24話 石門の中、鬱蒼と草木が茂る庭
古の遺跡を守る石門を潜り抜けた俺たちは、苔むした石畳を進む。
石門をくぐると、その先には植物が生い茂る庭が存在した。成長し過ぎた感が否めない背丈の高い植物や、幹の太い立派な古木があちらこちらに生えている。庭と呼ぶには雑然としているが、足元に並ぶ石畳が、ここが人の手が加えられた場所であることを物語っている。
門から遺跡に向かって長く続く石畳の左右には木々が乱立し、生え放題の草と相まって、その様は森と呼んでも差し障りがないほどだ。
「手入れがまるで出来てないわね」
通路にまで葉を伸ばす背の高い植物を、エイミーが不機嫌そうに手で払いのける。
人や獣の行き来がある分、外の森の方が幾分歩きやすいかもしれない。
歩けるのは整然と並べられた石畳の上だけだ。
森もどきの方へも行けるのだろうが、草の生い茂る道をかき分けて進もうという気にはとてもならない。
「魔力が充満している場所だからな。植物も盛大に育つんだろうよ」
「でも、石畳があってよかったですね。でなきゃ、道が埋もれちゃうところでしたよ」
俺が辟易した感じで言ったせいかもしれないが、ルゥシールがフォローしてくる。
まぁ、歩けるだけマシと言うところか。
「見ようによっては、豪勢な庭園にも見えますし」
「いや、見えないだろう」
褒め方が強引過ぎる。
なんだ、お前はこの遺跡の管理人から金でももらってイメージアップを図っているのか?
そのようなことを冗談めかして言ってやると、ルゥシールはやや照れたような素振りを見せる。
「実は、その…………不謹慎なのは重々承知しているんですが……」
もじもじとした後で、ちらりと俺を窺い見る。
そして……
「ご主人さんと、村と森以外の場所に来るのが初めてなので……少しだけ、楽しいなぁ、なんて」
……と、はにかんで見せたのだ。
まったく。
こいつは何を言っているのやら。
呆れ果てた俺は、冷静に、ルゥシールを窘める。
「バッ、バッカ、お前! 観光じゃねぇっつぅの! まったく、遊び感覚だなんて困ったヤツだよなぁ、こ~いつぅ~! あはははは!」
「あぅ……すみません。大切な時だというのに……」
「いや、いいんだ! 誰しも、未知なるものに触れる瞬間は心躍るものだからな! さぁ、思う存分踊るがいい! そして揺らすがいい!」
ヤッベ!
冷静に考えて、ヤッベ!
なんかさっきのルゥシール、めっちゃ可愛かったんだけど!?
よくも咄嗟に自然な振る舞いが出来たもんだな、俺。
並みの男なら、今の一言で舞い上がっちまってぎこちない感じになっていたことだろう。
しかし、流石は、俺!
動揺を悟られることのない、うまい返しだった。
「なに舞い上がってんのよ、アシノウラ?」
「バッ! バカ、お前、バカ、エイミーお前、この! 全然舞い上がってねぇよ! むしろ舞い降りてるよ!」
「いや、意味分かんねぇぞ、【搾乳】……」
まったく。
エイミーとデリックには困ったもんだ。
何を訳の分からないことを言っているのやら。
だいたい、この雄大な自然を前に心が躍らないという時点で、人間として大切な何かを無くしてしまっているとしか言いようがない。
見給えよ。雄々しく茂る原生の生命たちを!
心が洗われるようではないか。
見ようによっては、豪勢な庭園にも見えるしな。
そうだ。折角だからどこかに俺たちの名前でも刻んでいこうじゃないか!
ここにやって来たという記念にな!
「よし、ルゥシール! 頃合いの木を探せ!」
「かしこまりました!」
「って、どこ行くんだよ、テメェら!?」
「遺跡に入りなさいよ、あんたたち!」
折角の楽しい雰囲気を、無粋な二人がぶち壊す。
なんだよ、なんだよ、ノリ悪ぃなぁ。
「……なんで、門から遺跡までのこの数十メートルでこうまで道草出来るのか、理解に苦しむわ……」
「フランカたちが連れ去られたってこと、忘れんじゃねぇぞ! 頼むぞ、マジで!」
「……はい、すみません」
エイミーとデリックに文句を言われ、ルゥシールがしゅんとうなだれる。
可哀想に。
自由にはしゃぐことすら許されないなんて……こうやって、人の心は荒んでいくのだろうな…………
「あ! あの木はいい感じだな。よし、あれに名前を彫ろう!」
「テメェもさっさと戻ってこい、【搾乳】! むしろ、テメェが真っ先に戻ってきて先頭を進みやがれ!」
デリックが吠える。
……まったく、遊び心の分からんヤツはこれだから…………俺はいつまでも少年の心を持ち合わせた純粋な人間なだけなのに。
「……汚らわし大人め」
「言っている意味は分からんが、言いたいことはよく分かった。この一件が終わったらテメェをぶっ飛ばす」
そうやってすぐ暴力に物を言わせる姿勢、俺は嫌いだな。
けどまぁ、俺も大人だ。いや、紳士だ。
相手の言い分もちゃんと聞いてやれる分別くらいは持ち合わせているのだ。
「デリック、すまん……」
「まぁ、分かってくれりゃあいいんだけどよ」
「……イラッてしたから、一発殴るな」
ゴッ!
と、鈍い音を立てて、デリックの頭蓋骨に拳がめり込む。
……誰に口を利いてるんだ、このド庶民がっ!
「…………な、に……しやがる……っ!?」
殴られた額を両手で押さえ、芋虫のような格好でデリックが俺を睨み上げてくる。
心優しい俺は、デリックの悪い部分を懇切丁寧に指摘してやる。
「すぐに暴力に訴えるな、バカめ!」
「テメェが言うなぁ!」
おや?
何か俺に落ち度があったか?
デリックは恨めしそうな目で俺を睨みながら、ぶつぶつと不平を垂れる。
が、どうせ大したことは言っていないので無視しておく。
「あんたさ……ところどころ、本気で最低よね」
エイミーが引きつった顔で言う。
心外な。
少年の心を忘れない爽やかな紳士を掴まえて。
「じゃあまぁ、さっさと遺跡に入って、さっさと帰るか」
用事を残したままでは、心置きなく遊ぶことは出来ないしな。
「エイミー、デリック。気合いを入れろよ」
「……あんたにだけは言われたくないわよ」
「どっかから気合いがだだ漏れになってんじゃねぇか、こいつ?」
何とも覇気のない連中だ。
こういう時は「オーッ!」くらい勢いのある返事をするべきだろうに。
それが、行動を共にする者への配慮であり、パーティーの礼儀だろうが。
ノリが大切なんだよ!
先に進むことだけ考えていればいいってもんではないのだよ! まったく!
そういう点で、ウチのルゥシールは優秀だ。
俺がこうと望むものにはきちんと応えてくれる。非常に気の利くヤツなのだ。
「よし、ルゥシール! いよいよ遺跡に突入するぞっ!」
………………静寂。
って、おい!
ルゥシールどこ行った!?
俺のこの、元気いっぱいに振り上げられた拳をどうしてくれるんだよ!?
俺、今、物凄く恥ずかしいことになってんじゃねぇか!?
まったく!
ほとほと気の利かないヤツだ!
あいつは前からそういうところがあったんだよな、まったく!
「…………オー」
気を利かせてか、デリックがやっつけ感満載で返事を寄越してきた。
そんな気遣いはいらん!
余計な気を回している暇があるなら先に進むことでも考えていろ!
遺跡の内部を探ったり、この近辺に人の出入りがあった形跡がないかを調べたり、やることはいくらでもあるだろうが! まったく!
「見たところ、機嫌が悪そうだが、俺は絶対悪くないよな?」
デリックが疲れ切ったような表情を浮かべる。
はいはい、出た出た。何があっても自分は悪くない系のヤツね。
もう少し客観的におのれの行動を顧みろってんだ。
どうせ、さっきと今で言ってることが百八十度変わったりしてるに違いないのだから。
俺?
俺は大丈夫だ。
そういう情けないことはしない男だからな、俺は。
「で、ルゥシールはどこに行ったのよ?」
エイミーが辺りを見渡す。
とはいっても、視界に入ってくるのは背の高い植物だけだ。
数十メートル先に遺跡の入り口が見えているが……先に遺跡に入ったわけでもないだろうし……
と、そんなことを考えていると、突然、俺のすぐ隣の植物がガサガサと音を立てた。
獣か!? と、視線を向けると、ルゥシールがひょっこりと顔を出した。
「……何やってんだよ?」
「あ、いえ。実はですね」
心なしか嬉しそうに、そして得意げに、ルゥシールは草むらから姿を現し、両手を俺に突き出してくる。
「木苺が生っていたんです! この奥に!」
ルゥシールの両手には、ワインレッドの木苺が山のように積まれていた。
「さっき、森の中では取れなかったので、ちょうどよかったです!」
満開の笑みだ。
どこから来るのか、絶大な自信をたぎらせて、ルゥシールは胸を張る。
おのれの手柄を褒めてほしそうに。
が……
「バカヤロウ! 勝手な行動を取るんじゃねぇよ!」
一喝。
これは叱らなければいけない。
ここは、魔力の充満する遺跡の敷地内だ。
魔力に触れて突然変異した危険な植物が生息しているかもしれない。
魔物がうろついているかもしれない。
おまけに、魔導ギルドの連中までいるかもしれないのだ。
軽率な行動は看過出来ない。
単独行動などもってのほかだ!
さっき、観光気分で浮かれていた時に怒ってやるべきだった。
たまたま何事もなかったからよかったようなものの、もし、一人になったところを何者かに襲われていたら…………助けられなかったかもしれない。
「遊びに来てるんじゃないんだぞ! 少しは自覚しろ!」
「……す、すみません」
目に涙を浮かべ、本気でへこむルゥシール。
自分の犯した過ちに、ようやく気が付いたようだ。
そうだ。反省しろ。
「俺はもちろんだが、胸のないエイミーも筋肉バカで変態要素満載のデリックも、行動を共にする以上はこいつらも仲間なんだぞ。仲間に心配をかけるんじゃない!」
「……あんたこそが、仲間って意識持ってないでしょ?」
「……いい加減ブチ切れるぞ、コノヤロウ」
俺がいい話をしているのに、空気を読めない二人が茶々を入れてくる。
も~ぅ、そういうのやめろよなぁ。
空気読もうぜ、空気。
「あの……エイミーさんもデリックさんも……申し訳ありませんでした」
「まぁ……反省してるなら、もういいわよ」
「無事だったなら、言うことはねぇよ。けど、次からは気を付けな」
「……はい」
うなだれたルゥシールは、両手に山と積まれた木苺をすごすごと食糧袋へとしまう。
「あれ、ルゥシール。食べないの?」
「え……でも…………」
エイミーに問われたルゥシールは、ちらりと俺を見る。
反省しているから、今は食べない方がいいと判断したのだろう。
「なによ、遠慮なんかしちゃって」
「あぁ。もう誰も怒ってねぇから、食っちまえよ。食いたかったんだろ?」
エイミーとデリックが困った子を見るような目でルゥシールを諭す。
そして、もう一度ルゥシールの瞳が俺を見る。
仕方なく、俺は無言でう頷いてやった。
途端にルゥシールの表情は晴れやかになり、見ているとつられそうなくらいに、満面の笑みが浮かび上がってきた。
単純なヤツめ。
「では。いただきます!」
大きな声を上げて、ルゥシールは食糧袋から木苺をひとつ摘まみ出し、口へと放り込む。
ゆっくりと咀嚼し、そして幸福そうにとろけた表情を見せる。
「……外の森の木苺とは違って、甘みがとても濃厚で、同時にふわっと芳醇な香りが鼻の奥へと広がっていって…………甘みの宝石箱ですぅ」
言っている意味はよく分からんが、とにかく美味しそうだ。
よほど気に入ったのか、ルゥシールは続けざまに二個三個と木苺を口へと放り込んだ。
「……むはぁ~………………幸せですぅ……」
そんなルゥシールを見ていたエイミーとデックが、ごくりと喉を鳴らす。
「そんなに、美味しいの?」
「はいっ! それはもう!」
エイミーの問いに、ルゥシールは全力で首肯する。それはもう、どこか誇らしげなまでに。
「あのさ。あたしにもひとつくれない?」
「あ、じゃあ、俺にも!」
見ていて我慢出来なくなったのか、エイミーとデリックが木苺を欲した。……の、だが。
「………………………………………………………………………………え?」
長ぁ~い沈黙のあと、ルゥシールは驚愕に目を見開いた。
まさか、そんなことが有り得るなんて!? とでも言わんばかりの驚き方だった。
「…………欲しい、ですか?」
「う、うん。ひとつだけ……で、いいんだけど」
「それだけあるんだから、分けてくれてもいいだろう? 俺たち、今は仲間じゃねぇか。な?」
明らかに動揺するルゥシール。
その不穏な空気を察して、エイミーとデリックが優しい声で説得にかかる。
だが……
「……すみません。わたし、知らない人と口を利いてはいけないとご主人さんに言われてますので……」
「そこまで分けたくないわけ、あんた!?」
「さっき、勝手な行動を取ったことを許してやっただろうが!」
「それとこれとは話が別です!」
ついには、恥も外聞もなく怒鳴り合いが始まった。
「そもそも、エイミーさんはイカの一夜干しが好きだって言っていたじゃないですか! 木苺は嫌いだって!」
「嫌いだなんて言ってないわよ! さほど食べないだけで!」
「ではダメです! そんな木苺ビギナーに、この最高級木苺はまだ早いです! 外の森に生っている木苺から初めて研鑽を積んできてください!」
「木苺にビギナーも何もないでしょ!?」
「ダメです!」
ルゥシール、頑なモードである。
「俺は、こう見えても甘いものが大好きでな! いろんな国の木苺を食べ歩いてきたんだぜ? な、俺にならくれてもいいだろう?」
デリックは必死だ。
そうまでして食いたいか、木苺?
「デリックさんは、いろんな国の木苺を食べ歩いてきたんですか?」
「あぁ、そうだ。新しい街に着けば真っ先に青果店へ行き、その土地の果物を食べるほどに甘党だ。木苺もたくさん食ったぞ」
「だとしても! デリックさんの顔は木苺に向いてません!」
「顔に向き不向きなんぞあるか! 俺は木苺が大好きなんだよ!」
「やめてください! 名誉棄損で訴えますよ!?」
「誰の名誉が毀損されたってんだよ!?」
「とにかく、木苺に謝ってください!」
「なんでだ!?」
ルゥシール、見た目で決めつけモードだ。
……そんなモードもあったのか。
「ちょっと、アシノウラ! あんたからもなんとか言いなさいよ!」
エイミーがこちらに怒りを向ける。
デリックも俺を睨んでうんうんと頷いている。
が、俺は無言を貫く。
ルゥシールに対して、まだわだかまりが残っているのだ。
口を開けば許してしまいそうになる。
けど、今回の件はそう簡単に許していいものじゃない。
もう少し、不機嫌そうに仏頂面をしていたい。
だというのに……
「ご主人さん!」
ルゥシールが全力で飛びついてきた。
やけに機嫌がいい。
こいつ、反省って言葉知らないんじゃないのか?
「酷いんですよ、ご主人さん! あの二人がわたしの木苺を盗ろうとするんです! ご主人さんからもきつく叱ってやってくださいよぉ!」
首に腕を回し、俺の胸に顔をぐりぐりと押しつけてくる。
……なんか、めっちゃ懐かれてるんですけど?
「あのなぁ、ルゥシール……」
あまりの態度に、もう一発雷を落としてやろうかとしたところ、ルゥシールがぐりぐりをやめて真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。
思わず言葉が引っ込む。
「ご主人さんは、食べたいですか?」
「は?」
質問の意味が咄嗟には理解出来ずに、数瞬固まってしまった。
その間に、ルゥシールは首から下げた食糧袋に手を突っ込み、新たに木苺を一粒摘まみ出す。
それを口へ放り込むと、ころころと数度口の中で転がしてから、意味深な笑みを浮かべた。
「ご主人さんになら、特別に、ひとつだけ分けてあげてもいいですよ……」
そう言って、口の中で転がしていた木苺を前歯で軽く咥え、唇の隙間から覗かせる。
「はい……ど~ぞ」
目の前に、木苺がある。
ルゥシールの唇に咥えられた、艶っぽくも妖しく艶めくワインレッドの果実が。
………………ごくり。
い、いいのか?
これを、このまま……食って、いい……ん、だよ、な?
一回指で取る?
いやいや、この流れでそれはないだろう。
ここは、その、つまり……ほら、……あれだよあれ…………マウス・トゥ・マウス。
……ごきゅりんっ!
いやいや、待て待て。
俺は今、ルゥシールに対してわだかまりを抱いている最中で、平たく言えば怒っていて、それをこんな……見え透いた手で懐柔されたのでは、今後の主従関係が………………
「いただきますっ!」
いや、もう、無理だろう!?
こんな光景目の前に晒されて、我慢出来るとか、そんなの有り得ないって!
俺は唇を突き出し、差し出されている木苺(ビヨンド・ザ・唇)にむしゃぶりつかんと急接近を試みた!
と、その時。
―― チュンッ! ――
俺の鼻先を、皮膚一枚分ほど掠って、高速の矢が横切っていった。
「……今すぐ、離れなさい」
エイミーの目が、マジだ。
俺は黙って……意図した無言ではなく、言葉の発し方を忘れてしまった結果だ……何度も頷いた。
久しぶりに、生命の危機を感じた。
っていうか、俺の生命を脅かすためにプレゼントしたんじゃないんだけどな、あの新しい弓矢……
仕方なく……泣く泣く……俺は、胸にまとわりつくルゥシールを引きはがした。
が、途端にルゥシールがイヤイヤと暴れ出した。
「ヤ~ですぅ! ご主人さんと離れると、わたし死んじゃいますぅ~!」
駄々っ子のように、甘えん坊のように、ルゥシールは何度引きはがしてもその度に俺に取り縋ってきた。
なにこれ?
どういう趣旨のサービス?
俺の全財産で足りる?
そんな不安を覚え始めたところで、俺は異変に気付く。
「…………酒臭い」
いつもルゥシールからほのかに漂っている甘い香りの代わりに、今は強烈なアルコール臭がするのだ。
匂いの発生源は、ルゥシールの口。そして、首から下げた食糧袋からだった。
「この木苺、アルコールが入っているのか?」
ルゥシールの首から食糧袋を取り上げ、中を確認する。
ツンとした匂いが鼻を突く。
発酵したなどという生易しいレベルでなく、それは紛れもなくアルコールの匂いだった。
言われてみれば、色が少々濃過ぎると思ったんだ。ワインレッドって……
またたびを嗅いだ猫のように、ルゥシールは俺の胸に頭をぐりぐりとこすりつけてくる、
いやいや、痛い痛い痛い!
動作自体は可愛いのだが、酔っているせいか力加減がおかしい。思いっきり全力で頭をこすりつけてきている。鎖骨が軋む。
「こんな危険なものは処分しないとな」
ルゥシールを引きはがすことを諦め、俺は取り上げた食糧袋を手に嘆息する。
「で、どうすんのよ、この状況?」
エイミーの冷たい視線が俺を貫く。いや、俺たちを、だな。
ルゥシールは何が嬉しいのか、にやにやとした締りのない笑みを浮かべたまま、俺に頭をこすりつけ続けている。
「まったく、いくら酔っぱらったからとはいえ……イチャつくなら人のいないところでやりやがれ。なぁ?」
呆れたような目で俺たちを見るデリックが、エイミーに同意を求める。
言葉を投げかけられたエイミーは、すっと顔を上げ、静かな声で答えた。
「……人のいないところでもイチャつくのはどうかと思うんだけど?」
「………………だよ、なぁ? はは……」
小柄なエイミーに睨まれて、巨漢のデリックが顔を引きつらせる。
愛想笑いが驚くほど下手なヤツだ。
それにしても、仮にも二つ名を持つ冒険者が十二歳のつるぺた少女に睨まれたくらいで……情けない。
俺は、密着してくるルゥシールから流れ込んできていた魔力を集めて、気付けの魔法を使う。
簡単な魔法で、それほど魔力を消費しないこの魔法なら、魔力伝導率にこだわらなくても行使出来る。
「いい加減目を覚ませ、ルゥシール」
人差し指をルゥシールの鼻の頭にちょんと触れさせると、まばゆい光が波紋のように広がりルゥシールの顔を通過して広がり、やがて消えていく。
波紋の光が通り過ぎると、とろ~んとしていたルゥシールの瞳がハッと開かれ、そしてまじまじと俺を見つめてきた。
「……………………え?」
その後、自分が今どういう状況で、誰に何をしているのかを理解すると、途端に顔を真っ赤に染め上げた。
「にょにょっ!?」
奇妙な叫びと共に、エビも真っ青なバックステップでルゥシールは俺から離れていく。
軽く音速を超えていたかもしれない。
「なっ…………な、な、なな、ななななななな、なに、なにが、なにがあったんですか!? なんでこんなことに!?」
どうやら、一切の記憶がないようだ。
俺たちを一通り見回して、全員が生暖かい目を向けていることを悟ると、「あぁぁぁぁ……」と、頭を抱えてうずくまってしまった。
「違います……今のは、わたしではなく…………きっと、そっくりさんの仕業で……」
いやいや、いつ入れ替わったんだよ、だとしたならば。
何とも微妙な空気が流れる。
俺としても、ルゥシールに引っつかれてゴロニャンされたことを喜んでいいのかどうか悩んでいるのだ。
状況が状況だったし、やはり、釈然としないものもあるしな。
ただ言えることは……今の俺は、そこら辺の立派な木に名前を彫りたい気分ではあるということだ。いや、ほら、記念にな。別に浮かれているわけではないけども! ほろ酔いのルゥシールを見て、「うっわやっべ! こりゃあ~生唾ごっくんモノだぜぇ~!」とか思っていたわけではないけども!
「よぉし、みんなであの大きな木の幹に名前を彫るぞ! 遠慮するな! 記念だ、記念!」
なんか、超テンション上がってきたー!
古の遺跡、最高ぉー!
と、俺がはしゃいでいると、ルゥシールが今日買ったばかりのアキナケスを抜いた。
そうそう。そうやってナイフで名前を彫るんだよ。さすがルゥシール。打てば響くように気の利くヤツだ。
「ご主人さん…………ごめんなさい!」
と、思ったら、突然ルゥシールが襲い掛かってきた!?
「ぅわっと!? 何しやがんだ!?」
「逃げないでください!」
「逃げるわ、アホォ!?」
逆手でアキナケスを握り、もう片方の手で握った手を包み込む。両腕に握られたアキナケスが頭上に持ち上げられ、黒い刀身が不気味に煌めく。
ルゥシールは目に涙を浮かべ、真剣な眼差しで俺を見つめている。
その表情をセリフで言い表すなら、「あなたを殺して、私も死ぬ!」みたいな感じだ。
「待て、ルゥシール! 何をする気だ!?」
「こんな醜態をさらしては、もう一緒にいられません!」
「だからって、早まるな!」
「大丈夫です! 命までは取りません! ただ、記憶を失っていただくだけです!」
なに言ってるの、この人!?
「人は、後頭部に強いダメージを受けると、その前後の記憶を失うと聞きました…………ですので、覚悟!」
叫んで、ナイフを構える。
「って、バカ! 後頭部にダメージを与えるのは殴打でだ! 斬撃はシャレにならん!」
「大丈夫です! ご主人さんなら耐えられます!」
「根拠のない信頼を寄せるな!」
「どうか! 一太刀だけでもっ!」
「その一太刀で人生終わるわ!」
俺が全力で食い止めると、ルゥシールは「よよよ……」と、その場にくずおれた。
「記憶を…………どうか、記憶を……司る、脳の大部分を破損してください……」
要求が怖ぇよ……
取り返しつかないじゃん、それ。
泣き崩れるルゥシールを眺めながら、さっきの出来事は酔った上でのことだと思うことにしようと決めた。
ちょっとばかり羽目を外したくなったのだろう。
言われてみれば、意固地に木苺を独占したがっていたころからおかしかったのだ。
ということは、一口でもう酔っていたのか。
相当強いアルコールなのか、ルゥシールが極端に弱いのか……
軽くため息を漏らすと、いつの間にか心の中のわだかまりは消えていた。
アホのルゥシールめ。
俺に怒ることすらさせないとは。手のかかるヤツだ。
あぁもう、どうでもいいや。
今回の一件は、今の醜態でチャラにしてやろう。特別だぞ。
なんにせよ、ルゥシールが復活するまでは待機だ。
まったく、やれやれだ。
そんなことを思いながら、俺はルゥシールから取り上げた食糧袋を、そっと懐にしまう。
だってほら、これがルゥシールの手元にあると危ないしな。
俺が管理してやらないと。
……で、あわよくば、さっきのゴロニャンモードをもう一度、今度は落ち着いた状況の中で…………
「アシノウラ」
突然背後から声をかけられ不用意に振り向いた俺を……俺はこの先しばらく恨み続けることになる。
「その危ない木苺は、廃棄しようね」
笑顔のエイミーが、そこにいた。
笑顔で、手のひらを上に向けて差し出している。
言外に語っている。「出せ」と。
振り向かなければ……聞こえなかったことに出来たものを……
「いや、これは俺が責任を持って管理を……」
「…………貸しなさい」
「…………はい」
怖ぇ……
エイミーの視線、超怖ぇよ……
あの眼に睨まれたら、たとえ二つ名持ちの冒険者だって大人しく引き下がっちゃうよ、絶対。
この怖さを体験もせずに「情けない」とかいうヤツがいたとしたら、そいつはきっとバカなのに違いない。何も分かっていない甘ちゃんなのだ。
俺は、そういう人間にはなりたくないね。
「知識って、人を大きくするよな」
いいことを言った俺は、自分の言葉に頷き、そして、さりげなく、食糧袋を懐にしまい込…………
「させないわよ!」
……もうとした、まさにその時、エイミーに食糧袋を掻っ攫われた。
そして、中に詰まったワインレッドの木苺が……俺の野望を実現するための夢の果実が……地面へとばらまかれ、エイミーの足によってぐっちゃぐちゃに踏みつぶされてしまった。
「あぁぁぁぁあぁぁぁああああああぁあぁぁぁぁぁああぁぁぁあぁぁぁあぁっ!」
絶叫……
そう、俺は絶叫したのだ。
慟哭……
そう、それはまさしく慟哭だった。
この世界の不条理を嘆いて。
この世を埋め尽くす、不幸を恨んで。
その日、俺は…………数年ぶりに本気で泣いたのだ。
ご来訪ありがとうございます。
ご主人さんも、怒る時は怒ります。
あと、簡単な魔法は魔力伝導率を考えなくても使えます。
今回は、デリックがメンバーに溶け込めればいいなという願いを込めて。
明日も更新します。
よろしくお願いします!
とまと
 




