タクシー
その日は仕事も遅くなってしまい、バス通勤だったがもちろん終バスもない。
仕方がなく駅前でタクシーを拾い、乗った。
駅前からウチまでは結構な距離があるので、痛む財布を心配したが歩いて帰るなんてのはまっぴらだった。
そのタクシーの運転手は陽気な男で、あれこれと色々話し掛けてくるので、疲れてはいたがその運転手の話し方
が上手く、さすが客商売だなと感心しつつも、悪い気はしなかったので無難に相槌をうっていた。
ところが、走り始めて10分位したところで急にそれまでとガラリと口調を変えてこんなことを言い始めた。
「お客さん、ちょっと夏向きの話しでも紹介しますよ。これは社内で相当評判になってる、言わば身内ネタみたいなもんなんですけど、特別にお話しします」
特別な話しだというので興味をそそられ、続きを促した。
「いえ、もちろん夏向きの話しって言えば怪談になるんですがね。いいですか?結構、いや相当ゾッとくるかもしれませんけど」
ふんふん、中々興味深い。怪談とかは相当好きな方だったりしたので、もちろん聞かせて欲しいと頼んだ。
「あの駅前、あるじゃないですか。お客さんが乗ってきたところ。あそこね、かなり出るって評判なんですよ」
へえ?長い間利用していたが、そんな話しはあんまり聞いたことがなかった。
「いえいえ、お客さんは普段バスのようですからご存知ないでしょう。これはタクシーの怪談でして」
ああ、なるほど。タクシーは滅多に使わない、そういう怪談があったとしても初耳なのは当たり前か。
「ある日、同僚があそこで奇妙なお客さんを乗せたらしいんです。真夏日のじっとりした熱帯夜だと言うのに、全身ロングコートなんて着て、帽子を目深にかぶってる。変な客だな、と思ったけどそこは客商売、そのお客さんを乗せたらしいんです」
「そのお客さんは松町までお願いしますって。あ、そういえばお客さんも松町でしたね?」
運転手は何がおかしいのか、そういってあはははと笑った。でも、その目はちっとも笑っていない。車内の温度が急に下がったように感じた。
「まあ、それでそのまま走っていると、これがもう見た目どおり陰気な客なもんで何を言ってもうんともすんとも言わない。仕方ないなあ、と思ってしばらく黙っていたら、急にスピードが落ち始めるんですよ。同僚も変だなあ、なんて思いながらもノロノロと落ちていって最後には止まってしまった。ガソリンも満タン近く、電気系統も異常なさそうだしってんで、とりあえず前を開けてみる事にしたんですよ。「お客さん、すみませんね、ちょっと故障みたいなんで待ってていただけますか?」同僚はそう言って、車から降りてボンネットを開けてみたそうです。……ああ、そこは結構な外れに来てまして、街灯もあんまりないようなくらーい道だったそうですよ。そうそう、丁度今走ってるみたいなね」
運転手はさっきから、怪談の話しと今の事をいちいち取りざたして話す。まあ、これも恐怖を煽る演出の一つなんだろうとは思ったけど、正直あんまりいい気はしない。さっきから感じている嫌な雰囲気が、段々濃くなっているような感じがする。
「で、開けてみた。開けて覗き込んだ瞬間、同僚は悲鳴を上げたそうですよ。何しろ、ボンネットの中にはびっしりと何百という目玉が詰め込まれていて、それが一斉にギョロリとこっちを向いたんですから」
運転手は、言ってしばらく間を空ける。空気がどんどん溜まっていくような息苦しさに耐え切れなくなって声をかけようとしたら、いきなり続きを語りだした。
「同僚は慌ててボンネットを叩きつけるように締めて、運転席に転がりこんだそうです。がたがたがたがた震えながら。そうしたら、後ろのお客さんが涼しい声で「どうかしたんですか?」って聞いてくる。同僚は、とにかく今見たのは何かの間違いだと思い込んで、「いえ、なんでもないです」と答えた。でも、お客さんがしつこく聞いてくる。たまりかねた同僚はとうとう話そうとした。「今、ボンネットの中に……」「目玉でも見えましたか?」ぎょっとして、後ろを振り返った同僚は見ちまったんですよ、その、お客さんのコートと帽子の下。それはやっぱり、何百という目玉がブルブル震えながら同僚を見てる。そして」
「お前も仲間にしてやるよ!」
「……それっきり、同僚の姿を見た者はいません」
ようやく終わったのか。空気が少し軽くなった。でもあんまり怖いって感じの話しではなかったな。
「おや、その顔は今一でしたか?残念」
ははははは、なんて陽気に笑う運転手は、さっきまでの運転手と同じだった。それにほっとして、あんまり怖く無かったと、正直に言ってみた。
「やあ、そうですか。でもねお客さん、ここでちょっと考えてみてくださいよ」
運転手は陽気な笑みを顔に貼り付けたまま。
「この話、おかしくないですか?」
何がおかしいというのだろうか。いや、そんな事は解ってる。でもそれは、ダメだ。絶対に聞いてはダメだ。
「別におかしいところはありません」
「そうですか? 本当にそうですか? 全然ありませんか? 全くありませんか?」
しつこくしつこく聞いてくる運転手だが、これには絶対に答えてはいけないと、そう強く思った。
「別におかしいところはありません」
機械的に、震える声であくまでそう答える。解ってる、解ってる、解ってる。でも絶対に答えてはいけない。いきなり運転手の態度が豹変する。
「あんたウソついてるでしょ? 本当はもう解ってるんでしょ? ほら、言いなさいよ。言えよ。言えって!! おかしいだろう! 言ってみろよ! 変だろう!」
もうまともに車両の運転席側を見る事が出来ず、目を硬く閉じてどんどんどんどん大きくなる運転手の怒鳴り声をやりすごす。耳をふさいでいるのに、直接耳の中に声が届くような気がする。早く、早く家に着いてくれ。それしかもう考えられない。
運転手の声はもう耳を抑えなければいけないほどの大声になっていた。
「ちくしょう! 解ってるくせに!! 一人だけ助かろうってのか!! ええ!?」
泣き声のような怒り狂った声が、突然ぴたりとやんだ。恐る恐る目を開けると、それは何時の間にか自分の家の前に着いていた。もう一刻も早く降りたくて転がるように車外に飛び出す。
そして後ろを振り返ると、あの運転手がこちらを恐ろしい顔で見下ろしてる。その顔は、目の部分に真っ暗な穴が開いていて血の涙を流していた。そしてぽつりとつぶやいた。
「また取り損ねた」