水平線を越えて
「リオ、リオ……大丈夫?」
午後二時過ぎのリビング。心配そうな声音のアレンくんに、私は返事ができずにいた。
ネイトさんが帰って幾らか時間が経ったいまも、あの衝撃で頭がぼうっとしている。ドスじゃん。美形は立派なドスを忍ばせてるよ。不用意に近づいちゃ駄目。教訓ね、これ。
ネイトさんが笑顔を能動的に見せる気になれば治安は絶対良くなる。住民はもっと安心するはずだ。いや、でもたまにでいいのか。いまのままだとプレミア感がある。ちょっと待って、プレミア感はそんなに大事じゃない。落ち着いて。
っていうか、そろそろアレンくんを安心させてあげないとね。いつまでも呆けてたらさすがに申し訳ない。ビジネス、ビジネス……ここは取引先のオフィスです。いいですね、牧野理央。来た来た、感情が腹の底に沈んでいく。意識が鮮明になっていくのを感じた。
「ごめんね、もう大丈夫」
「よかった……リオ、本当に気持ちの切り替え上手だよね……どこで身に着けたの?」
「ここに来る前に、本当にいろいろあったから……自然と、ね……?」
幼気な青少年に聞かせる内容じゃない。アレンくんはいい子だ、察してくれるはず。ほーら、やっぱりそうだ。心配そうな顔のままだけど、それ以上詮索してこない。きみはいい男になるよ、私が保証する。
触れてはこないけど、心配はしてくれてるんだろうな。「そうだ」と呟くアレンくん。
「リオ、ちょっと出掛けない? 休みもらえたわけだしさ」
「いいよ、デートのお誘い?」
ちょっと意地悪な顔を装ってはいるが、心臓はばっくばくだ。休みの日に、年頃の男の子と街に繰り出す? そんなのデート以外のなんなんだ。私はいま、思春期を取り戻している。ごめんね、中身はアラサーのお姉さんなの……。
戸惑うアレンくんは本当に見飽きることがない。眼福、眼福。ひとまず各々の部屋で身嗜みを整えて、売り場のご両親に挨拶する。バーバラさんがにやりと意味深に笑っていたのが気になったけど、わかりますよ、その気持ち。あなたの息子さん、意外とやる子です。
店を出て、アレンくんに問いかける。デートスポットとか知ってるんだろうか、この子。
「どこに連れて行ってくれるの?」
「うーん……なにも考えてなかった。リオは気になるところとか、見たいものとかある?」
無計画なところも若さか。それならどうするべきか。真っ先に浮かんだものをひとまず提案してみる。
「アレンくんの歌が聞きたい」
「えっ……」
やっぱり駄目なのかな、アレンくんの顔に気まずさが映った。人前では歌いたくないのかな、どこに出しても恥ずかしくないくらいの歌唱力なのに。
私から押してしまえば、きっと断れないんだろう。胸の内で抱えているものを隠して歌ってくれるのだろう。それは私としても本意ではない。歌いたいと思って歌うから、あんなにも心が惹かれるのだ。お願いされて歌っても、きっと心には響かない気がする。
アレンくんはしばらく曖昧な笑顔を浮かべていたけど、深呼吸を一回してから表情が変わった。覚悟を決めたような――けれど迷いや抵抗感もない。なにかを決心した、力強い目をしているように見えた。
「わかった、歌うよ。郊外に丘があるんだ、一緒に行こう」
「……いいの?」
「うん、いいんだ。オレ、また歩きたいから」
歩きたい。その言葉にどんな気持ちが込められているのか、私が推測するのも野暮だろう。アレンくんが決めたなら、私はついていくだけだ。若者が前を向こうとしてるんだ、なにも言うまい。
それからアレンくんの案内で、街から少し外れた場所――緑と海が見える丘に来た。船着き場へ向かう道から脇に入って十分ほど歩くと到着した。街の方を見やれば空を覆い隠す分厚い雲がよく見える。そして、海の方は――
「……!」
たまらず息を飲んだ。目に飛び込んできたのは、清々しいほど青く、どこまでも広がる空。海の方には雲がかかっていないようだ。船着き場には夜しか行かなかったこともあり、久し振りに見た青空はずっと綺麗に見えた。
アレンくんは真っ直ぐに海の向こうを見据える。その横顔はどことなく勇ましく、これまでに見た彼の顔の中で最も力強く輝いているように見えた。でも、まだくすんでいる。もう少しで――この子は、宝石に化ける。そんな気がした。
「……人前で歌うの、もう何年前だっけ。緊張するなぁ」
「心の準備ができてからでいいよ。ずっと待ってるから」
「ありがとう。……ちょっと話してからでもいい?」
やっぱり気持ちの整理が必要みたいだ。黙って頷くと、アレンくんは申し訳なさそうに笑って語り出した。
「……昨日少し話したけど、オレの夢ってさ、人前で歌うことなんだ。思いっきり声を出すのは気持ちよくて、オレの歌を聞いてくれた人が笑顔になるのも嬉しくて、水平線の向こう側――あの空の果てまで、どこまでも、どこまでも届けたい。オレの歌を聞いてほしいって、ずっと思ってるよ。いまも」
いまも。アレンくんの口からその言葉が出てきたことに安心した。
あの夜の帰り道、彼は諦めたって言っていた。けれど、本当に好きなものを自分の中から消し去ることはすごく難しいんだ。ドルオタの私は身を以てそれを知っている。アレンくんにとっての歌がそれなのだ。
――よかった。アレンくんは、本当に歌うことが好きなんだ。愛していると言ってもいいくらい。
アレンくんは続ける。その顔に、声に、もう迷いなんて感じられなかった。
「オレ、やっぱり諦められなかった。消したと思ったけど、消えてなかった。だからもう一回、火をつけるよ。リオ、聞いててくれる?」
「うん、ちゃんと聞くよ」
「ありがとう、それじゃあ――歌うね」
柔らかく微笑むアレンくん。吹っ切れた顔だ。水平線を、その果てを見据えている。雰囲気が変わった。いまの彼はアーティストだ。商家の息子とは思えない、圧倒的な存在感。背筋が粟立つ。肺一杯に空気を吸い込み――歌い始めた。
間近で聞くととてつもない声量だ。アレンくんの全身が共鳴し、声の方向は真っ直ぐ、海を割るほど力強くどこまでも突き抜けていく。マイクなしでこれだ。アイドルになったら、彼の望み通り、どこまでも届けられるだろう。
ーーこんな身近にいたなんて。応援したいと思える、理想のアイドルが。
歌い終えるアレンくん。私を一瞥する彼は、満足そうな、不安そうな、複雑な顔をしている。言葉を失う私だが、自然と手を叩いていた。
「……どうだった?」
窺うような声音。どうもなにも、私が思ったことを言語化するなら一つだけだ。
「……アレンくん、もう一つお願いしてもいい?」
「え? うん……どんなお願い?」
身構えるアレンくん。この言葉で警戒心を解けるかはわからないけれど、私は素直に告げる。私の願いを、真面目に、真摯に、そのままぶつける。
「――私にきみをプロデュースさせてください」