隙がない
「うーん、困ったな……どうしよう、もう始まってるのかな……?」
時刻は四時五十分。稽古場に到着した私たちだが……鍵がかかっている。え、これどうやって開けるんだろう?
立ち往生していても時間は進む。このままここで待っていたら遅刻したとみなされる恐れがある。どうにかして中に侵入しないと……って、私はなに空き巣みたいな発想をしてるんだ……?
そのとき、オルフェさんが私の隣に並んだ。彼は懐から一枚のカードを取り出して、扉の横に備えられていたセンサーにかざす。するとどうだ、機械的な音がしたと同時に開錠されたようだ。彼は私を見て、微笑む。
「物騒なことを考えていた?」
「そそそ、そんなことないですよ……?」
この人、なにもかもお見通しか。オルフェさんの前で邪な考えはしないようにしよう。いや、見透かされて困るようなことは考えないけど……本当に? 自問自答してしまう辺り、私も悪い大人だね。
オルフェさんの案内で稽古場に向かう。ステージ上には、既にミランダさんがいた。寝起きだからだろうか、ものすごい形相をしている。いや、気が立ってるのは事実だろうけど、寝起きだからってだけじゃない。それはわかる。
なにはともあれ、挨拶から。社会人の基本です。
「おはようございます、本日はよろしくお願い致します」
私の後に続くアイドルたち。これからは自分から挨拶できるようになってね。
ミランダさんは目を細めて私たちを一瞥する。直後、深々とため息。そりゃそうなりますよね。私たち、どこの馬の骨かもわかりませんもんね。ちょっとだけ傷ついたけど。
「今日から五日間、ダンスの基礎を徹底的に叩き込む。五日でダンサーの体になれ。その後にアメリアのボイストレーニングに移る。手抜きするんじゃねぇぞ。本気でやれ、いいな」
「ミランダ、そんな顔をしてはいけないわ」
私たちの背後から、凛と澄んだ声が響いた。振り返れば、小柄な――けれど強い存在感を放つ女性。“スイート・トリック”の歌姫、アメリアさんだった。
彼女は私の傍に歩み寄り、穏やかな笑みを湛える。可愛らしい、というよりは儚く神秘的な印象を抱く笑顔だった。
「ごきげんよう、お嬢さん。先日はお世話になったわね」
「い、いえ! 先日は大変失礼致しました……!」
「いいのよ。『私を知らない方がおかしい』だなんて驕るつもりはないもの」
こんなに小さいのにママと呼びたくなる包容力だな。メンタル壊れてるときに会ったら泣きついてしまいそうな柔らかさを感じる。ぽやぽやしていると、ミランダさんが唸り声をあげた。恐竜みたいだ。
「……あたし、そんな怖い顔してたか?」
「ええ、とても。親の仇でも見たかのような……怒りと憎悪に塗り潰されて、ひどく醜い顔だったわ」
「“スイート・トリック”の花形にそんなこと言えんのはお前だけだよ……ああ、わかったわかった。ま、本気で教えはするけど、威圧的なやり方は良くねぇわな」
ばつが悪そうに髪を掻き乱すミランダさん。な、なんとか空気は和らいだ……のかな? アメリアさんの癒しパワー? オルフェさんを拳で制する人を、言葉一つで鎮められるなんて。
「さ、始めて。私はお嬢さんとお話があるから」
「はぇ? わ、私にですか?」
なんの話だろう? もしかして「私を知らないなんていい度胸してるわね」的な展開だろうか。絞められる? いやいやまさか、エンターテイナーは嘘吐かない……待って、エンターテイナーと嘘吐きにはなんの因果関係もないや。
「行きましょう。後のことはミランダに任せて」
「はいはい、任されましたよ」
「そ、それでは皆さん、よろしくお願い致します!」
アメリアさんに手を引かれ、ステージを後にする。さ、さすがに基礎の段階では死に目を見たりしないよね……? 大丈夫だ、うちのアイドルはヤワじゃない。ちゃんとばっちりこなしてくれるさ。
それより、アメリアさんは私をどこに連れていくつもりなんだろう? 話ってなに? わけもわからず通されたのは、ミランダさんと打ち合わせをした控え室だった。
「どうぞ。楽にして」
「は、はい……それで、お話というのは……?」
「聞かせてほしいの。あなたの目的を」
目的――どの程度まで話していいんだろう。
全部話すのであれば、春暮公演で出番を頂くため。ただ、それを打ち明けるなら“スイート・トリック”の支配人だ。アメリアさんに先に話すのは私の主義に反する。
トレーナーをつける目的としては、アイドルとして必要なスキルを身につけさせたかったから。まずはこれから話す方がいいかな?
「……私、アイドルというエンターテイナーを育てようとしているんです」
「アイドル? 初耳。私たちにトレーナーを頼んでいるし、歌ったり踊ったりするの?」
「歌いながら踊るんです。そうやって、観客に夢と希望を与えるグループのことです」
「素敵ね、応援させてもらうわ」
くすっ、と笑うアメリアさん。表情こそ穏やかなものの、その奥になにが隠れているかは想像できない。アイドル活動が軌道に乗れば“スイート・トリック”を脅かす力だってあるはずだ。
にも関わらず、応援する、だなんて。商売敵になることを想定していない――あるいは、見くびられている? 突っかかったところで、アイドルの魅力を知っているのはこの世界で私しかいないのだ。喧嘩腰になる理由もない。
「それで? あなたはアイドルを育ててなにを為すつもり?」
「なにを為す、って……」
これ、言っていいのかな? 帝国に新しい風を吹かせるためだって。国家機密とかではない……と、思うけど。でも未発表のプロジェクトだし、まだ黙ってた方がいいのかな。
「言えないのかしら?」
「あ、え、えっと……その、アイドルの管理は私の役目ですが、責任者が別におりまして……公になっていないこともあり、目的を口外出来ないんです」
それっぽい言い訳にはなったと思うが、どうだろう。アメリアさんもオルフェさん同様、読めない。表情が全然変わらないのだ。
けれど、ネイトさんとも違う。彼はベースが無表情だから、些細な変化で感情の機微が窺える。ところがアメリアさんは常に笑みを湛えている。その裏に怒りや呆れが隠れていたとしても、それを悟ることができない。ある種、ミランダさんとは違った威圧感があった。
「そう怖がらないで。ただのお喋りのつもりだったの。世界各地を回っている私たちですら、アイドルという仕事は聞いたことがないもの。未知の文化に興味が湧くのは自然なことでしょう?」
「……すみません、詳細に語れなくて……」
「謝らなくていいのよ。謝る必要がないことだもの」
なにを考えているかはわからないけれど、詮索する気はないようだ。ひとまずは安心……とも言えないか。どちらにせよ、公演での出番を賭けた戦争も控えているわけだし。いずれは打ち明けることになる。
アメリアさんはおもむろに壁際のテーブルに向かう。紙コップを手に取って、ポットを操作した。コーヒーのいい香りが漂ってくる。彼女はその一つを私に差し出した。
「早起きして、まだ頭が回らないでしょう? どうぞ、召し上がれ」
「あ、はは……ありがとうございます、いただきます」
正直、朝からいろいろあったから頭は冴えている。けれど好意を無下にするわけにもいかないし、ご馳走になろう。
……え? なにこれ、すごく美味しい……人生が豊かになる味がする……社畜時代に出会いたかったなぁ……。
なぜか涙が流れてくる。アメリアさんは、親指で優しく拭ってくれた。ちょっと待って、そんなイケメンムーブまでかましてくるの? “スイート・トリック”、隙がなさすぎる……。