“お手”をどうぞ
ギルさんの家はミカエリア東区の奥まったところにあった。集合住宅の一室で、四階建ての二階が彼の住まいだった。夜の東区はそこそこ物騒なので、日中にしかお迎えに行けないと思う。
家の周りはしんとしている。夜は人で溢れ返っていることもあり、この静けさが少し気味悪く思える。さっさとノックしてしまおう。扉に手の甲を向けた途端、ひとりでに開いた。
「あ、え?」
「おう、いらっしゃい。どうした?」
「いやそれこっちの台詞でして……どうしてわかったんですか?」
「なんとなく。人の気配したから誰かいんのかなーって」
武士か。何奴! って得物向けられなかっただけ良しとしよう。ひとまずご在宅でよかった、手間が省けた。
「えっと、アイドルの件でお話がありまして」
「ああ、そう。とりあえず中入って。茶くらい出すからさ」
「へ? え?」
じっくり腰を据える話じゃないからどうしたものか。用件だけ伝えてアレンくんを迎えに行く方がいいか? お茶くらいならご馳走になってもいいか……いやでも待って、この人はアレンくんより大人だ。うっかり部屋に入ろうものなら押し倒されて、とか……。
ええ……いやいやまさかね……ギルさんってそういう人じゃないじゃん……どうだろう、実はオオカミのパターンある……? 男はみんなオオカミだってかつての同僚が言ってた……。
なんて考えていると、ギルさんが笑った。またこれだ、意地の悪い顔。オルフェさんとは違うタイプだけど、ギルさんにも女性関係は気をつけてほしいですね。
「なんもしねーよ。それとも期待した?」
「ししししてませんけどぉ?」
「ハハッ、そんな慌てるかね。マジでなんもしねーから安心して。仕事関係の人となんかあったら面倒だろ」
ああ、その辺りはちゃんと理解してるのか……だったら大丈夫だ。疑ってごめんなさい。
でも女性を動揺させるような言葉は慎んでください。熱狂的なファンはあなたの意志を尊重しませんよ、襲われないようにだけ気を付けて。
そんなこんなでギルさんの部屋へと招かれる。びっくりするほど味気ない。白いフローリングに、最低限の家具しかない。押し入れの中に手品の道具などが入っているのだろうけど、内装だけ見るとちょっと心配になる。
彼は本当にお茶を淹れてくれている。注意深く手元を観察するが、妙な錠剤や粉末は見当たらなかった。警戒し過ぎか……? いや、そんなこともないか。
「ほれ、アレンのと比べないでくれよな」
差し出されたお茶は湯気を立てている。いい香りだ、アレンくんがよく淹れてくれるものよりも甘さは控えめ……に、感じる。あまりこういった嗜好品に触れてこなかったものだから違いがよくわからない。
恐る恐る口にすると、少しだけ大人の味がした。アレンくんのは甘いお茶を好んでいたということだろうか。うーん、そういうところも可愛いね。
「で? 用件は?」
「はっ、そうでした。これから顔合わせをしたくてですね……」
「あー、もしかしてアレンとオルフェ? あいつら初対面なの?」
「そうなんです。エリオットくんはいま騎士の方とお出掛けしているので、三人だけでもと思って」
「はいはい、わかった。支度するからちょい外で待ってて」
意外と物分かりがいいな……? 面倒臭がるかなぁとも考えたけど、目の前のギルさんは本当に“二人目”なのかもしれない。私がいままで接してきたギルさんとは別人と思った方がいいのかな? 悪い変化じゃないから、いいんだけど。
着替えをまじまじと見つめるわけにもいかず、玄関先で待つことにした。男の子は準備が早い。ものの数分でギルさんが姿を見せた。あー、カジュアルって感じ。モノトーンできちっとまとめている。細身だから映えますね。
「お待たせ。どっちから迎えに行くのか知らねーけど、エスコートさせてもらいますよ。お手をどうぞ、お嬢さん」
「はぇ? お手?」
差し出されたギルさんの手に、なにを思ったか手を乗せる私。犬か。ほらもー、ギルさんぽかーんだよ。私もなんでこんなことしたわけ? ちょっとしたことですぐぼけーっとするのは私の悪いくせ。
しばらく奇妙な沈黙が訪れる。ギルさんの盛大な笑い声がそれを引き裂いた。
「ハッハハハハハッ! なにやってんだリオちゃん!? 可愛いワン公だな! よーしほら、お散歩行くか!」
「ちょちょちょちょっと! いまのはぼけっとしてたからです! だから頭触んないでくださいってばあああ!」
駄目だ、完全に犬扱いされてる。これもうプロデューサーの威厳ゼロじゃん。飼い慣らされることだけは避けなければ……。
=====
ギルさん宅からケネット商店まではそこそこの距離だ。歩いていれば自然とピークは過ぎている。現在、時刻は十四時に迫る頃。ケネット商店まで到着したものの、気がかりな点が一つ。
「……どうして、私は手を握られているのでしょうか……」
「可愛いワン公だからなぁ、勝手にどっか行っちまわないようにだよ」
からかうような声音。どうするのこれ、アイドルに飼われるプロデューサーってなに。私の人生は成人女性向け漫画じゃないんだよ。
ひとまずアレンくんに見られるのは嫌だ。なんかすごく私のこと気にかけてくれてるし、余計な心配はかけたくない。気が引けるが、少し乱暴に振り解く。ギルさんを一瞥すれば、こら、そんな顔をするな。がっかりするな。私の良心を咎めさせるな。
罪悪感に平手打ち。よし、大丈夫だ。ケネット商店の扉を開く。元気な挨拶がお出迎え。アレンくんだ。
「いらっしゃーい! って、リオ? ギルもいる、どうしたの?」
「散歩だよ、可愛いワン公の」
「犬の散歩?」
「ギルさんは黙ってください。今日もね、顔合わせ。アレンくんに会ってほしい人がいるの。メンバーの一人」
「あ、そういうことか。わかったよ、ちょっと相談してくるね」
カウンター奥の階段を駆け上がるアレンくん。足音が遠退いてから、ギルさんを睨み付ける。
「余計なこと言わないように」
「悪い悪い、ちょっとやり過ぎたな」
「まったく……」
「お待たせ! 行ってきて大丈夫だって!」
満面の笑みで降りてくるアレンくん。いい笑顔だなぁ、守りたい。これで犬が私のことだとわかったらどうなることやら。改めてギルさんを睨む。口を慎め、小僧。
熱い視線が伝わったのか、ギルさんは諸手を挙げて苦笑い。たぶん十分には伝わってない。まだ余裕が感じられる。いざとなったらお説教すればいい。なーに、弊社の新人に比べりゃ可愛いもんさ。最近の若い子ときたら……って、駄目よ。老害みたいなこと考えてる。落ち着いて。
「えっと、それじゃあ行こっか。場所は“スイート・トリック”の稽古場だから。歩くと……?」
「三十分もあれば着くだろ。ほら、さっさと行こうぜ」
「“スイート・トリック”の稽古場……? ええ……リオ、いったいどんな人スカウトしたの……?」
戦々恐々とするアレンくん。怖い人じゃないから大丈夫だよ。いや、嘘だ。怖いわ。気障な台詞に甘いマスク、フィクションの具現化だもん。きみみたいなピュアな子には刺激が強すぎるかもしれない。
なぜか私も怖くなってきたが、足踏みしていても仕方ない。ギルさんがどんどん離れていく。彼の背中を追うように、私たちは走り出した。