いま涙は要らない
「なんか、思ったよりあっさり借りれましたね……」
「宰相やっててよかったって思ったわ」
厨房担当の人に伺ったところ、特に問題なく使用の許可が下りた。イアンさんの顔の力か、元宰相の実績は伊達じゃないみたい。隣にいたけど、そんな脅すような表情でもなかったしね。
文化開発庁に帰る途中、ネイトさんの背中を見つけた。騎士の訓練が終わったんだ。うーん、妙な例えだけど背中が怖い。騎士は警察みたいなものだし、警戒心が強いんだろうな。
まあ私が怯えていても仕方ない。ネイトさんはまだ切り替えがスムーズに出来ないっぽいし、アイドルとして扱えば幾らか戻りやすいだろう。
「ネイトさーん」
「は、リオ様? イアン様も。お疲れ様です」
「おう、いま帰りか。これから飯の準備だ、部屋で待っとけ」
「かしこまりました。なにかお手伝いすることは?」
「うーん……特に思いつかないので、お部屋で待っていてください」
「左様でございますか」
話してる感じ、まだ騎士のまま。だけど、ところどころアイドルのネイトさんが見えてくる。恐らく、手伝いたいという気持ちはそこから来ているし「左様でございますか」も、表情こそ変わらないけど語気が弱い。
私、ここに来てから五感が研ぎ澄まされている。そのうちギルさんみたいに人の気配を察してドア開けたり出来るかも。ジャパニーズはニンジャの末裔だもの。そんなことより、ジェフさんの件を伝えなきゃ。
「そうだ、ネイトさん。明日の十七時以降にジェフさんの稽古が入りました。ご都合つけられそうですか?」
「十七時以降、かしこまりました。訓練は早めに切り上げます」
意外と柔軟なんだよね、この人。騎士としての訓練も疎かにしないと言っていたし、頑なに見えて結構上手く生きているのかもしれない。
だけど自分自身のこと――人間であるネイトさんのこととなると、上手に立ち回れないという印象だ。人間としての自分に焦点を当ててこなかったみたいだし、その不器用さも愛嬌か。
事務所に戻ると、微笑ましい光景。アレンくんがアーサーくんやエリオットくんと発声練習の続きをしていた。声を出さず、呼吸の仕方やリラックスの仕方などを教えているようだった。
ギルさんはどこから持ってきたのか雑誌を読んでいる。オルフェさんの姿は見えない。また曲でも作っているのかな? ストックがある分にはありがたいけど、まだ一曲目だ。アイドルソングのテイストは掴み切れてないと思うけど……。
「ただいま、厨房借りれたよ」
「ひっ!? おか、おかえりリオ!」
私、そんなに怖い人なのかな。アレンくん、いま小さく飛び上がってた。オーバーワークを警戒してのお説教だったんだけど、愛って伝えるの難しいんだね。お父さんとお母さんの気持ち、いまなら少しわかる気がするよ。
ねえアーサーくん、エリオットくんを庇うように立つ必要はないんだよ。私のこと悪鬼羅刹かなにかだと思ってる? 花も恥じらう美少女だよ、ガワは。中に詰まってるのは血と汗と悔し涙で塗れた社畜なの、ごめんね。怖くないからこの空気なんとかして。イアンさん、あなたの出番です。
「お前ら、安心しろ」
「イアンさん……!」
「リオは怒らせると悪魔みてぇな怖さがあるが、怒らせなきゃどうってことねぇ。やり過ぎなけりゃあ大丈夫だ」
「イアンさん……?」
その言い方じゃ私、怖い人のイメージ残ったままなんですけども。もっとこう、上手く言えませんでしたかね。
「そ、そうですよね。リオ、基本的には優しいし……」
「ぼ、ぼくは優しい人だって思ってましたよ!」
「奇遇だなエリオット、僕もそう思っていた」
やめて若者たち。その気遣い、とても染みる。女の子の傷に塩を擦り込むのはよしなさい。きみたちの優しさはいま、紙やすりも同然だよ。っていうか、私のことなんて最悪どうでもいいの。本題。
「とりあえず厨房は借りれたよ。料理作ろっか。アレンくん、手伝ってくれる?」
「う、うん。わかった。よろしくお願いします」
「そろそろ泣いても許されると思うんだ、私」
「涙なら僕が拭ってあげるよ」
どこからか現れる伊達男、オルフェさん。振り向くと、健全な精神なら骨抜きにされてしまいそうな甘いマスクがあった。こういうとき、社畜でよかたって思ってしまう。こういうときだけ弊社に感謝。
「大丈夫です、私は強い子」
「そうかい? 泣きたくなったらいつでもおいで」
「おーい色男、ややこしくなるからリオちゃん口説くのはやめときな」
ここに来て静観を決め込んでいたギルさんが口を挟んだ。まあ茶化してこなかっただけマシだね、お説教が効いたみたい。
でも、口説くっていう表現はしっくり来ない。オルフェさんから出てくる言葉、台詞っぽいから現実味が全く感じられないし。魂が日本人だからあんまりときめかないのかな。和の心、奥ゆかしい。
「口説いているつもりはないんだけどね」
「あんた、自分のツラ鏡で見たことねーのか……?」
「あるけど、それがどうかした?」
「あー……いや、そーっすか……」
ギルさん、折れるの早いです。もう少しわからせてあげて。彼は長く生きてるからいろいろ鈍く……鈍く? なんかもう悟りを開いてる気がするの。なんでも「些末なことだよ」で片付けそうだもん、この人。
「リオちゃん、オルフェにはお目付け役付けといた方がいいと思うわ……」
「そうですね、私もそう思います……」
「僕ってそんなに信用ない? 泣いてもいいかな」
この男、余裕があり過ぎる。ここで冗談を言えるような神経、人間じゃ到達出来ないよ。泣き顔は泣き顔で見てみたいけど。って、私はなにサディスティックなこと言ってるんだ。
いや待って、誰の涙も要らないんだよいまは。とにかく厨房、ご飯です。育ち盛りがお腹を空かせて待っているんだから。
「話が逸れましたが、これから厨房に向かいます。アレンくん、よろしくね」
「わ、わかった! 腕を奮って手伝うね!」
まだ固いけど、まあそのうち戻ってくれるだろう。イアンさんは後でお説教だな……私のかわいいアイドルに悪印象を植え付けた罪は重い。