無機質な剣
バーバラさんからのお使いを終えて帰宅した私たち。彼女の手料理は本当に美味しく、食べた後も幸福感がしばらく残っていた。おふくろの味、とでも言うべきか。余裕が出来たらレシピを教えてもらおう。私だって、仕事以外で恩返しがしたい。
それからベッドに潜り、眠りの時間。ここでの生活にも少し慣れてきたからか、初日のように寝付けないということもなかった。うつらうつらと舟を漕いでいる。そろそろ……アイドルプロデュースのために動き始めてもいいかなぁ。
事務所もコネクションも資金もないけど、ケセラセラ。社畜はいつだってなんとかしてきた。きっとどうにかできる。根拠がなくても経験はある。自信を持て、私ならやれる。
現在、時刻は二三時を回った頃。アレンくんはまた散歩に行ったという。また船着き場だろうか。今日も歌を聞きに行ってるのかなぁ。思えばあの夜に出会えなかったのだ、もう一度行ってみてもいいかもしれない。
起き上がり、まぶたをこする。さすがに寝惚けた頭で夜道を歩くのはいろいろ危険そうだ。洗面所で顔を洗ってから行こう。リビングに出ると、明かりがついていた。バーバラさんがまだ起きていた。私を見るなり、朗らかな笑みを湛える。
「なんだい、最近の子は夜更かしが好きだねぇ」
「す、すみません。アレンくんが出て行ったようですので、気になって……」
「ああ、日課みたいなもんだよ。遠慮なんてしなくていいのにねぇ……バカな子さ、本当に」
申し訳なさそうな顔――バーバラさんのそんな顔、初めて見た。
この一家には、なにかある? アレンくんが以前見せたあの顔、あれもそう。なにかを隠すような、諦めたような。心臓がざわつく。他人事のはずなのに、放っておけない。
「……アレンくんはどちらに?」
「え? ああ、船着き場にいると思うけど……」
「迎えに行ってきます」
「なに言ってんだいこんな時間に……ってこら! 待ちな!」
バーバラさんの声を振り切り、船着き場へ駆け出す。売り場のチェックをしている旦那様にも一言告げ、夜のミカエリアを全力疾走。
アレンくんに話を聞かなければ。彼がなにを隠しているのか、どうしてあんな顔を見せたのか。私は知りたい、知らなければならない、そんな気がした。
「おいお前!」
走り抜ける私の腕を誰かが掴んだ。暴漢? 慌てて振り解こうとするが、その声に聞き覚えがあることに気付く。足を止め、荒い呼吸のまま彼の名を呼ぶ。
「アーサー様……?」
そこにいたのは貴族――アーサー・ランドルフだった。暗闇の中にも映える美貌ですね、麗しい。でも、こんな夜更けに出歩いてはいけませんよ。あなたは貴族なのですから。
アーサーは至極真剣な面差しで私の肩を掴んだ。
「どこへ行くつもりだ、血相を変えて」
「アレンくん……アレンくんと話をしたくて……」
「船着き場か。それなら僕も行く」
どうして船着き場にアレンくんがいると知っているのだろう。いや――冷静になったからか、歌声が聞こえてくる。今日もすごく綺麗な声だ。でも、どこか乱れている? いつもより少し力が強い。がむしゃらな、なにかを吹き飛ばそうとするような声だった。
深くは探らない、そんな時間すら惜しい。アーサーと視線を交え、頷き合う。船着き場へ再び駆け出した。
走っていればすぐに着く。しかしコンテナが見え始めたところで、アーサーが急に足を止めた。私を腕で制して、指を立てて沈黙を求める。息を殺す私たち、彼の視線を追ってみると――二人の男が、一人の小さな少年を追い詰めていた。
「お前、なんのために生かしてやったと思ってんだよ?」
「エンノイドが無駄になっちまうだろうが、ああ? 真面目に情報集めろっつったろうがよ」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ……! ぼく、ちゃんとやって……」
「ちゃんとやってこの程度かよ! 使えねェなぁおい!」
直後、鈍い音と呻き声。まさか殴られている? いや、それよりこの声……エリオットくん!?
「……なにやってんのよあんたたち!」
「馬鹿、一人で……!」
アーサーの制止を振り切って、砕けそうなほど歯を食いしばりながら男たちの元へ。近づけばわかる。やっぱりエリオットくんだった。どうやって肉体を得たのかはわからないが、体を丸めて怯えている。こんなところを見て黙っていられるか!
彼を痛めつけていたのは二人の屈強な男。肢体は逞しいし、顔も厳つい。私を見るなり下卑た笑いを浮かべ始めた。好色家の先輩を思い出す。身の毛がよだつような思いだが、それはエリオットくんも同様のはずだ。大人として引き下がれるはずがない。
「なんだァ嬢ちゃん、こんな夜中に出歩いちゃ危ないだろ?」
「それともなにか? こいつの姉さんってお前か?」
「……あんたたち、恥ずかしくないの? こんな子供を痛めつけて、気色悪い笑顔を見せて……最ッ低ね、ふざけたことしてんじゃないわよ!」
感情的になってはいけない。この手の奴らには努めて冷静に在らねばならない。わかっているのに、エリオットくんがあそこまで委縮しているのであれば、まともに会話が通じるはずもない。道徳的な言葉を笑い飛ばすような奴らに違いない。
だったら遠慮は要らない。殴り合いになろうが絶対に引き下がってやるものか。そう意気込む私の腕を、アーサーが強引に引っ張った。
「落ち着け!」
「落ち着いてられるわけないでしょうが! あの子が見えないの!?」
「見えている! だからあまり刺激するな!」
「ふっざけんじゃないわよ! どうしてあんたは黙ってられるわけ!? 貴族だから庶民がどうなろうが知ったこっちゃないっての!?」
「この馬鹿っ、貴族と言えば……!」
「へぇ、そこの坊ちゃんはお貴族様かい……」
男の興味が私からアーサーに逸れる。しまった、迂闊だった。こんなろくでなしが貴族という生きたお金を前にして黙っているはずがない。私を押し退け、彼に掴みかかる。
「くそっ……!」
「貴族の坊ちゃんがこんなところになんの用かねェ……?」
「夜は一人で出歩いちゃ駄目ですよ? 俺たちみてェのがいるからなァ!」
一人が拳を振り上げる。私じゃ止められない、間に合わない――。
「ぐえぇっ!?」
突如、男が大きく仰け反った。そのまま倒れ、泡を吹く。いったいなにがあった? 瞬きと同時、暗闇になにかが閃いてもう一人が吹っ飛んだ。わけもわからず目を丸くする私。アーサーの陰から、一人の青年が姿を現した。先日アーサーから貰った照明を彼も持っていたようで、暗闇に光が差す。
金色の髪は癖のない短髪で、切れ長の目もまた神々しい光を放つトパーズ。顔立ちは整っているが、どことなく無機質な表情から冷たい印象を与える。身長は高く、ギルさんと同じくらい? 鎧越しでも引き締まった肉体であることがわかる。手に握るのは一振りの剣、片手で振り回すには少々長めに見えた。
この街で剣を携帯している者なんて、騎士様しかいない。どこか機械的で無感情さの漂う騎士様は、すぅと目を細める。美しい顔立ちからは想像できない、純度の高い侮蔑の感情に全身が粟立った。
「夜更けに船着き場からナイトアラートが届いたかと思えば、これはいったいどういう状況でしょうか」
「す、すみません。人を迎えに来て……」
「女性が一人、伯爵子息が一人。不用心が過ぎます。近頃、なぜ我らアンジェ騎士団が巡回をしているのか、想像できませんでしたか?」
私とアーサーに向ける視線もまた手厳しい。呆れたような、見下したような、底冷えするような眼差しだった。言葉に詰まる私の前にアーサーが立つ。
「巡回が強化された理由について聞き及んでいます。カイン陛下へのクーデターを目論む連中がいるとの情報が入ったため、ですね」
「存じているならば、なぜ護衛の一人もつけずにこのような場所へ?」
「……っ」
「貴殿はランドルフ伯爵のご子息です。ご自身の立場がわかりませんか? 貴殿の身柄が奴らの手に渡れば、なにを要求されていたことか。今後は一人で外出することのないように。次も私が駆け付けられる保証はございませんので」
「……承知しました」
悔しそうに歯噛みするアーサー。自身の行動の愚かさをまざまざと思い知らされたのだろう、なにも言い返すことができていなかった。元はと言えば私の付き添い出来てくれたのだから、後で私から謝っておこう。それより、いまは――。
「エリオットくん!」
うずくまるエリオットくんに駆け寄る。呼吸は荒いし、腕や太ももには痛ましいあざが幾つもついていた。いったい、なんの理由があってこんなことになったのだろう。心配よりも怒りが真っ先に湧いてくる。私の声に気付いたか、うっすらと目を開ける。
「ねえさん……?」
「ごめんね、お姉さんじゃないの! リオだよ、覚えてる?」
「リオさん……? ごめっ、ごめん、な、さい……ぼく、だめだった……ごめ、ん、なさい……!」
いまにも泣き出しそうなエリオットくん。つい、抱き締めてしまった。怖かっただろう、痛かっただろう、限界だったと思う。私の腕の中で、声を殺して泣き出した。お姉さんの代わりにはなれないけど、こういうときに頼ってもらえるような人になりたい。
お父さん、お母さん。私、もっと強い人になります。