、眠れぬ夜を過ごしたのはサイラスの方だった。


 隣のテラコッタの部屋との壁が薄いことには昨晩から気づいていたが、まさか自分と別れた直後にあんなつぶやきが聞こえてくるとは思っていなかった。



(ヤバいってどういう意味だ?テラコッタは俺にテラと呼ばれるとヤバ過ぎるのか!?)



 テラコッタのひとりごとと、敬語を使わずに話すことに慣れずにはにかむ彼女の表情が忘れられず、サイラスはなかなか眠りにつけなかった。



―――――



 実習5日目の今日は店休日だ。


 怒涛の4連勤を経て迎えた休日だけに、今日はさすがに別々に食事をとるのかな?と思っていたが、当たり前のように朝食の誘いに来たサイラスと一緒に、私たちはいつもよりゆったりとした朝の時間を過ごしていた。



「テラは今日何をして過ごすつもりだい?」

「えっと、実は町に小刀を買いに行こうかと思っているの」



 敬語を使わずにサイラスと話すことにも随分慣れてきてはいたが、休日の予定を聞かれるとは予想外だった。



「女性が小刀だなんて、護身用か何かか?まさか、男性客にちょっかいでも出されたんじゃ……」

「いえ、違うの。実はその、まだ私、玉ねぎを刻むのが上手く出来なくて……自分の手に合う調理用の小刀があればもう少しマシになるかなって」

「そういうことか。さすがテラ、いい心掛けだ。俺も付き合うよ」



 折角の休日なのに付き合わせては悪いと断ったが、調理用とはいえ刃物を扱う店はガラの悪い客も多いからとサイラスは引かなかった。



「あんたたち、商店街の方へ行くなら、おつかいを頼むよ。中心街の少し先の畑から明日使う香草を摘んできて欲しいんだ」

「分かりましたアンナさん」



 私たちは身支度を整えると、町へ向かって歩き始めた。



―――――



「これなんか良いんじゃないのか?」

「そうね、さっきのよりいいかもしれないわ」



 私たちはナイフの専門店に来ていた。調理用具の専門店では私に扱えそうな軽い包丁が見つけられずこちらに来たのだが、武具の店なだけあって人相の悪い客も多く、サイラスに一緒に来てもらって本当に良かった。



「エッジがあった方がジャガイモの芽も取れて使いやすいはずだが、持ち手が三角になっている物は長時間持つのに向いていないからオススメしないな」

「サイスは刃物にも詳しいのね。そういえば私と違って初日から扱いも見事だったし……」

「うちの家は国の治安部門を管轄してるんだ。俺は文官になるつもりだが、刃物の扱いだけは小さいころから教え込まれていてな……」

「それで慣れていたのね、さすがだわ」



 筆記だけ優秀でも学年の主席を取ることはできない。剣術の授業でも良い成績をおさめられているのは武官にも劣らないこうした日々の努力の賜物なのだろう。



「あれ?サイラスじゃないか!」

「リック!ここで実習だったんだな」



 リックと呼ばれたピンクのマッシュヘアのひょろりとした青年はサイラスの友人のようで、親し気に声をかけてきた。



「おいおいサイラス、実習サボって美人とデートか?」

「違う違う、今日は店休日だ。そっちこそペアはどうしたんだ?」

「あー……」



 ペアはどうしたのかと尋ねられたリックの表情が明らかに雲った。



「あの子、初日の朝ここに連れて来られてすぐにリタイアしちゃったんだ」

「あぁ……そういうことか」



 確かに私もサイラスと一緒じゃなければ入るのをためらうような店構えではあったが、決して汚い店というわけでも忙しい店というわけでもない。


 来てすぐにリタイアしてしまうのはさすがにやる気の問題のような気がしてしまうが、生粋のお嬢様にとってはここで平民に扮して働くというのはさぞ受け入れがたかったことだろう。



「かなり可愛い子だったからお近づきになれると思ったのに」

「刃物を扱う店じゃ無理もないさ」

「あれ、そういうやサイラスのペアってことは『あの』テラコッタさん、ですよね?……なんか、雰囲気変わりました?」

「……『あの』とは?」

「おいリック、俺のパートナーに失礼だぞ」



 サイラスがすぐに失礼だと咎めたが、『あの』といわれるようなことに思い当たる節がない。


 学院では面倒事に巻き込まれたくない一心でひたすら大人しくしていたし、悪目立ちしたくないがために良い成績をとらないようにすらしていたというのに。



「あ、いや違うんだ!なんだか柔和な印象になったなと思って!前はなんというか、超クールな知的美人って感じで男なんて視界の外って風に見えたからその、誰かとデートなんてしてるのが意外で……」

「そんな風に見えていたんですか?でもその……少しでも接しやすい雰囲気になったのなら良かったです」

「あぁ良いよ、すごく良い!よかったら実習が終わった後お茶でも……」

「おいリック、いい加減口を閉じないとお前の声帯を引きちぎるぞ」

「えええ!そんなに怒らなくてもいいだろうサイラスう!」



 突然隣から低い声がしたので驚いてしまった。サイラスはどういうわけかかなり怒っているようで、これ以上リックが余計な口を開けば冗談抜きで声帯を引き裂いてしまいそうなほどの怒気を纏っていた。


 サイラスを怒らせてしまったリックはなんとか彼をなだめようと苦戦した結果、私の購入予定だった小刀はなぜか驚くほどの割引を受けた。


 会計を終えてお礼を言った時のリックはかなり涙目ではあったが、無事にサイラスの怒りを収めることができてホッとしているようだった。



「友人が失礼を働いてすまなかった」

「そんなこと気にしなくて大丈夫なのに。それに、この実習の間に愛想の無さを改善したいと思っていたから、少しは良くなっていると言ってもらえて嬉しかったわ」

「それはとてもいいことだが、君がああいう女好きの餌食になるのを見たくはない。今後アイツにお茶に誘われても絶対に断るんだぞ、いいね?」

「え?えぇ、分かったわ」

「それに、君の笑顔が素敵なことは俺が一番良く知ってる。あんなやつなんかより君が努力をして日に日に魅力的になっているのを一番近くで見てるのは俺だ……って、なんて言い方をすると嫉妬みたいだよな、すまない」

「いえ、その……身近な存在のサイスに努力を褒めてもらえるのはすごく嬉しいわ」



 サイラスが過分な誉め言葉だけでなく嫉妬などと言うから頬だけでなく耳まで赤くなってしまった。


 サイラスの方を覗き見ると、少しバツが悪そうに視線を外に向けてはいるが、その頬も少し紅くなっているように見えた。



「なぁ、テラ。昼は人気のカフェに席を取ってあるんだが、まだ時間もあるし、少し通りの店でも見て周らないか?」

「予約をしてくれたの?ありがとう。そうね、私も少しお店を覗いてみたかったの。行きましょう」



 私たちはしばしのウィンドウショッピングを楽しんだ後、王都を流れる名河を臨むカフェで美味しい紅茶を飲みながらゆったりと休日の街を楽しんだ。



―――――



「えっと……ここでしょうか」

「あぁ、多分そうだと思うが……」



 私たちは日が傾き始める時間になってようやくアンナさんにおつかいを頼まれた畑までやって来た。

 畑は中心街の少し先だからと地図を渡されていたのだが、少しどころかかなり離れた場所にある畑に到着するまでにかなり時間がかかってしまった。



「商店街の様子を見てすぐに畑なんてものが近くにあるわけがないと気づくべきだった」

「いえ、私も受け取った地図をもっと早く確認しておくべきだったわ」

「のろのろしていては日が暮れてしまうな。急いで採集してしまおう」



 私たちは手分けをして採取を始めたが、なじみの薄い香草も多く作業を終えて再び町に戻るころにはすっかり日が暮れてしまっていた。



「すっかり遅くなっちゃったわね。アンナさん、心配してないといいのだけれど……」

「仕方ない、少し近道して行こう」



 そう言ってサイラスが案内したのは店の裏手に続く裏通りだった。初日に異臭を嗅いで以来近寄っていなかったのだが、背に腹は代えられない。

 私たちは早足で人気の少ない裏通りを進んでいった。



「キャー―――!」



 後方から女性の叫び声がして、何事かと振り返ろうとしたところをサイラスに止められた。



「君は見ない方がいい。宿の裏口まではもう少しだ、走れるかい?」

「えぇ、大丈夫よ。急ぎましょう」



 私はサイラスに腕を組まれるような姿勢になりながら、大急ぎで宿までの道を駆け抜けた。


 見るなと言われてしまったのでどういう事態なのかが分からない。分からないから余計に心配になってしまう。

 サイラスは平気そうな顔をしてはいるが、不穏な気配に嫌な汗が流れてきた。


 叫んだ女性の声はかなり緊迫していたようだったし、走っている途中で、さっき買ったばかりのナイフを万が一の時の護身用に貸してくれと言われた時は本当にとんでもない緊急事態に巻き込まれてしまったかと思ったが、なんとか問題なく宿の裏口にたどり着くことが出来た。

 宿の灯りに照らされたサイラスの表情が和らいだのを見て、私はようやく胸を撫で下ろした。



「すまない、ここまで危険な道だったとは……」

「いえ、無事に帰って来られて良かった」

「おや、あんたたち、遅いと思ったら裏口から帰ってきたのかい?その様子じゃ、変なのと鉢合わせしちまったみたいだね」

「裏道とはいえ王都の中心街の治安が悪いとは思いませんでしたわ」

「治安が悪いっていうかねぇ、出るんだよ。露出魔が」

「ろ、露出狂!?」



 サイラスが見ない方が良いと言ったのにはそういう理由があったらしい。アンナさんに香草を渡すと、用意してくれていた晩御飯を受け取り、いつものようにサイラスの部屋で食事をとり始めたのだが、サイラスの表情はいつもと違い浮かないままだ。



「悲鳴をあげた女性は大丈夫だったのかしら」

「あぁ、悲鳴を聞いてすぐに何人か駆けつけたようだったから問題ないだろう」

「よかった」

「良くないさ、テラを危ない目にあわせるところだった。反省してるよ」

「そんな……あの道を通ることに賛成したのは私なんだから気にする必要は無いわ」

「それだけじゃない。俺は卒業したら家業を継ぐ。言っただろう、うちは王都の治安維持を担っているって。あれはうちの失態でもあるんだ、街灯の整備に、巡回の強化も必要だな。すぐに手を打つように父上に進言しなければ……」



 サイラスが実家に手紙をだすということだったので、今日の食事は早めのお開きとなった。


 楽しい外出があんな形で終わってしまったのは残念だったけれど、サイラスのいつもと違う表情を沢山見ることが出来たような気がする。


 私も実家の子爵領のためになにか出来ることは無いかと常々考えてはいたが、あんな風に行動を起こせたことなど一度もない。いつか何かを、なんて漠然と考えているだけの私とは大違いだ。


 それに、真剣に将来のことや家業のことを考えているその表情は、必ず主席をとると語っていた時のものと同じに見えて、彼が主席にこだわって努力する理由が少し垣間見えたような気がした。



「サイスは家のために行動出来て偉いな。……私もがんばらなくちゃ」



ーーーーーそんなテラコッタの独り言は今日もサイラスの耳に届いていたのだが、サイラスは大きなため息をこぼしていた。


(せっかく途中まで良いデートだったんだ。今日はいつも以上に可愛い独り言が聞けると思ったのにな……)



 解散後のテラコッタの独り言はもはやサイラスの日々の楽しみになりつつあった。「サイス、ありがとう」という言葉に元気をもらい、「サイスの包丁さばき、かっこよかったな」と言う言葉に胸を躍らせ、「サイラスとのご飯、今日も楽しかったな」という言葉に明日を生きる元気をもらっていたのだ。



(明日こそ、サイラス素敵とか言わせたいな……好きとか、言ってくれないかな)



 手紙を書き終えたサイラスはそんな欲を胸に抱きながら眠りに落ちたのだった。



―――――



 実習8日目の昼。実習も残り2日に迫り、いつも通りの忙しさにも少し名残惜しさのようなものを感じ始めていた。



「アンナさんこれ、個室のお客様のお酒ですよね?持って行っちゃいますね」

「いや、やめときな。アタシが行くよ」

「何かあるんですか?」

「平日の昼から酒なんて頼んで個室を使ってる男性客にうちの可愛いスタッフを給仕に行かせるつもりはないよ。会計が終わったらアタシが持って行くからそのままでいいよ」

「わ、わかりました」



 アンナさんには持って行く必要は無いと言われたが、ちょうど昼休みが終わる時間帯だからか会計は長蛇の列を成していて、まだまだ時間がかかりそうだ。


 会計を行うのは料理長かアンナさんと決まっているので代わることもできないし、他の男性スタッフたちはさっきちょうど食材の配達があったので荷下ろしのために全員出払ってしまっている。


 どうしようかと戸惑っているうちに、個室から店員を呼ぶためのベルがけたたましい音を立てて鳴り始めた。鳴りやまないベルの音は注文した品が遅いと苦情を言っているかのようだ。



 初日の自分であれば言われたことをこなすだけで精いっぱいだった。けれど、色々な客の接客をこなすうちに自分でも実感できるほど成長することができた。


 アンナさんの制止は私を守るためだろうが、店のことを一番に考えて仕事をするのであれば、店の評判を下げるような行動はしたくない。



(……さっとお届けして戻って来れば大丈夫、だよね?)



「アンナさん。私、やっぱりこれ、個室に持って行きますね!」

「あっ、ちょっとテラ!」



 アンナさんの声を後方に聞き流しながら、私は完全に壁で隔てられた個室の扉を開いた。



「大変お待たせいたしました。ご注文のエールと……」

「遅い!!!……って、なんだ、珍しいな。この店にこんな女子がいたか?」



 6畳ほどの広さの個室は大きな一つの机を囲んで会議などもできるような作りになっていた。

 声をかけてきた40代ぐらいの男性を中心にして20代~30代中盤ほどの男性たちが8人ほど脇を固めるように座っていたが、皆厳めしく危なげな雰囲気を纏っていた。



「可愛い子は時々居やしたが、ここに運んで来るのはいつもあの年増の女でしたからねぇへへへ」

「本当だ、随分な上玉だな」

「ぐへへ、若いが綺麗な子じゃないか。髪も肌もつやつやだぞ」



(うわぁ……こんな風にジロジロみられるのってすごく不快だわ)


 最近はサイラスから「アメジストの宝石のような綺麗な髪だ」とか「テラは美人だが笑うと可愛らしいな」とか「学院の制服姿も素敵だったが、食堂のエプロン姿も本当に似合っている」などという過大なお世辞をもらっていたが、その時はどんなに見つめられてもこそばゆいだけで不快ではなかったのに、この人たちとは大違いだ。



「おい、今度からはお前が全部注文したものを持って来い」

「は、はい……」



 注文を持ってくるのは自分の仕事なので指名されてしまったのは仕方がないとして、ガラの悪い客に絡まれてしまうあたり、私の運の悪さは相変わらずのようだ。



 行商人には見えないが、一般客にも見えない。皆黒か白のシャツに、仕立ての悪くない上下揃いのベストやジャケットを着てはいるが、装飾に金の鎖をじゃらじゃらと付けている趣味の悪さはどう考えても貴族ではない。


 この人たちはここで何をしているのだろうかなどと思ったのがいけなかった。



「なんだ、嬢ちゃん興味があるのか?こっちに来て座れ」

「私、まだ仕事中でして……」

「酒を注ぐのも仕事の内だ。出来ないとは言わせねぇぞ」



(えええ、強引過ぎない?)



 男たちの有無を言わせない物言いに私は仕方なく中央に座る年長の男の隣に腰を下ろした。



「んあ?少し酒が抜けてるな……ったく、お前が持ってくるのが遅かったせいだろ」

「いえ、そんなはずは……」

「いいや、お前のせいだ。お前が責任を持って飲み干せ」

「お、いいっすね!お嬢ちゃんさあ飲んだ飲んだ!」

「そ、そんな……」



 この国では18歳で飲酒をすることを許されてはいるが、先月18歳になったばかりで、実際に飲酒をしたことはこれまで一度もなかった。


 実習中に飲酒をするなんて絶対に許されないことだが、取り巻きが異様に煽ってくるせいもあって、逃げられる雰囲気ではなくなってしまった。



(あれ?私の席の隣、なんで靴なんて置いてあるんだろう)



 個室内の人物の足元をさっと見まわしたが、靴を脱いでいる人はひとりもいない。

 それに、置いてあるのはみすぼらしい布の靴だ。ピカピカに磨きあげられた靴ばかり履いている彼らがこんなボロボロの靴を持っていること自体に強烈な違和感を覚えた。



(ええい、ままよ!)



 私はエールの並々入ったジョッキをいっきに煽ると、靴の置かれた隣席に倒れ込んだ。



―――――ドサリ……



「あんたたち、うちの従業員になにやってるんだい!!!」



 勢いよく倒れた拍子に靴ごと床に転がり落ちたタイミングでアンナさんが個室に威勢よく飛び込んできた。

 よかった、ひとまずここから脱出できそうだ。



「おっと、お楽しみはこれからだってのに面倒なのが来ちまったな」

「あぁあぁ、なんてこった。酒を飲まされたのかい?可哀想に。あんたら、この子に指一本触れてないだろうね?」

「誓ってそんなことはしてねぇよ。ちょーっと酒を飲ませただけさ」

「ふん、なにがちょっとだい。あんたらにゃ二度と個室を貸してやらないからね!テラ、立てるかい?」

「はい、なんとか……」



 アンナさんの肩を借りて個室を出て裏の従業員室へ向かおうとしたところで、見慣れた顔が二人立っていることに気づいた。



「テラ、ちょうど今ベン教諭が俺達の実習の様子を見に来てくださったんだ……って、どうしたんだ?一体なにがあった?」



 ベン教諭と話をしていたらしいサイラスは、私がアンナさんに肩を借りて歩いているのを見て驚いたようにこちらに駆け寄ってきた。



「おや、貴女……まさか酒を飲んだのですか?まったく、実習中の生徒が酒を飲むなど言語道断です!」

「違うんですベン教諭、テラは今日まで毎日本当に真面目に仕事を頑張ってきました。事情もなく飲酒をするはずありません!」



 サイラスは必死に私の無罪を主張してくれているが、今度はベン教諭の疑わしげな視線がアンナさんの方を向いてしまった。これは良くない予感がする。



「この子、個室のガラの悪い客に絡まれて酒を飲まされたみたいなんだ。アタシの責任だよ」

「ほう、こちらの店ではわが学院の大事な生徒に飲酒をさせるような接客をさせていると?こちらの店には毎年の実習で世話になっていましたが、このような管理体制の店だったとは思いませんでした。来年以降は考えなければならないようですね」

「そんな……」



 自分のせいでパープルラックの評判が落ちてしまう。それだけは避けたかった。この店は自分を成長させてくれた大事な店なのだ。


 厳しいけれど優しい給仕長のアンナさんと、明るく気遣い上手な料理長のエドさんが大切に守ってきた店だ。

 常連さんだって手際の悪い私をを応援してくれる優しい方ばかりで、今日来たばかりの人にあんな客ばかりだなんて思われたくなかった。



 ふと廊下の反対側を見やると、あまり見たことの無い行商人が店を出て行くところだった。

 なぜ今このタイミングでそちらが気になったのか分からないが、どうしてもその行商人から目が離せなくなってしまった。

 

 荷物に不審な点はない。支払いもきちんとしている。少し引きずるような歩き方をしているのは足首でも痛めているのだろうか……?



(そうか、そういうことだったんだ……!)



「テラコッタさん、まだ話は終わっていませんよ?」

「ベン教諭、私が飲酒をしなければならなかったのには重大な理由があります!」

「ほう、どんな理由があるというのですかな?」

「ですが、そのお話をする前に急いで警察をここに呼んでください。それから、サイスは関所を閉鎖するようにお父上に早馬を送って頂戴。密輸の実行犯が関所に向かったはずよ」

「密輸だと……!?」



 その場にいた私以外の3人は何事かと目を見合わせていたが、私があまりに必死に訴えたことで、緊急事態だと察してもらえたようだった。



―――――



 2時間後、個室にいた男たちは全員警察に連行されていった。サイラスが治安維持部門の統括である父親にすぐに連絡を入れてくれたこともあって、先ほどの密輸実行犯も無事にとらえることが出来たと聞いて、私はようやく安堵のため息をついた。



 私は警察からの聴取を終えると、遅い遅い昼食を摂ろうとサンドイッチを片手に高台の広場へ来ていた。


 夕刻前の広場は人もまばらで、さっきまでの喧騒などまるでなかったような平和そのものの空気感に緊迫していた心が癒されるのを感じた。


 実習初日にサンドイッチを食べた場所には、一足先に聴取を終えたサイラスが居た。

 どうやら私を待っていてくれたようで、目が合うとねぎらうように笑いかけてくれた。



「お疲れさま、テラ。君のおかげで密輸の実行犯だけでなく、長年しっぽを掴めずにいた密輸組織も一網打尽にできそうだ。小躍りしそうなほど喜んでる父を俺は初めて見たよ」

「良かった、サイラスがすぐに連絡を取ってくれたおかげだわ」

「俺は何もしていないよ。でも、どうして彼らが密輸組織だって分かったんだ?」



 私はあの時、酒で倒れたフリをしてあの布の靴の上にワザと倒れ込んだ。そうすべきだと第六感が働いただけで、彼らがクロだという自信があったわけではなかった。



「席に通された時に、あの布の靴だけが異様に思えたの。だから、お酒に酔ったフリをして靴と一緒に椅子から落ちたら、あり得ないぐらい重たい音を立てて靴が落ちたから、あの靴が二重底になってるって分かったのよ」

「本当に無茶するよ全く」

「……え?」



 気づけば私はサイラスの胸の中にいた。何が起こっているのか全く理解できず、サイラスの肌と自分の肌が触れている部分ばかりに意識がいってしまう。



「テラが頑張り屋なのは知っていたが、そんな行動力に洞察力まであるとは知らなかった」

「サイスが家のために頑張りたいって言ってたから、私も助けになりたいと思ったの」

「その気持ちは本当に嬉しいよ。でもお願いだから無茶しないでくれ。密輸組織の構成員たちに囲まれてお酒を飲むだなんて、君に何もなくて、本当によかった……」



 顔は見えないが、サイラスの声が少し震えているような気がして、私はサイラスを抱きしめ返した。

 さらに密着度が増して心臓が飛び出しそうにドキドキと暴れているけれど、どれだけ気恥ずかしくても、今は少しでも心配をかけたサイラスを安心させたかった。



「もっと俺を頼ってくれ。あの時だって、言ってくれれば荷下ろしなんか放っておいて君の代わりにあいつらに酒を頭からかけてやったのに」

「そんな怖いことしないで!っていうか、その段階じゃ疑わしいだけだったんだからお酒なんてかけちゃダメよ」

「だったら、アンナさんの代わりに部屋に飛び込んでいけば良かったな。いつもならずっと君を目で追いながら仕事をしていたのに、抜かったよ」

「もう……冗談ばっかり」

「冗談じゃないさ。言っただろう?君の頑張りを一番見てるのは俺だって」



 仕事中、サイラスを盗み見るたびにやたら目が合うなとは思ってはいたが、本当にいつも見守ってくれていたらしい。


 

(危なっかしいからってことかしら?だとしても、サイスが気に掛けてくれて嬉しいわ……)



「風が冷たくなってきたな、そろそろ戻ろうか」

「えぇ、そうね。あの……離してくれないと歩けないわ」

「このまま歩いて行くんじゃダメかい?」

「ダメに決まってるでしょう、ほら行きましょう」



 私たちは気恥ずかしさを隠すように笑いながら夜の営業の準備に向かっていった。



―――――



 実習の最終日が臨時休業になるということを知らされたのはその日の朝になってからだった。



「悪いね、アンタたち。折角の最終日だけど、今日は業者が入ることになったんだ」

「業者、ですか?」

「あぁ、リフォーム業者だよ。あの個室を取り壊すことにしたからね」

「えええええ!そうなんですか!?」



 どうやらあの個室が犯罪の温床になってしまったことをひどく気に病んだアンナさんの意向を汲んで、エドさんが改装を決断したらしい。



「せっかくだから、今日は一日個室以外のところを徹底的に掃除するよ。お貴族様だろうとキッチリ掃除もしてもらうからね!」

「はい!……って、私たちが貴族だて知ってたんですか?」

「あはははは、当たり前じゃないか」



 私は驚いてしまったが、サイラスの方はすでに察していたようで目を弓なりにして微笑まれてしまった。



「俺もオーナーが別にいるんだと最初は思ってたんだけど、すぐに気づいたよ。それに、料理長のエドさんが改装工事を決める権限があるってことは、彼もその奥方であるアンナさんもオーナーってことになるから、僕達のことは知っているはずだろう?」

「そうだったんですか、っていうかご夫婦だったんですか」

「まあね。二人とも、お貴族様にしておくにはおしい働きっぷりだったよ。この店は毎年忙しすぎて脱落者も多いんだ。最終日まで2人とも残ったのはいつ以来だったかねぇ……そうだ、サイスのご両親が実習に来た時以来だよ」

「え?うちの両親がここで働いていたんですか?」

「そうさ、2人とも本物の働き者だよ」

「知らなかった……」

「そんなにリタイアする人が多いんですか?こんなに素敵なお店なのに」

「あはは、あんたにそう言ってもらえて嬉しいよ。さ、作業を始めるよ、机を移動しておくれ!」

「はい!」



 思いがけず最終日の営業が休止になってしまったことは少し残念だったけれど、私たちはお世話になった店内に別れを告げるように精いっぱい掃除をして回った。



 19時になると、掃除をするところもなくなり、今日は早めの終業となった。


 いつも通りサイラスが私の湯桶を運んでくれて、湯あみをしたら食事を持ってサイラスの部屋に行く。こんな日常も明日の朝には終わってしまう。



 そうしたら……?私たちはどうなるのだろう。


 食事をしながらの楽しいお喋りも、食べ終えてお茶を入れる頃には寂しさが押し寄せて来るようで、何を話して良いのか分からなくなってしまった。



「寂しいな」

「えぇ、そうね」



 自分と同じように寂しいと感じてくれていた。それがたまらなく嬉しかった。



「実習が終わったら今度は筆記の卒業試験が始まるんだ、センチメンタルなことも言ってられないよな」

「サイスは本当に勉強家だもの、きっと大丈夫よ。ここでも勉強道具を持ち込んでいたでしょう?」

「いくら勉強したって足らない気分だよ」

「それだけ主席卒業にかけているのね、立派だわ」

「君はどうなんだい?一度だけ俺に勉強で勝ったことがあっただろう?」

「知っていたの?」

「もちろん知っていたさ。どんな人なのかってずっと気になってたから、実習でペアになるって知った時は嬉しかった」

「本当なの?ずいぶん昔のことよ?」

「そりゃ忘れもしないさ。俺にテストで勝 ったせいで嫌な思いをした生徒がいると教官から聞かされていたからね。そのせいで勉強をしなくなってしまったんだろう?違うかい?」



 入学当初起こった出来事に、私は記憶の蓋をしてしまっていた。あれから時間も随分経って、当時の事を覚えている人はもういないだろうと思っていたので、サイラスが覚えていたことが意外だった。



「確かに、上位貴族のあなたに1教科だけでも勝ってしまったことで嫌がらせのようなことを少しされたけど、そんなの別にいいの。勉強をしなかったのだって、勉強する理由が自分になかったからよ」

「なかった、ってことは今はあるのかい?」

「今は……」



 この実習を通じて私は成長することが出来た。目標のようなものも薄っすらとではあるけれど、考えるようにもなった。

 けれど、夢のために努力を怠らないサイラスの前でそれを口にする気には到底なれなかった。


 もっと私も自分の甘さときちんと向き合って、戦って、それから夢に向かいたい。その覚悟が出来た時に自信を持って胸を張ってサイラスに答えたい。



(でも、その頃には私たち、今の平民同士みたいな関係ではなくなってしまうんだわ……)



 私たちにはそもそも大きな家格の差がある。それは貴族である限り決して覆らないことだ。


 この実習が終われば私たちは会話すらすることのない立場に戻ってしまう。それが私には耐えられないほど苦しかった。



「テラ、そんな悲しい顔をしないで」


「ごめんなさい、でも……もうサイスって呼べないんだなって思ったの。あなたも私をテラって呼ばないんだって……グスッ……ごめんなさい」


「テラ……」



 私が耐えきれずに泣き出すと、サイラスは慰めるように私をそっと抱きしめてくれた。あの時と違い、優しく包み込むような抱擁なのに、胸がしめつけられるようだった。



「俺は君とのここでの日々を本当にかけがえのないものだと思ってる。でも、今の俺では君に中途半端な言葉しかかけられない、すまない……」



―――――すまない



 サイラスどんな優しい言葉も、すべてはこの言葉にかき消された。






 私の想いはサイラスに受け取ってもらえなかった。所詮、自分はサイラスにとって一時関わっただけの女にしかなれなかったのだ。



(まだ私たち、今日まで平民同士なのよね……?平民同士なら許されるかしら……)



 私は優しく抱きしめてくれるサイラスの腕を解くと、サイラスの唇にそっと口付けた。



「いい思い出になったわ。ありがとう」



 言い捨てるようにして部屋に戻ると、涙がとめどなく押し寄せてきた。嗚咽を殺そうと枕に顔をうずめたが、押し寄せる悲しさを止めることは出来なかった。



(これで本当に最後になるんだわ、もう関わることも無くなってしまう。そもそも雲の上の人だったのに……)


 

 私が好意を持つなんて、身分不相応だと最初から分かっていた。あとで苦しくなると分かっていた。



(毎日が楽しくて楽しくて、見ないふりをしてたんだわ。そのツケが回ってきたのね…… )



 私は明日から子爵令嬢に、サイラスは公爵令息に戻る。心のけじめは今日の内に必ずつけなければならない。

 この涙を明日まで引きずることは許されないのだ。



「さようなら」



 私はそう決別を口にして、けれど眠れない夜を過ごしたのだった。



―――――



 貴族学院に戻った私たちは、実習が始まる前となんら変わりのない日々を送っていた。


 友人のモルガナやミルトにはサイラスとの実習でのことを何度も聞かれたが、私たちが学院内で会話すらしない様子を見て、いつの間にかその話題を振ってくることもなくなった。


 私に嫉妬を向けていた令嬢たちも、私たちが親しくしていない様子を見て安心したようで、幸い変に突っかかってくるような人物もいなかった。


 変わったことがあるとすれば、私が以前とは比べ物にならないほど勉強に打ち込んでいることだろうか。


 友人達にはどういう心境の変化かと聞かれたが、勉強をすれば少しでもサイラスに近づくことが出来るような気がしたのだ。


 順位表に名前が載ればあの人が私の名前を最後にもう一度だけでも見つけてくれるのではないか、と。


 卒業後は自分の家の子爵領の特産品を王都や王宮に売り込むつもりでいる。そのためにはいい成績を取っておいて損はない。勉強をする理由は十分に出来た。

 

 勉強をすることでサイラスの事を少しでも忘れられるかと思ったけれど、逆にサイラスのことばかり考えてしまう。

 けれど、いや、だからこそ、勉強するその手を止めるわけにはいかなかった。



―――――



 卒業の日、張り出された成績順位一覧の一番上にはサイラスの名前が書かれていた。私の名前は10人が張り出される順位表の一番下になんとか乗ることが出来たが、こんなに下ではサイラスの視界には入ることができなかったかもしれない。



 卒業式の主席挨拶をするサイラスは公爵家を支えていく人物に相応しい気品のようなものを纏っていた。


 多くの令嬢が彼をうっとりとした目で見つめていたが、私にはむしろ、彼が本当に手の届かない雲の上の存在になってしまったんだと痛感した。



 卒業式が終わると、すぐに後夜祭が始まった。

 これで二度と彼と会うことも無くなるかもしれない。最後に彼を一目視界に入れようと思ったが、そう考えるのは自分だけではなかったらしい。ひとだかりに阻まれて頭の先すら拝むことは叶わない。


 自分は彼女らと同じ、ありふれた一令嬢でしかないのだと分かっていても、あの時のように私が彼を見れば、目が合って、微笑み返してくれるような気がしていた。



(私、バカだ……)



―――――帰ろう。



 後夜祭が始まれば主席生徒のダンスが最初に行われる。他の女性とサイラスが躍るのを見るのはさすがに耐えられそうになかった。



 ダンスホールに注目が集まっているおかげで今なら誰にも気づかれずにここを去ることがで出来そうだ。



「待ってくれ!」

「え?」



 大きな叫び声のような声と共に、私の肩を掴んでホールに引き戻した人物は、他ならぬサイラスその人だった。



「テラ、君に伝えたいことがある」



 片膝をついて私の手を取るサイラスの声をホールにいる全員が聞いていた。

 そして全員が私の挙動に注視していた。



「サイラス様……?」

「違う。君には俺の事をサイスと呼んで欲しい。あの時のようにサイスと」

「でも……」

「俺と結婚して欲しいんだ」

「!」



 サイラスがそう告げたことで、ホールは驚きの声やら嘲笑やら悲鳴やらが弾けるように響き渡った。


 

「この言葉を本当は、君がキスをしてくれた日に伝えたかった。さようならと言って涙を流す君を抱きしめたくてたまらなかった」

「なぜそれを……!?」

「でも言えなかった。俺はあの日、君に中途半端なことは言いたくないと言ったね?好きだとただ伝えても余計に君を苦しませるだけだと思った。だから、父を説得して、君の御父上にお伺いを立てて、主席をキチンととって、それで君に伝えなくちゃ嘘だと思ったんだ」



 サイスはあの日すまないと言った。それは私へのお断りの文言などではなく、何も言えないことを謝罪していたのだとようやく分かった。



「努力家で、我慢強くて、笑顔の素敵な君が好きだ。あの時は平民同士だったけど、今度は同じ公爵家の家の者同士として一緒にいたい」

「どうして私なの?あなたにはもっと相応しい人がいるはずだわ」

「俺は昔から両親に言われていたんだ。結婚相手には、一緒に頑張っていける相手を選べって。頑張り屋の君とだから、俺は努力できた。君が褒めてくれると、もっと頑張ろうって思えた。こんな相手、君以外にいるはずがないよ」



 私をみつめるサイラスの熱を持ったような瞳から目が離せなくなってしまった。本当にこんな幸せがあっていいのだろうか。

 サイラスとこれからも一緒に居ていいのだろうか。


 あの日の私ならその手をとる自信が無かっただろう。でも今は違う。彼の隣にいるためならどんな努力も出来ると知っているから。



「答えを聞かせてくれないか?テラ」

「えぇ、喜んでお受けするわ、サイス」



 私たちは再び大きな歓喜に包まれながらキスをして、主席代表生徒とその婚約者としてダンスを踊ったのだった。

現在、長編小説「言語オタの旅好きがコロナで発狂したら植物学者と異世界にいました」を毎週水曜日に配信中です。

短編も定期的に配信していく予定ですので、そちらもお読みいただけますと幸いです。


また、本作は個人的にとても気に入っているため、短編では書ききれなかった要素やその後を書いた長編連載化も検討しています。もし面白かったと思っていただけた方はブックマーク高評価等、応援いただけますと励みになりますのでよろしくお願いいたします。

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[良い点]  卒業認定試験で貴族が平民に扮して労働体験をするシチュエーションが面白いですね。大衆食堂を舞台とすることで、子爵令嬢のテラコッタと公爵令息のサイラスにも、親しみ易い一面があるのがわかりまし…
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