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せんぱい

作者: タカマン

事故

 六甲山系の湧き水を汲みに行ったのは、後輩のMが大腸ガンで亡くなってから1周忌を迎えた頃であった。山登りが好きだったMの墓前に湧き水を供えてやろうと思ったからだ。Mは亡くなる前中学3年生を担任していて、その3年生を卒業させると自分も退職したいと言っていたことを思い出す。定年まであと2年あるが、定年までは勤められないだろうとM自身考えていたようだ。口ではいつも冗談を言っていて人からはチャランポランに見えるMであるので、本人が末期の大腸ガンで手術もできないと聞かされたときは本当にびっくりした。Mよりも1学年上の自分は、その時定年を待たずに退職していたので時間的に余裕はあった。Mの治療は放射線と抗ガン剤の組み合わせ治療だったので、頻繁に病院に通院する必要があった。それでMが通院するときは自分が運転手をかって出た。愛車のジムニーはそんなに広くないがMと2人ならば十分なスペースがあった。そして、Mの家から病院までは同じ市内の中でも割と離れていて、渋滞を避けるために脇道を走るときはジムニーは最適であった。

 しかし、自分が今乗っているのは排気量250のバイクであった。Mのことを思い出しジムニーが浮かんだのに、バイクに乗っているのは不思議な気がした。そんな不思議な気持ちを抱えながら、六甲山系の山道を降り国道176号線に出た。確かJR宝塚駅前だったと思う。前方の信号が青なので減速せずにそのまま交差点に入った。その時、右折の軽乗用車も同じぐらいのスピードで交差点に入ってきた。記憶の中にあるのはそこまでしかない。再び記憶がよみがえるまでは、それから6日間を要した。事故の詳細は新聞で次のように報じられていた。

 平成24年5月24日午後5時38分、JR宝塚駅前の国道176号線の交差点で、南方向に直進しようとしていた原田さん(59)のバイクと東から北の方に右折しようとしていた川西さん(72)の軽乗用車が出会い頭で衝突。バイクに乗っていた原田さんはJR福知山線の踏切近くまで約5メートル飛ばされ、事故処理のため40分近くJR福知山線は不通となった。事故の原因は赤信号で入った川西さんが、咄嗟にブレーキを踏もうとしたが、間違ってアクセルを踏んだため大事故になった。バイクに乗っていた原田さんは重体で意識不明。(神戸新聞)

 事故後のことは意識が回復しても全く覚えていない。警察から連絡を受けた母親によると近くの救急病院ということで、兵庫医科大学病院救命救急センターに緊急搬送されたらしい。兵庫医科大学病院は阪神大震災やJR福知山脱線事故などで、災害医療拠点として大きな役割を果たした病院だった。私の遭遇した事故は年間数多くの交通事故者を受け入れてきた当病院でも、一年間に5例のうちに入る重傷者であったとあとで聞かされた。だから、他の病院に搬送されていたならば、私の命は決してなかったと思う。とにかく命を救うということが最優先された。あれだけ大きな衝撃を受けたが、ヘルメットをしっかりかぶっていたこともあって、脳へのダメージはほとんど無かった。それに対して、下半身のダメージは相当なものであった。脊髄損傷をしていて、回復しても歩行することは難しいという判断であった。

 意識が戻らぬままICUにいたときにこんな夢を見た。それは、六甲山系で汲んできた湧き水をMの墓前に備えようとしたとき、なぜだかMが現れ、

「先輩、わざわざ遠いところに行って湧き水を汲んでくれてありがとう。でも、今この水を貰うと先輩に悪いから持って帰って欲しい。」

そういって、Mは墓石の中に消えていった。手持ちぶさたになった私は、せっかくしんどい目をして汲んできた湧き水を供えるわけにいかず自分で飲むことにした。そうするとなぜか知らないけれど意識が戻ったのである。ICUの天井のライトが目に入った。Mがそのまま水を受け取ってくれていたら、湧き水を飲むこともなく、私はおそらく意識を取り戻すことはなかったと思う。意識が戻ると、私は体中がベッドに固定され点滴の管やドレーンが着いていることを知った。大きな事故を受けた私は事故直後手術を受け、腰から下の足は何とかつながっていたものの、歩くことのできない脊髄損傷患者になっていた。あとで聞くと、その手術は大工さんが家を建てるようなもので、骨を切ったり繋げたりするようなものであった。ICUにはほぼ1ヶ月近くいた。その後、病院の中の個室に移動することになった。そのころにはMの奥さんやSやTが見舞いに来てくれるようになった。Mの奥さんは私が六甲山系に墓前に供える水を汲みに行っていた時に事故にあったことを知り、主人があの世で呼んだのではないかと思っていたが、私が意識が戻った時の話をすると胸をなで下ろた。Sは私の中学校の時の後輩で同じ市内で小学校の教師をしていたが、アウトドアが趣味で私とよく出かけたりすることがあった。Tは私とは直接関係がなかったが、Mとのつながりから年に1回但馬にカニすきに行っていた縁があった。カニすきはMが亡くなるまでずっと続いていたが、Mが居なくても何とか続けていきたいと思っていた矢先、私がこのような事故にあったのだった。

病院巡り

 兵庫医科大学病院に2ヶ月近く入院していたが、急性期の病院なのでここでの治療は終わったということで系列のささやま医療センターに転院を余儀なくされた。医療センターは田舎という言葉ふさわしく、窓の外の景色はのんびりしたものであった。盆地の中にあり秋から冬にかけての季節は深い霧に覆われ、昼頃にならないと周りの景色が見えなかったが静かな落ち着いたところであった。ただ、入院して3ヶ月もたつと病院としては転院して欲しいようであったが、寝たきりの状態は相変わらず、逆に口は麻痺もなく事故前と変わらなかったので、私としては歯がゆい思いであった。時々見舞いに来てくれたSは、

「先輩、口は相変わらず達者ですね。」

と言ってくれたが、私は何もうれしくなかった。このまま自宅に帰ったとしても、高齢の母親が一人いるだけで、とても介護できるわけでなく、私が少なくとも車いすに乗って移動できるぐらいまで回復できないものかと思っていた。だから、病院からなんと言われようとも、もう少しよくなるまではここの病院にいることに決めた。病院の方も手術をした系列の病院ということであまりきついことは言わなくなっていた。だから、それから後1年近くこの病院に入院することができた。しかしこの間私の体が車いすに乗れるほど回復したかというと、そんなこともなかった。それに、手術後褥瘡について何らケアされなかったので、褥瘡はますますひどくなりソフトボール大の大きさになっていた。根治は難しいということでガーゼ交換をしてくれるだけであった。

 私がこの病院を転院しようと思ったのは、見舞いに来てくれていたTからの情報があったからである。Tはインターネットを検索して、脊髄損傷患者の病院を調べてくれた。西日本では、枚方の星が丘病院と岡山の吉備高原にある病院が専門であると教えてくれた。枚方の病院のほうが近かったが、ベットの空きがないということで、岡山の病院に行くことにした。

 岡山の病院は吉備高原都市という新しい計画のもとにできた病院で、山陽自動車道の岡山インターから一直線の道ができていた。その道は途中岡山空港の横を通っていたので、岡山市からのアクセスは良く、病院の一角も近代的な感じがした。ただ、そこから少し離れると、まるでゴーストタウンかのようなところであった。吉備高原都市として開発したもののその計画が予定通りいかず、私が入院したときはリハビリテーション病院と職業開発センターがあるくらいで、ポプラというコンビニがあっただけのところになっていた。

 病室から見る景色は、さすがに高原都市というだけあって、眺めも良くはるか南方には今は政令指定都市になっている岡山市の風景を見ることができた。ただ、朝晩の冷え込みは厳しく、冬になると窓に霜がついたりして、なかなか融けることがなかった。篠山の時は霧で外の景色が見えなかったが、ここでは霜で外の景色が見えなかった。そしてここは、脊髄損傷患者の西日本の拠点病院ということもあって、交通事故で入院している人がほとんどであった。もちろん私よりも若い20台の若者も何人かいた。廊下はリハビリができるように広くとってあり、電動の車いすを使って長い距離を移動することができた。私と同じように口は達者であるが体の不自由な者がほとんどだったので、共有のフリースペースに行くとお互いにその境遇について語り合うことができた。篠山の病院では定期的に巡回してくれる看護師や理学療法士と話をすることだけであったが、ここでは同じ境遇を持つ患者同士話をすることができた。そのなかでは私よりも若い人がたくさん居た。彼らは厳しいリハビリにも耐え、一日も早く退院したいようであった。彼の恋人と思われるような人も何度も見舞いに来ていた。そのことが彼のリハビリの原動力になっていた。私にはとてもうらやましく思えた。やはり、誰かのためにがんばるということがモチベーションになると思った。

 教育系の大学を卒業してから、すぐに教師にはならず、Mと一緒に3年ほど家庭教師や塾のアルバイトをしてから中学校理科の教師になった。理科の教師というと物理や化学のイメージが強いが、私はどちらかというと自然相手の地学や生物の方が好きであった。最初赴任したところは京都府と奈良県の境界で、その当時は僻地といわれていた。今では、学研都市の周辺ということで開発も進み人口も増えたが、私が赴任した30年ほど前は村には万屋のような店が1軒あるのみで、私はその店の2階に下宿していた。そこの学校には8年いたが、若い女性と出会う機会はほとんど無く、自然が好きな私にとっては、毎日がフィールドワークできるような所であったので、結婚ということについてはほとんど考えることなく過ごしていた。

 8年後今度は新興住宅地を抱える中学校に移動した。もちろん僻地ではなく人口も急増しているところであった。変動が激しいことや地域のつながりが希薄なことと、当時校内暴力で中学校が荒れていたこともあって、毎日が生徒指導で明け暮れる、そんな毎日であった。自然相手にフィールドワークをするどころか、非行に走る生徒を見つけに繁華街を歩くそんな日々であった。若い女性教師も多くいたが、つきあうこともなかった。とてもそんな余裕はなかった。赴任して10年が過ぎようとしていた頃、私にひとつの見合い話が持ち込まれた。相手は40歳前の保育士さんであった。私も厄を過ぎていたし、彼女は父親と2人暮らしでそのために婚期が遅れたとのことであった。出会ってみてそんなに悪くなかったので、私は結婚する気持ちになっていた。確かその時の年末、高槻の居酒屋でMとTと3人で忘年会をした時に来春結婚するつもりであると話したことを覚えている。2人はいよいよ先輩も結婚するのかと、とても喜んでくれた。しかし、その結婚話は婚約の日が近づくにつれて、彼女の迷いが高まり、結局は破談になってしまった。今まで一緒に暮らしてきた父親がこれから一人になるかと思うと、そのことが心配で自分が幸福になってもよいのかという葛藤があったのだと思う。そんなことを悩む人だからこそ、いい人には違いないが、その分残念なのだが結局は縁がなかった思いあきらめることにした。そしてそれ以降、結婚については考えることを止めた。

 もしその時結婚していて子どもが生まれたりしていたならば、リハビリに対する思いはもっと強固なものになっていたと思うが、私にはそう考えることしかできなかった。逆に、高齢の母親をよけいに心配させるだけになった。母親が見舞いに行くには、この病院はあまりにも遠いところにあった。

 見舞いといえば、SやTが何回か見舞いに来てくれた。Sはアウトドア的なことが好きで、フィールドワークを兼ねて、これまで何回もSと2人で愛車のジムニーで出かけたことがあった。あるときなど狭い雪道でバスとすれ違うことがあり、このときのことを思い出すと、背中が寒くなるようなことがあった。それでも、Sは平気で一人で何度も狭い道をドライブすることがあった。高槻から高速を乗らずに7時間かけて来たことがあった。帰りは高速道路で帰ったそうだが、その話を聞いて、Tは

「もしMさんが生きていたら、そんなことまでして、見舞いに来ていらん。」

と言うだろうなあと思った。先輩はおそらく心の中ではそう思っていたと思うが、見舞いに来てくれたことに対して、感謝の気持ちを言っていたと思う。そしてその後もSは高速道路を使わずに長い時間をかけて見舞いに来てくれた。そしてそのうち、自分から

「Mさんやったら、そんなことまでして見舞いに来るな。」

と言うと思うと先輩に話していた。

 Tは高速道路を使って見舞いに来てくれた。Tには知的障害が重度で自閉症の娘がいた。病室まで連れて行くことができないので車の中で待たせることが多かった。

ただ、娘を連れて行くと高速道路の障害者割引が使えるので、そのことのメリットはあった。ドライブすることは娘の好きなことであったが、車の中で一人で待たせるというのは不安な面もあった。Tの家からは3時間ほどかかったが、10分ぐらいしか病院にはいなかった。最初、Tは遠慮してそんなことを話さなかったが、3回目の時に娘が車の中の待っているので、ゆっくり話ができないと言ったことがあった。そして申し訳ないと話してくれた。そんなにまでして見舞いに来てくれたかと思うと、私の方こそ申し訳なかった。

 Tは自分の娘が知的障害者ということで身体障害者のことに対しても詳しかった。事故から2年が経過するのに、私が障害者手帳を取得していないことを知ると、直ぐにでも申請するように話してくれた。申請をしても私が住民票のあるところに今居る訳でなく、療養中ということで行政の方もなかなか動いてくれなかった。車いすでほぼ寝たきりで、口以外は全て不自由な私だから、誰が見ても1種1級の身体障害者であるに違いないが、障害者手帳が手許に来るまでは時間がかかった。

 吉備高原の病院に入院した時に、次の病院を決めておくのが決まりであった。しかし、私の家の近くの病院は全て一杯で、入院を確約してくれるところはなかった。それに私には褥瘡があり、そのために、入院できる病院は限られていた。とにかく早いうちに次の病院を決めるからということで、何とか頼み込んで吉備高原に入院することができた。吉備高原が脊髄損傷患者の基幹病院でなければ、おそらく引き受けてくれることはなかったと思うが、次の病院はなかなか見つからなかった。

 入院して半年後にやっと次の病院が見つかった。そして転院を余儀なくされた。その病院はとにかく何でも引き受けてくれるところで、建物は建て増しに次ぐ建て増しで迷路のような廊下になっていた。自分で電動の車いすを操作できるようになっていたが、この病院では車いすに乗ることさえできなかった。しかも、4人部屋であったので落ち着くことはできなかった。話し相手があればと思うが、全て私より高齢でほとんど寝たきりの人であった。とにかく、1ヶ月ぐらいの間であれば、診療報酬もそれほど低くならないし、直ぐ次の病院を紹介すればいいぐらいなことしか考えていなかった。診察のたびに医師は、

「こんな褥瘡があったら大変や。はよ治さなあかん。」

と言うだけで、ガーゼを貼りかえることぐらいしかやってくれなかったが、褥瘡を根治してくれる病院を探してくれた。

 褥瘡を根治してくれる名医の居る病院は岡山県笠岡市にあった。笠岡というとあのカブトガニが居るところだと思った。それ以外の知識は私にはなかったが、地図で調べると広島県に近いところだった。吉備高原が山の中にあったのに対して、瀬戸内海の近くにその病院はあった。

 今居る病院から笠岡の病院にどのようにして転院していけばよいのか、私には全くわからなかった。ただ、病院のコーディネーターによると、とにかく笠岡の病院に行って、診察を受けなければならないということは確かであった。診察の日程が決まると介護タクシーを予約した。片道3時間車いすのまま過ごさねばならないと思うと、気が重かったが、とにかく笠岡の病院しか選択肢は残されてなかった。病院のドクターの書いた診断書が功を奏したのか、初診だけであったのにもかかわらず、その日私は笠岡の病院に転院した。あの悪夢のような交通事故から3年が過ぎていた。

 笠岡の病院は個室であった。4人部屋の病院に比べると、落ち着いて過ごすことができたが、病室の作りを見ると個室の病室と言うよりは、隔離病室という感じであった。何となく感じた違和感を看護師さんに聞くと、インフルエンザや感染症の患者さん用の病室であるとのことだった。だから2重扉になっているのだなと思った。病室からは、海が見え島へ渡る連絡船が見えた。今までの病院は山の中にあったのとは大きな違いであった。そして日当たりもよかった。

 褥瘡の手術はお尻や太股から切除した自分の皮膚を患部に移植させるものであった。再建術といわれるもので、移植してから皮膚が完全にくっつくかは最低1ヶ月は見ないとわからないものであった。私の場合、脊髄損傷があり神経が十分機能していないことから、皮膚を移植しても1ヶ月たつと壊死していることがほとんどであった。さすがに名医と言われるドクターも、手術を繰り返すしか方法はないと言うのみであった。一度手術をすると切除した皮膚の治り具合などを考えると、3ヶ月ぐらいは間隔を空けないとだめなので、一年に4回ぐらいしか手術をすることはできなかった。そして、5回目の手術が終わった時、何となく今度は感触がいいとドクターが言っていたのでかすかな希望を持った。1ヶ月がたち、皮膚の様子を見ると壊死することなく機能していた時は、本当にうれしかった。

 吉備の病院の時はアクセスも悪く、見舞いに行くことができなかったMの奥さんも娘さんを連れて見舞いに来てくれた。そして、娘さんの結婚の報告をしてくれた。Mには子どもが2人居て、事故に遭う前には、Mにかわって面倒を見てやらねばと思っていたが、自分がこんな状態になり何もできないとなると無力感を感じていたが、結婚の話を聞き少し肩の荷が下りた気がした。

 褥瘡もほぼ治りドクターからは退院ことの話が出た。そして、退院先は当然前にいた病院ということになった。私としては吉備の病院にもう一度帰り、今度はもう少しきつめのリハビリを受けて体の回復に努めたかったが、それはかなわないことであった。

 笠岡の病院に来た時と同じように介護タクシーを手配して前にいた病院に帰ってきた。期待というよりも諦めというか、仕方ない気持ちでいっぱいだった。おそらく4人部屋かどこかであろうと思っていたが、なんと今度は個室が用意されていた。私はその待遇にびっくりした。そしてその部屋の作りをよく見ると、個室にしては広すぎる部屋であった。広い部屋であったので、介護用のリフトが設置されてあり、車いすからベットへの移乗もやり易いようになっていた。ただそれにしても広すぎる部屋であった。担当のナースに詳しく尋ねると、その部屋は病院ができた時に手術室として作られていたものであったが、最近は手術することもなく、この病院で手術しなければならない時は、他の病院に転院することになっているので空き部屋になっていた。この手術室はほぼ物置というか倉庫になっていたが、私が再び入院することになり、改造して個室にした部屋であったことがわかった。話を聞いてみて、蛍光灯の配置や自動扉など納得することがあった。経緯はどうであれ、前の4人部屋の時に比べると快適な場所であった。Tの家からは、半時間ぐらいで来られるというので、2週間に一回はTが見舞いに来てくれた。個室であるので気兼ねなく話をすることができた。褥瘡もほぼ治っていたこともあり、療養型のこの病院にとっては、私の入院が長引いてもそれほど問題ではないようであった。個室で差額も徴収でき、しかも交通事故者で保険が手厚く支払い能力もあるので、病院にとって私は良い患者であった。ただ私にとっては、電動の車いすに乗ることはできず手動の車いすで、週に1回リハビリをしてもらえるだけで、テレビを見るだけが楽しみのような生活しかなかった。吉備の病院のように、共有のスペースに行って患者同士話をすることもなく、定期的に検温その他のために訪れてくれる看護師さんが唯一の話し相手であった。

退院後の生活

 事故から5年が経過していたが、私の裁判は始まったばかりでなかなか進んでいなかった。身体障害者手帳は事故後割と早い段階で取得できていたが、交通事故の場合症状が固定してからという縛りがあり、ようやく提訴したぐらいであった。裁判は弁護士に任せていたが、割と時間のかかるもので、結審するまではそれから2年ぐらい係った。そんなに時間がかかるものかと思ったが、この体で裁判所に行けるわけでなく、弁護士に一任しているのでその弁護士に期待するしかなかった。事故の原因は相手方に100%責任はあるのに、賠償額となるとなかなか算定されないものであると思った。

 そしてその間に、私は年齢を重ね65歳が目前となっていた。事故直後は身体障害者手帳を取得していた。1種1級という最重度のものであったが入院中であったので、福祉サービスを利用できる状態ではなかったので、障害支援区分の申請をしてなかった。入院中でなければそれらのサービスを利用して生活をしていたが、その必要がなかったので受給者証は持っていなかった。ただ、65歳になると当然介護保険の対象になるわけで、介護保険の申請をすることになった。事故当時の状況から考えると今このように元気で生きているのが不思議なくらいの事故であったが、医療の進歩というか、申請をしてみると介護度4になっていた。これも納得がいかなかったが、日常生活は全介助であっても、意識はしっかりしていて、しかも言葉でのコミュニケーションは十分できるので、そのように判定されたのかと思う。ただ、介護度が4ということは、特別養護老人ホームなどに入所できるわけであるが、高槻近辺の施設を探して貰ったけれど、あいにくどこも満杯で引き受けてくれるところはなかった。そんな中規制緩和というもので、厚生労働省管轄でなく国土交通省管轄のサービス付き高齢者住宅(いわゆるサ高住)が、新しく高槻市内にできるという情報があった。新設であるので当然空きはあり、しかも自宅近くということで、私は今居る病院を退院してそのサ高住に行くことにした。

 サービス付きというのは、安否確認ということでつまり生きているのか死んでいるのか確認するだけで、他のサービスについては全て契約であった。コール用のボタンを押して介護士さんが来て何らかのサービスをすると、それはサービスというより日常生活行為であるのだが、その全てにお金がかかるということであった。私の介護度は4、そのために制限を受けることが多かった。これが障害者の福祉サービスであれば、もっと利用することができるのにと、障害者問題に詳しいTは何度も話してくれた。65歳になるまでに障害者の福祉サービスを利用していたらその延長線上のことは可能かも知れないが、65歳になり介護保険を利用してから、障害福祉のサービスを利用することは難しいように思われた。

 私がサービス付き高齢者住宅に入所するようになってから、SやTやMの奥さんが2ヶ月の一回くらいのペースでお見舞いに来てくれるようになった。病院に入院しているわけではないので、お見舞いというのはおかしいが、体の不自由な私が行くことができないのでみんなが来てくれるようになったのだ。お見舞いという感じであったので、来るたびになにがしかの土産をもってきてくれていた。返す物がない私にとっては、ずっと貰うということは気が引けるもので、何となく落ち着かない感じであったし負担にもなっていた。もらい放しというのは逆につらい面もあったので、一度ぐらいは外に食べに出ようかということにもなった。以前の私なら、カニすきの時も私が宿と交渉したりしていたが、なにぶん通信機器を持たない私は交渉することはできなかった。いろんな人からタブレットのような物を持てば人とコミュニケーションが取れるのと何回も言われていたが、なぜかパソコンのような物は嫌いで、理科の教師でありながらほとんど触ったことがなかった。人よりも早く教師を辞めた原因の中のひとつに、当時進められていたIT教育に対する嫌悪感があったのは間違いない。理科の教師といっても、私の場合は地学が専門で、地質を調査するのが好きであったので、パソコンに対してはなじめない物があった。サ高住から近くにあって車いすでもアクセスのよい所となると、駅前の中華料理店しかなかった。予約はMの奥さんがしてくれた。サ高住からは道路の整備がされているので、電動の車いすで20分ぐらいでそこに行くことができた。一人では心許ないので弟が一緒に付き添ってくれた。普段は、部屋の天井とテレビを見ているだけのことが多く、週2回あるディサービスでは入浴することがメインであった。だから、このサ高住に来てから電動の車いすに乗って外出することはほとんどなかった。外に出て食事をしてみると、それは改めて新鮮なものであった。毎日がこんな風に教育(今日行く)と教養(今日用)があれば、どんなに楽しい一日が遅れるのかと思うが、今の私にはそれを毎日考えることが大切である。過去の元気であったことを振り返ってみても、昔に戻れるわけでなく、今生きていることを受け入れざるを得ない。

そんなことを思いながら、再び電動の車いすに乗ってサ高住に帰った。そして疲れたのか、そのまま1時間ほどベッドで眠りに入った。心地よい疲れというか、そんな経験をしたのは、事故後初めてであった。


 


 

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