★根を下ろすということ
旅芸人一座“スイート・トリック”。世界で最も有名で、チケットを取ることは至難の業。手に入れた者には幸福を約束する、エンターテインメントの最高峰。
どうして僕は、一座の稽古場で演奏しているのだろう? 客演とはいえ、暮の公演では毎回呼ばれているじゃないか。吟遊詩人は世界各地を歩き回るもので、どこかに根を下ろしたりしないものなのに。
けれど、それを許してくれないのは、僕の演奏でステップを踏む一座の花形――ミランダ・キャピュレット。根無し草の僕が毎回この場に御呼ばれするのは、たとえ稽古でも絶対に手を抜かない彼女のせいだ。不満がないわけではない。けれど、稽古の時間すら愛おしく感じさせる力が彼女にはあった。
彼女の感情豊かなステップ。時に激しく、時に淑やかに。緩急のついたそのステップは観る者の心を一人残らず魅了する。客席に座る者は男女問わず、彼女に恋をして現実に帰っていく。名前も知らない他人の心を、たった三十分程度の表現で奪っていく。
それほど心を惹き付ける所以は、彼女の努力の成果であり、振り付けの全てが即興であることだろう。踊ることだけに人生を捧げてきたからこその表現。だから皆、彼女の虜になってしまう。
演奏が終わると、ミランダは深い息を吐いた。額から滴る汗すら彼女を蠱惑的に映す。目を奪われるのは必至。自然と拍手を送る。
「きみは季節が変わる度に美しくなるね」
「そりゃどうも。あんたの演奏も衰えてなくてなによりだわ」
「お褒めに与り光栄だよ。今日の稽古はこれで終わりかい?」
「……あと一セットだけ付き合って」
呼吸を整えるミランダ。かれこれ三時間はぶっ通しでやっているのに、疲れを決して見せない。貪欲に完成を求めるその姿は、表現者の極致とも言えるだろう。そんな姿勢で臨まれたら、断ることもできない。苦笑して、再びリラを構える。
「いいよ。きみが納得するまで付き合おう。時間はたっぷりあるからね」
「エルフのあんたはな。あたしら人間は少ない時間でどう生きるか必死なんだよ」
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。表情には出さない。ため息を一つこぼして、弦を弾く。ミランダはそれに誘われるように、ステップを踏み始めた。
――そう。僕はきみたちと違う時間を生きている。忘れてはならないことだったね。
音を奏でながら、思い出す。同じ時を生きていると錯覚していたばかりに悲しみを知った。だから僕は根を下ろさない。長く居れば居るほど、悲しみは膨らんでいく。皆が老いていく中で、僕だけが変わらないまま。皆が歩けなくなっても、話せなくなっても、僕だけが変わらない。
そうして、置いていかれる。皆の命が役目を終えても、僕の命は終わらない。皆が生きた時間の倍以上、僕には時間が残されている。時折、エルフの血が憎くてたまらなくなることがあった。
どこを見ても思い出が香る地を離れ、旅人になった。根付いてしまえば、同じことの繰り返しになる。だから、居場所なんてものは作らない。死別の悲しみに比べれば、旅先での別れなんて痛くも痒くもない。多くの人々と出会ったが、彼らと再び見えることはないだろう。僕がそれを望んでいるから。
ミランダは人間だ。たった八十年しか生きられない儚い命。だからこそ、命を絶えず燃やし続けるのだ。その時々を全力で生きている。
彼女を見て、改めて思わされた。やはり僕は旅を続けるべきだ。同じ場所に留まり続ければどうなるか――また、耐え難い悲しみを味わってしまう。
「――ッ、おい」
「うん……?」
「上の空で弾くならどっか行け、邪魔だ」
ミランダの顔は険しい。ああ、音に迷いが乗っていたか。ここにいても彼女の稽古の妨げになるだろう。彼女に一礼して、稽古場を去る。
そう、彼女とは熱量が違うんだ。僕が蔑ろにしていい一瞬は、彼女が全てを捧げる一瞬。同じ時間を共有しているのだ、上の空で臨むなんて失礼にも程がある。
「……また旅をしよう。今度は遠く、もっと遠くへ行こう」
根を下ろすということは、立ち向かうこと。狭い世界で出会う怒り、痛み、悲しみ――全てを受け止め、生き抜くこと。臆病な僕には、到底選べそうにない。
――吟遊詩人なんて生き方は、体のいい隠れ蓑でしかないんだ。