遠き日の面影
「出来るだけ早く戻って来れるよう努力しますので、申し訳ありませんが少し待っていてください」
城から道なりに歩いておよそ二時間。
グラスとクルミナ、そしてシャルルは街の近くの林に辿り着いていた。
林とは言っても特に雪深い今の時期は枯れ木ばかりではあるが、それでもクルミナが買い出しをしている間グラスが身を潜ませるには十分な場所だろう。
「……俺の事はいいから慌てず買い忘れの無いように行ってくると良い」
クルミナにそう言いながら、休めそうな場所を探して周囲を見回るグラス。
けれど続くクルミナの予想外の発言に、思わず動きを止めて固まる事になる。
「ふふ……なんだかお父さんみたいな感じですね」
「――お父……?……いや……まぁ、確かに保護者のようなものではあるがな……」
それにしても父親は年齢差がおかしすぎるだろう。
寒さ対策、そして顔を隠すために着込んだローブのフードを深く被ったグラス。その下からちらりと見える目は若干呆れていて何かを言いたげだったが、クルミナにそれが見えるはずもなかった。
「それでは、行ってきますね」
シャルルを肩に乗せ、クルミナは杖を片手に足場を確認しながら街の方に向かって歩き始める。
城から街に向かう道は人通りが無く、降り積もった雪が踏み固められていないためクルミナにとって、とても歩きにくい事は想像に難しくなかった。
この林までの道は先日の中庭でのようにグラスが先に歩き、ある程度雪を踏み固めて道を作れた。だがこの先何の助けもない雪道をきちんと歩けるのか……グラスは心配そうにクルミナの後ろ姿を見守るのだった。
*****
「――なんとか辿り着けましたね」
「みゃあー」
ふう。とクルミナが安堵の息を吐くと、足元に居たはずのシャルルはいつの間にやら肩へとよじ登り誇らしげに鳴いて見せた。
「あなたが先を歩いて雪を溶かしてくれたおかげで随分楽に歩く事が出来ました……ありがとう。シャルル」
「みゃふーん」
嬉しそうな鳴き声と共に頬にすり寄せられるふわふわとした毛並み。それを優しく撫でてやると、シャルルの喉はすぐにグルグルと心地良い音を奏で始める。
そんな穏やかな音に重なるようにして耳に入るのは、人々の陽気な話し声と忙しなく街のあちこちを走り抜ける馬車の音。
時折聞こえるパタパタというリズミカルな音は、子供が走り回る足音だろう。
視覚が無い分、クルミナはそれ以外の聴覚、臭覚で周囲の情報を得なければならない。
その為彼女はまだ目が見えていた頃よりずっと、たくさんの音を聞き分けられるようになった。
目が見える人間にとってはただの雑音にしかならないような音。けれどそんな音の一つ一つにも心は宿り、世界を構成するものの一つとなっているのだと光を失って初めて知ることが出来た。
クルミナの耳に届く総ての音が複雑に絡み合い、まるでオーケストラが一つの音楽を奏でるかのように、華やいでいる街の様子を明確にクルミナに伝えるのだ。
「満ち足りた音……みんな幸せそう……ここはとても良い街ですね」
カラー……ン
カラー……ン
意識を更に研ぎ澄ますと、遠くから微かに聴こえる、時を告げる鐘の音。
遠い昔に毎日のように聴いた、懐かしいあの音に良く似ている。
村の外れの小さな教会。
父であり、師であった神父。
何も無いけれど総てが在ったささやかな日々。
記憶の中に響き渡る鐘の音は、ただ冷たいだけの金属音ではなく、どこか温かかった。
通り過ぎた思い出は、優しい。
二度とは戻れないと解っているからこそ余計に、決して届かぬ星のように淡くじんわりと輝くのだろう。
……ゆらゆらと揺れる陽炎のように朧気な影が一つ、懐かしい温もりに包まれた記憶の向こうに視える。
形を成さず漂うだけだったそれは、次第にその本来の姿を取り戻してゆく。
美しい金色の髪。中性的な優しい顔立ち。華奢で小柄な体。
誰もが少年と形容してしまいそうになるが、それはとうに成人を迎えた青年の姿だった。
青年はただ、笑う。
あの日のままの、優しい笑顔で。
――やめて……そんな笑顔を見せないで……――
『彼』は、笑っていた。
いつも。どんな時だって。
そう。血にまみれた最期の瞬間でさえも――……
――私は……あなたに笑顔を向けてもらう資格なんてないの……――
あの時……彼は総てを赦してくれた。
彼は何も、誰も責めたりなど……憎んだりなどしなかった。
でも、だからこそ辛いのだ。
だからこそ、赦せないのだ。
誰よりも自分が一番、自分を赦せない。
「――……ヴァルム……私は……」
クルミナがぽつりと、届くはずのない幻影に向かって言葉を発した。その瞬間。
「――こっちへ!!」
叫び声と同時に、腕をぐいっと掴まれ後方へと強く引き戻される。
「あ……」
風に散らされ舞い落ちる花びらのように、霧散し、かき消えていく幻影。
それとほぼ同じくして目の前を何かが通り過ぎる音と風。
「――馬車の中には街中であろうとスピードを落とさずに突っ切っていく奴もいるから……気をつけなきゃダメよ」
落ち着き、けれどどこか凛とした響きの女性の声。
ふわりと広がる鼻腔をくすぐる花のような甘い匂いに誘われるようにして、クルミナは背後の人物へと体を向ける。
声と纏う雰囲気でしか判別は出来ないが、年齢は自分に母親というものがいたならこのくらいかと思えるような年齢だろうか。
「あ……危ない所を……どうもありがとうございました」
そう言ってぺこりとお辞儀をすると、頭上から驚いたような声が聞こえてくる。
「――アナタ……目が……?」
「はい。昨年事故で……」
「事故……それは大変だったわね…元々光を知っている人間がそれを失うというのはとても辛いでしょう……?」
光。
それはそのまま視力という意味での問いかけであるのだろう。
しかしクルミナにとって、それは別の意味を孕む言葉でもある。
「――そう……ですね。でも、光を失ってしまったのは自分の所為なので……仕方ないのです……」
女の問いに、笑顔のままで答えるクルミナ。
けれど包帯に隠された目元に添えられるその手は凝視しなければ解らない程僅かに。しかし確かに震えていた。
「アナタ偉いわね。それだけの不幸があれば、誰かや何かの所為にしたくなる人間が大半なのに……」
「いえ……本当に自分自身の所為で―――「私なら」
クルミナの言葉を遮るかのようにピシャリと被る声。
それと同時に、唐突に彼女を取り巻く空気のようなものが温もりを感じさせない冷気へと変わったような気がした。
「私なら……憎しみを通り越して呪ってしまいたくなるわ」
「え……」
低い声でボソリ、と吐き出された言葉。
彼女がどんな表情でその言葉を吐いたのか、クルミナには解らない。
けれど、その言葉の中にすら彼女の言う「呪い」が込められているのではないか。そう思わずにはいられないような声だった。
「――そういえばアナタ、お名前は?」
僅かな沈黙の後、再び開かれる女の口。
先程の重苦しい空気は姿を潜ませ、まるで何事も無かったかのように彼女が放つ空気はいつの間にか元通りの穏やかなものへと戻っていた。
「クルミナ……です」
「そう、クルミナね。私はアムルよ。この街で薬剤師をしているの」
アムル、と名乗る女は人懐っこそうな明るい声で簡単な自己紹介をしつつ、光を感じないクルミナの手を取り握手代わりに両手で軽く握りしめる。
自分と変わらない大きさの手。
その指先からは穏やかな熱がじんわりと伝わり、寒空の下歩き続けてすっかり冷え切ったクルミナの手を温めてくれた。
「アムルさんですね。こちらこそよろしくお願いします」
言いながら、クルミナも微笑んでぺこりと頭を下げる。
「薬剤師さんですか……薬の調合が出来るのは凄いですね。特にこんな大きな街の薬剤師さんなら、色んな知識にも精通していそうですし……」
「あら、クルミナは薬に興味があるの?」
「私の育ての父が、神父をしながら村医者のような事もしていたので少しだけ」
「そう……素敵なお父様じゃないの」
「はい!ナメクジは苦手ですが、私の自慢の父です」
アムルの言葉に即答するクルミナ。
「まぁ……ナメクジが苦手な神父さまなんてなんだか可愛いわね」
「完璧なだけの人間より、少しくらい短所がある方が人間らしくて丁度良いものですよ」
言いながら、クルミナは人差し指を立てて講義を行う教師のように胸を張ってみせる。
「あはは。そうね、そういう考え方、好きよ私」
クルミナの丁寧でありながらも懐っこい雰囲気に、アムルはすっかり顔を綻ばせて笑っている。
街を満たす空気も音も穏やかなまま。ただ時間だけが絶え間なく流れてゆく。
風に乗ってどこからか漂ってくるパンの焼ける匂い。
「良い匂い……この近くにパン屋さんがあるのでしたら、すみませんが道を教えて頂けますか?」
「教えるのは構わないけれど……アナタ、目が不自由なのに一人で大丈夫?この街の地理に詳しくはないでしょう?」
「いえ、なんとか大丈夫だと思います。この子も居ますし」
「にゃぁー」
名を呼ばれ、ひょっこりとクルミナの足元からシャルルが顔を出す。
「あら可愛いナイトさんだこと。紅い毛並み……フレイム・キャットの子ね」
言いながらアムルはしゃがみこみ、シャルルの頭を撫でる。
みゃぅー、と鳴きながら喉を鳴らすシャルル。
「ふふふ……人間を怖がらないのね。無邪気なのは良いことだけれど、警戒心は持った方が良いわ。フレイム・キャットは狙われやすいから……こういう大きな街では特に、ね」
「あ……」
アムルの言葉に、グラスの話を思い出す。
フレイム・キャットは密猟者に狙われやすい。
人の多い場所でなら大っぴらに狙うことは出来ないかと思っていたが、むしろ人が多いからこそ、目立たず近付いて攫い、再び人混みに消えていく事もあるだろう。
ましてや目の見えない自分では、誰かにシャルルを狙われても守ることが出来ない。
最悪の想像が頭をよぎり、今更ながら短絡的な思考でシャルルを連れてきてしまった事を後悔する。
「シャルル……」
一度グラスの元まで戻り、シャルルを頼むべきか。
それともコートの中にシャルルを抱いて最低限の買い物だけを済ませ、速やかに戻るべきか……立ち尽くし、あれこれと思案するクルミナ。
「……クルミナ。もし迷惑でなければ私も買い物に付き合って良いかしら?」
「え?アムルさんもですか?」
突然のアムルの申し出に驚く。
「お店を案内する事も出来るし、その子を狙う人間が万が一現れても少しは役に立てると思うわ」
「私はとても助かりますが……アムルさんは大丈夫なのですか?」
「えぇ、今日は特に予定もなくブラブラと街を歩いていただけだから……むしろ予定が埋まって好都合よ」
そう言って彼女は明るく笑って見せる。
その笑顔がクルミナの目に映る事は無かったが、それでも母のような、姉のような、不思議な温かさを持った空気を感じることは出来た。
「それではお言葉に甘えて……もう少しお付き合い、お願いします」
「えぇ、喜んで」
そう言ってアムルは自分の前に差し出されたクルミナの手を取り、二人は穏やかな喧騒の波へと歩き出した。
*****
「――今日は本当に助かりました。アムルさん、どうもありがとうございます!」
2人が出会ってからおよそ1時間半。
先程と同じ広場に、二人は同じように並んで立っていた。
違っていることはクルミナが持つ籠の中に荷物が入った事くらいだろう。
「大丈夫?買い忘れたものは無い?」
「はい、途中何度も確認したので大丈夫です!」
クルミナは木の皮を丁寧に編んで作り上げられた籠の中を、買うつもりだったものの記憶と現物とを照らし合わせ、手探りで確認する。
「みゃあーん」
そんなクルミナの肩の上から、興味深そうに身を乗り出し中を覗き込むシャルル。
「大丈夫よシャルル。ご主人さまはちゃーんとアナタの分のご飯も考えてくれてるから」
「みゃう!」
満足そうな表情で応えるシャルルの喉を、アムルもまた満足そうな表情でよしよしと撫でてやった。
広場に満ち溢れる空気は行き交う人々の笑い声や話し声に彩られ、相変わらず賑やかなまま。
ちらほらと舞い落ちる白い氷の花びらは喧騒に湧く街にささやかな静寂と切なさを与え、まるで良質のスパイスのような役割を果たしている。
「――それでは、私はそろそろ帰りますね」
「えぇ、次の買い出しの時にもまた会えると良いわね」
「次……」
アムルの何気無い言葉に、クルミナは胸の奥が微かにざわめくのを感じる。
自分は果たしていつまであの城に留まるのか。
シャルルの世話を任されている以上、すぐには離れる訳にもいかないだろう。
けれど、たった一人此処までやって来たその理由を忘れた訳でもない。
罰は、必要なのだから――……
「クルミナ?」
黙してしまったクルミナに、問いかけるようにアムルがその名を呼ぶ。
しかしその声に応えるように振り向いた彼女の表情は、つい先程までと同じように穏やかな笑みを浮かべていた。
「すみません、ぼーっとしてしまって……次にこの街に来る時にはお菓子を作って持ってきますね!」
「あらあら。買い出しなのか、お茶会なのか分からないわね。……でも、楽しみにしてるわ。アナタとの小さなお茶会を」
クルミナの言葉に、ほんの少しだけ呆れたように――けれど嬉しそうに笑いながら言うと、アムルはポケットから小さなコームを取り出し、クルミナの髪をとかし始めた。
「アムルさん?」
「あちこち歩いたせいかしら。少し髪が乱れてるわ。すぐに終わるから待っててちょうだい」
言いながらアムルはごそごそと手持ちのバッグの中から可愛らしい黒いレースのようなリボンを取り出した。
それをくるくると、手際よくクルミナの髪に巻き付け束ねていく。
「また山道を歩くのなら、この方がすっきりしていて良いでしょう?」
「ありがとうございます……!」
「それと……アナタには、ハイ、コレね」
アムルはしゃがみ込むと、チリン。と可愛らしい音を響かせる鈴のついたリボンをシャルルの首に付けた。
「さぁナイト様。この鈴の音でしっかりお姫様を道案内するのよ?」
「みゃあー」
アムルの言葉の意味を理解していりのかいないのか……シャルルはまかせろ!とでも言うかのように返事を返す。
「シャルルにまで……ありがとうございます、アムルさん」
「さっき立ち寄ったお店で見つけてね。アナタ達に似合いそうだったからつい買ってしまったのよ」
自分の髪に結ばれたリボンにそっと手を伸ばし、笑う少女とそれを満足そうに見つめる女性……。
周囲から見れば、2人の様子はまるで母娘のような。そうでなければ、長年の友人のような関係に見えるだろう。
それくらいに二人を包む空気は自然であり、同時にとても温かかった。
「誰かの髪にこうして櫛を入れるなんて久しぶりね……昔は良く娘の髪を束ねてあげていたものだけれど……」
「アムルさん、娘さんがいらっしゃるのですか?」
「えぇ。とても可愛い子。……アナタ、とても良く似ているわ」
「あら、それはぜひお会いしてみたいです」
「……そうね……アタシも、二人が並んでいる所をぜひ見てみたいのだけど……あの子、今は離れて暮らしているから……」
「そうですか……残念ですが仕方ありませんね。もし近くに来られる時があったら、その時にお会いできたら嬉しいです」
「………ふふ…そうね。もしも、機会があれば。その時は――仲良くしてあげてね」
「はい!喜んで」
軽く握手を交わすと、クルミナは保護壁に囲われた街の主要出入り口である大扉に向かって杖を片手に歩き始めた。
幸い、大扉のすぐ近くまでアムルが送ってくれたため、そこからは門番の案内もあって迷うことなく大扉をくぐり抜ける事が出来た。
クルミナの背中が小さくなり、やがて開け放たれた大扉の向こう――遠方の景色の中に、ゆっくりと溶けるようにして消えていくのを見送ると、アムルは大きく息を吐きながら独りごちた。
「……アタシも、自分から他人に関わるなんて何の気まぐれかしらね……」
ふふ、と自嘲じみた笑みが思わず零れる。
「……あんまりにも生き写しだったから……まるで生まれ変わりかと思ってしまったわ……そんなはずなんて無いのにね……」
言いながら、アムルは鼻腔を切り裂くような冷えた空気をすぅ、と吸い込むと、まるで冷たい大気に同化するかのようにゆっくりと瞳を閉じ、遥か上空を見上げた。
視えるはずの無い何かを求めるようにして虚空に放たれた意識は、しかし何も希望を見出せないまま――既に理解していたはずの絶望を、今一度改めて噛み砕きながら――地上へと、ゆらりと帰還する。
再び開かれた瞳から流れる、一筋の雫。
「――ねぇ……ローザ……?」
頬を滑り落ちる雫がやがて大地へと吸い込まれる瞬間。
響いたのは哀しみと愛おしさ。そして――深い憎しみが、まるで万華鏡のように複雑に乱反射する、届く宛てのない聲だった。