ホウレンソウ
「おかえりなさい、イアンさん」
「ああ、ただいま」
二人を帰宅させ、戻ってきたイアンさん。もう夕食の時間だ。彼が戻ってくるまでずっと“データベース”でランドルフ伯爵のことを調べていたが、これといって弱点は見当たらなかった。
彼の事業に関する書面も、大半が賞賛のもの。スキャンダルの一つも存在しないなんて、そんな完璧超人がどこにいる? 絶対、なにかしら裏で危ないことをしているはずなのだ。我ながら偏見がすごい。
イアンさんはどこまで知ってるんだろう。あるいは、どんな印象を抱いているんだろう。なにか糸口になればいいけど。
「ランドルフ伯爵ってどんな方なんですか?」
「あ? あー、そうだな。昔っから帝国に尽くしてる人だよ。貴族としては珍しい……っつーか、本当にあの人くらいじゃねぇのか。国のために動いてる貴族なんて」
「……ちなみに、悪い噂は……」
「聞いたことねぇ。脅しのネタにでも使うつもりだったのか……?」
察しのいい男だ。適当に笑ってごまかそうとするが、それも通じず。
「あの人を揺するのは止めとけ。国民の信頼も厚い。なにかあったら責められるのはお前の方だぞ」
そこまで言わせるなんて、相当の慈善家なんだろうな。変な話、私の肩を持つであろうイアンさんですら止めるのだ。弱点を突くような攻め方はできなさそう。
「うーん、どう攻めようかなぁ……」
「むしろ脅迫するつもりだったのかお前……」
「えへ……」
やめて、そんな顔しないで。営業は契約取ってなんぼなんです。そのために手段を選ばないのは約十年の賜物です。賜物って言っていいのかこれ。
しかし、弱点がないなら真っ向勝負しかないか? 伯爵との商談において、最も懸念すべきはケネット商店の処遇だ。アーサーを加入させまいとするならば、店の存続を盾にしてくる可能性も十分考えられる。
そうなったら、ケネット家の皆さんに申し訳が立たない。というか、私には選べない。ケネット商店も、アーサーも。そうなれば私の負けだ。
負け戦……と思ったら駄目だ。及び腰で臨めば取れる契約も取れない。絶対にアーサーを勝ち獲ってやる。ケセラセラ。諦めなければどうにでもなる。初心に返れ、私なら出来る。
……初心? 初心ってなんだっけ……ケセラセラ?
「まあ、俺もやれるだけのことはやるからよ。商談の決心がついたら声掛けてくれ」
「信じてますよ、長官……」
イアンさんもこう言ってくれる。ならば、恐れることはないか。じゃあいま私に出来ることってなんだろう? アレンくんともう一度話してみるべきかな? アーサーの加入に協力的だったし、感情的に動かないように釘を刺す意味でも接触しておいた方がいいかもしれない。
「すみませんが、私も出てきますね」
「あ? もう夕飯の時間だろ」
「外で済ませます。それと、今日帰らないかもしれません」
「お、おう……念のため聞くが、男のとこじゃねぇよな……?」
この人は本当に“リオ”を気にかけてくれているなぁ。ありがたい気持ちは勿論あるけど、私にその理由がわからないから困ったものだ。過去について聞いても教えてくれないし、別にいいけど。
「大丈夫ですよ、アレンくんのところです」
「あ、ああ……そうか、ならいいんだけどよ……気をつけろよ、男はオオカミだからよ……」
「なんですかそれ……もう、心配し過ぎですよ。あなたはパパじゃないんですから」
なにも言えなくなってる。私の保護者にでもなるつもりだったのかこの人。思わず苦笑してしまう。まったく、過保護過ぎる。と思ったけど、私ってまだ十六歳なんだよね……そりゃ心配もするか。
「それじゃ、行ってきます。イアンさんもご飯食べてくださいね」
「おう、気をつけてな……」
なんだその顔は、飼い犬か。私と離れるのがそんなに嫌か。ここまで来ると過保護とかいう次元じゃなくなってきますよ。
やれやれ、と思いつつ。まあ二十一歳なんてまだまだ子供。ここは一つ大人の余裕を見せてあげるべきか。イアンさんを手招きすると、訝しげに近寄ってきた。
イアンさんの右手を両手で握る。驚いたのか目を見開く彼に、私は優しく微笑んだ。魂はアラサーとはいえ、肉体は美少女。これで安心しないならそれはそれで問題だ。
「ちゃんと帰ってくるから大丈夫。なにかあったら連絡するから、ね?」
「……! あ、ああ……わかった。悪いな、気遣わせて」
んん? なんだろう……一瞬、表情が揺らいだ。驚きとも違う、安心とも違う。なんていうか……幼く見えた。無邪気さとかそういうのでもない。大人ではなく、子供がなにかを恐れるような顔。
少なくとも、私が知るイアンさんの顔ではなかった気がした。本当に一瞬のことで、気のせいだとは思うけど。胸に引っかかりを残しつつ、事務所を後にする。
さて、歩きながらも頭は休めず。伯爵戦について考える。どうやって篭絡させようか……ケネット商店を盾にされる可能性も考慮するなら、先にバーバラさんたちに話しておくべきか?
「おや、リオ様。こんばんは」
「はぇ? あ、ネイトさん。こんばんは」
思案に耽っていると、目の前にネイトさんが現れる。微笑みを湛えているが、違和感を覚えた。以前よりも固くない、気がする。
思えば、昨日エリオットくんと出掛けてからは会ってなかったんだ。本当になにがあったんだろう。
「笑顔、いいですね」
「恐れ入ります。まだまだ拙い笑顔ではありますが、リオ様のお手伝いをさせていただけるなら精進致します」
「へ? お手伝い?」
なんの話だろう? 私の手伝いってなにをする気なんだ、この人は?
ネイトさんもネイトさんで、私の反応が予想外だったのか表情が消える。いったい誰からどんな話が通じていると思っていたんだろう。
「イアン様から伺っていませんか?」
「イアンさんから……? なんの話ですか?」
「彼が私をアイドルに勧誘したのですが……」
「は……? はあ!?」
驚愕、衝撃。ネイトさんの手を引っ張り、事務所を全力疾走。扉を力任せに引っ張ると蝶番が悲鳴を上げた。喚きたいのは私の方だ!
「イアンさん!」
「どぉわっ!? おかえり!? っつーか扉は静かに開けろ!」
「それどころじゃないんですけど!? なに勝手に勧誘してるんですか!? とりあえず正座! 姿勢を正して肩を閉じて! ついでに頭も垂れて! あなたに拒否権はない!」
「そこまで!? いったいなんの話だ!?」
「この期に及んでとぼける気か貴様ァ! 今夜は寝かせませんからね! お覚悟を!」
ケネット商店のことも勿論大事だ。だが、いまはそれより優先的な案件を前にしてしまった。ひとまずイアンさんには聞きたいことが山程ある。
さらっとオラオラ系男子みたいな台詞が出てしまったが、この際どうでもいい。寝かせないのは事実だし……戯れじゃなくて尋問だけど。