泡沫に消えた陽だまりの日々
何処か遠くで、樹木の軋む音がする。
音もなくゆっくりと、けれど確実に降り積もる雪の重みに、若い樹のか細い枝があげる悲鳴。
一気に降り積もった雪ならば、ある程度の重みになれば自然と大地へと滑り落ち、樹はあっけなく圧力から解放されるだろう。
しかし時間をかけてじわりじわりと積もっては凍てつき、そしてまたそれに多い被さるようにして幾重にも重なり続けた雪は、そう簡単には落ちない。
その重みに屈するのは、樹の方が先か……それとも雪自身の方なのか――……
「――話は……とても長くて退屈なものかもしれません。それでも大丈夫ですか?」
「あぁ、構わない」
クルミナの問いに、何ら躊躇い無く了承するグラス。
その返答に満足したのか――あるいは決心がついたのか、クルミナは自らの記憶を辿りながら、ゆっくりと口を開き始めた。
クルミナの胸をかすめる幾つもの記憶。
それは遠いようで近い、近いようで遠い時間の彼方。
けれど閉ざされた目蓋の裏に、いつだって鮮明に視えるような。そんな、記憶。
少女がかつて日々を過ごしていた地――アルヴァスク村は、この凍てつく城からやや南にある。
女の足で丸一日歩けば着く程の距離なので、そう遠い村ではない。
しかしそこはこの国の領土ではなく、隣国が統治する地である上にとても小さな村で、クルミナが城に辿り着くまでに出会ったほとんどの人間はその名を聞いても首を傾げるばかりだった。
けれど目の前の王はすぐにその名に反応を示す。
「アルヴァスク……あのアルヴァータ鉱石が採掘できる唯一の村だな」
「えぇそうです。さすがは一国の王。よくご存知ですね」
「世界一の硬さを誇る鉱石は、軍事的にも影響のあるものだからな……そういった情報に国は敏感なものだ」
グラスが言った通り、世界一の強度を持つアルヴァータ鉱石は、通常城壁や教会などの特殊な建造物の一部に使用されているに過ぎないが、それを武具に使用されれば大いなる脅威になりかねない。
アルヴァスク村でしか採掘出来ない希少品な上に利用価値は高い。
その為、正規ルート以外でアルヴァータ鉱石の取引が行われぬよう。そして、鉱石の略奪行為などを防ぐ目的として、アルヴァスク村は世界共同の保護区域に指定されており、常に複数の同盟国が交代制で監視をしているのだ。
監視と言ってしまうと聞こえが悪いが、実際村人の生来の穏やかな気性と、発展途上地域特有ののどかさにより、村を訪れる兵士と村人達の関係はすこぶる良好であり、村の何処にも堅苦しさも支配的雰囲気は微塵も感じられなかった。
逆に、兵士が常に待機している事により盗賊や凶暴な野生動物からの被害も皆無となり、アルヴァスク村は世界のどの地よりも安全だと言っても過言では無いほどだ。
しかしその厳重体制はあくまで国の上層部達が取り決めた事であり、一般の民にはそれらの情報は知らされてはいない。
その為ほとんどの人間にとってアルヴァスク村は取り立てて名を馳せるような地ではなく、その名を知らないのである。
「私は物心ついた頃には既にあの村に居て……だからそれ以前の事は何一つ判りません」
「それ以前――?クルミナはアルヴァスク村の生まれでは無いのか?」
グラスの疑問に小さく頷くと、クルミナは口元に笑みを浮かべたまま、淡々とその続きを語り始める。
「――とてもよくあるお話ですよ。私は、生まれてすぐに棄てらていたんです。教会の前に」
小さな村で、ある朝置き去りにされていた赤ん坊。
しかしクルミナを見つけた教会の神父が訊いて回っても、誰もその赤ん坊の母親に心当たりは無かった。
人口僅か百人にも満たない程の小さな小さな村だ。もしも母親が村の住人ならば、母親が見つからないというのはなかなか考えにくい事だった。
「夜が明けて村人が起き出す前に、闇に紛れて近隣の村や街の誰かが置いていったのか、それとも余程の事情があって遠方から母親、もしくは代理の者が置き去りにして往ったのか――」
しかしいずれにしてもそれら総ての可能性は机上の空論。所詮は只の想像でしかなく、真実は未だ解らず仕舞いだった。
「――捨てた人物と理由は判らなくても、何故私が其処へ捨てられたのか。その理由は簡単でした」
「……孤児院代わり――だろうな」
クルミナの言葉に、すぐに【理由】に思い当たったグラスは、僅かに躊躇いがちにそれを口にした。
「はい。アルヴァスクは本当に小さな村でしたから……正式な孤児院などはなかったのです。」
それ故に村の孤児は、教会が一旦引き取り、後日きちんとした施設のある大きな町まで連れて行く――というのがそれまでの常識だった。
「ですがいつの頃からか、孤児は教会が一時的に、ではなく成人するまで面倒をみる、という事になったのです」
もちろん孤児を引き取り、成人するまで育てるのは大変な事だった。
しかし小さな村だという事が幸いと言って良いのか、孤児は他の街や村に比べればとても少なかったのだ。
更に村人同士の団結力や信頼関係も強く、たとえ孤児であっても同じ村に生きる子供に違いはない、という考えから村人達も出来る範囲ではあるが教会への協力や支援は惜しまなかった。
「神父さまをはじめ、教会の皆さんも村の中で困り事があればすぐに駆けつけたり、収穫の時期になれば畑仕事を手伝ったりしてましたから、きっと村の人々にとっては支え合うのが当たり前だったのでしょう」
「……良い村だな」
「はい。とても穏やかで温かい村です」
その教会にはクルミナの他にも何人かの子供がいた。
クルミナのように捨てられてしまった子供も中には何人か居たが、ほとんどは幼くして親を亡くしてしまった子供だった。
それぞれに様々な事情はあったかもしれないが、神父はどの子供も分け隔てなく沢山の愛情を注いで育ててくれたのだ。
「神父さまはとても優しくて……でも何というか……どこかクマのような方でした」
「……クマ……?」
クスクスと突然笑い出すクルミナ。
「はい。大柄でヒゲが濃くて……豪快で。でもナメクジだけはダメなんです」
「ナメ……?何というか……意外な弱点だな……」
クルミナの話に、グラスはそのまま熊がナメクジを怖がる様子を想像して思わず笑ってしまいそうになる。
「ナメクジを見て涙目になって逃げ回る神父様の姿があまりに面白くて、子供たちがみんなでナメクジを大量に探してきて神父さまを脅かした事もありました」
「……鬼だな……神父は怒らなかったのか?」
「もちろん怒られました。その後雪の上に正座して5時間に渡って神様の有り難い言葉を噛みしめるようにじっくりと読み聞かされました」
「……神父もなかなかの鬼だな……」
楽しそうに思い出を語るクルミナとは正反対に、グラスの笑みは次第に苦笑いへと変わっていた。
「――理由も素性も関係無く、神父さまは『おまえ達は全員私の子供だ』と、厳しく優しく育てて下さいました」
親を知らないクルミナには、家族というものがどんなものかは解らなかった。
けれど教会での毎日は本物の家族のそれに限り無く近いものだったに違いない。
「……その頃に、『紫水晶の瞳』と呼ばれていたのか?」
サク、サク、と、緩やかに……けれど規則正しく響いていた二つの足音。
しかしグラスの言葉に、足音の一つが唐突に止まる。
「……クルミナ……?」
聞こえなくなった足音。
グラスがその主の方を振り返って見ると、クルミナは握っている杖を更にきつく握りしめ、再び足を踏み出そうとしている所だった。
クルミナが一瞬立ち止まったために僅かに開いた二人の距離。
それが元に戻るのを、グラスはゆっくりと近付いてくるクルミナを見守りながら待った。
包帯で隠された瞳は、今はもう何も語らず、どんな表情かは解らない。
ただ解るのは、先程まで笑みを浮かべていた口元も、いつの間にか固く閉じられているという事だけ。
――サク……サク……
まるで時計の秒針のように、小さく響く足音が目の前に辿り着くと、閉ざされた唇は再び過去を語り始める。
今は見えない、封じられた紫水晶の瞳の過去を――……
「――この前も少しお話しましたが、この大陸の人々は皆、色の濃淡に多少の幅があっても基本的には青い瞳をお持ちです」
「ああ、そうだな」
「幼かった私は、瞳の色の違いなんて全く気にしてはいませんでした。けれどある日、孤児仲間の1人が言ったのです」
それは決して悪意の無い、子供特有の残酷な素直さ故の言葉。
『どうして、クルミナの瞳だけみんなと違うの?』
「……その言葉に初めて、自分は――自分だけが、村の誰とも違う瞳の色なのだと気付きました」
見渡す景色はいつものそれと何一つ変わらない。
瞳に映る人々の姿も温かく穏やかなまま。
「瞳の色が違うくらいで、今までの日々も、これからの周囲との関係も、何一つ変わるわけはありません。それは解っているのです。でも――……」
アルヴァスク村ではないどこかで生まれた、一人だけ瞳の色が違う自分。
突然世界から自分だけが切り離されてしまったかのような、形のない恐怖がじわりと胸の奥底に染みを作った。
「今なら大した事ではないような些細な事であっても、まだ幼かった私には、自分だけが突然仲間はずれになってしまったような気がして、急に強い孤独感に襲われたのです。……ふふ、ばかな話ですね」
「……大人であっても、自分だけが周囲と違う異分子であれば、孤独感を感じてしまうだろう……一人で生きる術を持たず、誰かの保護に頼る事で生きられる幼子であれば尚更だ」
大人の比護の下で生きる子供。
だから子供は無条件に大人を――自分を護ってくれる人間を信じる。
だから自分だけが他と違うのだと解ると怖くなるのだ。
それを理由に真っ先に見捨てられるのではないか。
そうでなければ自分は本当は厄介者なのではないか。疎まれているのではないかと、甘える事が怖くなる。
――信じることが、怖くなる……
「……そう……今まで当たり前のように信じていた神父さまや村の人々の優しさが……怖くなってしまったのです」
幼いクルミナは、そのまま教会を飛び出し、村はずれの森へと向かった。
別にその森へ行く明確な理由など無かったが、ただ誰にも会わずに済む場所に行きたかったのだ。
「ただ1人になりたくて……人の居ない方、居ない方へと向かって歩いているといつの間にかその森に辿り着いていました」
この雪深い大陸で、雪の降らない限られた短い季節。
まだ木の葉が生い茂る森は陽の光がうっすらとしか届かず、広がる景色はもやがかかったように霞んでいた。
聴こえるのは鳥のさえずりと、羽ばたく音。
微かに聴こえる水音は、森のどこかに小川があるからだろう。
大地には土と一体化を始めた落ち葉の群れと、その隙間を埋めるように生えている草やコケ。
所々に差し込む木漏れ日が、霞みがかった静謐な世界を更に幻想的に魅せる。
「教会の付近からあまり離れた事の無かった私には、森の中は初めて感じる不思議な空間でした」
まるで夢の中にでも居るかのように、失われた現実感。
今も忘れられないあの日、あの場所での出来事。
金色の光を纏ったような、あの穏やかな笑顔と声を、忘れた瞬間など一度たりとも有りはしない。
「――……そこで私は――“彼”に、出逢いました……」
*****
リルルルル……
森の奥から響く、総てを包み込むような優しい潮騒にも似た穏やかな声。
まるで歌うように旋律を奏でるそれは、鳥達が生を謳歌している証。
森にも海の底にも、人々のそれと形は違えども本質的には何ら変わらぬ命の営みがある。
『人間は地上をまるで独占したかのように、あらゆる地を思うままに開拓し続けるけれどね、一歩自然の中に踏み込むと、世界の雄大さの前に人間など本当の意味ではこの世界の何一つも手に入れていないのではないかと……僕はそう思ってしまうんだよ――』
養父である神父が、以前何かの本を読み聞かせながら語った言葉。
あの時は神父の言わんとする事がいまいち解らなかったが、実際に森の中に足を踏み入れて、なんとなくではあってもクルミナはその意味を解ったような気がした。
世界は誰の所有物でもなく、世界自身のもの。
人も動物も草木も、その広大な箱庭の中で生かされているに過ぎない。
それは肉体と細胞のような関係に近い気がする。
もしも肉体自身に害を為す物と判別されれば、たちどころにこの世界から除去されてしまうのではないか。
そう――人や動物がそうであるように、きっと世界も自身に危機を感じたなら即座に反応をするのだろう。
それが命在るものの本能なのだから――……
森の持つ不思議な静寂に飲み込まれるように、いつの間にか無心になって歩き続ける幼い少女。
しかしそんな少女――クルミナを森の魔力から解き放つように、突然何の前触れもなく目の前にぼとり、と何かが落ちてきた。
「――それ以上進まないで!!」
「……ッ!?」
何かが落ちるのと同時に頭上から聞こえた叫ぶような声。
反射的にクルミナが宙を見上げると、ふわりと舞い降りる少年と目が合った。
ほんの一瞬の視線の交差。しかしそれはまるで永遠の契りのように――或いは呪縛のように、やけに鮮明に、強烈な光景としてクルミナの瞳に焼き付いた。
木漏れ日にキラキラと輝く美しい髪を持つその姿は、いつか絵本で読んだ天上から地上へと舞い降りた天使のよう。
一瞬の後に少年は軽い音をたてて地面に降り立つと、そのまま膝をついて食い入るように大地を見つめた。
「――良かった……無事だ」
座り込む――というより四つん這いのような体勢のまま、覗き込むようにして地面を見つめながら安堵の息を吐く少年に、クルミナは恐る恐る話しかけてみる。
「……あ、あの……どうしたの……?」
クルミナの声にハッとしたように顔を上げる少年。
「あ!ごめん!!」
慌てて立ち上がると、改めてクルミナに向き合い謝罪する。
「急に大声を出して飛び出したりしてごめん……あの……驚かせちゃったよね?」
立ち上がった少年は、クルミナよりも背が高く、歳も僅かに上のようだったが、申し訳なさそうにオロオロと謝る姿はあまりにも頼りなさ気。
しかもよく見るとあちこちに木の葉や土が付いていて、天使には程遠い有り様だった。
しかしその一見すると近寄りがたい外見との落差が逆に少年に親しみやすさを感じさせてくれる。
「ううん。ちょっと驚いたけど大丈夫。気にしないで。それより――」
クルミナは一歩、二歩と少年に歩み寄り、背伸びをしながらそっと手を伸ばし、少年の髪に付いた葉を取り除いた。
「あ……ありがとう。たぶん木に登った時にくっついたのかな……」
申し訳なさそうに、恥ずかしそうに微笑む少年の表情はとても穏やかで、やっぱり天使のようだと胸中で改めて思いつつも、クルミナはそれを口には出さず別の疑問を口にした。
「木に?そう言えばあなた突然飛び降りて来たけれど木の上から?」
「うん。ほら見て、あれ」
少年が指差す先には、木の枝の根元に作られた小さな鳥の巣。
「あの巣から雛が身を乗り出して落ちそうになってたんだ。……落ちる前に巣の中に戻してあげようと思ったんだけど――」
言いながら、厚地のグローブを嵌めた両手を開く少年。
クルミナが中を覗き込むと、そこには小さな小さな鳥の雛が一羽、うずくまっていた。
「僕が手を伸ばしたら、それに驚いて巣から飛び出しちゃったんだよ。余計な事をしちゃったなぁ……」
手の中の雛を見つめながら、シュンとした顔でそう言う少年。
「……優しいひと……」
無意識に口元が緩むのを感じながら、クルミナは落ち込む少年に言葉をかける。
「あなたのせいじゃないわ。もしあなたが何もしなくても、いずれこの雛は落ちてしまってたかもしれないもの。雛はどこも怪我をしていないみたいだし……このままそっと巣に返してあげればこの子は大丈夫よ」
雛とはいえ、鳥である以上落下時には本能的に翼を羽ばたかせる。
それによって落下時の衝撃が和らいだのと、草むらに落ちたのが幸いしたのだろう。
雛は元気そうにピィピィと鳴きながら小さな翼を広げている。
「ほら。この子も早く家に帰りたがってる。私も手伝うから……ね?」
クルミナの話を、キョトンとした表情で聞いていた少年だったが、次第にその表情は笑顔へと変わっていく。
「――ありがとう……!そうだね、早く巣に返してあげよう!!」
「うん!」
そう言って笑顔を交わし合う二人だったが、少年はまたすぐに表情を曇らせてしまう。
「でも……木の上の巣にどうやって戻してあげようかな……」
途方に暮れたように木の上を見上げる少年。
当然の事だが雛を巣に返すには、木を登らなくてはいけない。
しかし手がふさがってしまっては肝心の雛を連れて行けないのだ。
「あなたが先に木に登って、私が下から雛を手渡し……出来る高さじゃないわね……」
少年と同じく木を見上げながら、途方に暮れるクルミナ。
「そうだね……それに、高さの問題もあるけど匂いの問題もあるからなぁ……」
「匂い?」
クルミナの疑問に、少年は一旦木から目を離しクルミナへと視線を向けた。
「うん。うかつに雛に素手で触ってしまうと人間の匂いが付いてしまって、無事に巣に返しても親鳥に見捨てられてしまう場合があるんだよ」
「そうなの……だからあなたそんな厚地のグローブを着けているのね」
納得したように言いながら、クルミナは少年の手元へと視線を落とす。
雛を包むその手には厚地の皮のグローブ。
汚れ具合や所々糸が綻んでいる様子から、だいぶ使い込まれたグローブのようだ。
「このグローブは父さんの手伝いでたまたま着けていたんだけど……でも確かに丁度良かったね。木や土の匂いに紛れて人間の匂いもほとんど判らなそうだし」
「……土や木の匂いで人間の匂いは消えるの?」
クルミナがそう尋ねると、少年はうーん、と小さく唸り「完全には消えないかもしれないけど、だいぶ薄まるんじゃないかな?」と言った。
「………あ、それなら……!」
少年の言葉に、クルミナは思い付いたように肩から下げていた小振りの鞄に手をかける。
そのまま鞄を逆さまにして中身を草の上に放り出すと、今度は枯れ葉や土を鞄に詰め始めた。
「な……何してるの!?そんな事したら鞄が――」
「大丈夫!これを使って?」
突然のクルミナの謎の行動に、オロオロと慌てる少年。しかし当のクルミナはそんな事には一切構わず黙々と迅速に鞄に草やら土やらを詰め込むと、土まみれの自身の鞄をずいっと少年の前に差し出した。
「これだけ土や草を詰めれば、土の上に雛を乗せて木の上に連れて行く事くらいは大丈夫かしら?」
眼前に差し出された鞄と、自らの掌の上の雛。
そしてクルミナの顔を順に見て、少年はようやくクルミナの行動の意味が解ったらしく、「ありがとう」と笑顔で応えて差し出された鞄を掴んだ。
雛鳥が落ちないように鞄の中にそっと入れると、少年はそれを肩に掛けてスルスルと器用に木をよじ登って行く。
巣の高さまで登った少年は、一度木の枝に腰掛け、両手で慎重に鞄から雛を取り出し巣へとそっと戻した。
下から見守るクルミナに向かって笑顔で手を振る少年の姿に、クルミナもまた笑顔で手を振り返す。
小さな救助活動はこうして無事に終わりを迎えた―――
はずだった。
ゴスッ!!!!
「きゃぁああああぁあああ!!?」
森の中に同時に響いた何かが地面に落ちる音と少女の悲鳴。
それは救助活動の締めくくりにはあまりにも切ない、少年が地面に落下した為に起こったものであった。
*****
「だ……大丈夫?とりあえずこれで冷やして、しばらく休んだ方がいいわ」
木にもたれ掛かるようにして座る少年に、クルミナは近くの川で濡らしたハンカチを差し出す。
「ありがとう。ちょっとコブが出来ただけだからそんなに心配はいらないと思うけど……せっかくだから使わせて貰うよ」
「でも……木から落ちて、しかも頭を打ったなんて心配だわ……」
心配そうに見つめるクルミナに向かって、少年はひらひらと手を振りながら笑顔で「大丈夫大丈夫!僕こう見えても打たれ強いんだよ!!」と返すが、そう言われても簡単にハイそうですか、とは言えるはずもない。
そうしてオロオロするクルミナをよそに、少年は自分の肩から下げられている鞄へて目をやった。
「それにしてもきみが鞄を貸してくれて本当に助かったよ。僕1人じゃ雛を連れてどうやって木を登れば良いか解らなかったもの」
「ううん。私は大した事は出来なかった。けど、それでも少しは役に立ったなら良かった……」
「そんな事ないさ、大助かりだよ!……でも……きみの鞄をダメにしてしまって申し訳ないや……」
言いながら泥や草にまみれたクルミナの鞄を見て、少年の太陽のような笑顔が僅かに翳りを帯びる。
「大丈夫よ。協会に戻れば代わりのものがあるし、本は抱えて持ち帰れるわ!」
そう言ってクルミナは、笑いながら先ほど放り出した鞄の中身――一冊の分厚い本を胸の前で抱えて見せた。
「……随分厚い本だね?何が書いてあるの?」
それは確かに幼い子供が持ち歩くにはやや不自然な、皮表紙で出来た分厚く立派な本だった。
「これはね、神さまの言葉が書かれているんだって。お父さん……神父さまが、何かに迷ったり悩んだりした時にこの本を見ればきっと背中を押してくれるから、って……」
ああそうだ。
自分は一人になりたくて……静かにこの本を読みたくてさ迷っているうちに、此処まで来たはずだった。
けれど少年と出逢い、雛の救助やら何やらしているうちにそんな事などいつの間にかすっかり忘れてしまっていた。
「へぇ……神さまの言葉かー……ちょっと見ても良い?」
「え?うん、いいよ!」
クルミナから手渡された本を、少年は早速パラパラとめくる。
「わぁ……きみは難しい本を読むんだね……僕には言葉が難しくて意味が解らないものばっかりだよ」
ページをめくりながら、感心したように呟く少年。
確かに中身は畏まった物言いで書かれていて、幼い子供には言葉の意味自体がよく解らないものばかりだった。
「私も難しくて全部は解らないわ。お父さんからいくつか意味を教えて貰ったから少し解るくらい」
「そっか……あ!でもこれなら僕にも解るよ。村の結婚式で必ず言う言葉だよね」
“夫婦の契りを交わす者。其れは未来を託し合う者。即ち互いが互いの剣となりて盾となる。永遠に互いを護り、共に生きるという誓いである”
少年が読み上げるそれは、村の結婚式では必ず神父が読み上げる誓いの言葉。
それに因んで、この村では結婚式にて夫婦の契りを交わした二人に、剣と盾が贈られる。
どんな鉱石よりも硬いアルヴァータ鉱石で創られたそれらは、二人の絆が固く、決して崩れないように。
そして、どんな事があっても互いを護れるようにとの意味が込められている。
「普通は指輪やネックレスとか、装飾品で絆を誓い合うのに剣と盾で誓うなんてなんだか不思議だよね。でも僕はこの村の風習、好きだけど」
「うん、私もなんだか良いなって思う。困った時にはどっちかが戦うのでも護るのでもなく、二人で戦って、お互いを護り合うのってカッコイイよね!!」
おとぎ話の捕らわれのお姫様は、いつだって王子様に助けられるのを待つだけ。
それを聞く度にいつも疑問だった。
何故一緒に戦ってあげないのだろう。
自分を助けるために命がけで戦う王子様を、どうしてお姫様はただ見ているだけなんだろう。
助けられるだけでは、逆に辛くはないのだろうか、と――。
「ふふふ……あっははははは」
「……?どうしたの?」
クルミナの言葉を黙って聞いていた少年は、なぜか突然声を上げて笑い出した。
「だって、きみすごく凛々しいんだもの!!あっははははは!おとぎ話のお姫様に文句を言う女の子なんて見たことないよ!!」
「……ッ!?だ、だって王子様ばっかり頑張って……なんだか不公平なんだもん!!」
まさか笑われるとは思っていなかったクルミナは、自分の考えはそんなにもおかしいものなのかと、恥ずかしさに顔を真っ赤にさせる。
そんなクルミナの様子にますます笑ってしまう少年。
しかし笑いながらも、少年はポンポンとクルミナの頭を撫でながら言った。
「大丈夫。おかしくなんかないよ。凄いなって、カッコイイなって思っただけだよ」
「……ほんとに?」
いつの間にか瞳に涙まで浮かべているクルミナに笑顔を向けたまま、少年は優しく頷いてみせる。
「父さんや母さんがよく言うんだ。助ける事を当たり前だとは思っても、助けて貰うことを当たり前だとは思うな、って」
「……素敵な言葉ね」
「うん。だからきみの言葉を聞いて、すごく嬉しくなって笑ってしまったんだよ」
今までそんな風に言う子に出逢った事が無かったから。と、少年はぽつりと言葉を付け足した。
「……あれ?」
「……?」
ふとクルミナと目があった少年は、不思議そうに首を傾げながらじっとクルミナの瞳を見つめてくる。
「きみの瞳……今まで気づかなかったけど紫色なんだね」
「……ッ!!」
瞳の色が違う。
それはまさにクルミナがこの森まで1人やってくることになった元凶でもある言葉だった。
しかしそんな事情を全く知らない少年は、クルミナに近付きまじまじとその紫色の瞳を見つめてくる。
「……へ……変だよね。みんな青い瞳なのに私だけこんな……変な色で……」
少年の視線に耐えきれず、クルミナは顔を背けながらそれだけを言うのがやっとだった。
あぁ、きっとまたおかしいと言われるに違いない。
この村のどこにも青以外の瞳を持つ人間なんていない。
自分だけ。
自分だけが仲間外れなのだ。
「どうして?すっごく綺麗な色なのに!!」
「え……?」
意外な言葉に、恐る恐るクルミナが視線を戻すと、そこにはきらきらと、眩しいくらいの笑顔で自分の瞳の色を褒める少年の姿があった。
「だって他に誰もそんな綺麗な瞳の人なんていないよ!!きみだけの特別な瞳だよ!!すっごいなぁー!!」
興奮したように話す少年は、心底クルミナの瞳に魅入っているようで、その言葉に嘘など一欠片も無さそうだ。
「私だけの……特別……」
そんな考え方があるなんて思いもしなかった。
ほんの少し考え方を変えるだけで、“仲間外れ”は、“特別”になってしまう。
「そうだ!きみにコレをあげるよ」
そう言って少年は、ポケットから何かを掴み取ってクルミナの手の上に乗せた。
「……これは……?」
手のひらにコロリと乗せられたそれは、深く、透き通った紫色の美しい石。
「綺麗でしょ?それは紫水晶という石だよ。アルヴァータ鉱石の発掘作業をしているおじさんがたまたま見つけて、僕にくれたんだ」
「紫水晶……?うん、すごく綺麗……!」
「きみの瞳の色にそっくりだと思ったんだ。鞄をダメにしちゃったから。……お詫びにはならないかもしれないけど……」
少年は申し訳なさそうに言うが、クルミナにはむしろこんなキレイなものを鞄なんかの代わりに貰う事の方がよほど申し訳無いと思えてしまう。
「そ……そんな!こんなキレイなものが鞄の代わりだなんて勿体無いよ!!」
「ううん。良いんだ。僕がきみにあげたいって思ったから」
相変わらずの少年の笑顔。
きっとさっきまでの笑顔と同じはずなのに、なぜだかさっきまでよりずっと、眩しく見えるのは何故だろう。
「……私の瞳は……あなたにはこの石のように見えるのね……」
「うん!」
自分だけが他の人とは違う瞳の色。
あんなにも悲しかったのに。
あんなにも嫌だったのに。
なのに今は――こんなにも嬉しい。
「ありがとう……」
クルミナの笑顔に、少年もまた満足そうに笑う。
「そういえばあなたの名前、まだ聞いてなかったわ……私はクルミナっていうの」
「僕はヴァルムだよ。いつもこの森で父さんの木こりの仕事を手伝ってるんだ」
「木こり……」
少年が着けている厚地のグローブ。
それも仕事柄を考えれば確かに納得のものだ。
「じゃあ、ここに来ればまたヴァルムに会えるのね」
「うん、でも森は広いから気をつけないと迷ってしまうよ」
心配そうに言うヴァルムだったが、そんな事は何でもないと言わんばかりにクルミナは胸を張って言う。
「大丈夫。その時は大声でヴァルムを呼ぶわ」
「ぷっはははは!本当にクルミナは面白い子だなぁ……分かった。じゃあ僕もまた雛鳥が巣から落ちていたら大声でクルミナを呼ぶよ」
開き直るように笑顔で言い放つクルミナに、ヴァルムもまた笑顔で答える。
それは言葉にこそしてはいないが、幼い二人が暗黙のうちに交わした“誓い”にも似た約束。
森の奥で初めて出逢った二人は、お互いがお互いの、『特別』になったのだった――……
*****
「――そうして、お前は“紫水晶の瞳”と呼ばれるようになった訳か……」
「はい。」
サクサクと、相変わらず二人の周囲には雪を踏みしめる音だけが静かに響いている。
「……単純なものですよね」
「ん?」
「それまではマイナスにしか考えられなかった事も、ほんの少し見方を変えるだけで全く反対の――良いものに思えてくるんですから……」
杖を握る手に、ふわりと雪が舞い落ちる冷たい感触。
今はもう見えないが、それはきっといつかみた姿のままに、白く、美しい結晶体なのだろう。
「まぁ……それまでのお前の考え方が悲観的過ぎたんだろう」
「あら。同じく悲観的な王様にそんな事を言われてしまうとは意外でした」
「お前……」
何気なく言った言葉に思わぬ反撃を喰らい、グラスが顔を僅かに歪めながらクルミナを振り返る。
そのため規則正しく続いていた足音がふいに途切れ、辺りには静寂が広がった。
「――ふふ……」
「……?」
キュ……
クルミナが踏み出した一歩に、踏みしめられた雪が束の間の静寂を破るように鳴き声をあげる。
「グラセアス王。私達は似た者同士ですね」
「……似ている……?俺達が?」
「本当は――私も、誰かが何かをしてくれた時、つい“ごめんなさい”と言ってしまうような人間でした」
“誰かに何かをしてもらったら、謝るよりもお礼を言った方がずっと良いんじゃないかな”
そう、教えてくれたのもヴァルムだった。
「そして――あなたは私と同じ物を求めています」
「……同じ……もの?」
「理由は解りませんが、あなたも求めているでしょう……私と同じように、自らへの罰を――……」
ヒュウゥゥウウ
唐突に駆け抜けた風が、辺りの雪を道連れに遥か上空へと舞い上がる。
そして僅かな後に、風に置き去りにされた雪が再び地上へと舞い落ちて来る。
それはまさにスノードームの世界そのもの。
「罰……それが、“殺して欲しい”理由か」
「そうです」
グラスが見つめる視線の先に居る彼女はもう、その口元にいつもの微笑みをたたえてはいなかった。
「…………お前は一体何をした……?本当に罰を受けるべき何かをしたのならば、役人が罰を与えるはずだ」
その通りだ。
何も盲目の娘がたった一人でこんな場所まで向かわずとも、もし本当に罰せられる程の何かをしたのならば役人が相応の罰を与えるはずだ。
役人がその罪に気付かなかったのならば、自ら赴いて罪を告白すれば良い。
真実かどうかも解らないような噂を頼りに、こんな場所まで遥々来る必要などどこにも無いはずだ。
しかしそんなグラスの疑問を否定するように、クルミナはふるふると頭を横に振る。
「役人は――いいえ。村の誰も、私を罰してはくれなかったのです」
声は、僅かにも震えてなどいない。
「罰して欲しかった……罵って欲しかった。でも、誰も私にそれを与えてくれなかった」
凛とした強さすら感じさせる、矢の如く真っ直ぐに貫くような声。
その迷いのない声で、彼女はその先の言葉を放つ。
「私が――」
見えない瞳に、ヴァルムの微笑みが視える。
――『彼』は、笑っていた。
いつも。どんな時だって。
そう。血にまみれた最期の――
「――私が、ヴァルムを殺したのに――……!!」
自分に命を奪われる、あの瞬間でさえも――……






