★“生きる”ということ
「はー……ったく、みっともねぇ」
リオが事務所を出て行ってから、一人、俺は酒を飲んでいた。冷蔵庫の奥に忍ばせてあったものだ。ぐいと一気に呷り、机に叩きつける。
昨日からずっと、リオのことが気がかりだった。連絡もなく出て行って、ついさっきようやく帰ってきた。いなくなっちまったのか、また、俺を置いてどこかへ……体が震える。やっと会えたんだ、八年も待った。もう絶対離れたくないと思っちまった。
――俺、こんなに弱い奴だったのか。
昔、あいつに出会うまではそこそこ強く生きていた。泥水で渇きを満たし、ゴミの山で飢えを凌いだ。意地汚く生きていた。いつかきっと、報われると思って生きてきた。強かだった……と、思っているだけだろう。
リオが本当の俺を暴いた。八歳だった小娘が、衣食住なに一つままならない俺の手を取った。村の人間ですら、誰も俺を見ようとしなかったのに。旅人の小娘は躊躇もなく俺を助けようとした。
物心ついてから涙を流したのは、あの日が初めてだったのかもしれない。
「……ガキに戻るな。俺は文化開発庁長官、そして、カインの――」
そこまで言って、止めた。口にしてしまえば、俺があいつの言いなりであると認めてしまいそうだから。
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いまから七年前――次期皇帝を名乗る男が現れた。そいつの名はカインといい、たった一人で辺境の村を訪れた。なんの気紛れか、俺は教育を施された。あいつ自身にではなく、あいつが遣わせた教育係に。不服そうな顔はいまでも思い出せる。
必死になった。頑張れば、生きていくだけの力が身に着くと思ったから。文字も書けなかった俺が、たったの一年で貴族相当の教養を身に着けた。
これでようやく、俺は生きていける。どんな苦難も乗り越えて行ける。俺にはその力がある。そう信じられた。
それから俺は村を出た。世界を回り、知見を深めた。いつかまた、リオと会えたら、こんなに立派になったぞと胸を張りたかったから。覚えていないなら、それでもよかった。
――だが、どこから聞きつけたやら。カインの遣いと名乗る男が現れた。教育係の男ではなかった。話を聞きたくとも逸らされる。なにかやましいことがあるのかもしれない。直感が告げた。
カインには感謝している。教育係を遣わせてくれたのは言い尽くせない想いがある。それとは別に、不信感が募った。なにか俺に隠している、それだけは確信できた。
「……カインは俺になにを望む」
「殿下の腹心として、忠誠を誓うことです」
忠誠を誓う。その言葉で、ようやく理解した。カインが俺に教育を施したのはただの慈善じゃない。自分の思い通りに動かせる操り人形が欲しかっただけなのだと。合理的だ、身寄りのない人間に恩を売れば、いずれ従うしかないからだ。
実際、ここであいつの望みを突っ撥ねれば、俺の居場所はなくなる。そう確信したし、最悪の場合、命を奪われもしただろう。選択肢なんて、はなっから残されちゃいなかった。
そうして俺は、ミカエリアに籍を置いた。久し振りに会ったカインは相変わらずへらへらしていて、なにを考えているのかさっぱりわからない。ただ一つ言えるのは、笑顔の向こう側は真っ黒だということ。
「立派になったね」
「どっかの誰かさんのおかげでな」
「あれ? おかしいな、口の利き方はしっかり教え込んでいたはずだけど」
「……カイン殿下のご厚意あってこそです」
カインは笑顔のまま。だが、気圧された。こいつの背後には国がある。牙を剥けば、それこそレッドフォード帝国そのものを敵に回しかねない。ようやく勝ち得た人並みの人生だ、棒に振るような真似はしない方がいい。
俺の考えなどお見通し。カインの笑顔はそう語っている気がした。
「さて、ここに来たということは僕に忠誠を誓ってくれるんだね?」
「仰せのままに」
「うんうん、本当に賢くなった。それじゃあ、きみにはこの国の宰相になってもらう。冬が明けると同時にね」
「……はい?」
宰相? つまり、レッドフォード帝国の政治を補佐する? 俺が? この男、いったいなにを考えているんだ。
そもそもいまは秋宵の三日、冬明は目の前だ。あまりにも急過ぎる。現在はカインの兄であるアベルが政権を握っているはずだ。どうすれば次席のカインが帝位を継げるというのか。
――まさか、この男……。
「冬明から、この国は僕が取り仕切る。でも、一人じゃ心許ない。だからきみに手伝ってほしいんだ」
「……アベル陛下を暗殺しろと?」
「まさか。殺人者を傍に置いておくわけにはいかないだろう。きみにお願いするのは――」
カイン・レッドフォード。この男は、笑顔の裏に化け物を飼っている。そう思わされた。背筋が震える。それでも俺は、頷くことしかできなかった。
そうして、この国は静かに崩れていく。
それから程なくして、アベル陛下はこの世を去った。レッドフォード帝国に激震が走った。街を歩けば陛下の死を悼む声ばかり。飛び交う追悼は俺をひどく責めている気がした。
夜の繁華街、冷たい風が肺を満たす。なにもかも嫌になりそうな息苦しさがあった。城にはまだ帰れない。俺は自分を証明するものを持たないから。
いまの俺はカインの懐刀――道具でしかない。ミカエリア東区に構える高級な宿が帰る場所だ。遣いに案内されるがままだったが、名前のない俺を泊まらせる辺り、良くも悪くも“隠れ家”なのだろう。
与えられた部屋に戻ると、なぜかカインがいた。相も変らぬ食えない笑顔でひらりと手を振る。
「おかえり、“イアン・メイナード”」
「……それは私の名ですか?」
「うん、その通り。察しがいい子は大好きだ。今日からそれが、きみの名前だよ」
“イアン・メイナード”、それは俺を俺足らしめる証。これで俺は、この世界に生きていると証明ができる。ようやく、生きていると言える。
「さあ、明日から忙しくなるよ。前もって言った通り、きみには宰相の任に就いてもらう」
「……かしこまりました」
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名前と役職を得たことで、俺は晴れてこの世界に“生まれる”ことができた。ただ、それは決して喜ばしいことではない。俺の“生”は犠牲と不幸の上に成り立っている。
リオにだけは知られてはならない。あいつは俺を忘れている。それでいい。小汚い浮浪児のことなんて忘れていい。いま、あいつの前にいる“俺”が全てだから。
――“生きる”ってのは、前を見ること。目の前にあるものと、その先にあるもの。それだけを見て歩き続けること。
俺も、リオも、いまと未来だけ見ていればいい。そうすりゃきっと、いつかは報われる。そうでも思わなきゃ、なにもかも捨てて逃げ出しちまいそうだった。